Vol. 32 「多様性を受容しつつ、自社の価値観を伝達・浸透できる人、それが企業におけるグローバル・リーダー」

CATEGORY : 民間企業

アスパイア・インテリジェンス社 代表取締役
リップシャッツ 信元 夏代

早稲田大学商学部卒業。ニューヨーク大学スターン・スクール・オブ・ビジネスにて経営学修士(MBA)取得。早稲田大学在学中にはミズーリ州セントルイス市のワシントン大学へフルスカラシップ奨学生として1年間交換留学。1995年に渡米後、伊藤忠インターナショナル・インク、マッキンゼー・アンド・カンパニー、Eisner LLP を経て、2004年にアスパイア・インテリジェンス社を設立。「戦略コンサルティング」や「組織開発コンサルティング」のサービスを提供し、ブランドとビジネスの戦略設計と実現に寄与。

【2014年1月30日公開】

留学経験のある友達を見て、かっこいいと思った

留学したいと考えたのは、いつ頃でしたか?
多分、高校生の時だったと思います。中高一貫の女子校に通っていたのですが、高校時代に留学をする友達が周りにいたんです。それで1年経って帰国すると、彼女たちがちょっとした時に、“Ouch!”とか言うんですよ。それを見て、かっこいいなと思って(笑)。また、もしかしたら、潜在的に父の影響で海外に興味を持っていたのかもしれません。父は自動車部品メーカーの創業者で海外を飛び回っていましたし、よく外国のおみやげを持って帰ってくれました。「海外は遠いものじゃない」という意識があったのかもしれません。でも高校生の時は、英語はあまりできないし、一人で生活する自信もなかったので、自分の中で留学にチャレンジできるという“納得感”が持てるようになってから行きたいと考えていました。そこで、大学生になってからトライアルという感じで、オーストラリアへ1ヶ月の短期留学をしました。
オーストラリアへの短期留学を経て、次の長期留学はどのように決意されたのですか?
そうですね。実は、オーストラリアで彼氏を作って帰ってきちゃったんです(笑)。内緒ですよ(笑)。そうしたら、両親が「お前はもう外にやらない!」と激怒してしまって。でも私は反対されると火がついてしまう性格というか(笑)。ならばやってやろうじゃないか!とハングリー精神に燃えた私は、交換留学のテストに向けて猛勉強しました。選考で選ばれ、さらに全額奨学金が出る交換留学プログラムで早稲田大学の代表として行くのなら、こんな名誉なことには父も反対できないだろうと思って、ワシントン大学セントルイス校の交換留学プログラムを目指しました。勉強の甲斐あり、ワシントン大学に行けることになったのですが、本当は選考の時点ではTOEFLの点数が少し足りなかったんです。それで選考の面接のときに、「留学するときまでには、スコアをクリアします!」と宣言したら、選考に通ってしまいました(笑)。「合格させていただいたのだから、約束した点数は取らなければ!」ということで、合格後も意地で必死に勉強し、最終的にはスコアを基準値以上に上げることができました。

つらい経験こそが次につながる

ワシントン大学での留学について詳しく聞かせてください。
初めは大変でした。2日に1回は泣いていましたね。ディスカッションをしながら進行するクラスがあったんですが、全然ついていけなくて。しゃべれないから、しゃべらない。しゃべらないから、しゃべれるようにならない。という悪循環に陥っていました。そんなある時、寮のパーティーで、あるアメリカ人学生から酔った勢いで「何で夏代はしゃべらないんだ?」と言われたんです。本人は冗談半分で言ったのですが、それは私がその時最も気にしていることだったので、私は皆の前で号泣してしまったんですね。そこから周りの目が変わりました。英語では”Ice break”と言いますが、まさに氷が解けたようになって、彼らとの溝が少し縮んだんです。しゃべりたくても、しゃべれない。そんな私の気持ちを理解してくれたのでしょう。彼らから話しかけてくれるようにもなったし、私の方も「話してみようかな」と積極的に話すようになりました。

また、冬休みに一人でアメリカ国内旅行をしたんですが、雪で飛行機が飛ばなくなってしまうことがしばしばありました。そうすると自分一人で対応しなければいけませんから、否応なしに英語を使わざるを得ない状況になって。一度は翌朝まで飛ばない、ということがあり、冬休みで閉まっているキャンパスに一人で運転して戻り、セキュリティーの人に説明して寮のドアを開けてもらい、誰もいない寮でたった一人で一夜を過ごしたこともありました。そんな冬休みが終わったら、「あれっ?私、自然と英語が出てくるかも...!」というレベルに届いていました。つらい経験こそが次につながるんだなと強く感じましたね。

MBAの取得を目指されたのは、いつ頃でしたか?
ワシントン大学留学中にビジネス専攻の友人ができ、その友人からMBAというものを聞いて興味を持ちました。そしてまず、ある有名校のアドミッションオフィスに電話してみたんです。「あなたの学校に興味があるのですがどうやったらMBAを取得できますか?」と。今考えたら無謀なことをしましたよね(笑)。そしたら、「勤務経験を4~5年積んでから来て下さい」と言われました。ならばアメリカで勤務経験を積んだら近道なのではないか、と考え、幸いにもニューヨークでの採用が決まったので、卒業後すぐにニューヨークに渡りました。働きながら勉強していましたが、GMAT対策が大変でした。根気良く7回くらい受け続け、満足のいく点数まで上げていきました。また、ビジネス・スクールに入るためには、プレゼンをして自分を売りこむことも大切なんです。採用官のオフィスの外で待っていて、彼女が出てきたら「偶然ですね」という感じで話しかけ(笑)、練習してきた1分間スピーチで自分をアピールしました。そんな甲斐もあってか、その翌日、ニューヨーク大学スターン・スクール・オブ・ビジネスから合格の電話がかかってきたんです。

リスクはチャンスだと考える

MBAを取得された後、マッキンゼーなどを経て起業されたわけですが、信元さんの背中を押したものはなんですか?
早稲田の先輩ですね。もともとビジネス・スクールに在籍していたころから、漠然と起業したいと思ってはいたんです。副専攻で起業について勉強しましたし、ビジネス・コンテストに参加したりしました。でも、具体的に何をやるかは考えていませんでした。起業を見据えて、いくつかビジネス・プランを書き留めていて、ある時に稲門会にいらっしゃった先輩に「こんなことをしたい」と相談しました。そしたら、「じゃあオフィススペースが必要でしょう。一緒にオフィスシェアしようか?」と提案してくださったんです。彼なりの「起業してみたら?」というメッセージだったと思っています。そんな先輩のメッセージに背中を押されて、起業の第一歩を踏み出しました。
そして見事、起業されたわけですが、業務においての失敗談はありますか?

もちろん沢山ありますよ(笑)。例えばこんなことがありました。コンサルタントとして雇って頂いた後に、クライアントがやろうと思っている方向性と、分析結果から私が提案した方向性が少しずれていたんですね。彼は「僕はこの業界の経験がある」という自負があり、譲りませんでした。そこで彼に理解してもらおうと、分析結果を元にして詳細をさらに論理的に説明したんです。そしたら彼は「君にそんなことを言われる筋合いはない」と激怒し、感情的になって私を解雇しました。これは“コンテクスト”(意志疎通の共通知識)の違いに私のコミュニケーション方法を適応しきれなかったことが失敗の原因だったと思っています。つまり彼は、いわゆる“お役所”出身のエリートで、雇う側と雇われる側、目上と目下、などの間の権力格差は当然で、相手が自分に従うという環境に慣れてきた方でしたし、“ハイコンテクスト(お互いに相手の意図を察しあうことで、なんとなく通じてしまう)”文化の中でずっと仕事をされていました。その彼が、「雇われた側」の「目下」の私に分析結果を直接的な表現で説得されたのですから、もしかして私の意見が正しいと思っていても、名誉が棄損されたと受け取ったのでしょう。異文化によるコミュニケーションスタイルの違いがどれほどビジネスに影響するのか、を実感した経験でした。

ニューヨークで起業された信元さんは世界でご活躍されていますが、信元さんの考える“グローバル人材”について教えてください。
あえて定義するのなら、グローバル人材とは「地球規模の最適化を常に考え、国や文化を超えた人々を束ねて変革や革新を実現する人」だと思っています。「地球規模の最適化を考える」とは、地球全体をリソースとして考えて人材を世界中から集めたりなどと、地球全体で考えた時にどういうことが最適化につながるのかを考えることです。さらに、企業におけるグローバル・リーダーは「多様性を受容しつつ、自社の価値観を伝達そして浸透できる人」です。「文化」と一括りに言っても、儀式のように目に見える部分と価値観のように目に見えない部分がありますし、「文化」には、国家や地域、職業や個人などで様々なレベルがあります。そしてその「文化」によって人々の行動は変化するので、文化間におけるギャップが生まれ、誤解も発生してしまいます。そのギャップを埋める為に、相手の発言を自分の言葉に変換したり、ジェスチャーやアイコンタクトをしながら聞いたりとアクティブ・リスニング(積極的傾聴)をすることが大切です。このアクティブ・リスニングとファシリテーションのスキルによって、コンフリクト(対立・衝突)をコンセンサス(合意)に変えるのが、グローバル・リーダーに必要な能力だと思っています。
最後に、グローバルに活躍したいと考えている早大生へのメッセージをいただけますか?
海外で働くのは、リスクがあるかもしれません。でも、リスクを取らなければチャンスもやってきません。私は「リスクはチャンス」だと考えています。海外に出て、失敗やつらい経験をすることもあります。でも、何でもうまくいくよりは、つらい経験こそが自分の実になると思います。また世界に出ると、日本は特殊な文化を持っていると感じます。つまり、日本の常識は必ずしも世界で通用するわけではないということです。皆さんには、旅行やホームステイなど短期間でも良いので、なるべく複数の国に行って異文化体験をしてほしいです。そして、視野を広げて、将来はグローバルに活躍してほしいなと思っています。
編集後記

信元さんはニューヨーク在住で、お忙しいなか、帰国された折にトーク・セッションとインタビューに応じてくださいました。起業家だけでなく、競技ダンス選手という一面もお持ちの信元さん、「これからも競技ダンスはずっと続けたい」と笑顔でおっしゃっていたのが印象的で、趣味の時間も大切にして、充実された生活を送られているのだなと思いました。リスクはチャンス。リスクを回避しがちな私にとっては、とても身に染みるお言葉でした。時間がたくさんある学生の間に、海外に行ったり留学生と交流したりして、できるだけたくさんの異文化体験をしたいと思っています。

町田 花菜子(商学部2年)

Vol. 31「もしも自分がこの理不尽な世界をほんの少しでも変える力になれるなら」

元青年海外協力隊村落開発普及員
徳星 達仁

2008年3月に早稲田大学法学部を卒業後、株式会社JTB関東旅行会社に就職し法人営業を担当。2010年2月退職。同年6月、青年海外協力隊にてベナンに派遣。主に小学校の衛生環境改善活動に携わる。2012年6月に帰国後、日本紛争予防センターにて瀬谷ルミ子事務局長補佐インターンを務めた後、国連UNHCR協会でファンドレイジングを担当。国際公務員を目指し、2013年9月よりイギリスの大学院に留学中。

【2013年12月4日公開】

内向き学生、“熱いバカ”に触発される

学生時代に特にやっておいてよかったことはありますか? また、やっておけばよかったことはありますか?
僕の学生時代は1年生の時と2年生以降で大きく変化します。1年のときも中学高校と続けていた吹奏楽のサークルに入ったり、法学部の法律サークルでテスト対策に勤しんだりと、それなりに充実していたのですが、なんというか・・・、内向きでした。国際交流だとか、国際協力って言葉は心のどこかには引っかかっていたかもしれないけれど、意識は全くしていませんでした。勉強は真面目にやる学生でしたが、人と関わることにそこまで魅力を感じていませんでした。
変わったのは2年の時です。ふとしたきっかけで「僕は全然外の世界のことを知らないな、自分の世界を広げたいな」って思ったんです。きっかけは多分本当に大したものではなくて、今となっては思い出せないくらい。インタビューで話すことでもないかもしれませんが、失恋したっていうのも一つのタイミングだったかもしれません(笑)。「俺、このままでいいのか」って思ったんです。
そのとき偶然、Waseda International Festival(WIF)という国際交流イベントサークルがスタッフ募集をしているのを見つけて、思い切って飛び込みました。早稲田には“熱いバカ”がたくさんいて、元々僕もそんな早大生には憧れを持っていたのですが、ちょっと自分には遠い存在だと思っていました。しかしそのサークルで、積極的に物事に熱中して取組む人達と一緒に活動するうちに、自分ももっとアクティブになっていいんだ! いろんな人に出会うのってめちゃくちゃ面白い!! と実感して。その後の学生生活はとにかくいろんなことに首をつっこみました。実は、ICCでもミュージカル企画※に参加したりしていたんですよ。
ですから、自分が学生時代にやっておいてよかったと思うのは、たくさんの人と関わり、たくさんの仲間と出逢えたということです。早稲田は特に、熱い心を持った面白い人たちが本当にたくさんいて、いくらでも自分の視野を広げることができます。
もう一つ頑張ったことといえば、英語の勉強でしょうか。後々国際協力分野を目指すならば、英語は絶対必要です。僕はサークルなどで国際交流に関わるうちに、英語は絶対この先自分に必要であると感じました。留学の経験もないどころか、英語は割と苦手な方だったのですが、チュートリアル・イングリッシュや、オープン教育センターで意識的に英語の授業をとって、英語の得意な人達に追いつけるよう努力しました。英語学習にお金をかけたわけではありませんが、大学内の機会を活用して勉強するだけでも、英語力はかなり伸びたと感じています。
一方で、やっておけばよかったなと思うことは、スタディツアーやボランティアなどで実際に途上国に行ってみることです。当時の僕には、忙しかったりお金がなかったりと、途上国に行かない「理由」を自ら作っていました。しかし、本気で途上国への想いがあったとしたら、必死でお金を貯め、時間を作って行けていたはずだと思います。実は、新卒のときも国際協力分野への就職も視野に入れていて、JICAの新卒採用も、最終選考までは残れたんです。しかし、最後の面接で突き詰めた質問をされたときに、自分の国際協力への意志とそれに伴う実行力がまだまだ弱いことを痛感させられたのです。だから、現時点でこういった進路を考えている学生の方はぜひ途上国に出かけてみてほしいです。僕の場合はそれがあって、その後の青年海外協力隊での派遣につながっています。

 

2007年度ICCミュージカル・プロジェクト『FAME』

 

国際協力に関心を持たれたきっかけはなんですか?
今思うとクリティカルなきっかけは、WAVOC主催のウガンダの子供兵士に関する写真展と講演会です。それまでもなんとなくアフリカには恵まれない子供たちがいる、という認識は持っていましたが、実際に聞いたウガンダの子ども兵士の話は想像以上に衝撃的で、残酷でした。一方で、ウガンダの子ども達の日常の写真はとても目が輝いていて、本当にキラキラとした笑顔だったんです。こんなに素敵な笑顔が一瞬で奪われてしまう世界があるということに非常にショックを受けました。同時に、生まれる場所は選べないにもかかわらず、なんて理不尽な世の中なんだろう、こんな不公平が許されるのか、なんとかできないかとも強く思いました。
もっともその当時は、自分が国際協力に将来携われるとは考えてはおらず、自分には無理だろう、きっとどこかのバリバリすごい人たちが変えていく世界なんだろうなぁと半ば諦めつつ考えていました。とはいえ、もし自分がこの理不尽な世界を、ほんの少しでも良い方向に導ける仕事ができるならば、それは僕にとってすごく幸せなことだしやりがいがあるだろうなとも思い始めました。頭の片隅にはずっと引っかかっている感じでした。だからこそ、学生時代の国際交流活動や英語の勉強もより熱心に取り組んでいたのだと思います。

