Vol. 21 「大切にすべきは『フェア・コンペティション』。自分の長所や才能を知り、それで闘い、周りに認められてこそ国際人」

CATEGORY : その他

社会的企業 ユニカセ・コーポレーション
ゼネラルマネージャー
中村 八千代

1969年東京生まれ。明治大学商学部を卒業後、カナダ留学。帰国後は、家業の一般酒販店代表取締役として10年間奔走する。児童福祉施設でのボランティアをきっかけに、2002年からNGOや国際協力の世界へ。2006年に初めて訪れたフィリピンで青少年の雇用機会創出の必要性を感じ、2010年社会的企業「ユニカセ・コーポレーション」を設立。

【2012年11月14日公開】

全部で勝とうとはせず、得意分野に早く気づいて伸ばしていく

どんな学生時代を過ごされましたか?
  明治大学短期大学に入学しましたが、明治大学への編入を考えていたので1年生の後半くらいからは試験の準備をしなければいけませんでした。父親のことをすごく尊敬していたので、「ああいう人材を育てた明治大学商学部に絶対入学したい」と思っていました。27歳の若さでスーパーマーケットを築いて、数年後には全国で400位以内に入るくらいのスーパーにした父が、私にとってはすごく自慢の父親だったんです。あとは、私が19歳のときに母が余命3ヶ月と宣告されて、「できることなら、お父さんと同じ大学に行ってほしい」と言って亡くなっていったので、そんな母の願いを叶えたいと思いました。明治大学で過ごした2年間というのは、今の自分の基盤をつくった大切な時間でしたね。マーケティングとの出会いが、私の人生を変えた気がします。
明治大学卒業後は、ご就職されたのですか?

カナダ留学時代の友人を再訪

  いえいえ。卒業式の翌日にカナダに飛んで、小学生の頃からの夢だった留学をしました。父親を尊敬していた反面、負けん気の強い子だったので「勝ちたい」という気持ちがあったんです。なんでもできるイメージの父親ができないことはなんだろう?と、子どもながらに考えたんですよね。それで、「あ!英語ができない」って(笑)。
  アルバータ州立大学でESL (English as a Second Language)プログラムを受けたのですが、数ヶ月目くらいから「このまま帰っても、仕事に使える英語じゃない」ということに気づきました。一年留学期間を延長して、「アルバータ州立大学よりも就職率のいい専門学校がある」と薦められた学校に入学したのですが、これがものすごく厳しくて・・・。プロの方にインタビューをしたり、クラス全員の前でプレゼンしたりという実践的な授業では、英語が母語でない留学生の私は最初から不利な立場にありました。当時、他に日本人はいませんでしたし、カナダ人の学生でもどんどん脱落していく学校だったんですよ。それについていくというのは至難の業でした。全科目で勝とうとすると、やっぱり難しいんですよね。だけど、準備をすればするだけ結果が出るし、しなければ玉砕しますから、まずは全体を見渡して、「ここは得意だな」というのを一分でも一秒でも早く見抜いて、そこで追いついていく。そんな場数を踏ませていただいたのは、カナダでしたね。
ちなみに、中村さんの得意分野は何でしたか?
  やはり、日本人が得意とする分野は数字を使うものなのでしょうね。私が優先した科目のなかでも、“Business Statistics”(統計学)はクラスで一番の成績でした。また“Business Communication”のクラスでは、ユニークな質問やプレゼンの内容が良いと、こちらも好成績をいただきました。

