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Vol. 26 「”make”でなく”create”、無から何かを創り出すことに挑戦してほしい」

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通訳・翻訳家
戸田 奈津子

東京都出身。津田塾大学英文科卒業後、生命保険会社の秘書を経て、フリーで通訳・翻訳の仕事を始める。清水俊二氏に師事し、初の字幕翻訳作品は『野生の少年』。その後、来日時に通訳についたフランシス・F・コッポラ監督の推薦で『地獄の黙示録』(1980年日本公開)を担当。日本の映画字幕翻訳者の第一人者として認められ、1992年、第1回淀川長治賞受賞。現在までに合計約1500本の字幕翻訳を手がけ、第一線で活躍。

【2013年4月30日公開】

何かを願ったら叶うなんてそんな甘っちょろい考え方ではだめですよ

どのような学生時代を過ごされましたか?
わがままですから、嫌いなことはしない主義。部活もやったことないし、スポーツは大の苦手。今と違って娯楽のない時代でしたから、戦後の焼け野原の中の唯一の楽しみであった映画にとことんはまりました。友達に講義の代返を頼んでまで観に行くほど、映画に夢中でした。
就職活動など競争の厳しい今の学生さんと違って、当時の私は将来のことなどあまり考えないノー天気な学生でした。大学の卒業が迫り、イヤでも先を考えねばならなくなって初めて「字幕翻訳の道」を考えました。自分の好きなものの二本柱である映画と英語の両方に携われるし、映画もタダで観られそうという都合のよい理由からです。在学中は、バレエ団が来日した時に単発で通訳のアルバイトをした程度で、会話力は見事にゼロでした。
その後、翻訳のお仕事が入り始めるまでに20年の下積み時代があったと伺っています。どのようなお気持ちで過ごされていましたか?
「もしかしたら、明日チャンスが訪れるかも」という、縋る思いで日々暮らしていました。もちろん不安でしたよ。外から見たら完全に今で言う「フリーター」で、私が字幕翻訳を志しているなんて分からない。下積み時代の20年間、キャリアの「分かれ目」が何度かありました。他の仕事のオファーを頂いたということです。しかし、翻訳の道と並べてみると、どうしても字幕翻訳を選んでしまうわけです。プライベートの場で、例えば結婚という問題になっても、結局こちらを選びました。選択を迫られたとき、その都度非常に悩み、考えて結論を出したわけですが、だからと言って20年間、悲壮な思いで暗い顔をしていたわけではありません。自分が選んだ道だからという落としどころがあったからです。結局はすべて自分の気持ちの持ち方と覚悟です。

諦めずに20年間という年月をかけた末、チャンスを掴まれた戸田さんですが、「夢は願えば叶う」と思われますか?
何かを願ったら叶うなんてそんな甘っちょろい考え方ではだめですよ。そんなに生易しいものではない。「夢を抱けば叶う」という言い方は誤解を招くと思います。何かに賭けるということは、私の場合、未来への確証が「無」のものに賭けたわけですから、叶うか、叶わないかの確率は50%ずつだと考えなければなりません。叶わなかった場合をちゃんと見ておくことは不可欠。良い方だけを考えて最終的に叶わなかったら怖いでしょう? 両方考えて、それでもやりたかったら挑戦すればいい。私も叶わない確率を考えたし、誰も保証してくれない中、いくら頑張っても自分の描いた通りにならない場合もあるという不安と戦いつつ、50%のチャンスに賭けたのです。もちろんただ願っていたわけではなく、夢を掴むために自分で考え行動し、努力しました。だめだったら自分の責任、誰も責められないことを覚悟の上で。たまたま私の場合は20年経って叶いましたけれど、それはケース・バイ・ケース。一生叶わないという可能性も厳然としてあったわけです。

人間、過剰の自信を持ったら最後。自信がないから先に行けるんです

今のお仕事につながるまでにどの時点で英語力には自信がつきましたか?
今でも自信なんてないですよ。自信はある意味、危険だと思っています。自信がないから先に行ける。自信を持ってしまったら達成したと思ってモチベーションがなくなるでしょう。そこで成長は止まってしまうんです。
大きなお仕事を任された際、今でも不安やプレッシャーはつきまといますか?
常にベストは尽くしますが、100%完ぺきと思ったことはありません。この世の中、どんなことでも、必ず誰かどこかで非難する人がいます。あらゆる人を満足させることは不可能なのです。ですから周囲を気にしていたら絶対前には進めない。ベストを尽くして100%までいかなかったとすれば、それは自分の力不足。でも少なくともベストを尽くしていれば、その自覚が救いになると思います。
どういう瞬間にこのお仕事をやっていてよかったと思われますか?
やっぱり映画が好きですから、映画を観た人が「面白かった、楽しい映画だった」って言って下さるのが一番嬉しいです。映画を楽しんでもらうためにやっているのですから。字幕がいいなんて感想ではなく、ただ「ああ、楽しい映画だった。良い映画だった」と言って下されば字幕の役は果たせているわけです。

偽らないで定価どおりに見せること。自分を全てオープンにするとうまく付き合えるんです

戸田さんの学生時代に比べて今は英語に触れる機会が多くなっていますが、日本人は外国に対してオープンに、いわゆる「グローバル化」したと思われますか?

英語に遭遇する機会だけで言ったら比べ物にならないほど増えたと思います。私の子供時代は戦争中で、中学一年で初めてアルファベットを見たのよ。今は町中にアルファベットやカタカナ語が氾濫しているし、幼稚園から英語を勉強するって時代でしょう? その割に、日本人はなぜ今もってこんなに英語が苦手なんでしょうねえ。戦争が終わった70年前、「これからは英語が必要だ」と、あの時点から皆が言っていたのです。ところが70年経った今もそれは変わっていない。日本人の悲願の一つでしょうね。テクノロジーの進歩、世の中の急成長と比較してみると、日本人の英語力だけは、ほとんど横一直線です。

外国人から話しかけられると逃げて行く光景を今もよく見かけますから。一つには、島国であるがために外国人と接触する機会が少なく、外国語を苦手とするDNAが血の中に入っているのかもしれません。島国であったがために、日本人の精神、和を重んじる気風とか、独特のメンタリティーが生まれて、ユニークな環境がつくられた。だからすばらしい文化が育ったわけですが、その反面、国境線一本で隣国と接する大陸の人々と違って、外国人と接する時に「構えて」しまう。それが語学学習の妨げになっていることも原因の一つかもしれません。

では、付き合い下手な日本人でも実践できる、メンタリティーや文化の異なる外国人と接するときのコツのようなものはありますか?
人対人の付き合いは国対国のそれとは違う。国家間であれば色んな利害損益が絡み、関係が思ってもいない方向へゆがむこともありますが、人対人には共通の原理が働くと思います。つまり、自分がボールを投げたら、相手もそのボールを同じように返してくれるということです。

私は相手が誰であろうと、素のままで付き合うように心がけています。映画のスーパースターとの仕事が来ると、「あの人は気難しいらしい」とか「扱いにくい人らしい」とか、いろいろな噂を耳に吹き込まれます。最初のころはそれを信じて緊張したものですが、実際は99%がガセネタなのです。たとえばロバート・デニーロは映画では強烈なキャラクターを演じますが、ご本人はまるで違う。優しくて物静かな、付き合いやすい方です。お会いして、自分の目で見て、初めてどういう方かを判断できる。そういう例に何度も遭遇して、人と接する時は自分の目で判断し、また相手によって自分を変えてはいけないということを学びました。「私はこういう人間です。これ以上でも、これ以下でもない」と自分をオープンに見せる。自分を大きく見せようとしたり、反対に卑下するような付き合い方はもっての他です。気後れする必要もありません。

