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Vol. 31「もしも自分がこの理不尽な世界をほんの少しでも変える力になれるなら」

元青年海外協力隊村落開発普及員
徳星 達仁

2008年3月に早稲田大学法学部を卒業後、株式会社JTB関東旅行会社に就職し法人営業を担当。2010年2月退職。同年6月、青年海外協力隊にてベナンに派遣。主に小学校の衛生環境改善活動に携わる。2012年6月に帰国後、日本紛争予防センターにて瀬谷ルミ子事務局長補佐インターンを務めた後、国連UNHCR協会でファンドレイジングを担当。国際公務員を目指し、2013年9月よりイギリスの大学院に留学中。

【2013年12月4日公開】

内向き学生、“熱いバカ”に触発される

学生時代に特にやっておいてよかったことはありますか? また、やっておけばよかったことはありますか?
僕の学生時代は1年生の時と2年生以降で大きく変化します。1年のときも中学高校と続けていた吹奏楽のサークルに入ったり、法学部の法律サークルでテスト対策に勤しんだりと、それなりに充実していたのですが、なんというか・・・、内向きでした。国際交流だとか、国際協力って言葉は心のどこかには引っかかっていたかもしれないけれど、意識は全くしていませんでした。勉強は真面目にやる学生でしたが、人と関わることにそこまで魅力を感じていませんでした。
変わったのは2年の時です。ふとしたきっかけで「僕は全然外の世界のことを知らないな、自分の世界を広げたいな」って思ったんです。きっかけは多分本当に大したものではなくて、今となっては思い出せないくらい。インタビューで話すことでもないかもしれませんが、失恋したっていうのも一つのタイミングだったかもしれません(笑)。「俺、このままでいいのか」って思ったんです。
そのとき偶然、Waseda International Festival(WIF)という国際交流イベントサークルがスタッフ募集をしているのを見つけて、思い切って飛び込みました。早稲田には“熱いバカ”がたくさんいて、元々僕もそんな早大生には憧れを持っていたのですが、ちょっと自分には遠い存在だと思っていました。しかしそのサークルで、積極的に物事に熱中して取組む人達と一緒に活動するうちに、自分ももっとアクティブになっていいんだ! いろんな人に出会うのってめちゃくちゃ面白い!! と実感して。その後の学生生活はとにかくいろんなことに首をつっこみました。実は、ICCでもミュージカル企画※に参加したりしていたんですよ。
ですから、自分が学生時代にやっておいてよかったと思うのは、たくさんの人と関わり、たくさんの仲間と出逢えたということです。早稲田は特に、熱い心を持った面白い人たちが本当にたくさんいて、いくらでも自分の視野を広げることができます。
もう一つ頑張ったことといえば、英語の勉強でしょうか。後々国際協力分野を目指すならば、英語は絶対必要です。僕はサークルなどで国際交流に関わるうちに、英語は絶対この先自分に必要であると感じました。留学の経験もないどころか、英語は割と苦手な方だったのですが、チュートリアル・イングリッシュや、オープン教育センターで意識的に英語の授業をとって、英語の得意な人達に追いつけるよう努力しました。英語学習にお金をかけたわけではありませんが、大学内の機会を活用して勉強するだけでも、英語力はかなり伸びたと感じています。
一方で、やっておけばよかったなと思うことは、スタディツアーやボランティアなどで実際に途上国に行ってみることです。当時の僕には、忙しかったりお金がなかったりと、途上国に行かない「理由」を自ら作っていました。しかし、本気で途上国への想いがあったとしたら、必死でお金を貯め、時間を作って行けていたはずだと思います。実は、新卒のときも国際協力分野への就職も視野に入れていて、JICAの新卒採用も、最終選考までは残れたんです。しかし、最後の面接で突き詰めた質問をされたときに、自分の国際協力への意志とそれに伴う実行力がまだまだ弱いことを痛感させられたのです。だから、現時点でこういった進路を考えている学生の方はぜひ途上国に出かけてみてほしいです。僕の場合はそれがあって、その後の青年海外協力隊での派遣につながっています。

 

2007年度ICCミュージカル・プロジェクト『FAME』

 

国際協力に関心を持たれたきっかけはなんですか?
今思うとクリティカルなきっかけは、WAVOC主催のウガンダの子供兵士に関する写真展と講演会です。それまでもなんとなくアフリカには恵まれない子供たちがいる、という認識は持っていましたが、実際に聞いたウガンダの子ども兵士の話は想像以上に衝撃的で、残酷でした。一方で、ウガンダの子ども達の日常の写真はとても目が輝いていて、本当にキラキラとした笑顔だったんです。こんなに素敵な笑顔が一瞬で奪われてしまう世界があるということに非常にショックを受けました。同時に、生まれる場所は選べないにもかかわらず、なんて理不尽な世の中なんだろう、こんな不公平が許されるのか、なんとかできないかとも強く思いました。
もっともその当時は、自分が国際協力に将来携われるとは考えてはおらず、自分には無理だろう、きっとどこかのバリバリすごい人たちが変えていく世界なんだろうなぁと半ば諦めつつ考えていました。とはいえ、もし自分がこの理不尽な世界を、ほんの少しでも良い方向に導ける仕事ができるならば、それは僕にとってすごく幸せなことだしやりがいがあるだろうなとも思い始めました。頭の片隅にはずっと引っかかっている感じでした。だからこそ、学生時代の国際交流活動や英語の勉強もより熱心に取り組んでいたのだと思います。