人を裏切るのは人だけど、助けてくれるのも人。真剣に生きていれば、誰かがどこかで見ていてくれる

2年ぶりに日本に帰国されてからは、どのような進路を選ばれたのでしょうか? カナダで学んだことは活かされましたか?
  「世界を駆け回って、日本にないものを買い付けたい」と、貿易会社に就職しようと考えて帰国しました。ところが、私がカナダにいる間に、父親が何十億円という借金を作ってしまっていたんです。私は、知らぬ間にその借金の一部の連帯保証人になっていました。なんとかしなくちゃということで、母の死後に私が引き継いで、実際は父や父の部下がまわしていた「中村商店」という会社の経営に、私が本格的に関わり始めることにしました。当時の中村商店は、4,000品目を扱う大きな酒屋でした。もちろん最初は何もわからなくて、泣きながら必死にお店をまわしましたよ。1~2ヶ月経った頃にだんだん動きがわかってきて、口座にも少しずつお金が入ってきたなという印象を受けました。半年ほどして、父親に「5,000万円貸してほしい」と言われて、悩んだ末に貸しちゃったんですよね。そうしたら父親の会社が1ヶ月後に倒産して、私の会社のお金は返ってこなくなってしまって。その上、父の会社は200社以上の問屋さんやメーカーさんとお付き合いがあったため、これだけ借金を膨らませてしまった以上、危険を伴う可能性があるということで、父と妹と親子3人で着の身着のままで夜逃げしました。でも、中村商店は店長にお願いしていたものの、やはり心配でした。結局、父親は1ヶ月隠れたのですが、私は刺されたり、誘拐されたり、脅されたりするのを覚悟で、夜逃げした1週間後にお店に戻りました。
その後の生活は、いかがでしたか?
  夜逃げのあと、父が迷惑をかけた謝罪をするため銀行に挨拶に行ったら、支店長室に連れていかれました。「あなた、のほほんとしていられないんだよ。あなたにも借金があるの知らないの?」と言われて、「借金ってなんですか?」って・・・。なんと、中村商店まで4億円の借金があったんです。ただ4億という額は大きすぎて、ぜんぜん実感がわかなかったですね。「ゼロ何個なんだろう・・・?」みたいな(笑)。返済プランを組んだら、毎月120万円返済の80年ローンでした。「100数歳まで、120万ずつのローンを払い続けるんだ、私・・・。死ぬまでやろう」って覚悟を決めましたね。
  そのときも、父親のことを恨むとかそういう気持ちはなくて、「なくなっちゃったものは仕方ないから、一緒にがんばって返していこうよ」みたいな気分でした。毎日朝6時に家を出て、車で片道2時間かけてお店に通って、夜中2~3時まで事務処理をして、帰宅して仮眠してお店に戻る・・・という生活が続きました。それに、お財布のなかにはだいたい80円くらいしかないんですよ。当時、中村商店には14人の従業員がいたのですが、「どんなに苦しくても、この人たちを騙したり傷つけちゃいけない」というのが私の信念でした。「なにか担保はないですかね?」という問屋さんには、「私の身体ひとつです」って言いましたね。いざとなったら、売春でもなんでもやろうという覚悟で。そうしたら、「そこまで言うんだったら支払いを待つ」と言ってくれて。いろいろな幸運も重なって、借金は10年かけて、私が36歳のときに一部を免除され、返済終了することができました。
たくさんの借金を背負わされてしまったのに、お父様を恨む気持ちはなかったということには本当に驚きます。最後まで「一緒にがんばって返していこう」と考えられていたのですか?
  いえ。実は、借金の保証人にされていたことが発覚したあとに、有志の方々が3,000万円用意してくれて、それをどう分割するかという話になったんですね。私は、まだ残っていた8~9ヵ所の子会社に少しずつ分配して、資金繰りに役立ててもらうべきだと提案しました。だけど当時、父が所有していたどのスーパーよりも売り上げを伸ばしていたのがパチンコ店だったんです。ただ問題は、当時、そのパチンコ店が区画整理のため、1年間ほど休眠していたことで。「休眠して来年まで売上のないパチンコ店を取るか、私との親子の縁を取るか、どちらかにして」と訊いたら、父は「夢を追いかけたい」と言ったんです。3,000万円をパチンコ店のみにつぎ込みたいと。あの一言で、もう怒り爆発ですよね。「もう、あなたとは一生縁を切らせていただきます」って。私の人生をめちゃくちゃにして、どうにかしてそれは受け入れたのに。まだ一生懸命がんばっているいくつかの子会社の従業員さんたちを見殺しにしてまで、自分の夢を追いたいという気持ちは、私には一生かけても理解できないと思いました。結局、私が経営していた酒屋以外、グループ会社ではパチンコ店は再起不可能になりましたし、それ以外の父の会社も全部つぶれました。その後父は謝罪してくれ、今では私も許しているんですけどね。
本当に大変な10年間でしたね。
  はい、すべてを諦めましたね。夢はもちろん、フィアンセもいましたけど、結婚も諦めました。でも私、若い頃は「私が世界を回してる」みたいな勢いの、根拠のない勘違い女でしたからね(笑)。謙虚にならなきゃいけないなと、すごく学びました。実際、自分の力だけでは借金の返済だってできませんでした。当時のことを思い浮かべると、本気で私を支えてくれた人全員の顔が思い浮かびますからね。真剣に生きていれば、誰かが見てくれているんだということが励みになりました。実は私、はじめの頃は誰にも相談できなかったんですよ。「こんなに借金抱えちゃって、どうしよう。恥ずかしい。死んじゃったほうが楽だ・・・」って、寝ても覚めても、夢のなかでまでそういうことばかり考えていて。でも、自殺を図ろうとしたときに、虫の知らせで飛んできてくれた友人たちがいたんです。夜中もずっと傍にいてくれて、「こんな友達がいる以上、死んだらいけない」と思いました。私を裏切ったのも人でしたけど、助けてくれたのも人でした。