今やっている仕事は一生をかけてやるものなのか? と自問した

ご卒業後は民間企業に就職されたそうですが、国際協力の世界に携わろうとは思わなかったのですか?
僕は法学部の学生だったのですが、就活で自分の進路を考えたときに弁護士など法曹の道はちょっと違うかな、と思っていました。ダブルスクールをして、必死に何年も勉強して・・・というほど本気で目指したいとも思っておらず、とりあえず社会に出たいと思いました。それでいざ何をやるかって考えた時にやっぱり国際協力をやりたいと思いました。でも一方で正直なところ当時は将来の安定も求めていて、国際協力の世界はNGOなども含めて不安定な要素が多い点が心配でした。収入の安定性がありつつ国際協力、つまり自分のやりたいことができるところと考えたときにJICAを見つけたので、第一志望で受けました。一方で旅行業界にも興味があり、結果的にJICAはその時はご縁がなく、第二志望のJTB関東に就職することになりました。ただ、依然として国際協力への想いもありましたので、一生JTBに骨をうずめるつもりかといえば、そうではなかったと思います。それでもやってみないとわからないですし、6~7割くらいはここでずっと仕事をしていくかもしれないとも考えていましたね。
営業関東一位の成績を取られるなど充実した会社員生活を送られるなか、青年海外協力隊に入ろうと思われたのはどんなことがきっかけですか?
2年間JTBで勤務しましたが、仕事は本当に充実して濃いものでした。僕は職場旅行など団体旅行の担当で、例えば一つの会社の社員旅行を行程の作成から添乗、精算まで全部一人で担当します。そういった担当先が複数あるんですね。僕にとっては複数あるお客様のうちのひとつでも、お客様にとって担当者は僕ひとり。僕がミスをしたら社員旅行が全部だめになってしまう。そのプレッシャーは大きくて、正直逃げたくなることもありましたが、僕の仕事でお客様が喜んでくれるのはすごく嬉しかったです。
ただ段々と、この仕事は本当に一生かけてやりたい仕事か? という問いが湧き起こってくるようになりました。予算達成のために毎日頑張る自分に何か違和感をもつようになったんです。このまま10年後、20年後同じ会社で働いている自分を想像したときに、それがあまりワクワクしなくて。一方で、国際協力の分野も相当大変なこともあるかと思いましたが、途上国に生まれて理不尽に哀しい想いをしている人の為になら一生を捧げられると思いました。もし自分が頑張ることで誰か一人でも哀しい想いをする人が減らせたならそれはすごいことだと思うのです。
会社員生活→青年海外協力隊への方向転換はご自身の中でかなり大きなご決断だったと思いますが、どのような感じで気持ちを固められたのですか?
それが気付いたら派遣が決まっていたというか・・・、勢いですね。当時は先ほどお話しした国際協力への想いが高まりつつも、もうあと数年はJTBにいる予定でした。それが2年目に入った頃に、たまたま会社の近くでJICAの青年海外協力隊の説明会をやっていて、それに参加したんです。そのときは今すぐ応募しよう! というよりは今後の参考に一応参加するくらいの気持ちでした。ところが話を聞いて結構盛り上がっちゃって(笑)、ちょっと書類だけでも出してみようと。そしたら募集枠が広かったこともあって、書類審査に合格して面接を受けられることになりました。もう、この辺から段々本気ですよね。それで面接も運良く通って派遣が決まりました。
とはいえ振り返ってみると、それまでも青年海外協力隊の説明会ってあったはずなのに自分が参加していなかったのは、まだそんなに国際協力の世界に身を投じる気持ちが固まっていなくてアンテナを張っていなかったからだという気もするので、あのタイミングで説明会に行ったのも意味があることだったと思っています。
ただ協力隊の派遣が決まってからも葛藤はありました。協力隊は帰国後の進路がどうなるかわかりません。ある意味JTBにいればこの先食っていくことはできるだろうという思いがありました。当時仕事も大変な時期だったので、これって今の仕事から逃げたいだけなんじゃないかな? と悩んだこともありました。だけど大学時代のサークルの先輩に相談したらさらっと、逃げてもいいじゃんって言われて。それですごく気持ちが軽くなりましたね。そもそも逃げているかどうかも分からないのですが、新たな場所で、本気で頑張れるならそれはそれで良いじゃないか、と気持ちを新たにしました。自分を奮い立たせる為に、国際協力のイベントや途上国を舞台にした写真展に行ったりしてアンテナは常に張っていました。

ベナンの人に何かしてあげるのではなく、共に生活を営もうとした

派遣準備期間には語学研修などを含めて60日間集中的に事前研修を受けるそうですが、具体的な内容についてお教えいただけますか? 中でも苦労された研修はありますか?
協力隊は年に3~4回派遣のタイミングがあって、派遣前に60日間、訓練所に泊まり込みで研修を受けます。僕は長野県の駒ヶ根にある研修施設に行ったのですが、230人くらいが一緒でした。基本的にひたすら語学研修をやります。僕の場合はベナンの公用語であるフランス語を習得しました。一クラス生徒4~5人に先生が1人つき、午前中に3時間の語学クラス、午後にも語学や全体での国際協力についての座学、そして大量の宿題とテスト・・・とかなりみっちり勉強しました。あんなに勉強したのは、大学受験以来です(笑)
勉強はなかなか大変でしたが、協力隊に参加する人は色々なバックグラウンドを持っていて、そんな人たちと知り合えてすごく楽しかったですね。僕はやっぱり人と関わるのが好きだと実感しました。中間テストで一定の成績が取れないと派遣させてもらえないなどそれなりにプレッシャーはありましたが、最終的にはほとんどの人が派遣されているんだし人並みに頑張ればいけるだろう! と考えていたんです。これは友人ともよく話すんですが、物事を始める前に考えすぎても良いことはありません。Positive and activeを意識しています。
ベナンでは村落開発普及員として小学校の衛生環境改善活動をされたそうですが、どんなことで苦労されましたか? またどうやってその苦労を乗り越えましたか?
まず生活に慣れるのに苦労しました。言葉も通じず、気候も文化も違う。しかもベナンはアフリカ最貧国。覚悟して行きましたが、それでもストレスフルな場面は多くありました。

ベナンの小学校での衛生啓発活動

なかでもやはり言葉の壁は苦労しましたね。派遣前に勉強したもののそれは最低限生きていくためのレベルでしたし、あとベナンの人たちが使うのはアフリカン・フレンチなので、習っていたフランス語とは発音や単語が違ったりして、初めは意思の疎通がスムーズに行かなかったんですよね。伝えたいことが伝えられないのはもどかしかったです。でも、そこで頑張るしかないので、わかる言葉でジェスチャーを交えつつ頑張って話していました。そうすると相手も僕の話を理解しようと努めるようになってきて、また自分の語学力も上がっていくので、半年くらいすると随分と自然にコミュニケーションが取れるようになっていました。
もう一つの苦労は任務の内容に関わることですが、僕は村落開発普及員としてベナンに赴任し、衛生啓発活動などに取り組んでいました。具体的には近所の小学校をいくつか訪問して、手洗いの大切さや、適切なゴミ捨てについて紙芝居や歌を用いて普及していく活動です。まず手が不衛生な状態だと病気の原因になるというメカニズムを知ってもらうところから始めるんですが、習慣付けるのってとても難しい。いきなりよく分からない外国人が小学校にやって来て、「皆さん、今日から食事の前には手を洗いましょうね」とか言っても説得力がないですし、行動に移されないんですよね。
初めはそれがすごくフラストレーションでした。自分はベナンの衛生環境を少しでも良くしようと努力しているのに、なぜみんな協力してくれないんだろう、受け入れてもらえないんだろうと。自分の存在意義が分からなかったときもありました。
そんななかで気付いたのは、自分が「何かしてあげよう」と考えていたのは、少し上から目線だったということ。そこから行動がかなり変わりましたね。何かしてあげよう、ではなく、現地に溶け込むことが重要だと思うようになりました。僕は「トク」って呼ばれていたのですが、トクって仲間が村にはいて、そういえばあいつ、手を洗えって言っていたなぁくらいに誰かが思い出してくれればそれでいいと考えることにしたんです。

幼稚園では日本語の歌を教えたりもしていた

それから、民族衣装を着て現地のお祭りに参加したり、一緒に食事をしたり・・・、そうすると状況が好転し、最初は「外国人」のトクとして扱われていたのが、コミュニティの一員として、「仲間」のトクだと思ってもらえるようになりました。
ベナンの人ってそうなってくるとあんまり壁がなくて、本当に家族みたいに親しくしてくれます。あの人が親しいなら、トクって良い奴なんじゃって広まってきたりもして。学校の先生もプライベートで仲良くなってから、活動に協力してくれるようになっていました。もちろん仲良くしつつも、やることはきちんとやらなければならないのですが、一緒に生活する中で得られたものは大きかったですね。途上国も初めてで、肌の黒い人と接するのも初めてだったのが、彼らとけんかできるようになりましたから。人間は国籍や人種が違っても、みんな同じ人間だなと実感しました。同じひとりの人間として、構えずに接することができるようになりましたね。

まずは一歩踏み出してみよう

9月からイギリスの大学院に進学されていますが、協力隊後の進路についてはいつ頃からどのように考えていらっしゃいましたか?
国際協力の世界で仕事をする場合、一般的には修士号以上の学位、英語ともう一言語の語学力、2年以上の実務経験が求められることが多いです。協力隊員を経て語学力と実務経験は多少なりとも得られたので、次は修士号が必要だと考えました。そこで、ベナンから帰国後は大学院に留学しようと決めました。といっても経済的に余裕は全くなかったのですが、ベナンは幸いなことにインターネットが使えたので調べてみると、国際協力を目指す人向けの奨学金がたくさんあることが分かったんです。

帰国後、日本紛争予防センターでのインターン修了日の様子

ちょうど僕の出身地でもロータリー財団が奨学生を募集しており、このタイミングを逃すわけにはいかないと、休暇を利用して自費で日本に一時帰国して試験を受けました。これも一歩踏み出したことです。受かるか落ちるかは分からないけれど、やってみなければ分からない、受けなかったらずっと後悔するな、と。不安で一歩踏み出すのを躊躇してしまうとき、自分と対話するんです。いろんな不安要素はあるけれど、やってみたいんだろ? 結局お前にやらないって選択肢はないんだろ?って(笑)。実際に合格を頂けたので、現在平和構築の分野を修士課程で学んでいます。その後は国連職員を目指すつもりです。国連は組織が大きすぎてお役所的など、ネガティブな側面の話も聞きますが、それを含めてまずは挑戦し、自ら経験してみたいと考えています。

国際協力に憧れを抱きつつ、どうやってその道に進めばいいかわからない、あるいは分かっていても、その後のリスク対応に不安があったり、なかなか一歩を踏み出せないという学生もいるかもしれません。徳星さんの場合その道を選ぶことによって発生するリスクをどうお考えになって決断されたかも含め、そういった学生に何かメッセージをお願いいたします。
将来を不安に思うのは当然だと思います。リスクを考えるのも堅実だし必要なことです。ただ、ときにはその不安は実は考えすぎかもしれなくて必要以上に大きくなってしまっている場合もあると思うんですよ。先ほどから話していることですが、一歩踏み出してみてください。そうすれば実際にはなんとかなることが殆どなんですよね。むしろ、追い込まれると人間は何とかするように努力するものですし、自分で決めた道は自分で自然と正当化できるようになると考えています。だからそんなに怖がらなくて大丈夫です。もちろん、無鉄砲とは違うので対策できるリスクは事前に対応するべきなんですが。
そうは言ってもその一歩を踏み出すのが怖いしとてもエネルギーがいるんですよね。だから僕の場合は、国際協力のイベントやシンポジウムに参加したりして自分を奮い立たせたり、自分の夢を周りに話して思考を整理してみたり、不安を紛らわしてみたりしています。あと、小さな成功体験を積み上げていくのも大事です。勇気を出して一歩踏み出してみた経験を重ねていくとそれが自信になって次の一歩を後押ししてくれます。
もし何かを始めたい、でもいろいろな不安要素があると悩んでいるならぜひ、一歩踏み出してみてください。港を出る船と同じで、動き出すまでが一番エネルギーが要りますが、あとはスーっと進むだけです。悩んでいる時間はもったいないです。ビビッときたものを大事にしてください。
編集後記

にこにこと穏やかに、でも熱く想いを伝えて下さる徳星さんは本当に素敵な方で、インタビューしながらすっかりファンになってしまいました。
「国際協力なんて自分には無理だろうな、きっとどこかバリバリなすごい人たちが変えていく世界なんだろうなぁと」・・・まさか、青年海外協力隊を経て海外の大学院に行こうとしている先輩から伺うとは意外でした。どちらかと言えば、どちらかと言わなくても“すごい人たち”がご協力くださっているグローバル人材のインタビュー。そんな中にかつて内向きで国際協力を遠目に眺める学生だった方がいらっしゃることは、ごくごく普通の学生の私でも一歩踏み出したら何かできるかも・・・と思わせてくれる勇気が出る機会でした。

清水 瞳(商学部4年)

Vol. 30「海外での仕事は常に異文化との接触と新たな発見の連続。好奇心を持って飛び込んでいってほしい」

CATEGORY : 民間

共同通信外信部 副部長
及川 仁(おいかわ ひとし)

1961年、岩手県水沢市(現奥州市水沢区)生まれ。水沢高校、早稲田大学第一文学部ロシア文学専修(現文学部ロシア語ロシア文学コース)卒業後、85年共同通信社入社。ベオグラード、モスクワ、バグダッド、カイロ各支局を拠点に旧ユーゴスラビアやコソボ、チェチェンなど旧ソ連、東欧、中東での紛争、戦争を取材。米中枢同時テロ発生直後のアフガンからの一連の報道で2001年度「ボーン・上田記念国際記者賞」を受賞。現在、外信部副部長。

【2013年9月12日公開】

社会の矛盾を自分の目と耳で確かめて、理解したかった。

どのような学生生活を送っていらっしゃいましたか?
体育会のボクシング部での活動がメインでした。毎朝1時間以上のロードワークと夕方のジムワークで、汗と鼻血を流しながらボクシングに明け暮れていましたね(笑) 毎日の激しいトレーニング、つらい減量、試合前の緊張感などを通して培った粘り強さ、忍耐、逆境に耐える「なにくそ」という精神は、ものすごいプレッシャーの中に置かれた特派員生活に生かされたと思います。学部は第一文学部ロシア文学専修(通称・露文)だったのですが、もっと勉強の方にも時間を割いていればよかったとも思います(笑)
ジャーナリストを志望したきっかけは何でしょうか?
10歳の時に父親を亡くし、普通の主婦だった母親がそれまで父親が経営していた小さな会社を引き継ぐことになりました。その直後にオイル・ショックで日本経済全体が大打撃を受けるなど、激動の社会情勢の中で死にものぐるいで働く母親の姿を目にして、その中で子どもながらにいろいろ社会の矛盾というか不条理のようなものも感じ、ぼんやりですが、そういう社会のゆがみとかそういうものがなぜ起きるのか?ということに迫れるのがジャーナリストという仕事なのかなと考えるようになりました。
別の動機もあります。私が社会人になる前の当時は米国とソ連が激しく対立する東西冷戦時代でした。あのころ日本で見聞きする情報がとても少ない、“謎の国”だったソ連に関心があったことも大きな理由の一つです。ロシア文学専修ではありましたが、文学志向というよりは「ロシア人、ロシアの社会はどんなものなのか」を勉強したいという思いが強かったです。
それとドストエフスキーやチャイコフスキーのような世界に冠たる作家や音楽家を多数輩出するなど優れた芸術性を持ち、科学技術の分野ではガガーリンが人類で初めての宇宙飛行に成功するなどアメリカに先行すらしていた才能を持つ人間としてのロシア人と、1968年のプラハの春を戦車で蹂躙したり、1979年のアフガニスタン侵攻や83年の大韓航空機撃墜事件などを通して、冷酷で非人間的と見られていた国家としてのソビエト連邦とのギャップに興味があったんです。ジャーナリストという職業ならそのギャップを自分の目と耳で確かめることができるのではないかと考えていました。
海外特派員志望であっても、地方勤務からのスタートになると思いますが、その際も海外勤務を意識されていましたか?
記者生活振り出しの佐賀支局で4年、その後、川崎支局で2年、千葉支局で1年半勤務し、その間、警察を担当して殺人や汚職などの事件ものを取材したり、県庁、市役所担当として行政を担当したりしましたが、そのそれぞれは、一見、海外取材、国際報道とは縁のないドメスティックなものでした。しかし、特派員として海外で取材をするようになって気付いたのは、取材の基本は国内だろうが海外だろうが同じなんだなということです。「いまニュースになっているのはどんなことで、いま自分は何を取材し、書くべきなのか」を自分で判断して行動する“取材力”を地方勤務時代に身につけていなければ、海外で記者としての仕事はできません。
海特派員としての海外駐在の前にロシアへ留学されていたということですが、当時のことについて教えてください。
入社8年目に社の留学制度への申請が認められ、ロシアのサンクトペテルブルク大学に留学しました。1992年から93年の1年間です。1985年にゴルバチョフが書記長に就任してペレストロイカが始まり、91年末にソ連が崩壊、あのころはソ連絡みのニュースの見出しが連日のように新聞の一面をにぎわし、誰もがその動向に目を凝らしていました。旧ソ連圏での取材強化のためロシア語での取材要員に対する需要が高まりつつある時期だったこともあり、運がよかったのだと思います。留学してとにかくロシア語の勉強に集中しました。休みの日も日本人の留学生仲間ではなく、ロシア人もしくはアゼルバイジャン人、キルギス人、カザフ人など、ロシア語のネイティブスピーカーである旧ソ連圏出身の学生たちと過ごすよう努めていましたね。そのため留学して2、3か月経ったころには、コミュニケーションが苦でなくなり、1年を経て留学を終えて帰国するころには、何とかかんとか取材をこなせるまでのロシア語の習熟度には達していたのではないかと思います。週末は学生寮で彼らの宴会に潜り込んでウオツカの飲み方の作法も学びました(笑) それもさておき、せっかくロシアに来ていたのでコンサートやバレエを観に行くなど、ロシアの一流の文化に触れる時間も作るようにしていました。
“人間としてのロシア人と国家としてのソ連とのギャップ”に関心があったとおっしゃっていましたが、実際にロシアに留学されて、どのようなことを感じられましたか?
ロシア人も私たちと変わらない、当たり前の人間だということでした。決して当時、多くの日本人が抱いていたような「感情もなく、イデオロギーで生きているような人たち」ではありませんでした。情にもろくて、ユーモアにあふれ、時に粗野な部分もあり、誇り高い、ごく普通の人間でした。西欧的な合理主義とは一線を画していて、義理人情を重んじ、ある意味「浪花節」的なものを持っていて、私たち日本人とキャラは全く違うのだけど、どこか通じる部分がある。私はそんなロシア人が大好きです。
及川さんが駐在された国々について、日本人が誤解していると感じることはありますか?
バグダッド、カイロに駐在しましたが、こうしたイスラム圏、中東の国々に対してステレオタイプな印象を持っている人が多いですね。ある意味仕方がない部分もありますが、もっと理解があってもいいかなとも思いますね。例えば同僚の女性記者がイランの首都テヘランに駐在することになった時、親御さんから「そんな危ないところには行くな!」

バグダッドのザウラ公園

と言われたそうです。イランは米国と激しく対立し、現在も核開発問題で国際社会から孤立していますが、テヘランの治安自体は悪くありません。
「アラブの春」後のいま現在は分かりませんが、私が駐在していたころのカイロも夜10時に子供が一人で友達の家から歩いて帰ってくるなんてことを当たり前にしていたくらい安全でした。中東、イスラム圏のニュースというとイスラム過激派のテロなどがニュースで大きく取り上げられるので、こうした地域全体をひとくくりに〝危険〟と思い込んでしまいがちなのだと思いますし。こうした誤解を解くのもわれわれジャーナリスト、メディアの責務だとも思います。

海外であっても取材の基本は同じ。地道に対話を積み重ねて、信頼関係を築くことが重要。

日本と海外で取材する際に最も異なる部分は何でしょうか?
日本での常識、特にセキュリティーに関しての常識は通用しないということでしょうか。バグダッド(イラク)に駐在していた時、現地で何人もの日本人が武装勢力によって殺されました。その多くの人が取材などを通じ個人的にもよく知っている人たちでした。最初のころは駐留米軍が武装勢力、イスラム過激派の主な標的だったのですが、次第に外国人に協力するイラク人、イスラム教徒以外の外国人へと標的が拡大し、日本人も狙われるようになってきました。当時は車で移動する際には必ず後部座席で半身になり、常に前後に注意を払うようにしていました。3回角を曲がっても同じ車両がついてくるようなら、尾行されていると判断して急いでまいてしまうとか、同僚、あるいは大使館など関係先に連絡するよう申し合わせていました。またこうしたテロだけでなく、海外では総じて日本時間と比べて交通マナー自体が荒っぽいので、交通事故も要注意です。あらゆる意味で日本にいる時と同じ感覚でいると非常に危険、十二分に注意を払う必要があります。
ジャーナリストとして外国で取材する上で特に心掛けていることはありますか?
これまで話したように、取材の基本は日本でも海外でも変わりません。取材相手と信頼関係を築き、取材を積み重ねることによって得た経験と勘から、取材相手が信頼に値するかどうか、その発言の信憑性が判断できるようになってきます。日本と海外の違いを強いて挙げるとすれば、相手の文化に敬意を払う必要があるということでしょうか。例えば、ロシア人は誕生日などに性別に関係なく花を贈ることがあるので、取材する相手が誕生日であれば花を持っていったり、一緒にウオツカを飲んだりもしますよ(笑) 中東などイスラム圏の国であれば宗教的な習慣に留意します。イスラム教徒が日中食事のできないラマダン(断食月)中は、日没まで彼らの見えるところで食事したり水を飲んだりしないよう気を遣ったりします。
図らずも紛争地取材を多くすることになったということですが、そのことに対して抵抗はありませんでしたか?