今やっている仕事は一生をかけてやるものなのか? と自問した

ご卒業後は民間企業に就職されたそうですが、国際協力の世界に携わろうとは思わなかったのですか?
僕は法学部の学生だったのですが、就活で自分の進路を考えたときに弁護士など法曹の道はちょっと違うかな、と思っていました。ダブルスクールをして、必死に何年も勉強して・・・というほど本気で目指したいとも思っておらず、とりあえず社会に出たいと思いました。それでいざ何をやるかって考えた時にやっぱり国際協力をやりたいと思いました。でも一方で正直なところ当時は将来の安定も求めていて、国際協力の世界はNGOなども含めて不安定な要素が多い点が心配でした。収入の安定性がありつつ国際協力、つまり自分のやりたいことができるところと考えたときにJICAを見つけたので、第一志望で受けました。一方で旅行業界にも興味があり、結果的にJICAはその時はご縁がなく、第二志望のJTB関東に就職することになりました。ただ、依然として国際協力への想いもありましたので、一生JTBに骨をうずめるつもりかといえば、そうではなかったと思います。それでもやってみないとわからないですし、6~7割くらいはここでずっと仕事をしていくかもしれないとも考えていましたね。
営業関東一位の成績を取られるなど充実した会社員生活を送られるなか、青年海外協力隊に入ろうと思われたのはどんなことがきっかけですか?
2年間JTBで勤務しましたが、仕事は本当に充実して濃いものでした。僕は職場旅行など団体旅行の担当で、例えば一つの会社の社員旅行を行程の作成から添乗、精算まで全部一人で担当します。そういった担当先が複数あるんですね。僕にとっては複数あるお客様のうちのひとつでも、お客様にとって担当者は僕ひとり。僕がミスをしたら社員旅行が全部だめになってしまう。そのプレッシャーは大きくて、正直逃げたくなることもありましたが、僕の仕事でお客様が喜んでくれるのはすごく嬉しかったです。
ただ段々と、この仕事は本当に一生かけてやりたい仕事か? という問いが湧き起こってくるようになりました。予算達成のために毎日頑張る自分に何か違和感をもつようになったんです。このまま10年後、20年後同じ会社で働いている自分を想像したときに、それがあまりワクワクしなくて。一方で、国際協力の分野も相当大変なこともあるかと思いましたが、途上国に生まれて理不尽に哀しい想いをしている人の為になら一生を捧げられると思いました。もし自分が頑張ることで誰か一人でも哀しい想いをする人が減らせたならそれはすごいことだと思うのです。
会社員生活→青年海外協力隊への方向転換はご自身の中でかなり大きなご決断だったと思いますが、どのような感じで気持ちを固められたのですか?
それが気付いたら派遣が決まっていたというか・・・、勢いですね。当時は先ほどお話しした国際協力への想いが高まりつつも、もうあと数年はJTBにいる予定でした。それが2年目に入った頃に、たまたま会社の近くでJICAの青年海外協力隊の説明会をやっていて、それに参加したんです。そのときは今すぐ応募しよう! というよりは今後の参考に一応参加するくらいの気持ちでした。ところが話を聞いて結構盛り上がっちゃって(笑)、ちょっと書類だけでも出してみようと。そしたら募集枠が広かったこともあって、書類審査に合格して面接を受けられることになりました。もう、この辺から段々本気ですよね。それで面接も運良く通って派遣が決まりました。
とはいえ振り返ってみると、それまでも青年海外協力隊の説明会ってあったはずなのに自分が参加していなかったのは、まだそんなに国際協力の世界に身を投じる気持ちが固まっていなくてアンテナを張っていなかったからだという気もするので、あのタイミングで説明会に行ったのも意味があることだったと思っています。
ただ協力隊の派遣が決まってからも葛藤はありました。協力隊は帰国後の進路がどうなるかわかりません。ある意味JTBにいればこの先食っていくことはできるだろうという思いがありました。当時仕事も大変な時期だったので、これって今の仕事から逃げたいだけなんじゃないかな? と悩んだこともありました。だけど大学時代のサークルの先輩に相談したらさらっと、逃げてもいいじゃんって言われて。それですごく気持ちが軽くなりましたね。そもそも逃げているかどうかも分からないのですが、新たな場所で、本気で頑張れるならそれはそれで良いじゃないか、と気持ちを新たにしました。自分を奮い立たせる為に、国際協力のイベントや途上国を舞台にした写真展に行ったりしてアンテナは常に張っていました。

ベナンの人に何かしてあげるのではなく、共に生活を営もうとした

派遣準備期間には語学研修などを含めて60日間集中的に事前研修を受けるそうですが、具体的な内容についてお教えいただけますか? 中でも苦労された研修はありますか?
協力隊は年に3~4回派遣のタイミングがあって、派遣前に60日間、訓練所に泊まり込みで研修を受けます。僕は長野県の駒ヶ根にある研修施設に行ったのですが、230人くらいが一緒でした。基本的にひたすら語学研修をやります。僕の場合はベナンの公用語であるフランス語を習得しました。一クラス生徒4~5人に先生が1人つき、午前中に3時間の語学クラス、午後にも語学や全体での国際協力についての座学、そして大量の宿題とテスト・・・とかなりみっちり勉強しました。あんなに勉強したのは、大学受験以来です(笑)
勉強はなかなか大変でしたが、協力隊に参加する人は色々なバックグラウンドを持っていて、そんな人たちと知り合えてすごく楽しかったですね。僕はやっぱり人と関わるのが好きだと実感しました。中間テストで一定の成績が取れないと派遣させてもらえないなどそれなりにプレッシャーはありましたが、最終的にはほとんどの人が派遣されているんだし人並みに頑張ればいけるだろう! と考えていたんです。これは友人ともよく話すんですが、物事を始める前に考えすぎても良いことはありません。Positive and activeを意識しています。
ベナンでは村落開発普及員として小学校の衛生環境改善活動をされたそうですが、どんなことで苦労されましたか? またどうやってその苦労を乗り越えましたか?
まず生活に慣れるのに苦労しました。言葉も通じず、気候も文化も違う。しかもベナンはアフリカ最貧国。覚悟して行きましたが、それでもストレスフルな場面は多くありました。