親や社会に裏切られた子どもたち

一般酒販店の代表取締役だった中村さんが、NGOの世界に入られたのはどうしてですか?
  お金、お金で疲れ切ってしまっていた30代初めの頃、児童福祉施設の子どもたちに会う機会があったんです。私にも「父親に裏切られた」とか、「母親がいたらなぁ」という、どこか被害者意識みたいなものはありましたけど、少なくとも20歳までは母がいてくれた。「幼少時代から親に見捨てられてしまった子どもたちは、どういう心境なんだろう?」と、寄り添いたい気持ちが生まれてきて、その施設に通い始めました。親や社会の犠牲になっている子どもたちが、どうしても他人に思えないんですよ。その後、ある国際医療援助団体とご縁があって、2002年にNGO職員になりました。
今はこうしてフィリピンに住まれているわけですが、この国との出会いもNGOがきっかけですか?
  はい。2006年、NGO職員として初めて訪れました。国際医療援助団体で働いていた3年弱の間も、借金の返済は続いていたんです。負債者は長期で海外に行けないので、返済が終了して、紙に「0」って書いてあるのを見たときは、「これが自由なの?」と思いましたね。「私、海外で仕事できるんだ!」って。ちょうどその頃、国際医療援助団体の元同僚たちが、独立して別のNGOを運営していました。新宿駅で「〇〇さん、借金の返済終わったよ!」と電話したら、「ちょうどフィリピンのポストに空きがあるんだけど、行かない?」って訊かれて、ふたつ返事で「行く!」って答えましたよ。海外に飛び出したくてしようがない10年間のウズウズした気持ちがあったので、正直なところ「どこでもよかった」という感じでした。借金返済終了後、5分のうちに次のミッションが決まっちゃったというか(笑)。
もともと特別な思い入れがあったというわけではなさそうですね。そんなフィリピンの第一印象はいかがでしたか?
  フィリピンに来てからも波乱万丈は“to be continued”状態で・・・。2006年の7月に赴任してきて、一週間後には関係者の男の子が射殺されたんです。私が働いていたNGOの元裨益者で、21歳でした。スーパーマーケットでケチャップかなにかを万引きして、逃げようとしたところを警備員に射殺されたんです。「現場っていうのは、こういうものか」と思いました。もっと衝撃的だったのは、その子のご両親に連絡したところ、「葬儀場に行くお金がないから、葬儀には出られない」と言われたことです。「息子の葬儀に出るために、100円すら出せないの?」って、それがものすごくショックでした。その子の死を無駄にしないために、いわゆる“Children at Risk”(※)をひとりでも減らせるような何かがしたいという、決心につながった事件でした。
  ※路上生活を余儀なくされているストリートチルドレンや、人身売買にあったり、虐待を受けたり、育児放棄されている子どもたち、または貧困層出身ゆえに学校に通えない子どもたちなど、全てを総称し、危険にさらされた子どもたち。

”Children at Risk”を減らすというのは、とても大きなゴールですね。具体的にはどのようにお考えですか?
  もちろん、ストリートチルドレンの数を減らすなんていうことは、今の私にはできません。でも、せめて自分が出会った子どもたちには、自立して仕事を持ってもらいたいと思うんです。そして将来彼らに子どもができたとして、そのときお給料をもらっていたら、自分の子どもには食べさせてあげることもできるし、学校にも通わせてあげられるし、学校に通えばいい会社に勤められる可能性も高まる。そういう、20年越し、30年越しのプロジェクトです。大規模で動くためには、NGOのやっていることは今もこれからも大事です。だけど、問題点や限界もあると思います。たとえば奨学金プログラムで何十何百という子どもを学校に通わせてあげても、卒業後のフォローアップがしきれていないケースを私はたくさん見てきました。投資して、教育支援を行っていることを無駄にしないために、裨益者だった子どもたちが青少年に成長した段階で自立する方法を導いてあげる。どうやって仕事をしたらいいのか、どうやって責任を取ったらいいのかということを学べる場を作る必要があると思います。ひとりかふたりかもしれないのですが、せめて私が関わったなかで真剣に働きたいって思っている子には、それを叶えさせてあげたいと思いますね。
中村さんが起業された社会的企業「ユニカセ・コーポレーション」について教えてください。

ユニカセのフィリピン人青少年と中村さん

  2年ほどの準備期間を経て、2010年からロハス(Lifestyle Of Health And Sustainability)にこだわった健康食レストラン「ユニカセ・レストラン」を運営しています。NGOのボランティア・スピリットを引き継ぎながらも、ここで働く青少年たち自らが利益を追求するための方法を探っていく。でも一般企業とも違っていて、単なる利益追求で「こいつは使えないからクビにする!」とか、そういうことは避けたいなと考えています。私以外の有給スタッフは、みんなNGOから紹介されてきた青少年たちなので、過去はそれなりに苦労した子たちばかりです。元ストリートチルドレンの子たちも何人かいるのですが、路上にいた頃、空腹を避けるためにシンナーを吸っていたりするんですよね。シンナーは脳細胞をダメにしていくので、忘れっぽい子が多いんです。言ったことを守らなかったり、すぐに忘れちゃったり。そういう子を解雇しようか迷ったことがあって、結局そのときにどうしたかというと「あなたの仕事では、もうお給料は払えない。でも、もう少し働いて学びたいならそうしていいよ。『これならお給料払ってもいいな』っていうレベルまで達したら、またあげるから」って。そういうふうに対応しました。