日本はかつて西欧に比べて技術が遅れている時代もあったけれど、そのかわり誇るべきすばらしい文化が育った。その自負をふまえて、素のままの自分を見せれば、相手もオープンに対応してくれる。そこから真の意味での良い付き合いが始まるのです。少なくとも私の場合はそうでした。

勢いのある近隣諸国に負けずに日本がもっとグローバル化していくにはどのようなことが必要だと思われますか? 学生にアドバイスをお願いします。
もちろん語学力も必要だけれど、それと同じくらい日本のことをもっと勉強しなければなりません。外に出て行けば行くほど自分が日本のことを知らないかを切実に感じるはずです。私は外国で暮らしたことはありませんが、たまに海外に出たり、向こうの方と話していると、「自分が日本を知らない」ということを痛切に感じて、恥ずかしく思います。「もっと勉強しておけばよかった」と。今の若い方々は海外に進出し、語学力もつけている。それはすばらしいことだけど語学力が全てではありません。自分の国を知り、人間としての教養を身につけてから、自分が専門とする道を目指すことが重要です。

日本語という切り口で見ると、以前はごく当たり前に使われていた表現を翻訳で使うと「若い観客が読めない。理解できない。だからもっと平易な表現に変えてくれ」と映画会社からクレームがつきます。情けないことです。平易な日本語にレベルを下げるから、美しい日本語はどんどん淘汰されて、貧しい言語になってしまう。これを食い止めるには、良い日本語の本を読んで頂きたい。「正しい文章の書き方」などのいわゆるHow toものではありません。古典でも現代ものでも、自分が抵抗なく受け入れられる良い文章を読んでいく。もちろん一朝一夕で日本語の能力や教養が身につくわけではありません。時間をかけて、じわじわと身に沁み込ませるものなのです。自分の国のことを知らない人間が海外で評価されることは絶対にありません。
今の時代、コンピューターだって良質の翻訳をしてくれます。でもコンピューターに教養があるでしょうか? コンピューターにモーツァルトの音楽が作れるでしょうか? シェイクスピアの作品は? インプットされたデータを操作・処理する驚くべきキカイではありますが、自ら思考する能力は持ちません。人間の脳だけが無から有を創りだすことができるのです。今や全世界、何十億の人間が平等に「共有」しているコンピュータを使いこなすだけでは意味がありません。他人が思いつかないことを思いつき、できないことをして初めて突出した存在になれるのです。

無から何かを創り出す。それが次の時代を担う方々に私が期待することです。”make”でなく”create”する。早稲田で学び、将来、日本のリーダーシップを担ってゆく皆さん方の挑戦を見守りたいと思います。

編集後記

20年もの長い下積み時代を経てやっと憧れの職業に就かれた戸田さん。「ありのまま」の姿から紡ぎ出されるお言葉は、恐ろしいほど現実的だった。夢を持つ学生には勇気を、夢のない者には希望をくれるようなあたたかい励ましのお言葉を期待した私の問いかけに、「『夢を抱けば叶う』なんてあなた、そんな甘っちょろい考え方じゃダメよ」とバッサリ。一瞬泣きそうになった。小一時間、辛辣な分析やため息混じりの批評が続いたが、それでも、救いの言葉やヒントはちゃんと残してくださった。
プロとしてやっていける席数が限られた字幕翻訳という世界で、稀少なチャンスを一つひとつものにし、今のポジションを確立された戸田さんだからこそ紡ぎだされる言葉にはずっしりとした重みと説得力がある。最後は握手でお別れだったが、これからの日本の未来を背負っていけとバシンと背中を押して頂けたような気がした。

田邉 祐果(国際教養学部4年)

Vol. 22 「必要だと思ったことを淡々と続けること。そうすることで世界が変わり、自分にとっても正しい人生の意思決定につながる」

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NPO法人Living in Peace理事長
投資ファンド勤務
慎 泰俊

1981年東京生まれ。モルガン・スタンレー・キャピタルを経て、現在はプライベート・エクイティファンドにて投資プロフェショナルとして働く。その傍ら、「貧困の終焉」に触発され、NPO法人Living in Peaceを設立し、理事長を務める。朝鮮大学校政治経済学部法律学科卒(人権)、早稲田大学修士課程修了(ファイナンス)。

【2013年1月17日公開】

ドラマチックなことではなく、自分が必要だと思ったら淡々とそれを続ける。続けると習慣になって苦しいことではなくなってくる

どのような学生生活を送っていましたか。また大学卒業後、海外のビジネススクールを目指し、将来はプライベート・エクイティ(PE)(*1)の仕事をしようと思った経緯を教えてください。
学生時代は勉強ばかりしていました。本、特に古典をずっと読んでいましたね。お金がなかったので、早稲田通りにある古本屋で岩波文庫の古典を片っ端から買いました。法学部だったのですが、法律の勉強自体にはさほどのめり込むことができず、関心のあった人権問題について必死に勉強していました。他にやったことと言えば、人権系の国際NGOでのインターンや、大学から始めて今も続けているドラムの演奏などですね。卒業後はとりあえず海外に行きたいと思っていて、また、若いうちなら色々な出会いやたくさんの刺激をもらえると思ったので、ビジネススクール(MBA)に行こうと考えていました。将来的に今のようなプライベート・エクイティ(PE)の仕事をするために、MBAは一番の王道だったということもあります。なぜPEで働きたいと思ったかというと、実際に勤めている人の話を聞いて、面白くやりがいのある仕事だと感じたからです。会社をよくすることは従業員の幸せや税収増加につながる立派な社会貢献になると思っていたので、日本の企業を強くしたいと考えたのです。実際に大学院への入学と同時に投資銀行での仕事を始め、主にミドルオフィス(*2) の仕事で財務モデルを作る業務等に携わっていたのですが、自分が思い描いていた通り楽しく働けました。