ベナンの小学校での衛生啓発活動

なかでもやはり言葉の壁は苦労しましたね。派遣前に勉強したもののそれは最低限生きていくためのレベルでしたし、あとベナンの人たちが使うのはアフリカン・フレンチなので、習っていたフランス語とは発音や単語が違ったりして、初めは意思の疎通がスムーズに行かなかったんですよね。伝えたいことが伝えられないのはもどかしかったです。でも、そこで頑張るしかないので、わかる言葉でジェスチャーを交えつつ頑張って話していました。そうすると相手も僕の話を理解しようと努めるようになってきて、また自分の語学力も上がっていくので、半年くらいすると随分と自然にコミュニケーションが取れるようになっていました。
もう一つの苦労は任務の内容に関わることですが、僕は村落開発普及員としてベナンに赴任し、衛生啓発活動などに取り組んでいました。具体的には近所の小学校をいくつか訪問して、手洗いの大切さや、適切なゴミ捨てについて紙芝居や歌を用いて普及していく活動です。まず手が不衛生な状態だと病気の原因になるというメカニズムを知ってもらうところから始めるんですが、習慣付けるのってとても難しい。いきなりよく分からない外国人が小学校にやって来て、「皆さん、今日から食事の前には手を洗いましょうね」とか言っても説得力がないですし、行動に移されないんですよね。
初めはそれがすごくフラストレーションでした。自分はベナンの衛生環境を少しでも良くしようと努力しているのに、なぜみんな協力してくれないんだろう、受け入れてもらえないんだろうと。自分の存在意義が分からなかったときもありました。
そんななかで気付いたのは、自分が「何かしてあげよう」と考えていたのは、少し上から目線だったということ。そこから行動がかなり変わりましたね。何かしてあげよう、ではなく、現地に溶け込むことが重要だと思うようになりました。僕は「トク」って呼ばれていたのですが、トクって仲間が村にはいて、そういえばあいつ、手を洗えって言っていたなぁくらいに誰かが思い出してくれればそれでいいと考えることにしたんです。

幼稚園では日本語の歌を教えたりもしていた

それから、民族衣装を着て現地のお祭りに参加したり、一緒に食事をしたり・・・、そうすると状況が好転し、最初は「外国人」のトクとして扱われていたのが、コミュニティの一員として、「仲間」のトクだと思ってもらえるようになりました。
ベナンの人ってそうなってくるとあんまり壁がなくて、本当に家族みたいに親しくしてくれます。あの人が親しいなら、トクって良い奴なんじゃって広まってきたりもして。学校の先生もプライベートで仲良くなってから、活動に協力してくれるようになっていました。もちろん仲良くしつつも、やることはきちんとやらなければならないのですが、一緒に生活する中で得られたものは大きかったですね。途上国も初めてで、肌の黒い人と接するのも初めてだったのが、彼らとけんかできるようになりましたから。人間は国籍や人種が違っても、みんな同じ人間だなと実感しました。同じひとりの人間として、構えずに接することができるようになりましたね。

まずは一歩踏み出してみよう

9月からイギリスの大学院に進学されていますが、協力隊後の進路についてはいつ頃からどのように考えていらっしゃいましたか?
国際協力の世界で仕事をする場合、一般的には修士号以上の学位、英語ともう一言語の語学力、2年以上の実務経験が求められることが多いです。協力隊員を経て語学力と実務経験は多少なりとも得られたので、次は修士号が必要だと考えました。そこで、ベナンから帰国後は大学院に留学しようと決めました。といっても経済的に余裕は全くなかったのですが、ベナンは幸いなことにインターネットが使えたので調べてみると、国際協力を目指す人向けの奨学金がたくさんあることが分かったんです。

帰国後、日本紛争予防センターでのインターン修了日の様子

ちょうど僕の出身地でもロータリー財団が奨学生を募集しており、このタイミングを逃すわけにはいかないと、休暇を利用して自費で日本に一時帰国して試験を受けました。これも一歩踏み出したことです。受かるか落ちるかは分からないけれど、やってみなければ分からない、受けなかったらずっと後悔するな、と。不安で一歩踏み出すのを躊躇してしまうとき、自分と対話するんです。いろんな不安要素はあるけれど、やってみたいんだろ? 結局お前にやらないって選択肢はないんだろ?って(笑)。実際に合格を頂けたので、現在平和構築の分野を修士課程で学んでいます。その後は国連職員を目指すつもりです。国連は組織が大きすぎてお役所的など、ネガティブな側面の話も聞きますが、それを含めてまずは挑戦し、自ら経験してみたいと考えています。