自信は自分でつけていく。それが国際社会で生き残る術となる

これまでフィリピンの青少年のお話を伺ってきましたが、中村さんには今の日本の若者はどのように映っていますか?
  30人以上の日本人インターンたちと関わってきましたが、まず最初にいえるのは「素直で純粋な子たちだなぁ」ということです。わざわざお金を使ってまで、人の役に立つことをしようと国境を越えて来るくらいですからね。反面、国際社会で生き抜いていくためには、もっと前に出ていく姿勢が必要だと思います。しっかり準備して、スキルを使って、「私にしかできないんです」というのを証明していかない限り、相手は認めてくれないのが国際社会。国際人たちは、目の前のチャンスをがつっと掴み取っていきますから。でもね、ユニカセのインターンや青少年たちには、「誰かを引きずり落としてまで、自分がのし上がるのは勝負じゃない。『フェア・コンペティション』を意識しなさい」と言っているんです。自分の長所や才能に早く気づいて、それをガンガン活かして仕事に結び付けていく。そうすれば、必然的に周りが認めてくれて、尊敬してくれるようになるし、仕事もまわってくるようになる。そういう仕事の仕方をしてほしいとよく言っています。
中村さんが考える「グローバル人材」「国際人」というのは、ずばりどういう人ですか?
  自信のある人ですかね。どんなに小さくてもいいから「これは、がんばったな」というものをいくつも作っていくことによって、自信はだんだんついてくるもの。自信さえあれば、「どこでも生きていける」と感じることができるから、それが国際社会で生き残っていく術じゃないかと思います。自分を信じていなければ、国際社会なんかに出たらもうアウトですよね。日本人は必要以上に謙虚だから、“I cannot do anything.”とか言っちゃうかもしれませんけど、そんなこと言ったらもう「じゃ、帰りなさい」ってね(笑)。実際は8割くらいしかできなくても、「できます」って言わないとダメなんですよね。それで、やっている過程のなかで本当にできるようにしていく。「口からちょっとでまかせ言っちゃったけど、言ったからにはやるんだ!」ってね、そうやって生き残っていくしかない、国際社会は。
最後に、これから中村さんが目指す先について教えてください。

記念すべき「ユニカセ・レストラン」オープン日に

  もしかすると、ユニカセ・レストランはなくなってしまう可能性もありますよね。カタチあるものはみんな壊れるので。だから、レストランにこだわるのではなくて、「ユニカセ・スピリット」を一生継続させていきたいです。つまり「“Children at Risk”が、10年後、ひとりでも減っている社会・世界をつくる」というユニカセのビジョンです。ユニカセで働いている青少年たちに関しては、「私がこの子たちの人生を抱えているんだ!」っていう責任は、すごく感じます。私はいつも、「明日死んじゃうかもしれないから、今日を一生懸命生きよう」と自分に言い聞かせているんです。死ぬ5秒前に、「あぁいい人生だったな」って思うために、今を生きているので。そういう意味では、私が明日死んでしまったとしても、ここに関わった子たちがユニカセを守っていってくれるような指導の仕方をしたいなと思っています。でも、現実はそう簡単にもいかなくて、キッチンに入ってしまうと忙しくて怒鳴ってばかりいたりするんですけどね・・・(笑)。

編集後記

  3時間をも越えるロングインタビューに、終始笑顔で応えてくださった中村さん。しかし、彼女の口から飛び出してきたのは、素敵な笑顔と穏やかな雰囲気からは到底想像できないような衝撃的なお話の連続でした。私は、「グローバル人材」「国際人」と呼ばれる人に対して、生まれながらにして特別ななにかを持っていたり、エリートな人生を順風満帆に歩んできた人というイメージを抱きがちでしたが、今回のインタビューを通して、どんなに輝いて見える人にも、人知れずこぼした汗と涙があるのだということを再認識させられたように思います。むしろ、たくさんの逆境を乗り越えてこられた中村さんだからこそ、こんなにもキラキラ輝く今があるのだと確信しました。現在の中村さんを形作っているのが「フェア・コンペティション」を通して培われた「自信」なのだとしたら、私も必要以上に遠慮したり恐れたりせず、どんどん闘っていきたいと思います。そして、いつか中村さんのように、ありのままの自分の過去を笑顔で語れる素敵な女性になりたいです。

加藤真理子(アジア太平洋研究科修士2年)