*1:投資ファンドの一形態。未公開株式または事業に対する投資を行い、経営支援等を行ってその企業や事業の価値を高め、株式公開や第三者に売却することを目的としたファンド等
*2:市場や取引相手との間で契約をまとめるフロントオフィスのサポート・チェックをする部門
その後、慎さんは金融のプロとしての道を歩みながらNPOの活動もパートタイムで始められるのですが、その時の経緯を教えて下さい。
金融を通じて社会を良くしたいと考えていたのですが、社会貢献をしようと思っていても、本業だけでは目の前の仕事にいっぱいいっぱいになり、そのような気持ちが薄くなりがちでした。それで、自分の当初の志を忘れないために活動を始めました。このような理由で社会貢献活動を始める人は少なくありません。僕の周りだけかもしれませんが、外資系企業で忙しく働いている人の中でボランティアをやっている人の割合はけっこう高いと思いますね。最初は勉強会がいいと思って、開発経済研究会という勉強会を始めました。月に1回、規模は10人くらいで始め、少ない時は3,4人でやっていました。人は減ったりしたけど、続けていると変わるもので、Living in Peace(NPO法人)の設立につながりました。
なぜ、今もパートタイムでの活動を続けているのですか?
理由は二つあって、一つ目は、このような働き方が特別なものではなく、この先当たり前になると思っているからです。将来的には、多くの人がパートタイムの活動を持つようになると思います。昔の日本みたいに終身雇用が当然だった時代には、本業というものが明確にありましたが、今後は終身雇用自体がなくなると思います。20、30年もすれば副業というコンセプトは希薄になり、フリーランスでの活動がもっと増えるでしょう。そんな過渡期の時代にパートタイムで働ける組織のモデルを作れたら面白いし、社会的にとても意味があるかなと。もう一つは、インターネットが発達した今、働く人が本業以外に少しでも社会のために時間を使えば、すごく大きな価値を生めるのではないかということ。これまでは技術的に、沢山の人が少しずつ働くことで大きな価値を生むことは難しかったのですが、例えば今では、一人のフルタイムスタッフが1日8時間の労働で生み出せる成果を、8人のパートタイムスタッフが1日1時間働くことで生み出せると思います。
また、今やっているパートタイムの仕事は異業種の方と一緒に働くことが多く、各々の強みを理解し、それを適宜利用して仕事を進めることで成果を出せるので、そういった経験を通じて成長することもできます。本業との兼ね合いでも意味があると思いますよ。このような活動は、そこから生まれる付加価値という点からも、起業しフルタイムで社会貢献するのとは別もので、たとえ今後起業する機会があったとしても、パートタイムでの活動は続けようと思っています。例えば、児童支援はビジネスとして成り立たせるには大変で、起業は難しいと思うのですが、支援活動自体は続けたいと思っています。それはパートタイムだからこそできることです。
金融の仕事でお忙しい中、どうやってNPOの活動へのモチベーションを保つのですか?
何かを続けるのにモチベーションはそんなに重要ではありません。大事なのは習慣にすること、責任感を持つことです。給料をもらっている仕事が優先なので、それが忙しいとNPOの活動はたしかに大変ですが、1度事業を始めたら責任があって、簡単にやめられるものではなくなります。特に僕は始めた人間なので、途中でやめるわけにはいかないんです。やると決めたらやる。3か月何かを続ければそれは日常になります。その3ヶ月を乗り切るのにはモチベーションは役に立つでしょう。別にドラマチックなことではなくて、必要だと思ったら淡々とそれを続ける。続けると習慣になって苦しいことではなくなるんです。人間の習慣の力は偉大です。続けていると、周りからは大変そうに見えるけど、自分にとっては大変でなくなる。僕にとって「続ける」とはそういう意味を持つことなんです。脳科学で人間のモチベーションは枯渇するということが言われています。特別意志が強くて、努力を続けられる人がいるわけではなく、そのように見える人は意志の力が必要でないように習慣化しているのです。それが日常なので何とも思っていない。例えば僕も苦手なこと、普段やっていないことをやっていたら辛くて投げ出したくなる。要は慣れるまで頑張れるかどうかなんです。意志の力は有限で、人間の起きている時間のようなもの。それを有効活用することが大切で、新しい習慣を作るために、意志の力を使うべきです。そして、新しい習慣を作り終わったら、また違うことを始める。きれいごとを言うのは簡単だけど、日々の生活にどれだけ組み込んでいるのかが重要なんです。僕は、特に才能に恵まれたわけではないのですが、何かをコツコツやることは得意で、そのコツコツした努力のおかげでここまで活動することができています。
最初に海外向けのマイクロファイナンスに関する活動を始められたとのことですが、なぜカンボジアで行うことになったのですか?その後、なぜ日本の貧困問題に対しても活動を始められたのですか?

カンボジアの農村部の朝

カンボジアにした理由は3つあります。まず、アジアで近いということ。GDP per capita(一人当たりの国内総生産)が低いということ。マイクロファイナンスの規制がよくできているということです。実際に現地に行く前に、カンボジアで投資を行うと決めて計画を立て、その後現地での活動に移しました。人間はどんな環境でも生きていけるので、カンボジアの人々も与えられた環境で真面目に暮らしていています。みんなドラマチックな状況を想像するけど、そのようなことはありません。ただ、日本と違って、真面目にやっていても、思うようにいかなかった時に、生活が一気に苦しくなるという現状があって、それは変えた方が良いなと思いました。かわいそうとかそういう感情はあまりありません。みんな対等な人間なのでそう思うこと自体が逆に失礼だと思っていました。現地に赴くと分かりますが、物質的に豊かでないという点では大変ですが、日々の生活という点では楽しいことはたくさんあるんです。一方、日本では飢え死にはしないけど、貧困の種類がすごくジメジメして陰鬱で、精神的に大変です。これらの大変さを比較することは難しく、どちらがより大変とは言い切れません。僕にとっては、日本の貧困問題と途上国の貧困問題、どちらも取り組む価値があると思ったので、どちらも取り組むことにしました。

ときどきビジョンも考えるけど、まずは行動する。自分の目の前にやることをただひたすら一生懸命やることで自分の天職に気付く

慎さんは、中学時代にあったいじめが嫌で、高校に入ってそれを同級生みんなで解決したそうですね。周りのことをより良くすることに生きがいを感じると前から思っていたのですか?
中学生とか高校生の時は全く思っていませんでした。ただ単に自分がいじめられていたから、いじめをなくしたいと思ったんです。怖いけど、言ったら後戻りできなくて続けるしかなかった。そしてやってみたら、それが喜ばしいことだと分かりました。頭で考えた自分がやりたいこと=天職というのは間違っている場合も多く、逆に成り行きでやってみて、それが天職だと気づく場合は正しいことが多いと思います。僕が当時やったことはそういうこと。正義感ではなくて、自分の中学時代の嫌な経験を変えたいと思っただけなんです。経験で得たことの方がやりがいにつながることが多く、それは本などで勉強して覚えるのは無理で、何かをやってみて初めて感じられるもの。だから学生にとってアクションする、行動を起こすことは非常に重要だと思います。そういう行動の積み重ねが人のいろんな能力を積みあげてくれます。それがより正しい人生、意思決定につながるんです。「ソマティック・マーカー仮説」というものがあって、ざっくり言うと年をとった人の直観は正しいということなんですが、それは、年齢を重ねたからではなく、いい経験をしてきたから得られるものなんです。それを意識的に作るのはとても大切だと思います。
何かアクションを起こす時には最終的な目標を設定されていますか?
その時々でやらなければいけないことは変わっていくので目標を固定するのはよくないと思っています。変化を予測することは難しいので、その時々の状況にすぐに対応することが大切。大切なのは未来のビジョンではなく、もうちょっと自然で、シャカリキではないことなんですよ。黙々とやっていて、ときどきビジョンも考えるけど、まずは行動する。自分の目の前にあるやるべきことをただひたすら一生懸命やる。意志とかエゴではなく、もうちょっと自然な形で足を進めることが、僕が続けていることで、それはすごく静かな世界なんですよ。こういう考えはマラソンで学びました。ウルトラマラソンで200kmという長距離を走った時、時間が経っていくと自分の意志だけでない何かで動かされていると感じました。これは言葉では通じないと思いますが、足が折れそうなのに、残りまだ50km走らなければならないというような経験によってわかるんです。最近はありがたいことに脳科学がそれを認めていて、体と脳はつながっていると分かっています。性格やものの見方、考え方ってなかなか勉強では身につかないですよね。つまり、身体知なんです。体を動かしてそれを覚えるのは大切です。
どんなに苦しい状況でも、コツコツ進める。これは本当に大切で、大きな変化に通じると思っています。例えば、今の活動でもメンバーが抜けるなんていうことはコントロールできないです。ただ、続けることでよくなるはずと信じています。続けると何かが変わる。続けるとなぜ変わるのか分からないですけど、僕は高校生のときにいじめを解決した時も含め、自分で周りのことを変えるときにこの考え方をテーマとしています。続けているとみんなが見てくれるんだと思います。良いことを言うのは簡単ですが、続けているかどうかを周りはすごく見ていて、それが嘘くさいと信じてくれない。行動を見るのが一番確実だということですかね。

在日朝鮮人として日本で生活することで価値観に影響はありましたか?