国際協力に憧れを抱きつつ、どうやってその道に進めばいいかわからない、あるいは分かっていても、その後のリスク対応に不安があったり、なかなか一歩を踏み出せないという学生もいるかもしれません。徳星さんの場合その道を選ぶことによって発生するリスクをどうお考えになって決断されたかも含め、そういった学生に何かメッセージをお願いいたします。
将来を不安に思うのは当然だと思います。リスクを考えるのも堅実だし必要なことです。ただ、ときにはその不安は実は考えすぎかもしれなくて必要以上に大きくなってしまっている場合もあると思うんですよ。先ほどから話していることですが、一歩踏み出してみてください。そうすれば実際にはなんとかなることが殆どなんですよね。むしろ、追い込まれると人間は何とかするように努力するものですし、自分で決めた道は自分で自然と正当化できるようになると考えています。だからそんなに怖がらなくて大丈夫です。もちろん、無鉄砲とは違うので対策できるリスクは事前に対応するべきなんですが。
そうは言ってもその一歩を踏み出すのが怖いしとてもエネルギーがいるんですよね。だから僕の場合は、国際協力のイベントやシンポジウムに参加したりして自分を奮い立たせたり、自分の夢を周りに話して思考を整理してみたり、不安を紛らわしてみたりしています。あと、小さな成功体験を積み上げていくのも大事です。勇気を出して一歩踏み出してみた経験を重ねていくとそれが自信になって次の一歩を後押ししてくれます。
もし何かを始めたい、でもいろいろな不安要素があると悩んでいるならぜひ、一歩踏み出してみてください。港を出る船と同じで、動き出すまでが一番エネルギーが要りますが、あとはスーっと進むだけです。悩んでいる時間はもったいないです。ビビッときたものを大事にしてください。
編集後記

にこにこと穏やかに、でも熱く想いを伝えて下さる徳星さんは本当に素敵な方で、インタビューしながらすっかりファンになってしまいました。
「国際協力なんて自分には無理だろうな、きっとどこかバリバリなすごい人たちが変えていく世界なんだろうなぁと」・・・まさか、青年海外協力隊を経て海外の大学院に行こうとしている先輩から伺うとは意外でした。どちらかと言えば、どちらかと言わなくても“すごい人たち”がご協力くださっているグローバル人材のインタビュー。そんな中にかつて内向きで国際協力を遠目に眺める学生だった方がいらっしゃることは、ごくごく普通の学生の私でも一歩踏み出したら何かできるかも・・・と思わせてくれる勇気が出る機会でした。

清水 瞳(商学部4年)

Vol. 24「議論に謙譲の美徳は不要、知識を蓄え主張せよ」

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ユネスコ(国際連合教育科学文化機関)
前事務局長
松浦 晃一郎

山口県出身。東京大学法学部在学中に外交官試験に合格し、外務省に入省。経済協力局長、北米局長、外務審議官、駐フランス大使などを経て、1999年、日本人そしてアジア人初のユネスコ事務局長に就任。アメリカのユネスコ復帰、無形文化遺産保護条約、文化多様性条約などの実績を収める。現在、日仏会館理事長、株式会社パソナグループ社外監査役等。

【2013年3月14日公開】

自らの国際経験から見出した「グローバル人材」になるための10か条

40年間の外交官キャリアに続き、99年からは10年間ユネスコ事務局長と、常にグローバルな第一線でご活躍されてきた松浦様ですが、ご自身のキャリアを振り返り、国際的に活躍するためにはどのようなことが必要だとお考えになりますか。
外務省勤務の40年のうち、半分は本省の経済局や経済協力局、北米局などに勤務し、残りの半分はアフリカ諸国やアメリカ、フランス、中国などの在外公館で勤務しました。その後、選挙で当選し国際社会全体のことを考えてユネスコという国際機関の事務局長として働きました。こうした半世紀に渡る自らの国際経験で見出した、世界に出て自己実現するための「グローバル人材の心得10か条」を挙げたいです。
まず1つめに、大学でただ知識を吸収するのではなく、その知識を生かして議論することです。私は、グローバル人材育成において最も重要な役割を担うのは大学教育だと考えています。国際社会に生きるには、他者と議論したり自己主張したりしなければならない時が頻繁にあります。
2つめに、日本の歴史や文化をしっかり勉強することです。海外では1人ひとりの日本人が日本の代表として見られ、日本についてなんでも知っていることが期待されるからです。サブカルチャーも人気ですが、伝統的な日本の文化も大事にしてもらいたいですね。
3つめに、常日頃から外国に関心を持ち、異文化に対し理解を深めることです。ただ、まず自国の文化を理解して、それから異文化を理解してほしいです。
4つめに、国内問題について国際的な視野で分析し、それを日本史上のみならず世界史上の位置づけでも考えることです。そして1つめでも述べましたが、自分の考えを持ち、他者と議論し、切磋琢磨していくことです。
5つめに、国際言語となっている英語で外国人とコミュニケーションや議論ができることです。
6つめに、自分がこれから主として活躍の場にしたいと考えている国や地域の言語を習得することです。国際機関で働くには2カ国語以上話せることが求められます。
7つめに、自分の専門分野をしっかり持つことです。
8つめに、専門分野を持ちつつも、色々な問題に対応できる大局観を身につける必要があり、またその上でしっかり決断を下す力があることです。
9つめに、グローバル人材がそれぞれの組織でポストが上になり、部下を持つようになったときに、彼らを牽引する指導力を持つことです。私が事務局長を務めたユネスコ事務局は150か国前後の人が働いていて、皆文化背景が違いました。そのリーダーとして、異文化に対してしっかり理解し、異文化で育った人を引っ張っていく指導力が必要でしたね。
そして最後に、心身ともに健康であることです。日常からバランスの良い食事を摂り、適当な運動をすることが望ましいでしょう。
以上の10つのうち、特に1から5が大切だと思います。