アフガン北部同盟のゲリラたち

ありませんでした。重要なニュースが起きている時、その現場に取材に行くというのが記者でしょう。仮にそれが紛争、戦争の現場であったとして、私たちジャーナリストが現場に行かなければ、平和な東京の街頭に伝えなければならない現実は伝わりません。紛争地を取材する意義は、戦争という巨大な暴力によって苦しんでいる、それなのに声を上げられない人々の声、現実をすくい上げて伝えることにあると思います。「正義」「大義」を掲げた戦争の陰で、「独裁者」「悪の政権」と全く関係のない人々が殺されたり、愛する人々を失っている。そうした矛盾、あるいは「正義」を掲げる人々にとって不都合な現実を伝えることがジャーナリストの使命のひとつであると考えます。

現場で、より真相に近づこうとすればするほど自らの命の安全が危うくなるということもあると思いますが、その点についてどうお考えですか?
真相に近付くために踏み込まなければならない場所が危険を伴う場所であることもあるでしょう。ジャーナリストにとって重要なのは自分が見てきた真実、伝えなければならないことを伝えることで、そのためには生きて帰ってこなければなりません。それが大前提です。100%の安全は戦争取材にはありえないかもしれませんが、いちかばちかの取材はすべきでないと思います。ただこの部分の判断は非常に難しい。「こうすれば絶対安全だ」という方程式はありませんし、戦争取材を長く経験しているジャーナリストたちですら間違いを犯すこともありますから。

ジャーナリズムの原点は好奇心。それは紛争地取材であっても変わらない。

何が及川さんを動かす原動力になっているのでしょうか?

アフガンのピンホールカメラ

「人より先にものを見たい」、「自分が見てきたものを知らせたい」という、ある意味プリミティブな好奇心ですね。それは紛争地取材であっても変わりませんし、個人的にはその方がジャーナリズムとしては健全かもと思っています。
紛争地の取材をするなかで、暴力に対する激しい怒りを感じることもあります。ただ正義感とか使命感に燃えてというのは逆にちょっと危ない気がしますね。

ジャーナリストをやっていてよかったと思う瞬間はありますか?
まず学生時代から志していた仕事をいまも続けていられることは幸せだと思います。そして、これも学生時代から勉強してきたロシア、卒論で扱った旧ユーゴスラビアに特派員として駐在することができました。記者になれたとしても自由に勤務地を選ぶことができるわけではないので、この2つとも叶えられたことは、とてもラッキーでした。アフガニスタンやイラク戦争の現場を自分の目で見、戦争の建前と現実の違いを検証することができたことも記者、ジャーナリストとして貴重な経験でした。
学生時代にやっておいた方がいいと思うことは何かありますか?
勉強ですかね(笑)とにかく学生時代を有意義に使ってほしいです。早稲田にはたくさんのチャンスがあります。いろんな人に会えるし、いろんなことにチャレンジできる環境が整っていると思うので、4年間という限られた時間を存分に使い切って欲しいと思います。海外で仕事をしようと思うなら英語は不可欠のツールだし、もう一つ別の言語をやっておくともっとチャンスが広がると思います。そして語学だけでなく、音楽や芸術など幅広い教養を身につけたり、生涯の友人も見つけられるよういろんなことにチャレンジしてほしいですね。
最後にグローバル人材を目指す学生にメッセージをお願いします。
外国で仕事をするということは、常に異文化との接触であり、毎日新たな発見があります。それは非常に楽しいことだと思いますし、皆さんのような若い人たちにはどんどんそういった国際的な舞台を目指していってほしいと思います。
編集後記

ジャーナリストとして「新しいものを見てみたい」というピュアな好奇心が大事なモチベーションであると話してくれた及川さん。紛争地取材をご経験されたとお聞きし、短絡的に”正義”といった文脈で理解しようとしていた私が想像していたものとは違う答えが返ってきたことが非常に新鮮でした。また「国内外問わず、取材の基本は同じ」という言葉に、どこであっても、現場でひたむきに「人」と向き合おうとする及川さんの姿勢が感じられ、それこそがいい取材、いい記事につながるのではないかと感じました。

由利 啓祐(文学部4年)

Vol. 29「他人と比較せず、対自分で判断し、自分だけの“生きる意味”を見つけてほしい」

CATEGORY : 民間企業

© Takahiro Igarashi(520)

株式会社 マザーハウス
代表取締役兼チーフデザイナー
山口 絵理子

1981年埼玉県生まれ。小学校時代にいじめに遭い不登校となる。中学時代はその反動で非行に走るが、柔道に出会い更生。埼玉県立大宮工業高等学校「男子」柔道部に唯一の女子部員として所属し、全日本ジュニアオリンピック第7位の成績を残す。2004年慶應義塾大学総合政策学部卒業後、バングラデシュBRAC大学院開発学部修士課程に入学。三井物産株式会社のダッカ事務所でインターンシップを経験。2006年株式会社マザーハウスを設立。

【2013年7月29日公開】

米国でのインターンシップを経て強まった「途上国」への想い

どのような大学生活を過ごされましたか?
とにかく勉強をしていました。授業が難しかったので、ずっと図書館で授業の予習復習をしていて、基本的に一人ぼっちでしたね。それに、高校まで柔道漬けで、工業高校出身だし、「この人たちと対等に話していいのかな」というコンプレックスがありました。今思うと、もっと相談できる友人を作っておけばよかったなと思います。同じように大学で過ごしたゼミのメンバーたちと比べると、私は違和感があるものをなかなか受け入れられないタイプで、「なにか違うんじゃないかな」とか、「本当はこうなんじゃないかな」と思ったことは、実際に調べてみたり、見に行かないと気が済まないタイプでした。
4年生の時にワシントンにある米州開発銀行でインターンシップに参加されますが、そこではどのような経験をされましたか?
途上国に対して直接貢献できる仕事をしたいと思い志願したのですが、現地では最初から苦労の連続でした。決して英語が堪能ではなかったものの、それでも選考を通過し、晴れて行けることにはなったのですが、実際は電話を受けるにしても、会議で発言するにしても、とにかくすごく勇気が要りましたね。何をするにも人の倍くらいの時間がかかってしまっていたと思います。だけど、言葉を発してコミュニケーションをとらないと仕事は進まないし、英語に苦手意識を感じていちいち気にしていても仕方がないので、必要に迫られ、開き直ってやっていました。同じインターン生のアルゼンチン人とルームシェアをしていて、仕事以外の時間も日本語を話す機会がゼロだったので、帰国してから日本語が上手く出てこないほど朝から晩まで英語漬けでしたね。
米州開発銀行は中南米・カリブ海諸国の社会・経済発展の支援を目的にした、世界銀行に次ぐ規模の国際開発金融機関で、私はその中でも予算戦略本部に配属され、銀行全体の予算と、銀行内のプロジェクトへの予算の割り当てを上司と一緒に行いました。ただ、そういった業務を経験した後も「果たして自分たちの支援が現地に届いているのか」が、わからなかったんです。もしかしたら自分にはその実感がないだけで、本当は届いているかもしれないとも思ったけれど、自信がありませんでした。その小さな疑問は、どんどん大きくなり、雇用契約が切れる間際に「自分の将来の進路を決める前に、途上国への援助が役に立っているのか、自分の目で見てみなければいけない」ということだけは確かだろうと思いました。そしてインターン終了後、「アジア 最貧国」で検索して出てきたバングラデシュに、ワシントンから直接向かいました。
現地での援助の効果を知りたいという目的で訪れたバングラデシュで、大学院まで進学されたのはどうしてですか?
はじめは短期滞在のつもりだったのですが、簡単には答えが見つからず、滞在するにつれて「私にはもっと現地を見て、現状を知る時間が必要だな」と思いました。調べてみると、教育ビザを取得すれば現地に2年間滞在できることが分かりました。それで、BRAC大学院というバングラデシュで一番大きいNGOが運営している私立の大学院の開発学部に興味を持って、試験を受け、進学を決めました。
専攻の開発経済学の授業では、NGOや国際機関から派遣された先生たちから、援助とは何かを教わりました。現地で学んでみてわかりましたが、基本的に途上国の教育というのは20年くらい遅れているんですよね。教科書も内容の古いものを使っていて、パソコンは10台くらいしかないし、試験も「テスト範囲は教科書全部だから丸暗記してきなさい」というものでしたから、学んだ内容自体には正直あまり意味を感じられませんでした。最新の情報に基づいた教育という意味では先進国の大学院の質とは比べ物にならないですね。
大学院の授業は18時からだったので、夕方まで三井物産のダッカ事務所でインターンシップをしていましたが、そちらの方がもしかしたらためになったかもしれないです。たとえそれが単純な事務作業であっても、三井物産の方と何か一つの仕事を一緒にやり、色々な工場を見ることができましたし、何よりインターンシップの一環で訪れた現地の展示会で、ジュート(※)という素材に出会えたのが人生の転機になりました。


※麻の一種で、処理する際100%土に還るエコフレンドリーなバングラデシュ特産の繊維素材。主に、じゃがいもやコーヒー豆を入れる袋として使用される。

 

他人との比較や競争ではなく、自分らしい仕事をやっていこう

大学院を卒業して、現地で起業をするという決断をされるまで、悩みや葛藤はありましたか?
バングラデシュに行ってからジュートに出会うまでの一年半くらいは、米国でのインターン時代に抱いた「途上国への援助が役に立っているのか」という問題意識に対する答えが見つからずに悶々としていた時期で、自分の気持ちが固まらないまま他の学生と同じように就職活動もしていました。けれどジュートに出会ってからは、「この素材で、何か人々のイメージを覆すようなものができるんじゃないか」という想いが強くなり、やがて「今はただの麻袋でしかないこのジュートを、もっと付加価値を付けたファッションバッグにしたい!」という目標ができました。それからはまったく悩むことはありませんでしたね。「これしかない」と思い、もう突っ走るだけだった気がします。両親や教授も含めて、誰かに相談する意味もあまり感じなかった。迷いがあったら相談したかもしれないけど、相談して意志が変わるというレベルではなかったです。

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直営工場マトリゴールにて

起業後に「こういうことをやっているんだ」、「こういう夢があるんだ」っていうのは、周囲に伝えていましたが、返ってくる答えは「絶対不可能、無理だよ」、「もっと考えなさい」というネガティブなものばかりだったので、途中からそういう言葉の引力に引きずられないよう、周りに意見を求めるのをやめました。
事業が成功するかどうかや、失敗したらどうするかなども考えませんでした。「このゴワゴワしている麻袋がどうやったら可愛くなるかな」、「そうなったら本当に素敵だな」という想いが私の思考を支配していて、そのための方法を考えるだけでもう精一杯でした。
日本に帰ってきてから自分の起業話をすると、とても大きいことをしているかのように捉えられるんですけど、バングラデシュにいたらもっと大変なことがたくさんあるし、もっと懸命に仕事をしている人ばかりで、私自身そういう認識はありませんでした。本当に底辺の生活の中に二年間もいたので、自分が偉大なことをしているという意識はなかったんです。日本に帰ってきてメディアの人たちと接して、日本ではこれだけ価値のあるストーリーなんだと初めて知ったんです。

現地では文化的に違うこともたくさんあると思いますが、どのような点に苦労されましたか?
始めは、洪水やテロなど不自由な中でもきちんと生活していくという、現地の人にとっては当たり前のことが自分にとってはハードルが高く、大変でした。現在も日本の本社と現地工場を往復する生活をしていますが、現地で生活する中で苦労がない時はなく、常に色々なことが起こります。むしろ日本は特別だと思うようになりましたね。あらゆる面でこんなにも恵まれ、リラックスして街を歩ける方が特殊で、日常生活に危険がつきまとっている国や地域の方が普通だと思います。
起業してからは特に大変なことだらけでした。汚職率世界1位のバングラデシュでは、一市民でも日常のあらゆることに賄賂を要求されます。また、バングラデシュで一から土地を捜し歩きやっと立ち上げた工場で、作業中にパスポートを盗まれたり、ある日工場に行ってみたら、人もおらずモノも全てなくなっていたり…。大変な生活だったけれど、そのような、裏切られたり騙されたりしなければいけない生活を強いられているんだなと少しずつ理解するようになりました。もしその都度感情的になっていたら、途中で挫折していたかもしれないです。

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現地の工場を運営するのも、最初はもう失敗だらけで・・・たとえばバングラデシュは「相手のプライドを傷付けたら何も動かない国」だと思います。一方的に怒ったり、指示をしたり、或いは相手の権利に乗っかって何かを動かそうとすると、全然動きませんでしたね。生産を始めた当初、みんなの作業が遅くて、とにかく毎日怒ってばかりでした。しかし、そういう進め方をすると、さらに納期が遅れて、何も進まなくなったんです。そこで、うまくできた時には相手を褒めちぎるようにしたところ、みるみる内に作業がはかどるようになりました。彼らはすごく自尊心やプライドが高いので、むしろそこと調和するような形で指示を出していかないと難しい。何度も何度もそういった失敗をして、だんだんわかってきました。

バングラデシュに渡る前と後で、ご自身にどのような変化がありましたか?
大学四年生時の自分は、周りのみんなが就職活動をしてすごく良い会社に決まっていく中、私は本当にバングラデシュにいていいのかなとか、色々なことを誰かと比べて考えていたし、ジュートで鞄作りを始めた頃なんて、「この世界で2位になったらだめだ、1位でなければだめなんだ」という想いで、365日過ごしていました。でも、バングラデシュで生活していく中で、「自分が死ぬ時、誰かと比べて勝っていたら幸せに死ねるかって言ったらそれは絶対に違う。自分のやり遂げたいことをやり切ったから幸せに死ねるんだ。それって対自分でしかないじゃん」と思うようになりました。バングラデシュで洪水が起きると、何千人もの人が犠牲になります。実際に目の前で死んでいく人達を何度も見ました。そして、彼らを見て思ったんです。「彼らは隣の家より貧しかったと悔しがりながら死んでいるか」と。そういう本質のところをずっと問い続けてきて、自分との対話の先にあったのが、「もし何十年か後に、このマザーハウスが何十万円しか売り上げのない、ちっちゃなちっちゃなネットショップになってしまったとしても私はやっていこう」、「これこそ自分らしい仕事だ、誰にバカにされようともやっていこう」という強い思いでした。以来、「誰かと比較してどうのこうのっていうところで生きるのは嫌だな」と感じています。

“答え”はそんなに早く出ない、結論を急ぎすぎるな

自分の進むべき道を見つけるために、学生時代に学んでおくべきことは何でしょうか?
それぞれの価値観で考えて、自分にとって幸せだと思えることが見つかれば、それでいいと思います。それはもう、百人に百通りの選択肢があるので、何が正しいのかというのは自分で見つければいいと思います。
私の場合は、バングラデシュに行って、自分の「生きる意味」を見つけることができたので、それをやり続けるのが私なりの幸せの価値基準であり、大変だからって簡単にやめられるものではないんです。

© Takahiro Igarashi(520)