ホームステイ先の家族の皆さんと共に

僕の場合、必ずしもネガティブな方向には作用していないですけど、影響はあると思います。現在はインターネットで在日韓国人・朝鮮人と検索すると、百万の悪口があります。もう大人だから良いけれど、子どもが見てしまうと大変だと思いますね。今の世の中は情報が簡単に得られる時代なので、それらから子どもたちを守る術がありません。具体的に嫌なことと言えば、海外旅行は不便ですね。在日コリアンの大半の人は韓国籍を持つのですが、いまだに僕は「朝鮮籍」という国籍で、法律的に無国籍のまま。これは、日本の戦後に出てきた不思議な状態が続いているからです。この点について僕は実際に不便を感じているわけですが、本当は、人は生まれた時点で不便を感じたり不当な差別を受けたりするべきではないと思っています。また、不便を感じているからといって自分の信条を変えてしまうことは間違っている気がするんです。例えば、ゲイに対する差別が残っている日本で自分がゲイだとします。科学が発達し、ゲイでなくなる手術ができるとしても果たしてそれが正しいのかって思うんです。生きにくいから、周りがどうだからで自分が生まれ持った何かを意図的に失うことが正しいのか?それは正しくないと思うんです。人間というだけで不可侵な権利があるはず。それが300年くらいの歴史がある人権の考え方です。当然渡航の自由も含まれるはずだけれど、実際僕は海外に行くと、警察に捕まって大変な思いをします。このような考えは、在日コリアンだからというより、もっと普遍的な人権的な考え方に根付くものですが、在日コリアンとしての経験で多くのことを考える機会がありました。それはすごくありがたいことです。考えなければならないということは、神経が研ぎ澄まされるということ。いやなことがあったら、やり返しても仕方がなく、人生をかけてメッセージを伝えることが大事だと思っています。自分のきちんとした行為を通じて、反論ではないけど、こういう人もいると伝えたいと思いますね。

世界で活躍するために英語と教養は欠かせない。それができないと結局は能力が枯渇する。人間は生きている限り学び続けるべき

最近の大学生にどのような印象を持たれていますか?
最近の学生は格差が激しいですね。極端にできる人とできない人がいる。ソーシャルメディアが発達したことで、実際はそれほどでもないのにそう見えているだけかもしれないけれど、それが第一の印象です。もう一つの印象は、いわゆる意識が高いですね。不景気で、頑張らなければ就職できないという状況下で、意識が高くならざるをえないということもあるんでしょう。僕が学生の頃は、景気は悪いけど、勉強せずに、適当に飲んで遊んで就職活動だけ一生懸命やろうって感じだった。今の学生は危機感があるんだと思います。このままじゃやばいと。僕らの頃よりはるかに意識が高いと思いますね。日本で初めてのクラウドファンディングの事業を創った米良はるかさんなんかはすごいと思いますね。ただ、日本の学生は海外の学生と比較しても優秀だけど、言語能力が低いのは残念だと思います。海外の優秀な学生としゃべっていると英語はすごいけど、内容はあれ?ってこともあります。日本の学生がもしネイティブ並みに英語を喋れていたら、議論で負けないと思う。これは、学生に限らず日本人全般にいえることで、日本の優秀な経営者の方はとても素晴らしいのですが、言葉がだめだからイケてないということになっている。すごくもったいない。語学も習慣化すれば誰だって覚えられるんです。
これからはどのような人材が求められると思いますか?
これから必要な人材はT字型人材と言われています。一つ深い場所があり、あとは広い。僕は金融のプロとしての仕事に一番時間を割いていますが、特にこれからの時代は、他の分野の人とコラボすることが増えていくと思うので、他のことも分かっていないと仕事がしづらくなると考えています。特にPEはそういう仕事です。一つの案件で色々な人と仕事します。僕たちの会社から3人、弁護士5人、会計士10人、税理士5人、投資銀行の人10人くらいが集まって仕事をするので、その人たちのやっていることがわかっていないとダメです。もちろん完璧である必要はなく、彼らの仕事ができなくても良いのですが、何をやっているのかがわからないと仕事になりません。だから広くいろいろなことを勉強することは大切。こういう風に仕事ができないと結局能力は枯渇します。ひとつのことだけではやっていけない。
それでは、世界で活躍するのに何が大切とお考えですか?
世界的に活躍するためには英語と教養は欠かせないです。英語はできないと大変で、これはほぼ義務としてやるべき。TOEFL iBTで常に100点くらい取れないとダメだと思います。そうじゃないと仕事にならない。これから日本の企業も海外でやらないとダメなのは明らかで、英語ができないのはあり得ないと思う。また、様々な分野で最先端の情報は英語で流れています。僕は最近雑誌を読むときもほとんど英語のものしか読みません。質の高さが違うと思います。理由は簡単で、購読者数が多いからです。最新の情報をもとに最新の情報が出てくるので、英語とその他言語の間の情報差は雪だるま式に差が広がると思います。人類の歴史でさまざまな言葉があり、英語が最後の公用語といわれています。また、例えば将来公用語が英語から中国語になるとしても、その時にはもう機械翻訳ができていると思います。英語さえあれば、他の言語に行けるんです。将来の人はいちいち言葉を習う必要はないでしょうね。これから2,30年で自動翻訳は大きく発展すると思いますが、逆に僕らの世代は習わないとまずいです。また、教養は人間が積み上げてきた知の一番の土台です。それがあると他の分野の人のことも理解できる。教養は飾りでなくて、知の一番の根っこで、すべての他の専門を持った人と仕事する上で非常に重要です。特に歴史・哲学・文学・芸術などが重要だと思っていて、後は各専門学問分野での古典ですかね。学校でやる一般教養と同じです。僕は今も教養のための本を読んでいますし、これからもずっと続けます。人間は生きている限り、学び続けるべきなんです。
編集後記

投資ファンドでプロフェッショナルとして働きながら、パートタイムでのNPO活動で社会を変える。社会に貢献したいと思う人は数多くいても、なかなか行動に移せる人は少ないです。様々な困難に立ち向かい、自分の思いを実践している慎さんはさぞかし情熱的なパーソナリティー、強い意思をお持ちなのだろうと思っていました。また、そこにたどり着くまでにどのような思いを持って歩んでこられたのかとても想像つきませんでした。お会いしてお話を伺うと、すごく淡々と、地に足のついたこれまでの活動、キャリアに関するお考えを聞かせてくださいました。そのギャップがとても印象的で、自分が到底たどりつけない位置にいると考えていた人が、そこに行くまでにはコツコツ一歩一歩登って行ったのだと感じられました。

大芝 竜敬(会計研究科修士2年)