「議論する場として大学が重要な役割を果たす」とのことですが、松浦様は大学時代をどのように過ごされましたか?
東京大学入学後は、水泳部の活動に熱心に取り組んでいました。なかでも、1年生の時の駒場祭(秋)で、水泳部の男子全員で水着姿でかっぱ踊りをし、冷たいプールに飛び込むというパフォーマンスをしたのは忘れられません。勉学の方は、2年生の後半から一般教養に加えて法律の勉強が始まりました。そして2年生の12月末から外交官の試験勉強を始め、3年生の時に受験しました。まさか一発で合格すると思っていませんでしたが、受験者約700名のうち合格者17名に入ることができました。
入省後、研修員として、アメリカのペンシルベニア州にあるハヴァフォード大学に2年間留学しました。ハヴァフォード大学は小規模な大学で、私が専攻した経済を学ぶ学生はたった15人しかいませんでした。この2年間は、授業の中でも外でもアメリカ人の学生とあらゆるテーマについて議論したものです。それが私にとって、しっかり自己主張することを体で学ぶ最初の機会であったと言えます。この経験は、後の外務省でもユネスコでも大変役に立ちました。
その点、日本の大学教育は弱いなと感じるのです。日本の大学は知識を吸収することに重点を置いていて、その知識を踏まえて自分の考えを持って議論する機会が少ないので、もっと議論をする機会を与える場であってほしいです。議論する際は、日本特有の謙譲の美徳は不要ですね。

ユネスコでの忘れられない経験

1999年11月から10年間、ユネスコという世界193カ国が参加する国際機関のトップを務められました。この間最も印象的だったのはどのようなことでしょうか。

ユネスコ事務局長執務室にて

アメリカがユネスコに復帰したことです。ユネスコ事務局長に就任した際、私は5、6年でユネスコの普遍性を取り戻すという中期ビジョンを打ち立てました。ユネスコが世界的な機関として動くには、世界に大きな影響を与えるアメリカとシンガポールの復帰が必要だったのです。
アメリカは1984年12月に、当時のレーガン共和党政権がユネスコの運営に不満を持ち、脱退を決めました。ユネスコが教育、文化、科学およびコミュニケーションの分野におけるグローバルな問題について議論し、その結果を実施していくにあたって、世界第一のアメリカがメンバーに入っていないということは大きな欠陥でした。
まず、アメリカが不満を持ち脱退に至った直接の理由を検証しました。
考えられた理由として、第一は、ユネスコが冷戦中に東運営側に与しがちだったことです。その結果アメリカから「ユネスコは政治化している」と批判されました。しかし東西冷戦の終了に伴い、この関係でユネスコが批判されることはなくなりました。
第二の理由は、1980年代にユネスコが新情報秩序を打ち出したことです。これは世界の世論が欧米のマスコミに支配されがちであることから開発途上国のマスコミを強化しようというものでしたが、アメリカからすれば、新情報秩序は報道の自由に反しているように思われました。
第三の理由は、ユネスコのミス・マネジメントです。不合理な事務局本部の体制、財政規律の欠如、在外事務所の乱立については、アメリカからだけでなく他のメンバー国からも批判されていました。
こうした検証の結果、私はユネスコの政治化の回避、報道の自由の確立、マネジメント改革に重点を置くことにしました。
また、当時のブッシュ大統領やパウエル国務長官にユネスコ改革に関する手紙を送り、外務省時代に知り合ったアメリカ人の友人を通じて、アメリカのユネスコ復帰を応援してもらうように働きかけを行ないました。
そして2003年にライス大統領補佐官がイニシアティブをとって、パウエル国務長官と2人の名前で「アメリカはユネスコに復帰すべき」という意見書をブッシュ大統領に提出し、大統領がそれを受け入れたという情報が入りました。実際、ブッシュ大統領の決定により、アメリカのユネスコ復帰が決まったのです。復帰するタイミングは2003年10月1日でしたが、ユネスコ総会が9月29日から始まることになっていたため、そのユネスコ総会初日にアメリカのユネスコ復帰の式典を行いました。この時が一番嬉しかったです。
大学生に向けてメッセージをお願いします。
現代の日本の国民生活は豊かで便利ですが、日本全体の経済は良い状況にあるとは言えません。そして、この状況はいずれ個々の生活にも影響するでしょう。また、今後も国際化が進み、経済的にも文化的にも、さらに他国との結びつきが深くなっていくと思います。日本企業内でも国際的な部署があったり外国人社員がいたりします。もはや日本国内だけを考えて仕事したり生活したりできる時代ではなくなりつつあり、日本は国際的に孤立して存立・繁栄し得ないのです。こうして日本が国際社会に緊密に組み入れられていく中で、私たちは世界的な視野を持って国際社会で生きていかなければならないのですが、最近の日本の若者は内向き志向であると聞きます。私はこの状況を心配しています。ぜひ、一人ひとりが国際的な感覚を養い、個々の生活、そして日本全体を良くするために、頑張ってもらいたいです。
編集後記

国際舞台の第一線で活躍された「国際人」の先駆者であり、まさに「グローバル人材」である松浦様。お会いする前は、勢いや強さにあふれている方かと想像していましたが、実際は穏やかな雰囲気で優しく語りかけてくださいました。50年間走り続けてこられたご経験や、日本の若者に対する期待や激励のお言葉から、内側に秘めたる情熱を感じました。ご経験に裏打ちされた言葉をかみしめ、私もがんばっていきたいと思います。

高橋 亜友子(文学部4年)

Vol. 17 「マルチな専門性を獲得すること。誰もがもう一度話したいと思うアイデア人材を目指せ」

CATEGORY : 国際機関
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世界銀行東京事務所 駐日特別代表
谷口 和繁