マトリゴールのスタッフたち

また、経営などの知識ももちろん必要だと思いますが、一番必要なのはビジョンですよね。それに、やりながら身に付く力やスピードの方が圧倒的なものがあると思います。私自身バッグを作ったことも経営を学んだこともなかったのですが、実際に作ってみると、「こういうふうにして、いろんな経費がかかるんだ。だから月の売り上げがいくら必要なんだな。そしたら最低これくらいは売らなければならないんだ…」と学んでいくわけです。こうやって体で覚えてやってきたので、今でも本はほとんど読まないですね。たまにあらためて工場運営の本を読んだりして、「あ、これやったことあるな」って振り返ることはありますが、それくらいです。新聞も読まないですよ、経営者なのに(笑)
マザーハウスは、大企業と戦って何とかやっていこうという方針ではなくて、むしろ会議では「それってマザーハウスしかできないことなの?」、「それってうちがやらなきゃいけないのかな」って6年間ずっとずっと言っています。それはつまりは、他の人がやっていないことをやることになるので、本には絶対書いてない。だから自分たちの頭を使わなければならない。すべてオリジナルなことをやりたいのであれば、もしかしたら答えは本じゃなく、自分の頭の中の創意工夫とかクリエイティビティから出てくるのだと思います。

最後に、学生にメッセージをお願いします。
マザーハウスが受け入れているインターンシップ生や新入社員の面接をしていて思うのは、「“答え”というものはそんなに早く出ない、結論を急ぎすぎていていないかな」ということです。急いで出した答えでは、それに向かって頑張ったとしても、ずっと続けてはいけないかもしれないし、一つのことも極められないと思いますね。私はこの7年間、デザイナーをやって、経営者をやって、それでもまだまだ何も見えてきていません。10年続けて何か見えたらいいなって、それくらいに思ってるんです。それなのに今の子たちって、店舗に1年立ったらお店のことが分かるって思っているんですよね。
「自分が本当にやりたいことを見つける」という作業は、本来はものすごく時間がかかるはずなんですよ。大学にいる4年間に見つけられたら本当にラッキーだし、それ以降もきっと見つめ続け、探し続けていくものだと思うんですね。その作業ってすごく面倒だけれど、あきらめずに続けて欲しいなと思います。日本は誘惑がすごくたくさんあるけれども、日記を書いて自分と向き合ったり、本当にこれやりたかった?と自分自身に問いかける作業は、面倒がらずにやって欲しいなと思います。
編集後記

「生きる意味」を見つけ、それに人生を賭けて取り組んでおられる山口さんの表情や言葉には全く迷いがなく、決意の強さをうかがい知りました。また、「比較対象は自分」という山口さん独自の価値観には、勝ち負けという尺度に囚われがちな思考から自由になれるように感じました。
「何のために学び、何のために生きるのか」という問いかけは、何歳になっても、人生に行き詰った時、進むべき道を照らし出す明かりになることと思います。自分で切り開いた道を前へ前へと進む山口さんの背中が、今はとても遠くに見えますが、私も、問いに対する「答え」にいつかたどり着けるよう、そこへ続く道を一歩一歩前に進んでいきたいです。

田邉 理彩(商学部4年)

Vol. 28 OB座談会企画 「“日本人としての誇り”と“異文化理解”。 二つをバランスよく兼ね備えることが重要な鍵となる」

(右)荒木 岳志(あらき たけし) 2005年大学院理工学研究科卒。丸紅株式会社入社。2008年にビジネストレーニーとして台北に派遣後、2009年~1年間上海赴任。現在は化学品総括部 企画課。
(中)鈴木 威一(すずき いいち) 2002年政治経済学部卒。富士通株式会社入社。2009年~3年間英国Fujitsu Servicesに出向。現在は金融・社会基盤営業グループ 金融グローバルビジネス統括部に所属。
(左)山岸 健太郎(やまぎし けんたろう) 1999年法学部卒。住友信託銀行株式会社(現三井住友信託銀行)入社。社内トレーニー制度で1年間シンガポール駐在。その後東京での勤務を経てニューヨークに赴任。現在は本店営業第二部(法人営業/総合商社担当)。

【2013年7月1日公開】

旅先で危険に遭遇した時に、英語ができないとまずいと思った

どのような学生時代を過ごされましたか?また、その頃から海外志向がありましたか?
山岸 一言で言ってしまえば怠惰な学生生活でした。海外に対する意識は昔からありましたが、英語力が伴わなかったため、留学を経験することはできませんでした。海外に関することといえば、僕は法学部で国際法のゼミを履修していたので、その授業の中で多少は海外を意識して勉強することができたと思います。

 

鈴木 僕も、いかに効率的に単位を取っていくかということばかり考えていました。所属していた国際交流サークル(国際交流虹の会)では、留学生が銀行口座を開くのを手伝ったり、合宿などのイベントを開いたりしていました。また当時流行っていた紀行小説『深夜特急(沢木耕太郎著)』の影響を受けて、友達と夏休み中に1ヶ月くらいかけてアジア各国を旅行したりしていました。白木先生(政治経済学術院教授)のゼミでは、3年の夏にタイ合宿があり、それにかこつけて友達と香港からタイまで陸路で行きました。それが僕の最初の海外経験だったと思います。

 

荒木 学生時代はバイトに精を出していましたね。また、学部が理工系で、華やかな本キャン(早稲田キャンパス)とは少し雰囲気が違っていたので、いかに学生時代を楽しく過ごしていくかということを考えていました。英語に真剣に向き合うようになったのは、大学院に進学してからですね。当時所属していた研究室が海外の研究室と提携していたこともあり、英語で研究成果を発表しなければならないこともありました。その当時はきつかったですが、海外の研究者や教授と交流することで、この人たちは何を考えているのだろう、何か面白そうなこと考えているな、というように少しずつ海外の人の考えていることに興味を持つようになりました。就職先も商社に絞っていたわけではなかったですが、海外を見てみるのも良いかなと思い、今の会社にお世話になることにしました。

 

山岸さんと鈴木さんは当時英語の勉強はされていましたか?
山岸 やはり学生時代から海外に対する意識は強かったですけど、英語ができないというジレンマがずっとありましたね。大学4年生でニューヨークに旅行した時、英語が話せない自分をとても恥ずかしく思いました。英語をやらなきゃいけないと本気で思い始めたのはその頃からです。その旅行で、自分の未熟さを痛感し、今後世界の中で一人前に戦っていくには、やはり英語の勉強が必要なのだと感じました。

 

鈴木 僕も旅行先で自分の英語のできなさを痛感しました。インドに行った時に現地の人の言うことを理解できないと命に関わるという場面に遭遇した時は、やっぱり英語ができないとまずいなと思いました。本格的に英語を勉強し始めたのは、社会人になってからですね。最初に配属されたのは関西だったのですが、いつかはグローバルに働きたいと考えていました。

 


やる気、勢いがあったからこそ実現した海外赴任

実際に海外に赴任されるまで、どのようなプロセスを経たのでしょうか?
荒木 僕の場合は商社だったので海外志向が強い人も多いかと思いましたが、当時は僕の周りでは意外にも少なく、そんな中僕は「どこに行くかは分からないけど、それでもいいなら」という条件付の部門内海外研修プログラムに応募しました。結果、台湾に赴任することになりました。

 

赴任先が台湾と聞いた時はどんな気持ちでしたか?
荒木 ほっとしましたね。所属している部門は化学品を扱っていて、当時は中国の内陸に進出するという話だったので、「もしかしてウルムチかな」とも思っていましたから。

 

鈴木 僕は、始めは関西、大阪でしたが、公募で東京に移り、外資系金融機関を相手にシステム営業を担当していました。その頃社内で、ローテーションで若手を海外に派遣しようという計画があったので、その一環として僕もロンドンに赴任しました。

 

海外に行きたいと、自ら志願されたのですか?

鈴木氏 ロンドン赴任時

鈴木 そうですね。前々から海外には興味があったので、英語の勉強も学生時代に比べれば頑張ってやっていました。そんな折、上司から「海外に行きたいのか」と尋ねられることがあったので、その時は「機会があれば行きたいです」と答えていました。それが、意外に早く話が進んで、ロンドンに赴任することになったという形ですね。

 

山岸 僕も鈴木さんと同じで、最初の配属先は関西・神戸でした。勤務開始当初は、仕事に加え、新しい土地での生活に慣れるので精一杯でした。ただ、当時の先輩の中に海外勤務を経験された方がいて、その方から海外での経験を伺ううちに、自分もいつかは国外で働いてみたいと改めて思うようになりました。

 

海外勤務に向けての具体的なきっかけはどんなものだったのでしょうか?
山岸 その海外勤務をされていた先輩から、シンガポールのトレーニー(研修生)公募があるので、それに応募するのはどうかというお話を頂きました。ただその時は、すぐには返事をしなかったですね。というのも、その頃長年希望していた自分のやりたい仕事ができる部署にやっと異動させてもらったばかりで、すぐに海外希望を出してしまっては、ある意味上司を裏切ることになるのではと少し悩んだんです。ただ、このチャンスを逃したら次はいつ来るか分からないと思い、思い切って応募しました。

 

日本での仕事に未練はなかったですか?
山岸 特にはありませんでしたね。うちの会社自体がドメスティックな企業なので、いずれ日本に帰ってくることは分かっていたし、むしろシンガポールでの経験が自分の強みの一つにできるなと思っていました。だから、シンガポール行きが決まった後は、後ろを振り返らず、後任の人への引き継ぎをしっかりして、前だけを向いていましたね。

 

海外赴任が決まるまでに、試験などがあったと思いますが、なぜ自分が選ばれたと思いますか?

山岸氏 旅行先、ブラジル/リオ・デ・ジャネイロにて
現地で知り合った人々とサッカーをし、名物シュラスコを一緒に。

 

山岸 強いて言うなら勢いですかね。当時英語は全く勉強しておらず、面接の際に英語の勉強について尋ねられた時も「毎晩、映画を一生懸命観ています!」とだけ答えました。英語はツールであり、結局コミュニケーションをするのはハートだから、自分の言いたいことは絶対伝えられると思っていたし、面接でも「いずれ慣れます。僕の言いたいことは絶対伝わります!」と言い切りました。そういう勢いがあったからこそ自分が選ばれたのだと思います。

 

鈴木 僕も山岸さんのように、「勢い選抜」かもしれません。選ばれた理由が英語力ではなかったのは確かですね。やはりやる気が一番評価されたのだと思います。真面目に仕事をやれるかどうかや、環境が変わっても耐えられるかどうかです。英語力に関しても、その後の伸びしろを期待された面が大きかったですね。

 

荒木 僕の場合も同じで、やる気が買われたのだと思います。台湾への赴任が決まったのが出発の半年前、時間的にもまだ余裕があったので、中国語を勉強しようと思ったのですが、日本で勉強すると発音がおかしくなるからするな、と言われ結局中国語を勉強せずに台湾へ行きました。ただ台湾には日本語を話せる方が多くて何とかなりましたね。

 


日本人とは違ったコミュニケーションの仕方に気づくことが重要

赴任先での仕事内容はどのようなものだったのでしょうか?
山岸 僕は、シンガポールでもニューヨークでも、海外に進出している日系企業への融資を行っていました。だから、見る書類は英語でも実際に話をする時は日本語で、というケースが多かったですね。書類に関しては辞書さえあれば読めるし、英語でのメールも時間をかければ書けるので、なんとかなりました。ただ、リーマンショックを境に周りの環境が変わりましたね。どの企業にとっても、日本人を現地に派遣するのはコストのかかることだったので、英語を使って現地の人々を相手に仕事をする機会がとたんに多くなりました。その頃から、英語で電話をしたり、英語を使って会議に参加したりしなければならなかったので「ビジネス・サバイバル・イングリッシュ」の習得に努めました。

 

英語でのミーティングに慣れるのには苦労されましたか?
山岸 多少苦労しましたね。ただ、そういう会議では得てして専門用語が多く使われるので、それらをしっかり理解できれば何とかついていけました。また、アメリカ独自のコミュニケーションの作法を認識できたことで、会議での理解も進みました。例えば、アメリカ人は自分の言いたいことを、手を替え品を替え、何度も繰り返す傾向があります。だから会議で一度聞き逃しても、それほど慌てる必要はないんですよね。そのような日本人とは違ったコミュニケーションの仕方に気づくのも重要だと思います。

 

鈴木氏 出張先のスウェーデンにて

鈴木 僕も山岸さんと同じように、日系企業を相手に仕事をする機会も多くありました。ただ赴任先がイギリスの会社を買収してできた会社で、社員はイギリス人が大多数。日本人は少数派だったため、イギリス人に何かをしてもらおうとする時や、会議に出席する時は必ず英語が必要でした。だから家に帰ったら常にBBCを見ていたり、朝はラジオを聴いたりして英語力を鍛えていました。スペイン人やドイツ人は日本人と同じくネイティブではないので、彼らとの仕事は多少やりやすかったのですが、イギリス人との会話はスピードが速く表現も難しい。とにかくイギリスにいる間は英語が必要不可欠でした。

 

英語での会議に慣れるまでにはどのくらいかかりましたか?
鈴木 僕は丸3年かかりましたね。3年かけてようやく、重要な部分でイギリス人の会話を止めて意見を言えるようになりました。

 

荒木 僕は研修生の立場だったので、台北に赴任した頃は、半分会社、半分学校という形で過ごしていました。その頃は英語ではないですが現地の中国語の新聞を日本語に訳し、社内の関係者にメールで流すという作業をしていました。また現地の方を相手に化学品の新規開拓の商売をしていました。化学品は一物一価で価格の差別化ができないので、こんな機能がありますとか、ピンポイントに物を運びますとか、品物そのものの特徴よりも商社機能をアピールしていました。また相手に顔を売ることも大切だったので、飲み会に参加し、交流を図るようにも努めていましたね。

 

台湾と上海での現地の人の対応に違いなどはありましたか?
荒木 台湾よりも中国の方のほうが、何というか、良くも悪くも表現が直接的でしたね。営業に行った際も、「これ意味あんの?安いの?高いじゃん。じゃあいらない。もう来なくていい」みたいな感じでした。だからいかにそこに切り込んでいくか、というのが自分の中で大きなテーマでしたね。現地の方と一緒に営業に行った際も、「こういう表現は結構使えるな」とか「こういう返事にはこう切り返せばいいんだな」というようなことを一つひとつ勉強していきました。

 


日本人としての誇り、そして異文化に対する理解の重要性を痛感した

海外赴任の中で、最も苦労したことは何ですか? また、海外に滞在する中で、最も大切なことは何ですか?
山岸 苦労とは少し意味合いが違うのですが、海外赴任したことで、日本人としてどうあるべきかについて考えさせられましたね。海外の人たちと接するなかで、日本人はもっと自分の国を知るべきだし、自信を持つべきだと思いました。アメリカでたくさん知り合いができたのですが、向こう(アメリカ)の人たちは「自分たちの国、故郷が一番だ」というように、故郷についての話をたくさんします。彼らは自分たちのルーツ、生まれ育った場所を本当に誇りに思っていましたし、それぞれの文化、歴史に対してしっかりした知識を持っていました。かたや、自分を含め日本人は、海外の人から日本の歴史や文化について質問された時に、しっかりした返答ができるかと問われれば、僕は「できない」と思います。やはり留学や海外赴任をする際に、自国について正しい知識を持っているかどうかは、実際海外に行った時に大きな差になると思いますね。海外に行く日本人は、母国についてしっかりとした知識を蓄え、それを誇りに思うべきです。変に卑屈になってしまうと、物事はなかなかうまくいかないですから。営業でも自分の会社について尋ねられた時に「全然大した会社じゃありませんよ」なんて言ったらだめですからね。自分の会社に誇りを持つのと同様に、日本に対して誇りを持つべきです。

 

日本人は謙虚すぎるのでしょうか?
山岸 そういう面は多少なりともあると思います。日本人の中には、アメリカと聞くと「ナンバーワン」という印象を持つ人も多いとは思いますが、実際に一対一で仕事をさせると、日本人の方が仕事の処理能力は高いと思います。ただ、もっと日本人は打たれ強くなる必要があります。アメリカ=ナンバーワンと思うのは、ある意味、日本に誇りを持てていない証拠だと思います。自分の国についての知識を蓄え、海外の人に自慢できるくらい誇りに思うことで、もっと打たれ強くなれるのではないでしょうか。

 

鈴木 一番大事なことは、相手の国の文化を知ることですね。日本人はアメリカとヨーロッパを「欧米」として一括りに語ることが多いですが、例えばヨーロッパの人は、自分たちはアメリカ人と全く違うと思っていますし、イギリス人は、「ヨーロッパ」とは大陸ヨーロッパのことで、自分たちがヨーロッパに属しているとも思っていません。このようなそれぞれの文化的事情や感覚をしっかり認識する必要がありますね。

 

異文化に対する理解が一番重要だということですね。
鈴木 そうですね。特にヨーロッパのように複数の文化が共存する地域に赴任する場合はなおさらです。その国の歴史、文化、気質などをしっかり理解しておかないとその地域の人々と仕事をするのは難しいです。例えば、イギリスとスペインは基本的にあまり仲が良くないのですが、そこにはアルマダ(無敵艦隊)の海戦やジブラルタルの領有問題など、歴史的・政治的な背景があるということを知っているか否かでは、会話の理解が全然違います。あとは、ドイツ人は真面目で仕事が正確、南欧の人は良くも悪くも非常におおらか、などの国民性を把握すること。そのような赴任先の文化的、歴史的背景や社会構造を理解しておくことが、仕事をするうえで重要ですね。

 

荒木 やはり僕も、異文化理解の重要性はすごく感じましたね。特に台湾は中国との間でかなり複雑な歴史を経てきているので、営業の際のちょっとした会話にも気を遣わなければなりませんでした。その辺りが日本とは異なる点ですね。やはり日本は民族紛争などの種々の対立からある程度守られてきた国なのだなと思いました。

 

上海に勤務された時はいかがでしたか?