Vol. 21 「大切にすべきは『フェア・コンペティション』。自分の長所や才能を知り、それで闘い、周りに認められてこそ国際人」

CATEGORY : その他

社会的企業 ユニカセ・コーポレーション
ゼネラルマネージャー
中村 八千代

1969年東京生まれ。明治大学商学部を卒業後、カナダ留学。帰国後は、家業の一般酒販店代表取締役として10年間奔走する。児童福祉施設でのボランティアをきっかけに、2002年からNGOや国際協力の世界へ。2006年に初めて訪れたフィリピンで青少年の雇用機会創出の必要性を感じ、2010年社会的企業「ユニカセ・コーポレーション」を設立。

【2012年11月14日公開】

全部で勝とうとはせず、得意分野に早く気づいて伸ばしていく

どんな学生時代を過ごされましたか?
  明治大学短期大学に入学しましたが、明治大学への編入を考えていたので1年生の後半くらいからは試験の準備をしなければいけませんでした。父親のことをすごく尊敬していたので、「ああいう人材を育てた明治大学商学部に絶対入学したい」と思っていました。27歳の若さでスーパーマーケットを築いて、数年後には全国で400位以内に入るくらいのスーパーにした父が、私にとってはすごく自慢の父親だったんです。あとは、私が19歳のときに母が余命3ヶ月と宣告されて、「できることなら、お父さんと同じ大学に行ってほしい」と言って亡くなっていったので、そんな母の願いを叶えたいと思いました。明治大学で過ごした2年間というのは、今の自分の基盤をつくった大切な時間でしたね。マーケティングとの出会いが、私の人生を変えた気がします。
明治大学卒業後は、ご就職されたのですか?

カナダ留学時代の友人を再訪

  いえいえ。卒業式の翌日にカナダに飛んで、小学生の頃からの夢だった留学をしました。父親を尊敬していた反面、負けん気の強い子だったので「勝ちたい」という気持ちがあったんです。なんでもできるイメージの父親ができないことはなんだろう?と、子どもながらに考えたんですよね。それで、「あ!英語ができない」って(笑)。
  アルバータ州立大学でESL (English as a Second Language)プログラムを受けたのですが、数ヶ月目くらいから「このまま帰っても、仕事に使える英語じゃない」ということに気づきました。一年留学期間を延長して、「アルバータ州立大学よりも就職率のいい専門学校がある」と薦められた学校に入学したのですが、これがものすごく厳しくて・・・。プロの方にインタビューをしたり、クラス全員の前でプレゼンしたりという実践的な授業では、英語が母語でない留学生の私は最初から不利な立場にありました。当時、他に日本人はいませんでしたし、カナダ人の学生でもどんどん脱落していく学校だったんですよ。それについていくというのは至難の業でした。全科目で勝とうとすると、やっぱり難しいんですよね。だけど、準備をすればするだけ結果が出るし、しなければ玉砕しますから、まずは全体を見渡して、「ここは得意だな」というのを一分でも一秒でも早く見抜いて、そこで追いついていく。そんな場数を踏ませていただいたのは、カナダでしたね。
ちなみに、中村さんの得意分野は何でしたか?
  やはり、日本人が得意とする分野は数字を使うものなのでしょうね。私が優先した科目のなかでも、“Business Statistics”(統計学)はクラスで一番の成績でした。また“Business Communication”のクラスでは、ユニークな質問やプレゼンの内容が良いと、こちらも好成績をいただきました。

人を裏切るのは人だけど、助けてくれるのも人。真剣に生きていれば、誰かがどこかで見ていてくれる

2年ぶりに日本に帰国されてからは、どのような進路を選ばれたのでしょうか? カナダで学んだことは活かされましたか?
  「世界を駆け回って、日本にないものを買い付けたい」と、貿易会社に就職しようと考えて帰国しました。ところが、私がカナダにいる間に、父親が何十億円という借金を作ってしまっていたんです。私は、知らぬ間にその借金の一部の連帯保証人になっていました。なんとかしなくちゃということで、母の死後に私が引き継いで、実際は父や父の部下がまわしていた「中村商店」という会社の経営に、私が本格的に関わり始めることにしました。当時の中村商店は、4,000品目を扱う大きな酒屋でした。もちろん最初は何もわからなくて、泣きながら必死にお店をまわしましたよ。1~2ヶ月経った頃にだんだん動きがわかってきて、口座にも少しずつお金が入ってきたなという印象を受けました。半年ほどして、父親に「5,000万円貸してほしい」と言われて、悩んだ末に貸しちゃったんですよね。そうしたら父親の会社が1ヶ月後に倒産して、私の会社のお金は返ってこなくなってしまって。その上、父の会社は200社以上の問屋さんやメーカーさんとお付き合いがあったため、これだけ借金を膨らませてしまった以上、危険を伴う可能性があるということで、父と妹と親子3人で着の身着のままで夜逃げしました。でも、中村商店は店長にお願いしていたものの、やはり心配でした。結局、父親は1ヶ月隠れたのですが、私は刺されたり、誘拐されたり、脅されたりするのを覚悟で、夜逃げした1週間後にお店に戻りました。
その後の生活は、いかがでしたか?
  夜逃げのあと、父が迷惑をかけた謝罪をするため銀行に挨拶に行ったら、支店長室に連れていかれました。「あなた、のほほんとしていられないんだよ。あなたにも借金があるの知らないの?」と言われて、「借金ってなんですか?」って・・・。なんと、中村商店まで4億円の借金があったんです。ただ4億という額は大きすぎて、ぜんぜん実感がわかなかったですね。「ゼロ何個なんだろう・・・?」みたいな(笑)。返済プランを組んだら、毎月120万円返済の80年ローンでした。「100数歳まで、120万ずつのローンを払い続けるんだ、私・・・。死ぬまでやろう」って覚悟を決めましたね。
  そのときも、父親のことを恨むとかそういう気持ちはなくて、「なくなっちゃったものは仕方ないから、一緒にがんばって返していこうよ」みたいな気分でした。毎日朝6時に家を出て、車で片道2時間かけてお店に通って、夜中2~3時まで事務処理をして、帰宅して仮眠してお店に戻る・・・という生活が続きました。それに、お財布のなかにはだいたい80円くらいしかないんですよ。当時、中村商店には14人の従業員がいたのですが、「どんなに苦しくても、この人たちを騙したり傷つけちゃいけない」というのが私の信念でした。「なにか担保はないですかね?」という問屋さんには、「私の身体ひとつです」って言いましたね。いざとなったら、売春でもなんでもやろうという覚悟で。そうしたら、「そこまで言うんだったら支払いを待つ」と言ってくれて。いろいろな幸運も重なって、借金は10年かけて、私が36歳のときに一部を免除され、返済終了することができました。
たくさんの借金を背負わされてしまったのに、お父様を恨む気持ちはなかったということには本当に驚きます。最後まで「一緒にがんばって返していこう」と考えられていたのですか?
  いえ。実は、借金の保証人にされていたことが発覚したあとに、有志の方々が3,000万円用意してくれて、それをどう分割するかという話になったんですね。私は、まだ残っていた8~9ヵ所の子会社に少しずつ分配して、資金繰りに役立ててもらうべきだと提案しました。だけど当時、父が所有していたどのスーパーよりも売り上げを伸ばしていたのがパチンコ店だったんです。ただ問題は、当時、そのパチンコ店が区画整理のため、1年間ほど休眠していたことで。「休眠して来年まで売上のないパチンコ店を取るか、私との親子の縁を取るか、どちらかにして」と訊いたら、父は「夢を追いかけたい」と言ったんです。3,000万円をパチンコ店のみにつぎ込みたいと。あの一言で、もう怒り爆発ですよね。「もう、あなたとは一生縁を切らせていただきます」って。私の人生をめちゃくちゃにして、どうにかしてそれは受け入れたのに。まだ一生懸命がんばっているいくつかの子会社の従業員さんたちを見殺しにしてまで、自分の夢を追いたいという気持ちは、私には一生かけても理解できないと思いました。結局、私が経営していた酒屋以外、グループ会社ではパチンコ店は再起不可能になりましたし、それ以外の父の会社も全部つぶれました。その後父は謝罪してくれ、今では私も許しているんですけどね。
本当に大変な10年間でしたね。
  はい、すべてを諦めましたね。夢はもちろん、フィアンセもいましたけど、結婚も諦めました。でも私、若い頃は「私が世界を回してる」みたいな勢いの、根拠のない勘違い女でしたからね(笑)。謙虚にならなきゃいけないなと、すごく学びました。実際、自分の力だけでは借金の返済だってできませんでした。当時のことを思い浮かべると、本気で私を支えてくれた人全員の顔が思い浮かびますからね。真剣に生きていれば、誰かが見てくれているんだということが励みになりました。実は私、はじめの頃は誰にも相談できなかったんですよ。「こんなに借金抱えちゃって、どうしよう。恥ずかしい。死んじゃったほうが楽だ・・・」って、寝ても覚めても、夢のなかでまでそういうことばかり考えていて。でも、自殺を図ろうとしたときに、虫の知らせで飛んできてくれた友人たちがいたんです。夜中もずっと傍にいてくれて、「こんな友達がいる以上、死んだらいけない」と思いました。私を裏切ったのも人でしたけど、助けてくれたのも人でした。