1977年、東京大学法学部卒業。81年、米国スタンフォード大学ビジネス・スクール、MBA取得。29年間の財務省勤務を経て、2008年3月より世界銀行駐日特別代表。国際金融では、開発金融政策、外国為替市場に携わったほか、ウルグアイ・ラウンド、日米構造協議にも参加。IMFに審議役として4年間出向。国際交渉や知的支援などの目的で50カ国以上を訪問した経験を持つ。

【2012年5月23日公開】

日本人は英会話が苦手? 違う、リーディングとライティングだって通用しない

学生時代は将来のキャリアについてどのようなイメージを持っていましたか。
将来この仕事に就きたいという具体的なイメージはありませんでしたが、世界で通用する人材になりたいということは常々思っていました。大きな仕事をして、それによって世の中をよくしたいと思っていましたね。世の中が変わっていくプロセスの中で、貢献したいというイメージを持っていました。大学卒業後、そんな風にダイナミックに社会に貢献できる舞台と信じて当時の大蔵省に入省しました。財政や金融に対してはある意味、社会を変えることのできる道具として興味を持っていましたが、本来の目的としては大きな社会の仕組みづくりとか、新しいことをやってみたいと漠然と考えていましたね。
世界で通用する人材になりたいと思ったきっかけは何ですか。
学生時代は、受験英語でもそれなりに通用すると思っていた時期もありましたが、英語のラジオ・ニュース・チャンネルも聞き取れなかったんです。まして会話はできません。これでは世界で通用しないと思いました。法学部でしたので、法律の勉強もがんばってはいましたが、それに加えて一生懸命英語の勉強にも取り組みました。夜間の英会話学校に毎日3時間通っていた時期もあります。しかし、実際は、英会話だけでなく、リーディングもライティングもできないことがわかりました。日本人は英語の読み書きはできても話せないとよく言いますが、そうではないんです。読むことも書くことも業務をこなせるレベルではないんですよ。しかし、ライティングは訓練すればスピーキングよりも早く上達します。私の場合、書く力はアメリカのビジネス・スクールに留学していたときに鍛えられました。そのとき現地学生も受けることができる学生向けのライティングのプログラムを受けました。現地の学生よりも書くのに時間はかかってしまいますが、相手にわかりやすく論理的に書くことを念頭において書く訓練を続けましたら、最後はネイティブよりもよい点数が取れました。

来る仕事は拒まず、の精神でどんな仕事にも前向きに立ち向かう

お仕事をする上で大切にしていることはありますか。
来る仕事は拒まず、という自分のポリシーを大切にしています。なぜかというと、どんな仕事を受けたとしても、後々さまざまな場所で必ず役に立つからです。財務省で始めて課長補佐となったときに世界銀行の担当でしたが、その最初の仕事が世界銀行総裁の報酬を審査することでした。世界に一つしかないポストの報酬を審査するというスキルが、後の仕事に役立つのか、と疑問に感じたこともありました。ところが、次の仕事がたまたま銀行局で日本銀行総裁の報酬を審査する仕事だったのです。またも世界に一つしかないポストです。前回の経験が役に立ちましたが、前にもっとやっておけば良かったとも思いました。これは、自分の経歴を振り返って気づいたことですが、一生懸命にやった仕事、自分が真剣に携わった仕事は必ず人生のある部分で繋がります。与えられた仕事に対して、つまらないなぁとか、自分にとって何のメリットがあるのかなぁとか、そのように思うときは必ずきます。でも、不思議なことに、一生懸命にやっておくと必ず後々自分の役に立つんですよね。
国際的な場で交渉をされるときはどのようなことを心がけていますか。
交渉するときは、最後はイエスかノーの話になってきますが、そのときに反対する人たちがどうして反対するのか、何に困っているのか、ということをよく理解することが大事だと思います。話し合っても必ずしも本当に不満な点を教えてくれるわけではないので、相手のバックグラウンド、つまり国なら歴史や政治、経済を勉強する必要があります。そして、反対している人たちが受け入れられやすい論理を一緒に作り上げて行くんですね。最終的な段階に来ると、お互いにこれをやると得をする、これは損をするというようなことがゼロ・サムのように見えてきます。そういうときに、実は相手にとってマイナスではなく、どのような利点があるのかを説明して納得してもらうことが大事です。交渉している同士というのは面白くて、お互いが何を考えているのかわかるわけですよ。だから交渉が長い場合は、交渉している人同士は仲良くなるのですが、お互いの立場があるために、なかなかうまく交渉がまとまらないときがあります。そういう場合は、どのような論理が相手の後で妥協を妨げている勢力を和らげ、説得できるかを考え、相手が納得しやすい論理を作っていきます。

