Vol. 9 「好奇心を持って大きな夢を描け。追い続ければ道は必ず開ける」

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Toyotoshi-san

駐日パラグアイ共和国特命全権大使
豊歳 直之

1936年生まれ。58年早稲田大学第一政治経済学部経済学科卒業。同年大阪商船株式会社入社。60年アルゼンチンブエノスアイレスS. Tsuji SA勤務。69年パラグアイに移住。2009年までToyotoshi S.A.会長などを歴任。同年10月駐日パラグアイ共和国特命全権大使就任。

【2012年2月1日公開】

なんとかして海外に行きたいと模索していた学生時代

どのような学生時代を送られましたか。
私は早稲田大学に入って、一生懸命“優”を取ることだけに専念していた普通の学生だったんですよ。当時の日本はまだまだ裕福ではなかった時代ですからね。私も9人兄弟でしたから、お小遣い稼ぎに家庭教師や土木などのアルバイトをやりました。そのうちに、漠然と卒業後に何をやりたいかということを気にするようになりました。そんななか、外国に行って何かしたいという大きな夢はずっと持っていました。私が子供だったときに日本が戦争で負けて、アメリカの進駐軍の兵隊を見て、特にアメリカのような裕福な国に行きたいと思っていました。しかし、アメリカに行くにはビザが必要で、今のように簡単には取れません。それでも何か方法はないかと思って模索していました。そうこうしているうちに、海外に出たいという学生が何人か集まって、海外移住研究会というサークルを作ったんです。それぞれいかに海外に行くかをいつも語り合いました。今でもOBで集まって会合を開いていますよ。
南米に興味を持たれたきっかけは何ですか。
あるとき新宿の紀伊国屋書店へ立ち読みをしに行ったところ、『世界地理体系』という本がずらっと並んでいたんですね。そこから南米の国々を知りました。初めて見る国ばかりで、アメリカよりは南米のほうが行けるチャンスがあると思い、当時高かったその本を買って帰りました。パラパラと見ていたらアルゼンチンが目に入りました。アルゼンチンには技術移民としてあるいは呼び寄せの形で保証人がいれば行くことが可能ということを知って、これなら行くチャンスがあるかもしれないと思ったんです。一応英語は一生懸命勉強していましたよ。当時進駐軍は民間のところに家を借りて住んでいたのですが、近くにたまたま2軒ありました。そこで知り合った同世代の子供といつも英会話の練習をして、将来に役立てたいと思っていました。