親や社会に裏切られた子どもたち

一般酒販店の代表取締役だった中村さんが、NGOの世界に入られたのはどうしてですか?
  お金、お金で疲れ切ってしまっていた30代初めの頃、児童福祉施設の子どもたちに会う機会があったんです。私にも「父親に裏切られた」とか、「母親がいたらなぁ」という、どこか被害者意識みたいなものはありましたけど、少なくとも20歳までは母がいてくれた。「幼少時代から親に見捨てられてしまった子どもたちは、どういう心境なんだろう?」と、寄り添いたい気持ちが生まれてきて、その施設に通い始めました。親や社会の犠牲になっている子どもたちが、どうしても他人に思えないんですよ。その後、ある国際医療援助団体とご縁があって、2002年にNGO職員になりました。
今はこうしてフィリピンに住まれているわけですが、この国との出会いもNGOがきっかけですか?
  はい。2006年、NGO職員として初めて訪れました。国際医療援助団体で働いていた3年弱の間も、借金の返済は続いていたんです。負債者は長期で海外に行けないので、返済が終了して、紙に「0」って書いてあるのを見たときは、「これが自由なの?」と思いましたね。「私、海外で仕事できるんだ!」って。ちょうどその頃、国際医療援助団体の元同僚たちが、独立して別のNGOを運営していました。新宿駅で「〇〇さん、借金の返済終わったよ!」と電話したら、「ちょうどフィリピンのポストに空きがあるんだけど、行かない?」って訊かれて、ふたつ返事で「行く!」って答えましたよ。海外に飛び出したくてしようがない10年間のウズウズした気持ちがあったので、正直なところ「どこでもよかった」という感じでした。借金返済終了後、5分のうちに次のミッションが決まっちゃったというか(笑)。
もともと特別な思い入れがあったというわけではなさそうですね。そんなフィリピンの第一印象はいかがでしたか?
  フィリピンに来てからも波乱万丈は“to be continued”状態で・・・。2006年の7月に赴任してきて、一週間後には関係者の男の子が射殺されたんです。私が働いていたNGOの元裨益者で、21歳でした。スーパーマーケットでケチャップかなにかを万引きして、逃げようとしたところを警備員に射殺されたんです。「現場っていうのは、こういうものか」と思いました。もっと衝撃的だったのは、その子のご両親に連絡したところ、「葬儀場に行くお金がないから、葬儀には出られない」と言われたことです。「息子の葬儀に出るために、100円すら出せないの?」って、それがものすごくショックでした。その子の死を無駄にしないために、いわゆる“Children at Risk”(※)をひとりでも減らせるような何かがしたいという、決心につながった事件でした。
  ※路上生活を余儀なくされているストリートチルドレンや、人身売買にあったり、虐待を受けたり、育児放棄されている子どもたち、または貧困層出身ゆえに学校に通えない子どもたちなど、全てを総称し、危険にさらされた子どもたち。

”Children at Risk”を減らすというのは、とても大きなゴールですね。具体的にはどのようにお考えですか?
  もちろん、ストリートチルドレンの数を減らすなんていうことは、今の私にはできません。でも、せめて自分が出会った子どもたちには、自立して仕事を持ってもらいたいと思うんです。そして将来彼らに子どもができたとして、そのときお給料をもらっていたら、自分の子どもには食べさせてあげることもできるし、学校にも通わせてあげられるし、学校に通えばいい会社に勤められる可能性も高まる。そういう、20年越し、30年越しのプロジェクトです。大規模で動くためには、NGOのやっていることは今もこれからも大事です。だけど、問題点や限界もあると思います。たとえば奨学金プログラムで何十何百という子どもを学校に通わせてあげても、卒業後のフォローアップがしきれていないケースを私はたくさん見てきました。投資して、教育支援を行っていることを無駄にしないために、裨益者だった子どもたちが青少年に成長した段階で自立する方法を導いてあげる。どうやって仕事をしたらいいのか、どうやって責任を取ったらいいのかということを学べる場を作る必要があると思います。ひとりかふたりかもしれないのですが、せめて私が関わったなかで真剣に働きたいって思っている子には、それを叶えさせてあげたいと思いますね。
中村さんが起業された社会的企業「ユニカセ・コーポレーション」について教えてください。

ユニカセのフィリピン人青少年と中村さん

  2年ほどの準備期間を経て、2010年からロハス(Lifestyle Of Health And Sustainability)にこだわった健康食レストラン「ユニカセ・レストラン」を運営しています。NGOのボランティア・スピリットを引き継ぎながらも、ここで働く青少年たち自らが利益を追求するための方法を探っていく。でも一般企業とも違っていて、単なる利益追求で「こいつは使えないからクビにする!」とか、そういうことは避けたいなと考えています。私以外の有給スタッフは、みんなNGOから紹介されてきた青少年たちなので、過去はそれなりに苦労した子たちばかりです。元ストリートチルドレンの子たちも何人かいるのですが、路上にいた頃、空腹を避けるためにシンナーを吸っていたりするんですよね。シンナーは脳細胞をダメにしていくので、忘れっぽい子が多いんです。言ったことを守らなかったり、すぐに忘れちゃったり。そういう子を解雇しようか迷ったことがあって、結局そのときにどうしたかというと「あなたの仕事では、もうお給料は払えない。でも、もう少し働いて学びたいならそうしていいよ。『これならお給料払ってもいいな』っていうレベルまで達したら、またあげるから」って。そういうふうに対応しました。