目指すべきは、幅広い専門性を持つオールラウンダー

将来グローバルに活躍するためには何が大事だとお考えですか。

講演する谷口さん

世界的に活躍している人を見ると、相手を感動させられる何かを持っていることです。グローバル人材として、どういう人を目指すかというと、重要なのは、何か課題を抱えている人が相談したいと思う人、壁にぶつかっているときに何らかのアイデアやインスピレーション、示唆を与えることのできる人材だと思います。アイデア人材、とでも言いましょうか。そのような人材を目指すうえで、少なくとも自分の専門についてはより深く勉強するのが当たり前です。さらにさまざまな人と会い、その考え方から多くを学ぶことや現場に出向くことが大切です。そういう機会を貪欲に探していって、自分の引き出しをどんどん増やしていけるとおもしろいですよね。自分が憧れる存在、将来同じように国際的に働きたいと思える人を見つけることも大事だと思います。そういう人がいると勉強の励みにもなりますよね。
専門性を磨く上で大切なことは何ですか。
国際的な社会は一種のプロ野球のような組織。プロ野球でも単に運動神経がよいから採るというわけにはいきませんよね。チームの戦略をもって選手を採用しているはずなので、ピッチャーが欲しいチームに足の速い外野手が応募してもチームのニーズにマッチしません。ですが、足の速い外野手は必ずどこかで必要です。そういう意味で、「私はこういうことができます」、「私が貢献できることはこれです」というものを一つ持っていると活躍できる舞台はどこかに必ずあります。だから、自分の専門性を狭めて追求していくというやり方もありますが、世の中は変わりますので、ファーストもできるしセカンドもできるというように、少し応用力を持った方が本当はよいと思います。一つひとつ自分の専門性を作ったうえで、それを広げていく必要があります。なぜなら自分一人では仕事はできないんですよ。一人で完結するという仕事はありえません。世界銀行の場合も大きなプランを作るためには、他のセクターの専門家と話ができること、相手の専門も理解できることがとても重要なのです。
どのような日本人学生が世界銀行に就職することを望みますか。
日本という立場から途上国を見てチャリティーに近い発想を持つ人よりも、むしろ成長を遂げている途上国の人々と協力することでチャンスを広げていける人がいいですね。現在、成長しているのは先進国ではなく途上国です。日本で生活していたら、入り口として貧しい人を助けてあげたいという気持ちで国際機関に入ってくるのは理解できます。しかし、パートナーだという意識を持って、この世界に飛び込んでほしいです。途上国での持続的成長チャンスは世界の持続的成長のチャンスです。支援することで世界中がよくなるという発想ですね。情けは人のためならず、と言いますが、相手だけでなく自分のためでもある、ということです。国際援助というのは、結局世界中のためになるし、自分のためになるんです。マルチな専門性で、問題の解決に対して幅広い視点から考えられる、そういう専門家を期待しています。
学生に向けてメッセージをお願いします
たとえその瞬間はつまらない仕事だと思っても一生懸命やっておくことです。スティーブ・ジョブズが言っている有名なセリフで、「ドット(点)を繋げ」というのがあります。点というのは自分がしてきたいろいろなことで、それを繋いでいくということです。前にやった仕事の価値があとから出てきて、それが後になって分かるというような意味です。やる前にそのことが将来どのドットに繋がるかあらかじめわかっているわけではありません。しかし、そのドットをしっかりやれば、あのときのドットが今の自分がやっているこのドットと繋がって、新しい大きい仕事ができるということになります。一個一個のドットを大事にして、一生懸命にやればあとから太く繋がるんですよ。一生懸命やらないと、ドットが消えかかって、いつまでも網にはならずにドットが一個しかない状態のままです。そういう意味では、自分があまりやりたくないことにこそ、チャンスは広がっているのかもしれませんね。
編集後記

一生懸命やったことは必ずどこかで繋がる。学生の立場から見て、これは勉強にも言えることだと思いました。何の役に立つかわからないと思って勉強していたことが、あとになってふとしたことから、やっておいてよかったと思えた経験をしたことがある人も多いのではないでしょうか。そして、谷口さんが伝えたかったのは、目の前のことを一つひとつ一生懸命やることが大事だということだと思います。私も「自分にはこれができる!」と胸を張って言えるように、将来太く繋がるようなドットを増やしていきたいです。

陸 欣(国際教養学部4年)

Vol. 16 「人生は一本道じゃなくていい。体力・ネットワーキング能力・コミュニケーション能力を培って国際舞台へ」

CATEGORY : 国際機関
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国連環境計画(UNEP) ナイロビ事務所
大賀 敏子

東京都生まれ。1983年一橋大学卒、環境庁に勤務後、国連環境計画(UNEP)の環境計画官(ナイロビ)、JICA専門家・タンザニア政府環境政策アドバイザー、ESCAP環境管理専門家(バンコク)を経て1999年より再びUNEPナイロビ勤務(事務局長室管理理事会渉外官・職員組合副委員長)。著書に『心にしみるケニア』(岩波新書)があるほか、季刊『ニューエネルギー』(都市エネルギー協会)など雑誌記事への寄稿多数。ソフトバンク新書から『日本人の知らない環境問題―「地球にやさしい」では世界は救えない』本年5月15日刊行予定。

【2012年5月18日公開】

国連とは、コミュニケーションとネゴシエーションとロビイングを合わせた塊

国連での仕事内容を教えてください。
UNEPは、環境に関する世界各国の活動の総合的な調整をし、また新たな問題に対しての国際的な協力を推進しています。私の仕事は、UNEPで決議されたことを実行するために世界中の環境大臣と話し合い、調整をすること。また、UNEP内に常駐している各国の代表ともやり取りをしています。言わば、「国家間の調整窓口」ですね。よく国連を世界政府のようなものだと勘違いしている人がいますが、国連というのは「場」なんです。意見の調整の場を提供しているだけに過ぎません。世界中の人が集まり、何かを決め、きちんとその方向に持っていくために、各国間の調整役として国連職員というのはいるのです。
国連職員になるまでの道のりを教えてください。