ずっと夢見続けていた南米への渡航を実現

南米に渡航された経緯について教えてください。
港に移民船を何度か見に行ったことがあり、そのとき印象に残った大阪商船(現商船三井)を卒業後に受験しました。大阪商船に入れば南米に行けるチャンスがあると思ってどうしても入りたかったのです。無事試験に合格し、私は南米方面の船員としての海上勤務を希望していましたが、配属されたのがニューヨーク行きの船で、しかも船のオペレーション等の陸上勤務でした。すごく落胆したのを覚えています。その後本社勤務になって東京に来ました。当時は自由競争ではなく、海運同盟の中で運賃を決めていましたが、それをいくらにするかなどを決める会議に出席していました。しかし、私は早く日本を抜け出したいとばかり考えていました。ちょうど海外日系人大会というのがあって、そこにアルゼンチンから来た人がいないかを探したところ、それがいたんですよ。アルゼンチンで雑貨の輸入をしている日系の会社でした。それで呼んでくださいと2年間ずっと頼み続けましたら、そこの社長が日本に来たときになんとか私を呼び寄せてくれて、移民として話が成立しました。アルゼンチンに移住する私の夢が実現したわけです。
パラグアイのどのようなところに一番惹かれましたか。
パラグアイに入ったときは、今までと全然違う国だと感じました。話すスペイン語も少し違いましたし、人も違うんですよね。質素で親切で、最初に行ったアルゼンチンよりもずっと貧乏な国だけれども、人柄が良くてすっかり気に入りました。南米に行った後は、いろいろな商売を持ち込みました。ウルグアイでおもちゃを売り歩きましたし、チリにも行きました。電車やバス、馬車を乗り継ぎながら、アルゼンチンでも国境まで商品を売り歩きましたね。そのあとにパラグアイでホンダの商品の販売しないかと誘いを受けました。アルゼンチンは国産品の保護のために頻繁に輸入制限をしていたのに対し、パラグアイは何でも輸入が自由だったというところにも惹かれました。貿易が私の取り柄でしたので、生きていくためには輸出入が自由な国がいいと思って決心してパラグアイに船で渡りました。
単身で最初にアルゼンチンに行かれたとき、言葉には困りませんでしたか。
南米に渡るまでスペイン語は全く勉強していませんでした。そこで、船で読もうと思って『スペイン語4週間』という本を持ち込みました。ところが、船にいろいろな船客が乗ってきて、彼らと一緒にパナマやヴェネズエラなどいろいろなところで船を降りて観光をすることになりました。それが楽しくて楽しくて、その本は結局1ページも開きませんでした。だから着いたのはいいですが、スペイン語はしゃべれないんですよね。やはり商売にはならないので、とにかくスペイン語を聞いて、話している内容を想像していました。そうするとだんだんと話していることが想像から実際に分かるようになりましたね。負けず嫌いな性分で、その国の人に負けるようなスペイン語を話したり書いたりしてはいけないと当時から思っていました。

日パ両国の懸け橋としてこれからも奮闘し続ける

パラグアイ国籍の取得と、異国での大使就任に迷いはありましたか。
好奇心からやってみようという気持ちはあったけれども、やはり未知の世界で、しかも大使というのは国を代表する仕事だから迷いました。一番迷ったのはやはり日本国籍を離脱しなければならないということでしたね。感情的には非常に悩みました。しかし、私がこのようにやってこられたのは、南米、特にパラグアイ辺りが規制された社会ではなかったからなんですよね。まだまだこれから作っていく国なんです。日本だったら私が今やっていることはできなかっただろうし、アメリカに行ってもできなかったのではないかと思います。私が好きなようにやってこられたのは、やはりまだまだ自分で頭を使ったり労働力を提供したりして、一生懸命やればなんとかなるという世界がだったからではないかと思います。すごくお世話になった国でしたし、何度も要請を受けたということもあり、ひとつの恩返しと考え、大使の就任を引き受けました。
今後はどのようなところに注力していきたいですか。

非遺伝子組換の大豆

両国の間に立つのは難しい立場で、困ることもあります。しかし、日本国籍を離脱したからといって、100%パラグアイというわけにはいかないんですよね。やはり日本と、そして新しく私の国になったパラグアイが混在しているわけです。まずは将来のパラグアイの指導者になるような優秀な人間が必要だと思っています。だから、学術的に優秀で、道徳心をもった生徒を育てたいと思って、日本パラグアイ学院を創設しました。つまり、パラグアイで私が昔受けたような、学校と先生に全てを任せるという教育方針をそこで今やっています。また、震災後は、パラグアイで作った非遺伝子組換の大豆を被災地に配布してきました。これを最初に言い出したのがパラグアイの日系人の農家で、これは私たちからの日本への思いです。
編集後記

好奇心の塊だから、今大使をやっているのも好奇心からだと笑って話す豊歳さん。南米での数多くの出会いを楽しそうに話されている姿が印象的で、パラグアイへの熱い想いが何度も何度も感じられました。著書『パラグアイにかけた夢―豊歳直之・わが人生』を読みましたが、夢に向かって強い意志を持って臨み続ければ必ず成功が訪れるということを豊歳さんはご自身の経験を踏まえて教えてくれました。これから社会に出ても、自分の道は自分で切り開くんだという前向きな心構えを大事にしていきたいと思いました。

陸 欣(国際教養学部4年)