自信は自分でつけていく。それが国際社会で生き残る術となる

これまでフィリピンの青少年のお話を伺ってきましたが、中村さんには今の日本の若者はどのように映っていますか?
  30人以上の日本人インターンたちと関わってきましたが、まず最初にいえるのは「素直で純粋な子たちだなぁ」ということです。わざわざお金を使ってまで、人の役に立つことをしようと国境を越えて来るくらいですからね。反面、国際社会で生き抜いていくためには、もっと前に出ていく姿勢が必要だと思います。しっかり準備して、スキルを使って、「私にしかできないんです」というのを証明していかない限り、相手は認めてくれないのが国際社会。国際人たちは、目の前のチャンスをがつっと掴み取っていきますから。でもね、ユニカセのインターンや青少年たちには、「誰かを引きずり落としてまで、自分がのし上がるのは勝負じゃない。『フェア・コンペティション』を意識しなさい」と言っているんです。自分の長所や才能に早く気づいて、それをガンガン活かして仕事に結び付けていく。そうすれば、必然的に周りが認めてくれて、尊敬してくれるようになるし、仕事もまわってくるようになる。そういう仕事の仕方をしてほしいとよく言っています。
中村さんが考える「グローバル人材」「国際人」というのは、ずばりどういう人ですか?
  自信のある人ですかね。どんなに小さくてもいいから「これは、がんばったな」というものをいくつも作っていくことによって、自信はだんだんついてくるもの。自信さえあれば、「どこでも生きていける」と感じることができるから、それが国際社会で生き残っていく術じゃないかと思います。自分を信じていなければ、国際社会なんかに出たらもうアウトですよね。日本人は必要以上に謙虚だから、“I cannot do anything.”とか言っちゃうかもしれませんけど、そんなこと言ったらもう「じゃ、帰りなさい」ってね(笑)。実際は8割くらいしかできなくても、「できます」って言わないとダメなんですよね。それで、やっている過程のなかで本当にできるようにしていく。「口からちょっとでまかせ言っちゃったけど、言ったからにはやるんだ!」ってね、そうやって生き残っていくしかない、国際社会は。
最後に、これから中村さんが目指す先について教えてください。

記念すべき「ユニカセ・レストラン」オープン日に

  もしかすると、ユニカセ・レストランはなくなってしまう可能性もありますよね。カタチあるものはみんな壊れるので。だから、レストランにこだわるのではなくて、「ユニカセ・スピリット」を一生継続させていきたいです。つまり「“Children at Risk”が、10年後、ひとりでも減っている社会・世界をつくる」というユニカセのビジョンです。ユニカセで働いている青少年たちに関しては、「私がこの子たちの人生を抱えているんだ!」っていう責任は、すごく感じます。私はいつも、「明日死んじゃうかもしれないから、今日を一生懸命生きよう」と自分に言い聞かせているんです。死ぬ5秒前に、「あぁいい人生だったな」って思うために、今を生きているので。そういう意味では、私が明日死んでしまったとしても、ここに関わった子たちがユニカセを守っていってくれるような指導の仕方をしたいなと思っています。でも、現実はそう簡単にもいかなくて、キッチンに入ってしまうと忙しくて怒鳴ってばかりいたりするんですけどね・・・(笑)。

編集後記

  3時間をも越えるロングインタビューに、終始笑顔で応えてくださった中村さん。しかし、彼女の口から飛び出してきたのは、素敵な笑顔と穏やかな雰囲気からは到底想像できないような衝撃的なお話の連続でした。私は、「グローバル人材」「国際人」と呼ばれる人に対して、生まれながらにして特別ななにかを持っていたり、エリートな人生を順風満帆に歩んできた人というイメージを抱きがちでしたが、今回のインタビューを通して、どんなに輝いて見える人にも、人知れずこぼした汗と涙があるのだということを再認識させられたように思います。むしろ、たくさんの逆境を乗り越えてこられた中村さんだからこそ、こんなにもキラキラ輝く今があるのだと確信しました。現在の中村さんを形作っているのが「フェア・コンペティション」を通して培われた「自信」なのだとしたら、私も必要以上に遠慮したり恐れたりせず、どんどん闘っていきたいと思います。そして、いつか中村さんのように、ありのままの自分の過去を笑顔で語れる素敵な女性になりたいです。

加藤真理子(アジア太平洋研究科修士2年)

Vol. 12 「今の日本人パスポートは天から降ってきたわけじゃない。未来の日本人へのリスペクトを賭けて戦え」

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英フィナンシャルタイムズ中国語版コラムニスト、香港フェニックステレビコメンテーター
加藤 嘉一

1984年静岡県生まれ。2003年高校卒業後単身で北京大学留学。同大学国際関係学院大学院修士課程修了。英フィナンシャルタイムズ中国語版コラムニスト、北京大学研究員、香港フェニックステレビコメンテーター。年間300以上の取材を受け、200本以上のコラムを書く。最新書「いま中国人は何を考えているのか」、「北朝鮮スーパーエリート達から日本人への伝言」。

【2012年2月23日公開】

大事なことは一分間ですべて伝えろ

加藤さんの名刺(名前のみ表記)の真意はなんですか。

加藤さんの名刺

加藤嘉一だから加藤嘉一と書いてあります。グローバルで活躍するために名前は必要条件というよりも十分条件です。日本では、どうしても肩書きや会社で人を決めてしまいますよね。例えば、部長や課長というだけでこの人はすごい、すごくないと決めてしまう。でも、海外ではそれは全く通用しませんよ。僕は一昨日シンガポールで開催されたある会議に出席してきました。その際もこの名刺を使用しましたが、肩書きは全く関係ありませんでした。名刺よりも眼力だなと感じましたね(笑) ただ一方で、名前は非常に大事です。名前は両親からもらったものだから、それを大事にするのは人として当たり前。きっちり名前で勝負するというのは最大の親孝行だと思います。
名刺以外に、自己紹介の場で心がけていることがあれば教えて下さい。
例えば、一昨日の話です。僕は、そこで会った方と、今シンガポールでこういうことをして、なぜ来て、何に悩んでいて、だから君とこういうコミュニケーションが取りたいんだと言って、握手するんです。それがすべてです。これを、1分間で常にプレゼンテーションできるようにしておけば、グローバルで戦えますよ。逆に日本の方だと永田町でも霞が関でもいいけど、名刺だけ渡して帰る。これは資源の無駄じゃないですか。日本の学校に提案したいのは、自分についての1分間プレゼンです。まず小学1年生で日本語で、高校1年生では英語で、社会人からは中国語がベストだけれども第2外国語でそれをやれるようにトレーニングするんです。内容は、成長するにつれて常にアップデートしていきます。ぜひ公立でも私立でも学校でホームルームの時間でやったらいいと思いますね。
加藤さんはいつごろからグローバルを意識していらしたのですか。
グローバルという言葉を知ったのはここ10年くらいだと思いますけど、幼いころから世界はずっと意識していました。5歳くらいの頃から、趣味は地図を見ることだったんです。スリランカの首都の名前はなんでこんなに長いんだろうとか、なんでフランスにはいろんな人種の人がいるんだろうとか。そういったことをイメージしながら地球儀を回していました。地図を見始めたのは自然にというより一種の反抗心。生まれた地域がとても保守的な所だったので、なぜ自分が起こしたアクションに対して、他人は潰しにかかるんだろうか、と常に閉塞感を感じていました。それを確かめるためには、物事を客観化する、相対化するしかありません。まず、日本のほかの都市に行ってみる。それでも分かりません。日本は均一化した社会ですからね。このとき、既に海外に行きたかったのですけど、人間1つの事をやるには3つ必要なものがあります。意思と能力、そして条件です。この3つが揃わないと難しいです。結局、意思と能力はあったと思いますが、なかなか条件が揃わなくて海外に出るのが18歳になってしまいました。