荒木氏:旅行先の中国のハワイ「海南島」にて

荒木 上海に行ってからは、台湾時代とはまた異なる目線や現地の人の考えに気づかされましたね。中国というと反日デモなどの暴動が頻発しているイメージがありますが、現地の人の中には「あれはただのガス抜きなんです」「政府によって仕向けられているだけです」と言う人もいます。特に僕のお客さんなんかは結構冷めた目で見ていました。そして、中国はとても大きな国なので、一口に中国と言っても、南と北では方言も違えば考え方も異なります。現地では「北と南の人は方言が違いすぎて会話ができない」と言われているくらいです。そんな巨大な国の中で、自分は日本人として何ができるのだろうと常に自問していました。自社の商品にいかに付加価値をつけて売るかということが、苦労というよりは一番面白みを感じましたね。

 

やはり異文化の理解は大切なことなんですね。
山岸 そうですね。僕が一番印象に残っているのは戦争について認識の違いですね。僕たち日本人は、唯一の被爆国として、原爆に対する教育をある程度に受けて育ってきたので、考え方の違いはあるにせよ原爆に対してはそれなりの思い、考えがあると思います。ただアメリカ人は原爆に対して日本人ほど深い考えは持っていないんですよね。彼らからしてみれば、原爆のおかげで戦争が終わったから良いじゃないかという感覚なんです。むしろアメリカでは、12月8日の日本による真珠湾攻撃の特集などが未だに放送されていたりします。原爆にしても真珠湾攻撃にしても、やられた側の方がやった側よりも、そのことにまつわる記憶は深く刻まれるんですよね。歴史の事実は1つだけれども、その捉え方は国によって異なります。だからそのようなことを知らずに海外へ飛び込むと、痛い目に遭うと思いますね。

 

最後に早大生へのメッセージをお願いします

山岸 最近若い社員が会社に入ってくるのを見て感じるのは、英語を話せるのはもう特別ではないということです。英語を話せることはある種のスタートラインのように感じます。だから、英語に加えてもう1つ2つ、自分の強みを持てるといいですね。また、若いうちに海外の文化に触れておくことは本当に大切だと思います。日本は島国なので、多様性という点では他の国に劣ります。ですので、積極的に海外に出て様々な文化を吸収すべきです。そしてその際に、日本の歴史や政治に関する知識や自分なりの考えをちゃんと持っていく必要があります。先入観を持て、というわけではありませんが、ある程度思想的に武装していった方が、海外の人とも渡り合えますし、得る物も大きいと思います。世界を意識しつつ、日本人としての誇りをしっかり持って、頑張ってほしいですね。

 

鈴木 積極的に海外に出るべきというのは、荒木さんと一緒ですね。お金と時間に余裕があるのなら、留学や海外旅行は積極的にすべきです。やはり海外に出ることによって自分を客観視できると同時に、日本も客観視できると思います。今現在いろいろな国際問題がありますが、やはり「自分の国が一番」という思想だけではダメですね。「自国と比べて海外はどうだろう」、という視点を欠いてはいけません。そのような視点を育むためには、やはり海外で暮らしてみることが一番早いと思います。また海外で直面した日本との違いを否定するのではなく、なぜそこに違いがあるのだろう、と考えていくことが非常に大切です。

 

荒木 学生時代にしかできないことをしてほしいですね。個人的にはできるだけ長く海外に滞在することをお勧めします。短期の観光目的の滞在でも楽しめますが、その国の表面的な部分しか見ることができません。しかし、1ヶ月も滞在するとその国の文化のディープな部分をある程度知ることができます。そしてその先には、先にお二人が述べたような、「日本を客観視する」ことができていくと思います。早大生には学生のうちにしかできないことに積極的に取り組んでほしいと思います。

 

編集後記

終始和やかな雰囲気で質問に答えて下さった荒木さん、鈴木さん、そして山岸さん。ご自身の学生生活や海外赴任の経験をもとにしたお話はどれもユーモアに富んでいて、楽しみながらインタビューを行うことができました。その中で、お三方は「日本人としての誇り」と「異文化理解」の大切さについて、何度も言及されており、特に海外で働く際には、この2つの要素が非常に大切であるというお話にははっとさせられました。普段日本で生活している限りにおいては、自分が日本人であることを強く意識することはあまりありません。しかし一旦海外に出ると、「自分が日本人である」ことは、とても重要な意味を持つのです。だからこそ、海外の人に対し、自分が日本についてどう考えているか、自らの言葉でしっかりと語れるようになることが重要なのだと認識をあらたにしました。

森 雄志(政治経済学部2年)

Vol. 27「汗にまみれるような早稲田力、行動力、情熱を持ち、人が嫌がることでも苦労をいとわないこと」

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早稲田大学理工学術院教授
藤井 正嗣

福岡県生まれ。早稲田大学理工学部数学科に入学後、カリフォルニア大学バークレー校へ留学、同校数学科および修士課程卒。帰国後、三菱商事株式会社へ入社。クアラルンプール支店マネージャー、米国食料子会社会長兼社長、人事子会社取締役人材開発事業部長、本社人事部国際人材開発室長、などを歴任。1999年にハーバード・ビジネス・スクール上級マネジメント・プログラム修了後、インド冷凍物流合弁会社エグゼクティブディレクター、グローバルイングリッシュ・ジャパン代表取締役社長などを経て、2004年より現職。

【2013年5月30日公開】

英語で数学を勉強、一石二鳥で思い立った留学

どのように英語力を身に着けられましたか?
小学3年生の時に、九州で生まれ育ち海外に一度も行ったことのない母が突然、「これからは英語が大事になる」と言い、中学生向けの英語学習塾に私を放りこんだんです。そこではただぼーっと座っていただけでしたが、それでも中学に入学した時には、すでに中学英語の教科書はひと通り終えていました。高校に入ってからは特に勉強しませんでしたが(笑)
大学に入学した頃は、早稲田の理工は1年目から専門の勉強をさせてくれるので、自分の専門性を深めつつ、他にも打ち込めることをしようと思っていました。昔から相撲が好きで強かったこともあり、武道にしようと理工の柔道部に入ったのですが、夏合宿で怪我をし、ドクターストップがかかってしまいました。どうしようかと思いながら当時住んでいた西荻窪あたりを歩いていたら、英会話スクールを発見したのでフラフラと中に入り、もう一度英語をきちんと勉強することにしました。やるからにはとことんやろうと思い、四谷にある日米会話学院の2年間のプログラムを受験、最初の一年半をスキップすることが認められ、半年で修了しました。その半年間は、数学の勉強に追われながら毎晩18時から21時まで3時間英語をみっちり勉強するというのは容易ではありませんでした。そんな時、「留学すれば、英語で数学を勉強するから、自然に両立できるじゃないか!」と思いつき、留学を考えるようになりました。
大学では柔道のほか、ESS(英語研究会)に興味を持ったのですが、劇のような決まったスクリプトを覚えて話すという勉強方法で英語に触れるよりは自分の頭で考えて話す方がいいと思い、NHKのテレビ英会話の教材で英語を勉強するサークルを自分で立ち上げました。その後早稲田理工の学生だけでなく、自分と同じようなことをやっていた東大・一橋・お茶大の人たちと「サンデー・セミナー」という合同の勉強会を開催し、今で言うインカレで活動していました。
サンケイスカラシップでの留学を志したきっかけは何だったのですか?
英語に対して意識の高い「サンデー・セミナー」のメンバーの間でサンケイスカラシップが話題になり、みんなで受けることになったんです。サンケイスカラシップ(注:現在は休止)は、アメリカに15人、フランスに10人、イギリス・ドイツにそれぞれ5人留学できる全額支給の奨学金制度で、試験は一次が英・数・国・社・理の筆記試験と作文、二次が過去の成績証明の提出、三次が英語と日本語による面接でした。当時は激しい受験戦争の時代で、厳しい競争を勝ち抜いて立派な大学に入った人たちが、さらにスカラシップを巡って競い合うという状況だったんです。アメリカへの奨学金の倍率は約100倍でした。大変な競争でしたが、運よくスカラシップをいただくことができました。留学先は、アメリカなら州立大学に限定されていたのですが、当時数学の全大学ランキングで一位だったカリフォルニア大学バークレー校に絞って出願し、合格することができました。
カリフォルニア大学バークレー校では、どのような留学生活を送られましたか?
学んだ数学のレベルは早稲田も高いとは思いますが、バークレーの数学科では、教えている教授もその世界で有名な方が多く、学生もMIT(マサチューセッツ工科大学)やハーバード大学、プリンストン大学出身の人や、インドから来た大変優秀な人が集まってしのぎを削っており、「なるほど、グローバルな競争とはこういうことなんだ」と肌で感じました。また、現地で受けた「問題解決」という授業では、Putnam Exam(全北米の大学生による数学コンテストで、例年平均点が1点という難易度の高さで知られる)で史上初の2年連続1位になったバークレー出身の方が先生でした。数学のノーベル賞と言われるフィールズ賞の受賞に近いと言われていた人です。実際にフィールズ賞を受賞した先生もいらっしゃいましたし、そういった天才のような教授の方々から直に教えてもらう機会が身近にあるのは嬉しかったですね。私もバークレー代表として参加しましたが、早稲田での勉強が非常に役に立ったと思います。
卒業後の就職先になぜ商社を選ばれたのですか?
将来の職業を考えるきっかけになったのは、ロサンゼルスでNECの採用面接を受けた時でした。「どんな仕事をしたいか」と聞かれたので、「研究室に籠っているよりは海外でいろいろな人に出会い、関わりながら仕事をしたい」と伝えると、「それなら、商社じゃないんですか?」ということになり…。そのころからグローバルな企業に就職したいと考えていたのだと思います。
6月にバークレーを卒業してすぐ日本に帰ってきたのですが、その時期にはすでに日本の就職活動の時期が終わってしまっていました。念のため就職担当の先生のところを訪ね、今からでも受けられるところがないか聞くと、「ない。もう終わっている」と(笑)。それでは、と自分で探すことにして、キャンパス近くの公衆電話から自分の知っている会社に電話を掛けました。恥ずかしながらその時頭に思い浮かんだのは、三菱商事、三井物産、住友商事、日立、日本IBMの5社だけだったんですけどね(笑)。電話をかけた時も、その後履歴書を送った時も、連絡がすぐにあったのは三菱商事でしたし、面接で他社の選考も進んでいることを伝えると「大丈夫、うちが先に決めるから」と言ってくれました。面接を受けるにあたっては、アメリカで学んだことや、大学でも大学院でも勉強していた数学という科目が企業で働くのにどのように活かせるか考えました。一つは、集中と切り替えを学んだということ。特にアメリカの大学院はもの凄く勉強に厳しいので、朝から根を詰めて勉強した後、パッと30分くらいジョギングなどの運動をして、また勉強に戻るというやり方を会得しました。それから数学で身につけた論理的思考です。数学は論理的に物事を考えるためのトレーニングであり、商社にせよ、どこでも役に立つ能力だと認識していました。
三菱商事の選考は担当者の言葉通り、あっという間に進みました。内定をもらって、ミシガン大学ビジネススクールから帰国したもう1人の同期と8月1日に入社し、日本の大学生活に戻る間もなく働き始めました。後から聞いた話では、その前の年から三菱商事は海外の大学もしくは大学院を卒業した人を最大10人、またはその年の採用人数の10パーセントを上限に採用するという方針で、その年採用された2人のうちの1人となることができました。
三菱商事での勤務時代に、ハーバード・ビジネス・スクール(HBS)へ進まれたのはなぜですか?

ハーバード・ビジネス・スクールにて

あることがきっかけで経営を学ぶ必要性を感じたからです。私は積極的に海外で働きたいと思っていて、幸運にも三菱商事でグローバルな仕事に携わることができました。20年間食料を扱う間、マレーシアで5年間駐在し、さらに最後の4年間はアメリカのメーカーの社長をしました。そのメーカーは非常に業績が厳しく、社員をリストラせざるを得なかったのですが、いざリストラを実行すると、自分が解雇した副社長に「年齢差別による不当な解雇だ」ということで訴えられてしまったんです。その時は非常に苦労しました。私は年齢ではなく本人のパフォーマンスをもとに判断したので、法廷で闘う気でいて、社員も同感で私がもし法廷に立つのなら証人になると言ってくれました。しかし、「三菱」という名前は世界的に有名ですから、当然会社は悪評を嫌います。「組織の三菱」と言われるような会社において、現地事業投資先の社長が訴えられるということは前代未聞で、伝統ある会社の名を汚すという大変なことでした。ですから本社には「訴訟をするために君を送り出したんじゃない」と反対され、最終的には調停によって解決し、裁判にはなりませんでした。その渦中で私はアメリカの法廷で初めて勝つ日本人になるんだというある種高揚した気持ちでいましたが、それは今思うと蛮勇でした。セミナーなどで指導する立場になってからは、そういったケースで重要な意思決定をする場合は、人事部や弁護士など専門の人に相談するべきだと言っています。
私は渡米前に日本でチーム・リーダーを経験していましたが、アメリカではその経験があまり役に立たなかった。そのことから、三菱商事はグローバルに事業を行っているといっても、将来海外で経営者の立場に立つための社員教育が充分にできていないのではないかと思いました。そこで、取締役会で日本に出張した際、昔私を採用してくれた人事担当者が当時人事部長をしておられました(ちなみに、この方は早稲田の政経の出身で、その後副社長にまでなられました)ので、「専門性の高いトレーダーやマネージャーは育てているけれど、経営者としての教育はできていないのではないかと自分が経営者をやってみて痛切に感じた。だから経営者育成のための人材開発プログラムを作らせてほしい」と直談判したんです。それが認められて、アメリカから帰国後、もとの食料部門には戻らず人材開発に関わり、経営者になるための教育をするプログラムを導入しました。この研修制度を整えた後は、国際人材開発室長という、三菱商事に勤める日本人以外の社員を世界中から集めて研修をしたり、キャリアをサポートしたりする責任者の役割をしていました。その流れでHBSへ進んだのです。

タフなだけではやっていけない。強さと優しさの両方が必要

そういった商社でのご経験から、グローバル人材に必要な要件は何だとお考えになりますか?
商社の仕事は面白い分、タフです。海外との取引が多いと、時差を乗り越えて仕事をすることはざらだし、日本では想定不可能なことが起きても対応しなくてはいけない。ですので、メンタル・フィジカル両方タフである必要があります。アメリカのメーカー時代に年齢差別で訴えられた時、最初は受けて立っても勝てると思っていました。しかし、相手側や本社との折衝は気苦労が絶えず、日曜日に家にいてもこのことが頭から離れない状態が続きました。こういった局面でダメになる人もいるけれど、乗り越えられる人もいる。そういう修羅場を乗り切るタフな精神力は絶対に必要ですね。
ただ、タフなだけではやっていくことはできません。フィリップ・マーロウ(レイモンド・チャンドラー作のハード・ボイルド小説に出てくる探偵)のセリフに、「強くなければ生きていけない。優しくなければ生きていく資格はない」とあるように、強さと優しさの両方が必要なんです。これは小説の中の話ですが、私の尊敬する上司から「『ウォームハート・クールヘッド』、つまりビジネスの意思決定はクールにやりなさい。しかしウォームハートを忘れてはいけないよ」と言われたことがあり、まさにそうだと思いました。こういった心境にはなかなかいたらないものです。本当に大変な思いをして苦労をしないと、弱い立場にある人や解雇される人の気持ちがわからないですよね。修羅場を経験したからこそ培えたんだと思います。

インド合併会社出向時_顧客企業の幹部と

修羅場の経験も必要ですが、経営についてきちんと系統的に学ぶことも大事だと思います。アメリカの後インドで担当したユニリーバとの合弁会社は、冷凍倉庫事業を開始したばかりで厳しい状況にあり、いかに再建するかが課題でした。資金が尽きるギリギリのところで、将来性はあるということで三菱商事が増資を引き受けたんです。そして初めての日本からの出向者として現地に向かい、インド人の社長の元でナンバー2のエキュゼキュティブディレクターを務め、再建に携わりました。新規事業で「新しいインフラをインドに作るんだ」という素晴らしいビジョンでしたが、なかなか大変でした。ただ、以前と違ったのは経営の知識があったことです。アメリカのメーカーの時は何をどうしたらいいのかよく分かりませんでしたが、インドに行く前にHBSで経営を学んでいたので、この時は何をすべきかが分かりました。

研究・教育職に進まれることを決断された理由は何ですか?
バークレーの大学院生時代にティーチング・アシスタントとして授業で教えた際、「教える」ことについて考え始めましたね。そこで、生まれてから教えてもらう立場しかほとんど経験したことがなかったと気づき、教える立場に初めてなり、学ぶことに対する考えが180度変わりました。また、生徒全員が英語ネイティブの中、1人だけ日本人である自分に果たして教えることができるのかと不安に感じ、当時教わっていた著名なアメリカ人の数学科の教授に相談に行ったんですね。すると「チャンスを生かすことが最善の選択だ、ぜひチャレンジするべきだ」とアドバイスをしてくれたんです。その時、人生の節目節目でアドバイスをしてくれる存在を持っているかいないかはとても重要だと感じました。そして、自分もその立場になりたいと思うようになりました。学ぶ側も、自分が「どういう人生を送りたいのか」ということを積極的に周りに見せていく。そうすることで重要なシーンでアドバイスをしてくれる存在に、巡り合えると思うんですよね。
さらに60歳を過ぎて、自分だけが成功するステージは終わったと思ったんです。次は、周囲にGiveする段階にきていると。早稲田に戻ってきて、自分の何十年も前の姿である早大生に、自分の経験したことで役に立つことやサポートできることがあればぜひやろうと思いました。そうやって次の世代のリーダーを育てる。これに勝る幸せはないんじゃないかと思います。自分の関わった人からどれだけ優秀な人、世の中を良くしてくれる人、リーダーになるような人が現れるか、それが今最大のやりがいです。
学生には海外に出ることを勧めていて、留学を希望すれば推薦状を書くなどをして応援しています。また、グローバルに活躍するためには一生勉強し続けることが必要だと考えているので、そのプラットフォームとして「早稲田グローバルリーダーズクラブ(Waseda Global Leaders Club)」というものを運営しています。早稲田を卒業したら終わりではなく、会社で働く中で問題に直面した場合に相談しに来られるような場としても考えていますし、グローバルリーダーを目指す人に生涯を通じた学びの機会を提供しています。早稲田の学生に限らず、企業で実施しているセミナーの受講者も含め、彼らが成長するのを見守っていこうという想いからです。

人のマネではなく、日本や世界を代表するようなオリジナルのリーダーシップを実行すること

藤井先生の考える、次世代のリーダーに必要な要素はどのようなものでしょうか?