ピンチはチャンス。物売りのおばさんとの語学レッスン

中国語はどのように勉強しましたか。
北京大学で勉強していた当時、SARSの流行で授業が全部休校になったんです。在北京日本大使館が、日本人に対して強制帰国勧告を出していました。当然僕は帰らなかったけど、周りに日本人がいなくなったわけですよ。でも、ピンチはチャンス。なんとかして周りの人々とコミュニケーションをとって中国語を学ぼうと考えました。具体的には北京大学の西門で物売りをするおばさんと仲良くなったんです。だから、そのおばさんが僕の中国語の先生ですよ。最初はまずおばさんからアイスを買って握手をすることから始めました。それからは、おばさんの所にとにかく毎日通いました。1日8時間くらいひたすら会話するんです。話のネタを探すのに大変でしたよ。その時の1日のスケジュールは、まず4時半に起きて、辞書ひいて勉強してラジオ聞いてランニング行って、帰ってきたら簡単に朝食。朝8時くらいにはおばさんの所に行って夕方4時とかまでずっと会話していました。話をしているといろんな人が会話に入ってくるんです。おばさんのネットワークってすごいんですよ。
現地の方と交流するなかで、中国語以外に学んだことがあれば教えて下さい。
僕が思うに中国人は、ネットワーキングとインテリジェンスに長けています。どこの国にでもチャイナ・タウンを形成してしまうのですから。日本人にこれができますか?できないじゃないですか。海外で日本人だけで仲良く一緒に行動することと、コミュニティを形成したうえで他国の経済に参加することは全く異なりますよ。また中国人社会は相互不信の社会です。彼らは他人と接するとき、常に疑ってかかります。日本ほど性善説な社会はないですよ。他人を疑うこと、批判的に物事を見ること。このクリティカル・シンキングが大事です。僕は、中国人は全体的に、何をするときも上手にカーブを投げる、という印象を持っています。ユーモア・センスも実はあるんですよね。ただ礼儀正しくしているだけでは生産的でないと分かりました。中国語はもちろん、物売りのおばさんからは様々なことを学ぶことができました。日本人みたいに簡単に他人を信じてはいけないんですよ。自分なりに情報へのアプローチの方法を持つことは重要です。情報を鵜呑みにしていてはだめです。僕の場合は2つの国境を越えて新聞が同じことを言っていたら初めて信用できると思います。正しい見方、正しい情報にどうやってアプローチするか自分なりに構築しなくてはなりません。日常の中で自分で鍛えていく必要があります。これは新聞記者になるにしても、学者になるにしても、ビジネスマンになるにしても非常に大事なことですよね。
どのようにして人的ネットワークを構築することができたのですか。
通訳の仕事がきっかけです。最初は、翻訳が一番知的で良いバイトだと思って必死に勉強しました。HSKという試験を受けてスコアがよかったので、中国に着いて3ヶ月後には翻訳を始めました。1年後には逐次通訳、そのまた半年後には同時通訳をすることができるようになりました。そのときに僕は、単なる通訳で終わらせずに様々なところに入って行きました。例えば、僕が中国の大物政治家と知り合ったのは人民大会堂という日本でいう国会にあたる場所です。そこでの会議に通訳として参加したんですね。まずは、きっちり通訳の仕事をこなします。そして、休憩のときに政治リーダー達の様子を窺いながら、トイレであえてぶつかったり、椅子にかかっていたスーツの上着を落としたりしてね。「あっ大丈夫ですか。落ちましたよ」って拾ってあげるんです。すると「ありがとう。君は優しいな」となります。そうやって会話の機会を自ら作っていました。クリエイティブにアクティブに人的ネットワークを拡大していきましたよ。

海外に出るのはローリスク・ハイリターン、さらにローコスト

海外で生活することで、どのようなことを感じましたか。
日本に対しての愛国心が芽生えたこと、それから現地の人々から見たら自分が日本代表であるということですね。中国で様々な国の人々と語ることで、自分が日本人であるという意識は自ずと高まりました。自分は幼いころから日本が嫌いでした。でも中国の人から日本を誤解されたり、批判されると悔しかった。日本が嫌いだったはずなのに悔しかったんです。これは健全な愛国心だと思います。また、自分は加藤嘉一個人としての意見を言っただけのつもりであっても、外国人にとってはそれが日本人全体の意見になってしまいます。これは非常に責任を伴うことです。だから、まずは何より日本の国際社会における立ち位置や歴史をしっかり勉強することが大事ですね。国際社会で日本人としての意見を聞かれても、何も答えられない。それはとても恥ずかしいことですよ。
学生にメッセージをお願いします。

2010年、「中国時代騎士賞」受賞インタビュー

自分達がいかに恵まれているか知ることです。他国の学生と比べて自分達にはこれだけ情報が開かれていて、これだけどこにでも行ける環境にある。日本のパスポートを持っていれば、実際どこにでも行けるわけですよ。そのうえ今は円高です。今海外に出なかったらいつ出るんですか。一方、中国の学生は、人民元は切り上がっていないし、どこに行くにもビザが必要です。北京でアメリカのビザを取るためには、米国大使館の前で500メートルも並ばなければなりません。彼らは、そうまでしても行きたいと思うんです。でも僕は、ただ漠然と海外に出ろと言うつもりはないです。就活をするか、大学院に進学するか、留学するかなど、学生の皆さんも迷っているはずです。そんな人に僕からのアドバイスです。まずは選択肢を広げましょう。そしてどの選択肢が一番いいか決定するための視野を広げましょう。何か新しいことをしたいと思うのは、現状に不満を抱いているからです。それを違った視点、場所を変えて自分って何だろう、自分って何がしたいんだろうと考える事は非常に大切です。しかも学生のうちに海外に出るのはローリスク・ハイリターン。さらに今はローコストです。迷っていて新しい視点が欲しい。そんな時は留学でも海外旅行でも行く。自分を非日常に連れていくことです。そもそも、今日本人が海外に行きやすいのは、先人が汗水たらして必死にやってきたから。だから今のパスポートがあるんです。天から降ってきたものではないんですよ。日本のパスポートが今後どうなっていくかは、我々一人ひとりの日本人にかかっています。自分の海外での振る舞いが今後のパスポートにつながって、未来の日本人が国際社会でどれだけリスペクトされるかにつながるという意識が大切です。そうすれば緊張感が生まれるでしょう。緊張感が生まれたら人は真剣になるんです。
編集後記

インタビュー中、ほとばしる情熱で答えて下さった加藤さん。圧倒されました。一言一言に今までの経験からくる重みを感じました。ものすごく辛く、ものすごく苦しい時があったと思います。でもそれに歯を食いしばって耐え、見えてきたものだからこそ聞く人の心に入ってくる説得力があるのではないでしょうか。「パスポートは天から降ってきたものではない」という言葉が特に強く心に残りました。私達は、海外旅行しようかなと考えたり、留学するかどうかを悩んだりしますが、選択肢があること自体に感謝しなければと感じました。次の世代のためにも、先人が切り拓いてくれた道のその先をさらに切り拓かねばと思います。

相原 亮(基幹理工学研究科1年)