アメリカEラーニング会社の幹部たちと

自分が勤める中で経験したことや、国内外で活躍している方、HBSで会った方々へのインタビューをケースにして将来活躍できる人材になるための要件をモデル化していますので、それを私の見解として紹介したいと思います。まず、受け身ではなく、自分から積極的に難しい問題にチャレンジして解決を図っていく「問題発見・解決能力」を持つこと。次に、コミュニケーション能力。プレゼンテーションでもネゴシエーションでも、日本語でも他言語でも、伝える力がないと、相手の人に自分が何を考えているかが伝わりません。日本はよくハイ・コンテクスト文化と言われ、お互いが共通して持っている概念が多いので、多くを言わなくても伝わるだろうと思って話してしまいがちです。しかし、世の中には全部話さないと伝わらない人もいるんです。ノルウェーやスウェーデン、フィンランド、デンマークなどスカンジナビアの国々などは一般的にロー・コンテクスト文化だと言われます。そういった例は、なにもスカンジナビア諸国に限らず日本でも十分あり得ますから、国内外関係なくどこで活躍するにしても必要だと言えます。最後は、企業に勤め、リーダーとして活躍したいのならマネジメントの基礎が必要です。MBAはマーケティング・ファイナンス・ストラテジー・アカウンティングといった要素で構成されていて、そのままつまり経営の基礎ですので、勉強すべきでしょう。ただ、こうした経営科目は実践していく中で徐々に身に付くものですから、勉強だけではあまり意味はないでしょう。
グローバルな舞台に立ちたいという人の場合、この他に必要な要件はありますか?
グローバルリーダーという言葉がよくあるけれど、世界に60億以上の人がいるのに、何をもってグローバルリーダーと称するのかよくわからないというのが正直なところです。ただ、私の考えるモデルの仮説としては、第一にカルチュアル・インテリジェンス(CQ=異文化適応力)、第二にオーセンティック・リーダーシップ(ホンモノのリーダーシップ)が必要です。オーセンティック・リーダーシップとは、その人オリジナルの、日本や世界を代表するようなリーダーシップということです。ジャック・ウェルチやスティーブ・ジョブスのようなカリスマになりたいという気持ちを持つことは悪くないと思うけれど、ただ人のマネをするだけでは、ホンモノではないんです。では、ホンモノのリーダーシップを身に付けるにはどうしたらいいかというと、修羅場経験ではないかと思います。人生でおきたさまざまな出来事という事実そのものではなくて、そうした出来事についてついてどう考えるかが重要なんです。修羅場経験の中で、あれは何が起きたのか、何が自分に足りなかったのか、何がそこから学べるのかを考えること。そこから得られることが、最終的に自分らしい、ホンモノのリーダーシップを身に付ける道につながるのではないかと考えています。第三に、専門分野の力です。ほかの人にはない自分の専門分野がないと世の中では活躍できないです。単に資格を取るといった話ではなく、他の人には負けない何かを持つことです。以上の要件があればグローバルリーダーになれるのではないか、というのが今の仮説です。
世界で活躍したいと思っている早大生にメッセージをお願いします。
早稲田の学生というのは他の大学生にはない良さがあると思うんです。昔はよく、「野人」とか「バンカラ」とか言われてましたけど(笑)、そういった、汗にまみれても何か最後まできちんとやり遂げるというような早稲田力、行動力、情熱などはもはやDNAだと思うんです。ぜひそれらを生かしてほしい。人が嫌がることでも苦労をいとわない、というような気持ちを持ってほしいですね。また、早稲田にはいろいろな人材がいて、多様性・ダイナミックさにあふれています。今の学生には、それを体現する生き方をしてほしい、多少大変なことがあってもへこたれないでほしい、そう思いますね。
私を支えた言葉に、「恒に夢を持ち 志を捨てず 難きにつく」という高柳健次郎さん(日本ビクター元副社長・技術最高顧問)の言葉があります。やはり夢と志を持ち、易しい道と困難な道があるときには困難な方を選ぶと考えて頑張ってほしいですね。
また、早稲田も素晴らしいところですが、若い感性がみずみずしいうちに様々な世界を見て、体験として積み重ねてほしいのです。同質や均質という中ではなく完璧に開かれた環境で、完全にオープンな競争をするという意味でも留学を勧めます。今はどんな会社に入っても少なからずグローバルな部分があり、避けては通れません。英語を身に付けたり、留学したりして損することは何もありませんから、ぜひ積極的にチャレンジしてほしいですね。
編集後記

「グローバル人材」といっても一概に定義できる言葉はないけれど、藤井先生はインタビューや実体験からケースやモデルを作ることで、体系立てて「グローバル人材」を構成する要素を考えていらっしゃいます。その内容は、実社会で得た知識や経験と、経営学といった学問的な知見を交えたもので、とても実践的かつ客観的な内容で、とても勉強になり、目からウロコの思いでした。
また、その知識を次世代を担う学生や社会人に共有することでご自身の経験を役立てていらっしゃり、私も、将来自分の成果を周囲に還元していけるような職業人になれたらいいな、と思いました。

田邉 理彩(商学部4年)

Vol. 26 「”make”でなく”create”、無から何かを創り出すことに挑戦してほしい」

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通訳・翻訳家
戸田 奈津子

東京都出身。津田塾大学英文科卒業後、生命保険会社の秘書を経て、フリーで通訳・翻訳の仕事を始める。清水俊二氏に師事し、初の字幕翻訳作品は『野生の少年』。その後、来日時に通訳についたフランシス・F・コッポラ監督の推薦で『地獄の黙示録』(1980年日本公開)を担当。日本の映画字幕翻訳者の第一人者として認められ、1992年、第1回淀川長治賞受賞。現在までに合計約1500本の字幕翻訳を手がけ、第一線で活躍。

【2013年4月30日公開】

何かを願ったら叶うなんてそんな甘っちょろい考え方ではだめですよ

どのような学生時代を過ごされましたか?
わがままですから、嫌いなことはしない主義。部活もやったことないし、スポーツは大の苦手。今と違って娯楽のない時代でしたから、戦後の焼け野原の中の唯一の楽しみであった映画にとことんはまりました。友達に講義の代返を頼んでまで観に行くほど、映画に夢中でした。
就職活動など競争の厳しい今の学生さんと違って、当時の私は将来のことなどあまり考えないノー天気な学生でした。大学の卒業が迫り、イヤでも先を考えねばならなくなって初めて「字幕翻訳の道」を考えました。自分の好きなものの二本柱である映画と英語の両方に携われるし、映画もタダで観られそうという都合のよい理由からです。在学中は、バレエ団が来日した時に単発で通訳のアルバイトをした程度で、会話力は見事にゼロでした。
その後、翻訳のお仕事が入り始めるまでに20年の下積み時代があったと伺っています。どのようなお気持ちで過ごされていましたか?
「もしかしたら、明日チャンスが訪れるかも」という、縋る思いで日々暮らしていました。もちろん不安でしたよ。外から見たら完全に今で言う「フリーター」で、私が字幕翻訳を志しているなんて分からない。下積み時代の20年間、キャリアの「分かれ目」が何度かありました。他の仕事のオファーを頂いたということです。しかし、翻訳の道と並べてみると、どうしても字幕翻訳を選んでしまうわけです。プライベートの場で、例えば結婚という問題になっても、結局こちらを選びました。選択を迫られたとき、その都度非常に悩み、考えて結論を出したわけですが、だからと言って20年間、悲壮な思いで暗い顔をしていたわけではありません。自分が選んだ道だからという落としどころがあったからです。結局はすべて自分の気持ちの持ち方と覚悟です。

諦めずに20年間という年月をかけた末、チャンスを掴まれた戸田さんですが、「夢は願えば叶う」と思われますか?
何かを願ったら叶うなんてそんな甘っちょろい考え方ではだめですよ。そんなに生易しいものではない。「夢を抱けば叶う」という言い方は誤解を招くと思います。何かに賭けるということは、私の場合、未来への確証が「無」のものに賭けたわけですから、叶うか、叶わないかの確率は50%ずつだと考えなければなりません。叶わなかった場合をちゃんと見ておくことは不可欠。良い方だけを考えて最終的に叶わなかったら怖いでしょう? 両方考えて、それでもやりたかったら挑戦すればいい。私も叶わない確率を考えたし、誰も保証してくれない中、いくら頑張っても自分の描いた通りにならない場合もあるという不安と戦いつつ、50%のチャンスに賭けたのです。もちろんただ願っていたわけではなく、夢を掴むために自分で考え行動し、努力しました。だめだったら自分の責任、誰も責められないことを覚悟の上で。たまたま私の場合は20年経って叶いましたけれど、それはケース・バイ・ケース。一生叶わないという可能性も厳然としてあったわけです。

人間、過剰の自信を持ったら最後。自信がないから先に行けるんです

今のお仕事につながるまでにどの時点で英語力には自信がつきましたか?
今でも自信なんてないですよ。自信はある意味、危険だと思っています。自信がないから先に行ける。自信を持ってしまったら達成したと思ってモチベーションがなくなるでしょう。そこで成長は止まってしまうんです。
大きなお仕事を任された際、今でも不安やプレッシャーはつきまといますか?
常にベストは尽くしますが、100%完ぺきと思ったことはありません。この世の中、どんなことでも、必ず誰かどこかで非難する人がいます。あらゆる人を満足させることは不可能なのです。ですから周囲を気にしていたら絶対前には進めない。ベストを尽くして100%までいかなかったとすれば、それは自分の力不足。でも少なくともベストを尽くしていれば、その自覚が救いになると思います。
どういう瞬間にこのお仕事をやっていてよかったと思われますか?
やっぱり映画が好きですから、映画を観た人が「面白かった、楽しい映画だった」って言って下さるのが一番嬉しいです。映画を楽しんでもらうためにやっているのですから。字幕がいいなんて感想ではなく、ただ「ああ、楽しい映画だった。良い映画だった」と言って下されば字幕の役は果たせているわけです。

偽らないで定価どおりに見せること。自分を全てオープンにするとうまく付き合えるんです

戸田さんの学生時代に比べて今は英語に触れる機会が多くなっていますが、日本人は外国に対してオープンに、いわゆる「グローバル化」したと思われますか?

英語に遭遇する機会だけで言ったら比べ物にならないほど増えたと思います。私の子供時代は戦争中で、中学一年で初めてアルファベットを見たのよ。今は町中にアルファベットやカタカナ語が氾濫しているし、幼稚園から英語を勉強するって時代でしょう? その割に、日本人はなぜ今もってこんなに英語が苦手なんでしょうねえ。戦争が終わった70年前、「これからは英語が必要だ」と、あの時点から皆が言っていたのです。ところが70年経った今もそれは変わっていない。日本人の悲願の一つでしょうね。テクノロジーの進歩、世の中の急成長と比較してみると、日本人の英語力だけは、ほとんど横一直線です。

外国人から話しかけられると逃げて行く光景を今もよく見かけますから。一つには、島国であるがために外国人と接触する機会が少なく、外国語を苦手とするDNAが血の中に入っているのかもしれません。島国であったがために、日本人の精神、和を重んじる気風とか、独特のメンタリティーが生まれて、ユニークな環境がつくられた。だからすばらしい文化が育ったわけですが、その反面、国境線一本で隣国と接する大陸の人々と違って、外国人と接する時に「構えて」しまう。それが語学学習の妨げになっていることも原因の一つかもしれません。

では、付き合い下手な日本人でも実践できる、メンタリティーや文化の異なる外国人と接するときのコツのようなものはありますか?
人対人の付き合いは国対国のそれとは違う。国家間であれば色んな利害損益が絡み、関係が思ってもいない方向へゆがむこともありますが、人対人には共通の原理が働くと思います。つまり、自分がボールを投げたら、相手もそのボールを同じように返してくれるということです。

私は相手が誰であろうと、素のままで付き合うように心がけています。映画のスーパースターとの仕事が来ると、「あの人は気難しいらしい」とか「扱いにくい人らしい」とか、いろいろな噂を耳に吹き込まれます。最初のころはそれを信じて緊張したものですが、実際は99%がガセネタなのです。たとえばロバート・デニーロは映画では強烈なキャラクターを演じますが、ご本人はまるで違う。優しくて物静かな、付き合いやすい方です。お会いして、自分の目で見て、初めてどういう方かを判断できる。そういう例に何度も遭遇して、人と接する時は自分の目で判断し、また相手によって自分を変えてはいけないということを学びました。「私はこういう人間です。これ以上でも、これ以下でもない」と自分をオープンに見せる。自分を大きく見せようとしたり、反対に卑下するような付き合い方はもっての他です。気後れする必要もありません。

日本はかつて西欧に比べて技術が遅れている時代もあったけれど、そのかわり誇るべきすばらしい文化が育った。その自負をふまえて、素のままの自分を見せれば、相手もオープンに対応してくれる。そこから真の意味での良い付き合いが始まるのです。少なくとも私の場合はそうでした。

勢いのある近隣諸国に負けずに日本がもっとグローバル化していくにはどのようなことが必要だと思われますか? 学生にアドバイスをお願いします。
もちろん語学力も必要だけれど、それと同じくらい日本のことをもっと勉強しなければなりません。外に出て行けば行くほど自分が日本のことを知らないかを切実に感じるはずです。私は外国で暮らしたことはありませんが、たまに海外に出たり、向こうの方と話していると、「自分が日本を知らない」ということを痛切に感じて、恥ずかしく思います。「もっと勉強しておけばよかった」と。今の若い方々は海外に進出し、語学力もつけている。それはすばらしいことだけど語学力が全てではありません。自分の国を知り、人間としての教養を身につけてから、自分が専門とする道を目指すことが重要です。

日本語という切り口で見ると、以前はごく当たり前に使われていた表現を翻訳で使うと「若い観客が読めない。理解できない。だからもっと平易な表現に変えてくれ」と映画会社からクレームがつきます。情けないことです。平易な日本語にレベルを下げるから、美しい日本語はどんどん淘汰されて、貧しい言語になってしまう。これを食い止めるには、良い日本語の本を読んで頂きたい。「正しい文章の書き方」などのいわゆるHow toものではありません。古典でも現代ものでも、自分が抵抗なく受け入れられる良い文章を読んでいく。もちろん一朝一夕で日本語の能力や教養が身につくわけではありません。時間をかけて、じわじわと身に沁み込ませるものなのです。自分の国のことを知らない人間が海外で評価されることは絶対にありません。
今の時代、コンピューターだって良質の翻訳をしてくれます。でもコンピューターに教養があるでしょうか? コンピューターにモーツァルトの音楽が作れるでしょうか? シェイクスピアの作品は? インプットされたデータを操作・処理する驚くべきキカイではありますが、自ら思考する能力は持ちません。人間の脳だけが無から有を創りだすことができるのです。今や全世界、何十億の人間が平等に「共有」しているコンピュータを使いこなすだけでは意味がありません。他人が思いつかないことを思いつき、できないことをして初めて突出した存在になれるのです。

無から何かを創り出す。それが次の時代を担う方々に私が期待することです。”make”でなく”create”する。早稲田で学び、将来、日本のリーダーシップを担ってゆく皆さん方の挑戦を見守りたいと思います。

編集後記

20年もの長い下積み時代を経てやっと憧れの職業に就かれた戸田さん。「ありのまま」の姿から紡ぎ出されるお言葉は、恐ろしいほど現実的だった。夢を持つ学生には勇気を、夢のない者には希望をくれるようなあたたかい励ましのお言葉を期待した私の問いかけに、「『夢を抱けば叶う』なんてあなた、そんな甘っちょろい考え方じゃダメよ」とバッサリ。一瞬泣きそうになった。小一時間、辛辣な分析やため息混じりの批評が続いたが、それでも、救いの言葉やヒントはちゃんと残してくださった。
プロとしてやっていける席数が限られた字幕翻訳という世界で、稀少なチャンスを一つひとつものにし、今のポジションを確立された戸田さんだからこそ紡ぎだされる言葉にはずっしりとした重みと説得力がある。最後は握手でお別れだったが、これからの日本の未来を背負っていけとバシンと背中を押して頂けたような気がした。

田邉 祐果(国際教養学部4年)

Vol. 25 「スキル(英語力)・教養・センス・自立心・人間力を備えた新世代リーダーへ」

CATEGORY : 民間企業
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株式会社東洋経済新報社
デジタルメディア局 東洋経済オンライン編集長
佐々木 紀彦

慶應義塾大学総合政策学部卒業後、東洋経済新報社で自動車、IT業界などを担当。2007年9月より休職し、スタンフォード大学大学院で修士号取得(国際政治経済専攻)。09年7月より復職し、『週刊東洋経済』編集部に所属。『30歳の逆襲』、『非ネイティブの英語術』、『世界VS中国』、『ストーリーで戦略を作ろう』『グローバルエリートを育成せよ』などの特集を担当。『米国製エリートは本当にすごいのか?』(東洋経済新報社)を2011年に出版(発行部数5万部)。

【2013年3月22日公開】

日米の学生の差を生んでいるのは読書量

アメリカの大学院に留学されたご経験から、アメリカの学生の能力についてどう思われますか?
アメリカの学生の質の高さは大きく分けて3つの要因があると思います。まずは、読書量です。アメリカの大学生の能力は、圧倒的な読書量と圧倒的なレポート量、そして圧倒的なプレゼン量に支えられています。特に私が通っていたスタンフォード大学の学部生は、授業において大量のリーディングアサインメントを強いられるため、4年間に約500冊も本を読むことになります。そして、読書によって大量にインプットされた情報や知識を、レポートやプレゼンを通してアウトプットし、他の学生や教授との議論を戦わせることで、自らの知的筋力を養っていくわけです。端的に言うと、日米の学生の差を生んでいるのは読書量だと思います。アメリカの調査機関「NOPワールド」の調査によれば、一週間当たりの活字媒体読書時間の世界平均が6.5時間なのに対し、日本は4.1時間で、世界で2番目に読書量が少ないことが分かりました。やはり若い皆さんは学生のうちに、できるだけ多くの本を読むべきですね。
2つめは集団知です。福沢諭吉は日本人と西洋人の集団行動について次のように述べています。
「日本人は団体行動をする段になると、個人個人に備わった知性に似合わぬ愚を演ずる」
「西洋人は集団をなすと、一人ひとりに不似合いな名説を唱え、不似合いな成功を収める」
アメリカをはじめ西洋は、個人主義が強いイメージがありますが、それは幻想です。実際スタンフォードの授業の評価でも、グループワークやプロジェクトへの貢献度などが重点的に評価されています。アメリカの学生はプレゼンや議論を大量にこなすため、集団で物事を考えたり、それを実行に移す能力が、日本人に比べて長けていると思います。
そして3つめは、教養・リベラルアーツです。アメリカの大学には、学生が豊かな教養を養えるような環境が整っています。教養と専門のイメージは、木に例えることができます。専門分野ばかり磨くことは、殺風景な景色の中に、枯れた木を一本立たせるようなものです。これを続けても決して森へと成長させることはできません。なぜなら、専門ばかり磨く人には「教養」という豊かな土壌がないからです。しかし、教養という豊かな土壌がある人は、その土壌の上に豊かな専門という木を何本も立たせることができ、これらはやがて森へと成長していきます。このように教養がなければ、専門分野を大成させることは難しいのです。自分の専門と一見関係ないような知識を教養・リベラルアーツとして自分の中に取り込むことにより、思わぬアイデアが生まれてくるものです。例えばアップルの創業者スティーブ・ジョブスは「テクノロジーとリベラルアーツの交差点に立ってきたから、アップルの製品が生まれた」という言葉を残しています。彼は大学を中退後、大学でたまたま聴講生としてカリグラフィーの授業をとり、それがアップルの美しいフォントを作るきっかけになったと言っています。アップルの製品には、ジョブズがたまたま学んだカリグラフィーの要素がふんだんに盛り込まれているのです。
日本の大学は、入学する際に自分の専攻を決めなければなりませんが、これは良くないシステムだと思います。大学生に関しては、昨日の今日で自分のやりたいことが変わるのは日常茶飯事なので、長い時間をかけて、自分が本当に学びたいことを見極められるようなシステムにすべきです。そして、その間に自分の教養をたくさん磨いて、その後の専門分野の研究に生かせるようにすべきです。

アメリカでは勝負時は遅く来る

日本のアメリカのエリートの差は、どうして生まれるのでしょうか?

中国にスタディートリップに行った際の一枚

日本はうさぎ、アメリカは亀であると感じます。あくまで個人的な感覚であり、科学的根拠はないのですが、大学に入学するまでは、日本のエリートの方が、アメリカのエリートよりも知的能力は上回っていると思います。しかし大学入学後はそれが逆転し、アメリカのエリートに追い越されてしまいます。厳しい受験戦争を勝ち抜いた日本のエリートは、大学生になると、その反動で少しペースダウンしてしまいがちです。高校生の時にあまり遊べなかったかわりに、大学生活ではたくさん遊んでしまおうという感覚です。しかし、アメリカの学生は逆で、それまでの遅れを取り戻すかのように、大学生になって勉学に励みます。この違いが、日本と米国のエリートの差を生んでいる気がします。
アメリカのエリートの就職状況について教えてください。
アメリカでは今や金融ブームが終焉したと言われています。しかし、リーマンショック以前までは、大学や大学院卒業後の進路としては金融の分野が最も人気でしたし、現在でも多くの学生が金融の分野に就職しています。ところが、金融に進んだ学生がみな、金融の仕事に就きたいと希望しているわけではありません。事実、ハーバード生を対象としたアンケートでは、将来の理想の職業として、金融は最も低い支持しか得られませんでした。それではなぜ、多くの学生が金融の道へ進むのでしょうか。それは、金融の仕事で稼いだお金で、奨学金を返済したり、そのお金を軍資金として、自らの理想の職業にステップアップするためです。先ほどのハーバード生に対するアンケートでは、学生の理想の進路としてアートや教育、医療の分野が高い支持を受けています。このような学生にとっては、大学や大学院を卒業したあとの就職選びが勝負時なのではなく、卒業後に一旦就いた職業でお金を貯め、自分が理想とする次の職業へとステップアップする時が、本当の勝負時なのです。それに対して日本では、勝負時が22歳や24歳という若い年齢できてしまいます。卒業後の進路決定が勝負時とみられ、一旦ついた職業を踏み台にして次の職業へ、という感覚が薄い気がします。私は、アメリカのように勝負時が遅く来るというのは非常にいいことだと思います。またアメリカの就活では、コネや紹介によって就職先が決まることが非常に多いです。コネというとあまり良いイメージはありませんが、コネ作りはアメリカにおいては、学生時代にやっておくべき非常に重要なことです。

恋愛、そして失恋をして成長しよう

グローバルに活躍するための条件は何だと思われますか。

欧州や南米の友人と仲良くなるならサッカー

グローバルという言葉は、長らく人口に膾炙されて、かなり手垢のついたものとなっています。なので、ここでは、将来グローバルな舞台で活躍できるような人材を、新世代リーダーとよびたいと思います。
新世代リーダーとして必要な条件は、スキル(英語力)、教養、センス、自立心、人間力の5つです。
まず1つ目のスキルに関してですが、英語力を例に挙げると、TOEFLのスコアの国別ランキングで日本はアジア30カ国中27位で、韓国や中国を大きく下回っているんです。この差はパナソニックとサムスンの新人採用の英語力の基準に如実に表れています。パナソニックでは、海外勤務に必要なTOEICの点数が650点なのに対し、サムスンでは新人足切りの点数が900点なんですよ。
2つ目の教養ですが、これは、正しい読書、アート・スポーツ、深い経験の3つの要素によって精錬していくべきですね。
3つ目の美意識ですが、チームラボ代表取締役である猪子俊之さんは「すべてのビジネスはアートになる」と言っています。私は、知識や論理的思考だけではエリートの間では差がつかないと思います。差がつくのは、知識や論理よりも、勘やセンスだと思います。だから自分のセンスや美意識を磨くのはとても重要なことです。こればっかりは勉強で身につけるのは難しいです。映画、絵画、茶道、旅行、などさまざまな活動を通じて、多様な経験を積んでおくことが大切です。
4つめの自立心についてですが、これを養うにはまず親離れをすべきです。特に一人暮らしの経験がすごく重要だと思います。しかし、慶応や早稲田の現状を見ていると、完全に関東のローカル大学化しています。自宅から通う学生が多く、一人暮らしをしている学生が少ないように感じます。そして、親離れと同時に、日本離れも意識して行っていくべきです。海外でたくさん経験を積み、日本でなくても生きていけるような経験値や忍耐力を身につけるのです。この親離れと日本離れが両立して、初めて自立心を身につけることができると思います。
最後の人間力についてです。以前私は、男は、貧困、戦争、恋愛の3つを多く経験して成熟した大人になれると聞いたことがあります。学生のうちは、勉学ばかりに励むのではなく、たくさん恋愛すべきだと思います。その過程で失恋などを経験することで、人間は成長することができると思います。
作家の小林秀雄が残した言葉「女は俺の成熟する場所だった。書物に傍点をほどこしてはこの世を理解して行こうとした俺の小癪な夢を一挙に破ってくれた」からも分かるように、学生のうちは、勉学ばかりに励むのではなく、たくさん恋愛をすべきだと思います。その過程で、失恋などを経験することで、人間は成長することができると思います。

古典は教養を養う際の最良の教材

正しい読書というお話がありましたが、教養を身に着けるのに読むと良いジャンルはありますか。
アメリカの学生が寮で古典について議論を行うのは、豊かな教養・リベラルアーツを獲得することに主眼が置かれているからです。教養を養う際の最良の教材と言える古典や、歴史ものをたくさん読むのが良いと思います。古典では特にアリストテレスやルソー、カントなどがお勧めですね。古典、歴史を読むメリットは、①本質をつかめる ②総合的に考えられる ③効率が良い の3点です。今、日本では年間に約79,000冊の新刊が発売されていますが、その中にはハズレのものも多く、新刊を読むのは効率的だとは思いません。10冊中9冊はハズレと言ってもよいほどです。私も学生時代に、多くのビジネス書を読み漁りましたが、どれも役に立ちませんでした。出版社で働く私が言うのもなんですが(笑)。その点古典は出版されてから現代に至るまで、長きにわたりその価値が評価されてきたのですから、ハズレはほとんどありません。アメリカの学生寮には、寮生が古典を読み、それらについて議論をする場が設けられているほどです。古典を選ぶ際は、光文社文庫の古典新訳文庫をお勧めします。古典の翻訳といえば岩波文庫が有名ですが、岩波は好きではありません。わざと分かりにくくしているとしか思えません。その点光文社の古典新訳文庫はとても読みやすいです。

英語力を上げるためにはどうすればよいでしょうか。
まずは留学です。留学といっても、留学する期間や留学先の教育機関などによって多種多様なかたちがありますが、私は、高校時代で1年留学、大学で交換留学、大学院で留学、20代、30代で海外赴任。この4つを一つでも多く経験すべきだと思います。特に私は、高校時代に1年留学することをおすすめします。高校時代に留学を経験した学生は日本人の行動様式をしっかりと身につけていながら海外のことも良く知っているので非常にバランスがいいように感じます。このような学生が増えることを望みます。
あとは、TOEFL, TOEIC, BULATS(ブラッツ)などの各種試験を受けて、英語力を磨くことが大事です。しかし、必ずライティングとスピーキングが導入されている試験を受けるべきです。TOEICも今は、TOEIC SWというスピーキングとライティングの試験が導入された形式があるので、普通のTOEICは無視して、TOEFLやTOEIC SWの勉強に力を入れるべきですね。また、多少金銭的に余裕がある人には、通訳学校に通うことをお勧めします。日本人が英語を喋れるようになるためには、日本語から英語、英語から日本語への変換スピードを究極まであげることに重点を置いた方が効率的です。
最後に、米国製エリートは本当にすごいのでしょうか?
結論から言うと、すごい点もあれば、見かけ倒しな点もあり、我々は見習うべき点と、そうでない点をしっかり区別する必要があります。 
アメリカの学生と日本の学生を比べた際に感じるのは、上澄みの優秀な学生の間には、両国にそれほど差がないということです。日本の優秀な学生が、アメリカの優秀な学生と競っても、十分戦っていけるはずです。しかし、全学生の平均的な力を比べると、日本の学生はアメリカの学生に比べて大きく劣るように感じます。日本の大学は学生の平均力の底上げに努めるべきですね。
編集後記

スタンフォード大学大学院への留学のご経験をもとにした佐々木さんのお話は、将来アメリカの大学に留学を考えている私にとって非常に刺激的でした。教養を養うために古典を読むことや、TOEFLなどの英語の勉強方法など、今すぐに実行できるアドバイスがたくさんあり、1年生のうちにこのようなお話が聞けて本当に良かったです。また佐々木さんの「修行としての留学」という言葉は非常に印象に残りました。実際に留学してみて、アメリカをはじめ、世界各国のエリートから刺激を受けることはとても貴重な経験だと思います。佐々木さんが「早稲田の良いところは、留学制度の豊富さ」とおっしゃっていたように、自分も早稲田にいることの利点を活かして、留学をはじめ様々な経験を積んでいきたいと思いました。

森 雄志(政治経済学部1年)

Vol. 24「議論に謙譲の美徳は不要、知識を蓄え主張せよ」

CATEGORY : 国際機関
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ユネスコ(国際連合教育科学文化機関)
前事務局長
松浦 晃一郎

山口県出身。東京大学法学部在学中に外交官試験に合格し、外務省に入省。経済協力局長、北米局長、外務審議官、駐フランス大使などを経て、1999年、日本人そしてアジア人初のユネスコ事務局長に就任。アメリカのユネスコ復帰、無形文化遺産保護条約、文化多様性条約などの実績を収める。現在、日仏会館理事長、株式会社パソナグループ社外監査役等。

【2013年3月14日公開】

自らの国際経験から見出した「グローバル人材」になるための10か条

40年間の外交官キャリアに続き、99年からは10年間ユネスコ事務局長と、常にグローバルな第一線でご活躍されてきた松浦様ですが、ご自身のキャリアを振り返り、国際的に活躍するためにはどのようなことが必要だとお考えになりますか。
外務省勤務の40年のうち、半分は本省の経済局や経済協力局、北米局などに勤務し、残りの半分はアフリカ諸国やアメリカ、フランス、中国などの在外公館で勤務しました。その後、選挙で当選し国際社会全体のことを考えてユネスコという国際機関の事務局長として働きました。こうした半世紀に渡る自らの国際経験で見出した、世界に出て自己実現するための「グローバル人材の心得10か条」を挙げたいです。
まず1つめに、大学でただ知識を吸収するのではなく、その知識を生かして議論することです。私は、グローバル人材育成において最も重要な役割を担うのは大学教育だと考えています。国際社会に生きるには、他者と議論したり自己主張したりしなければならない時が頻繁にあります。
2つめに、日本の歴史や文化をしっかり勉強することです。海外では1人ひとりの日本人が日本の代表として見られ、日本についてなんでも知っていることが期待されるからです。サブカルチャーも人気ですが、伝統的な日本の文化も大事にしてもらいたいですね。
3つめに、常日頃から外国に関心を持ち、異文化に対し理解を深めることです。ただ、まず自国の文化を理解して、それから異文化を理解してほしいです。
4つめに、国内問題について国際的な視野で分析し、それを日本史上のみならず世界史上の位置づけでも考えることです。そして1つめでも述べましたが、自分の考えを持ち、他者と議論し、切磋琢磨していくことです。
5つめに、国際言語となっている英語で外国人とコミュニケーションや議論ができることです。
6つめに、自分がこれから主として活躍の場にしたいと考えている国や地域の言語を習得することです。国際機関で働くには2カ国語以上話せることが求められます。
7つめに、自分の専門分野をしっかり持つことです。
8つめに、専門分野を持ちつつも、色々な問題に対応できる大局観を身につける必要があり、またその上でしっかり決断を下す力があることです。
9つめに、グローバル人材がそれぞれの組織でポストが上になり、部下を持つようになったときに、彼らを牽引する指導力を持つことです。私が事務局長を務めたユネスコ事務局は150か国前後の人が働いていて、皆文化背景が違いました。そのリーダーとして、異文化に対してしっかり理解し、異文化で育った人を引っ張っていく指導力が必要でしたね。
そして最後に、心身ともに健康であることです。日常からバランスの良い食事を摂り、適当な運動をすることが望ましいでしょう。
以上の10つのうち、特に1から5が大切だと思います。

「議論する場として大学が重要な役割を果たす」とのことですが、松浦様は大学時代をどのように過ごされましたか?
東京大学入学後は、水泳部の活動に熱心に取り組んでいました。なかでも、1年生の時の駒場祭(秋)で、水泳部の男子全員で水着姿でかっぱ踊りをし、冷たいプールに飛び込むというパフォーマンスをしたのは忘れられません。勉学の方は、2年生の後半から一般教養に加えて法律の勉強が始まりました。そして2年生の12月末から外交官の試験勉強を始め、3年生の時に受験しました。まさか一発で合格すると思っていませんでしたが、受験者約700名のうち合格者17名に入ることができました。
入省後、研修員として、アメリカのペンシルベニア州にあるハヴァフォード大学に2年間留学しました。ハヴァフォード大学は小規模な大学で、私が専攻した経済を学ぶ学生はたった15人しかいませんでした。この2年間は、授業の中でも外でもアメリカ人の学生とあらゆるテーマについて議論したものです。それが私にとって、しっかり自己主張することを体で学ぶ最初の機会であったと言えます。この経験は、後の外務省でもユネスコでも大変役に立ちました。
その点、日本の大学教育は弱いなと感じるのです。日本の大学は知識を吸収することに重点を置いていて、その知識を踏まえて自分の考えを持って議論する機会が少ないので、もっと議論をする機会を与える場であってほしいです。議論する際は、日本特有の謙譲の美徳は不要ですね。

ユネスコでの忘れられない経験

1999年11月から10年間、ユネスコという世界193カ国が参加する国際機関のトップを務められました。この間最も印象的だったのはどのようなことでしょうか。

ユネスコ事務局長執務室にて

アメリカがユネスコに復帰したことです。ユネスコ事務局長に就任した際、私は5、6年でユネスコの普遍性を取り戻すという中期ビジョンを打ち立てました。ユネスコが世界的な機関として動くには、世界に大きな影響を与えるアメリカとシンガポールの復帰が必要だったのです。
アメリカは1984年12月に、当時のレーガン共和党政権がユネスコの運営に不満を持ち、脱退を決めました。ユネスコが教育、文化、科学およびコミュニケーションの分野におけるグローバルな問題について議論し、その結果を実施していくにあたって、世界第一のアメリカがメンバーに入っていないということは大きな欠陥でした。
まず、アメリカが不満を持ち脱退に至った直接の理由を検証しました。
考えられた理由として、第一は、ユネスコが冷戦中に東運営側に与しがちだったことです。その結果アメリカから「ユネスコは政治化している」と批判されました。しかし東西冷戦の終了に伴い、この関係でユネスコが批判されることはなくなりました。
第二の理由は、1980年代にユネスコが新情報秩序を打ち出したことです。これは世界の世論が欧米のマスコミに支配されがちであることから開発途上国のマスコミを強化しようというものでしたが、アメリカからすれば、新情報秩序は報道の自由に反しているように思われました。
第三の理由は、ユネスコのミス・マネジメントです。不合理な事務局本部の体制、財政規律の欠如、在外事務所の乱立については、アメリカからだけでなく他のメンバー国からも批判されていました。
こうした検証の結果、私はユネスコの政治化の回避、報道の自由の確立、マネジメント改革に重点を置くことにしました。
また、当時のブッシュ大統領やパウエル国務長官にユネスコ改革に関する手紙を送り、外務省時代に知り合ったアメリカ人の友人を通じて、アメリカのユネスコ復帰を応援してもらうように働きかけを行ないました。
そして2003年にライス大統領補佐官がイニシアティブをとって、パウエル国務長官と2人の名前で「アメリカはユネスコに復帰すべき」という意見書をブッシュ大統領に提出し、大統領がそれを受け入れたという情報が入りました。実際、ブッシュ大統領の決定により、アメリカのユネスコ復帰が決まったのです。復帰するタイミングは2003年10月1日でしたが、ユネスコ総会が9月29日から始まることになっていたため、そのユネスコ総会初日にアメリカのユネスコ復帰の式典を行いました。この時が一番嬉しかったです。
大学生に向けてメッセージをお願いします。
現代の日本の国民生活は豊かで便利ですが、日本全体の経済は良い状況にあるとは言えません。そして、この状況はいずれ個々の生活にも影響するでしょう。また、今後も国際化が進み、経済的にも文化的にも、さらに他国との結びつきが深くなっていくと思います。日本企業内でも国際的な部署があったり外国人社員がいたりします。もはや日本国内だけを考えて仕事したり生活したりできる時代ではなくなりつつあり、日本は国際的に孤立して存立・繁栄し得ないのです。こうして日本が国際社会に緊密に組み入れられていく中で、私たちは世界的な視野を持って国際社会で生きていかなければならないのですが、最近の日本の若者は内向き志向であると聞きます。私はこの状況を心配しています。ぜひ、一人ひとりが国際的な感覚を養い、個々の生活、そして日本全体を良くするために、頑張ってもらいたいです。
編集後記

国際舞台の第一線で活躍された「国際人」の先駆者であり、まさに「グローバル人材」である松浦様。お会いする前は、勢いや強さにあふれている方かと想像していましたが、実際は穏やかな雰囲気で優しく語りかけてくださいました。50年間走り続けてこられたご経験や、日本の若者に対する期待や激励のお言葉から、内側に秘めたる情熱を感じました。ご経験に裏打ちされた言葉をかみしめ、私もがんばっていきたいと思います。

高橋 亜友子(文学部4年)

Vol. 23 「チャンスが巡ってきたときに8割がたReadyでいること。そのための準備と勉強を」

CATEGORY : 民間企業
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G&S Global Advisors Inc.
代表取締役社長
橘 フクシマ 咲江

清泉女子大学文学部英文科卒業。ハーバード大学大学院教育学修士課程、スタンフォード大学大学院経営修士課程修了。べイン&カンパニーを経て、1991年から2010年までコーン・フェリー・インターナショナルで人財コンサルタント。その間、日本支社の社長、会長を務め、1995年から2007年まで米国本社取締役を兼務。2010年G&S Global Advisors Inc.を設立し代表取締役社長に就任。人財のグローバル競争力強化、企業のガバナンスに関するコンサルティングを行う。大手企業各社の社外取締役を歴任。2011年より経済同友会副代表幹事。人財・キャリア開発に関する執筆・講演多数。

【2013年2月25日公開】

今のキャリアはタイミングの良さと人との出会いがあったから

学生時代はどんなキャリアを思い描いていましたか?
実はあまりキャリア志向はなく、1,2年働いたら、結婚して家庭をもつであろうと思っていました。清泉女子大学に入学したのには、高校生の頃の先生がやんちゃだった私を見て、「清泉なら良いお嬢さんになれますよ」と薦めてくださったことも影響しました。
清泉には学生によって運営される自治会「学生会」があり、そこの外渉担当役員の選挙に立候補し、選ばれました。男女共学であれば男性がこうした役割をしたと思いますが、女子大は必然的に女性がリーダーシップを取る環境でした。その点は今の自分に少なからず影響を与えていると思います。
ターニングポイントはいつですか?
大学3年生で、日米学生会議に参加したときですね。日米学生会議とは、1934年から続いている歴史のある会議で、アメリカの学生約20人対日本の学生約20人で、政治・経済等のテーマについて議論するものです。毎年アメリカと日本で交互に開催されていて、私は1970年の夏にアメリカに行きました。生のアメリカを見て、自己表現の仕方の違いを体感するなどたくさんの刺激を受け、価値観が変化しました。特に当時はヒッピーの盛んなカウンターカルチャー(*)の時代でしたから、実に自由な雰囲気でした。
また、そこで今の夫である、グレン・S・フクシマに出会いました。夫は当時スタンフォードの学部学生。卒業とほぼ同時に23歳で結婚しました。夫は、「女性の能力を活用しないのは勿体ないので、仕事をしないことは考えられない、主婦などありえない」というような、女性が働くことに積極的な考えを持っていました。またいずれ学者になると言って、アメリカの大学院に行こうとしていたこともあり、経済的にも私が稼ぐ必要がありました。しかし、英語もできない、仕事の経験もない。そんな人間にアメリカで何ができるだろうと考えました。
そこで偶然、当時働いていた会社に来られたある大学の先生から「日本語を教えたらどうですか」とアドバイスをいただき、ICU(国際基督教大学)の大学院で日本語教育を学びました。そのプログラムの修了時に指導教官の先生に挨拶に伺い、夫がハーバード大学に行くことをご報告すると、「ハーバード大学で教えている教え子から今朝連絡があって、ハーバードで教えられる日本語の先生を紹介して欲しいということだけど、あなた行く?」と推薦していただけたのです。


*既存の文化や体制を否定し、それに敵対する文化。1960年代のアメリカで、最も盛り上がりをみせた。
すごいタイミングのよさですね。
そうなんです。そうして9月からハーバードで教え始めました。講師を始めたばかりの頃は、夫いわく、「世の中に私以上に不幸な人はいない」という顔をして歩いていたらしいです。自信がなかったし、楽しいと感じる余裕もなかった。
1年目が終了した時に学生が高い評価をしてくれたので、初めて少し自信が出て、教えることが楽しくなってきました。数年すると、これが天職だと思うようになりました。夫は学者になる予定で、大学教授の終身雇用の資格であるテニュアが取れるまでは、アメリカの各地の大学を州立大学も含め回ることが予測されましたので、私も州立大学で日本語講師として教えられるようにアメリカの大学の修士を取ろうと大学院に入りました。その間は、ハーバード大学が提供していた夜のエクステンション・コースで教えました。その学生が、一年目が終了した段階で継続して受講したいと大学に申請してくれて、初級、中級と同じ学生を教えるコースが毎年更新され、大学院卒業後、教壇に戻ってからも継続し、合計で4年ほど教えました。

「やってみなきゃわからないよ」― いつも背中を押してくれた

なぜコンサルティングの世界に入ったのですか?
当時は日本の経済成長が注目され、アメリカでも日本企業を脅威として意識し始めていました。そこで「ビジネスを全然知らないけど日本に詳しい人」と、「日本を全然知らないけれどビジネスには詳しいMBAのメインストリームのコンサルタント」を一緒に働かせ、お互いに学び合うようにしようというユニークなコンサルティング会社にヘッドハンティングされたのがきっかけです。6年も教えた日本語教育が天職だと思っていましたので、今までの投資を全て捨てることを決断するのにはだいぶ勇気が要りました。そのときに夫の「やってみなければわからないじゃない。咲江ならできるよ」という言葉に後押しされました。日本語教育の経験は全て捨てたつもりでしたが、意外にも、日本語教育で培った「説明する」ことはコンサルティングにも生かすことができ、無駄な経験はないと痛感しました。
コンサルティングは学ぶことも多く、大変楽しかったのですが、ビジネスの経験がないので全体像がつかめない。どうやったら一番短期間でビジネスのフレームワークを学べるか考えた時にMBAしかないと思ったんです。その時ちょうど夫がフルブライト奨学金をもらって東大で研究することになったので、一緒に日本に戻ることになったのですが、英語を忘れないように帰国してすぐにサイマルの同時通訳のコースで勉強を続けました。 2年後にアメリカに戻り、スタンフォードでMBAを取得しました。
その後勤められたコーン・フェリーではどうして入社4年で取締役になられたのですか?
ベイン・アンド・カンパニーを経て、1991年にコーン・フェリーに入社しました。2年半でパートナーに昇格したのですが、ある日突然、コーン・フェリーの創業者でありCEOでもあるリチャード・フェリーから電話があって、「君の名前が(取締役を決める候補の)トップ10に入っている。選ばれたら引き受けてくれる?」と言われたんです。まだ入って4年だったので会社のことは何も分からない。当然「できません」と言いました。が、リチャードはまたここで「君は自分が思っている以上にreadyだと思うよ」と言ってくれて。全然readyじゃなかったんですけどね。夫に相談したら、夫も「やったらいいじゃない。日本人でアメリカ企業の本社の取締役はなかなかできないと思うから、すごく貴重な経験じゃないの。やってみなきゃわからないよ」と背中を押してくれました。そして95年に選挙で選ばれて就任し、12年間務めました。当時はアジアで一番の売り上げを挙げていたことと、あまり政治的なことを考えずにパートナーミーティング等で発言していたことで選ばれたのだと思いますが、自分自身が引き受けようと決心したのは、業績を重視する会社だったことと、リチャードのような良いメンターに恵まれたことが大きかったと思います。当時はできるという自信がなかったので、本当によく働きました。
大学入学前のビジョンと結婚後の実際の生活にギャップがありますが、戸惑いは感じなかったのですか?
あまり感じませんでした。結婚したのが、23歳で大学卒業したばかりで若かったというのもあり、夫とは二人で一緒に成長してきたという感じでしたね。夫はアメリカ人ですが、日系3世で母親は日本人、日常生活では日本語を使っていました。一度私が「うそー!」と言うのを、夫が“liar”と言われたと思ってケンカになったことはありましたが(笑)
夫に対してとても感謝しているのは、いつも「新しいことにチャレンジしなさい」と言って励ましてくれたことです。それまでは当時のふつうの日本人女性と同様に、自分が前に出ないで夫のキャリアを支えるという価値観を持っていましたが、「やってみなきゃわからないじゃない」と言って、常に背中を押してくれ、私が取締役になったときは自分のことのように喜んでくれました。また、夫は自分の仕事で作ったネットワークを私にも紹介して、様々な会合に一緒に行こうと誘ってくれました。そうして私をミセス・フクシマではなく、咲江・フクシマとしてみていただけるようにポジショニングしてくれたんです。だから、戸惑いを感じることはあまりなかったです。本当に感謝しています。

いつも、8割がた“Ready”でいること

グローバル人材とはなんですか?

私は漢字で書く時、「人材」ではなく、「人財」の方を使っています。 10年以上前にその言葉を使い始めた当初は、みな「何それ?」といった感じでしたが、だいぶ浸透してきたことをうれしく思います。どのようなグローバル人財が今求められているのかというと、大きく3つ挙げられると思います。
1つ目は、「グローバルに国境を越えて活躍できる」ということ。体が国境を越えるということではなく、日本は島国だからこそ、常にグローバルを意識したマインド・セットを持って、ビジネスをする必要があるという意味です。
2つ目は、「特定の組織に属さない汎用性のある高いプロフェッショナルスキルをもった起業家的人財である」ということ。日本は起業家のようにインフラがないところから仕事を始めた経験のある人が少ないんですね。特定の組織のなかで仕事ができても、その人のスキルが特定の組織インフラに属したものであり、そこから移ると活躍できないケースが時々ありました。包丁1本でどこの料理屋さんでも通用する板前屋さんのような、汎用性の高いプロフェッショナルスキルが必要です。
3つ目は、「変革のための創造的問題解決を持った人財」であるということ。誰にも頼れないところで想定外の問題が起きたときに、自分の英知、経験をもとに一から考えて創造的に問題を解決することが、非常に重要な要件になっています。
こうした要件を全部満たす人は、日本では少ないということを日本以外の国のクライアントに理解してもらうのは大変でした。「1億も人口がいるのに、こういう条件を満たす人がいないんですか?」とよく言われました。

いま特に日本人に必要な資質は何ですか?
一つだけ挙げるとすれば「多様性に対応する能力」、つまりは、様々な価値観を持った人や、想定外の出来事に対応し、問題解決ができる力のことです。そのためには、「危機管理能力」、「コミュニケーション能力」、「創造的問題解決能力」が不可欠です。コミュニケーション能力と言っても、傾聴力だけでなく「説得力」が重要です。日本では聞くことの重要性は強調されますが、積極的に相手に分かってもらい、説得するという努力をあまりしません。たとえば、ビジネスを成功させたにもかかわらず、「いやぁ、部下がやってくれまして…」と謙虚に話す人が多いのですが、具体的にどのように指示を出し、ビジネスを進めたのかということをきちんと説明しなければ、相手にはわかってもらえません。自分がどう「二つのジリツ(自立・自律)」して対応したのかということを、きちんと説明できることが重要ですね。
グローバル人財に求められる「性格」としては、「ダイナミック且つエネルギッシュでカリスマ性があり、創造的で柔軟で敏捷性があり、前向きで積極的にリスクを取り、なおかつインテグリティが高い」、といったことが挙げられますが、外に出るエネルギッシュでカリスマ性があるダイナミズムはむしろ欧米的と言ってもよいと思います。性格はかなり国民性がありますので、ダイナミズムも内に秘めた日本的ダイナミズムもあります。日本人はまじめで礼儀正しく忍耐力があり、慎重でリスクを回避するといった性格があります。インテグリティの高さはとても高く評価されていますが、これらのすべて要件を満たすのは難しいかもしれません。

どうすればフクシマさんのようにチャンスを掴むことができるのでしょうか?
何かチャンスがきたときに常に自分が8割がたReadyでいることだと思います。Readyの状態にするには、まず準備、勉強をたくさんすることですね。たとえば、ミーティングに行く前には必ず議論する書類に目を通すようにする。会社の数字については押さえておく。「それって何ですか?」と聞かなくて済むようにすることで短期間でもついていけるようになります。シミュレーションもよく勧めています。たとえば自分が会社の上司だと想定し、部下に何をして欲しいかを考えます。ちょっとデータ入力作業を頼まれたときに、そのデータを上司がどのように使うのかを考えるだけで、ちょっとした工夫もできるし間違いも少なくなります。そのためには「作業」でなく、その作業の目的を把握した「仕事」をすることが大切です。そして、いろんなチャンスが巡ってくることを想定しながら仕事をすることが大事なのです。
大学生、特に自分のやりたいことがなにかわからない学生に対してメッセージをお願いします。
まず、焦らない方がいいですよ。何に向いているかはやってみなければわからないし、天職は天から降ってこないです。人が与えてくれるものではないので、自分でやってみること、そして一定期間は続けることで分かってきます。そして、一生懸命やることが大事です。私自身、サーチをやっているときは24時間体制で働き、サーチが天職だと思いましたし、日本語を教えているときも同様な働き方で、教育が天職だと思っていました。
「多様性対応能力」を身に付けるには、大学生のうちに、ぜひ外に出て、多様な文化や人や考え方に触れて頂きたいと思います。たとえば、日本国内でも留学生と多様な接点をもつことで経験できます。アメリカ人であるとか、中国人であるとかいうことは最初は意識するかもしれませんが、性別や国籍はその人の一個性であるとして考えると、お付き合いがしやすいですね。
大学を卒業すると、みなさん仕事を始めると思いますが、初めから自分が考えたような楽しさのある仕事はないものだと思っていてください。初めの3,4年は、ワークライフバランス等を考えず、たくさん働いて、自分の可能性、能力を広げておくのがよいと思います。

ご講演中のフクシマさん

私自身も、土日通して働いていましたし、みんなそうだったので特に何も思いませんでした。ゆっくりした仕事に慣れた人だとキャパが広がらず、スピード感に差がついてしまうものです。だから、若いうちはあまり自分を甘やかさないようにしたほうが、後の仕事が楽になり、ワークライフバランスが必要な頃には、短い時間で同じ成果が出せるようになると思います。また、会社は学校とは違い給料をもらって貢献する場ですから、「会社が育ててくれる」という考えは捨て、自己研鑽は自分ですべきです。そのために会社のプログラムは積極的に利用することは可能です。もちろんその間は、その会社に貢献しないといけませんよ。会社が機会を与えてくれることには感謝し、自分から育とうという姿勢でいましょう。常に「会社がしてくれない」と言っているより、前向きに自己研鑽をする人の方が成長は早いです。

編集後記

やわらかな雰囲気をもちつつ、エネルギッシュなフクシマさん。ずっとお話ししていたいと感じる魅力的な方でした。お話を伺って驚いたのは、大学入学時には今のような生活は考えていなかったということ。フクシマさんの場合、きっかけはアメリカでの日米学生会議でした。私自身昨年イギリスに留学し、キャリアについての考え方が変化したことも考えると、海外に行くことは、重要なきっかけづくりのひとつなのだと思います。しかし、本当にグローバルに活躍できる人になるにはもちろんそれだけでは足らない。地道な勉強の積み重ねと、今自分に何が必要か考えそれを達成していく実行力が大切だと感じました。自分の専門を極めつついろんなことに挑戦し、チャンスを掴みとっていきたいです。

白井 優美(先進理工学部3年)

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