UNEPでの大賀さん

大学を卒業して環境庁に入省しました。国際機関で働きたいなと思いながらも、どうやったらそういうところで働けるのかわからなかったので、とりあえず国家公務員になったわけです。5年半環境庁で働いた後、JPO(Junior Professional Officer)派遣制度でUNEPへ行きました。JPOとは、自国の若手職員を国際機関に送り込むために、外務省が費用を負担して、世界にある国連の部署へ2、3年派遣する制度です。UNEPへの派遣期間が終了した後、環境庁の席は残したまま、今度はJICAの仕事でタンザニアとタイへ行きました。その後直接UNEPからオファーが来た際、ケニアはとても住みやすくて気に入っていたこともあり、環境庁を退職し、国連の正規職員として戻ろうと決意しました。
国連で働いていて難しいことは何ですか?
国連に入る時に、どこの国にも偏らない、中立の立場を取って行動することを誓わなければなりません。しかし、それって実際は非常に難しいことなんです。国連職員の役目は各国の調整をすることと言いましたが、政府間の調整は、表舞台でのみ行われるわけではない。例えば、A国が自分の政策をUNEPにさせたいとなると、まずはUNEP事務局職員に取り入って、中からもその政策が通るように動く。このようにコミュニケーションとネゴシエーションとロビイングを合わせた塊が、国連なんです。ちなみに、日本は政策を通したい時も、日本人らしい生真面目さでやることが多いですよ。

価値観が異なる人と出くわして大変な時には「こういう人もいるんだ」と思えばいい

オランダ人や日本人にとってのスラムと、ケニア人にとってのスラム

赤道直下のケニア

国連で働く動機として、「世界の貧困を撲滅したい」だとか「世界の福祉の向上を願って・・・」というのは一般的によく聞かれる優等生的な答えですよね。私自身も、小さな貢献しかできないかもしれないけど、世界のために働きたいという想いでやっています。しかし、ケニア人の同僚に国連勤務の志望動機を聞くと、「お金のためさ!」と堂々と答える人がいる。もうびっくりしました。去年、うちのオフィスにオランダ人のインターンが来て、インターンシップの最後に「スラムへ行って、貧困の中でもたくましく生活している人をこの目で見たいから連れていってくれ」と言ったんです。私は、すごくいいことだと思いましたよ。もちろん、スラムやそこに住んでいる人は見せ物ではない。それでもオランダや日本に住んでいると、貧困というものがやはりよくわからないですからね。すると、ケニア人の同僚は「とんでもない!あんなところはわざわざ行くような場所じゃない!」って言う。彼らケニア人エリート達は、スラムに住むような人達は別世界の人間だと思っているんです。そのオランダ人や、日本人の私とは感覚が全く違う。同僚のみんながみんな、「よい世界にするために働きたい!」と思っているわけではない。国際的な場で働くこととは、価値観や考え方が違う人がたくさんいるということ。それでもそういう時は「ああ、こういう人もいるんだな」って思えばいいんです。
感情を押さえて冷静に判断、分析する訓練を
みんながお互いに友好な関係を保とうと思っているわけではない。自分の主張を通そうという時に、ガーっと闘いを挑むかのようにアプローチをしてくる人もいる。例えば、各国に流さないといけない文書をA国に頼まれて流したところ、「なに間違ったことやっているんだ?!」とB国からお怒りの電話を受けました。ガーガー怒鳴って、罵倒するわけですね。それで、お互いのやり取りを遡ると、最初にB国がA国に情報を送った時点でB国に誤りがあった。そうやって自分の意見を通す時に、怒鳴り散らし、まくし立ててくる人って世の中にはいるんですよ。人間ですから怒鳴られると腹が立つ。それでも、抑えて、聴いて、相手が本当に言いたいことは何だろうとシンプルに考えるんです。その時は、「要するにまた直せばいいんでしょ?」となりました。咄嗟に反応せずに、分析してから行動に移す。これは訓練です。
日本人の強み
先ほどのような人がいるかと思いきや、本当に真面目な人もいます。日本人はまさにその例です。国連っていうのは、専門知識が豊富な人たちが大勢いるから、会議の度に15cmほどの分厚い資料を配布する。それを読んでこない国の代表もいっぱいいるのに、日本の出席者は隅々まで読んできます。意識しなくても、持ち合わせている日本人の真面目さはグローバルな場でも信頼を得る大きな強みだと思っています。

人生は一本道じゃなくていい

グローバル人材に必要な資質とは何だとお考えですか?
三つあります。一つ目は、ずばり体力です。グローバルに働くということは、時には時差との勝負です。私のボスなんて、1年の3分の2は海外出張ですよ。そして、1年の半分は機中泊です。12時間の時差があるようなところへ飛んでいって、飛行機を降りたらお迎えの車が待っていて、すぐ会場へ連れて行かれて、疲れた顔もせずにそこでスピーチをしたり、各国のお偉方と必要な事柄を話し合ったりして、結論をまとめる。まあ、それは事務局長クラスの話ですが。
次にネットワーキング能力。フォーマルとインフォーマルの両方で友達を作れることは大切です。ネットワークって何かというと、ずっと親しげである必要もないし、愛し合っている必要もないですが(笑)、必要な時に頼んだら情報をくれるなど、そういう関係を作れることですね。
そして、最後にコミュニケーション能力です。自分を的確にわかりやすく表現できること。日本人にとって、英語はハンディー。私も最初は全然わからなかったです。しかし、国連の仕事で使う英語の単語は、そんなに多くない。だから、練習さえすればすぐ慣れます。過度に心配する必要はない。もっと言えば、日本人は英語がだめだと思っている人がいっぱいいますけど、世界には英語がだめな人はもっといっぱいいるんです。コミュニケーション能力というのは話すことだけではない。相手の話を聴くことも入ります。怒鳴り込んでくる人の話も静かに聴き、お金のために国連で働くと言う人の話も聴く。そういうことができる人っていうのは、どこでも通用すると思います。
最後に、国際機関で働きたいと思っている学生にメッセージをお願いします。

人生は一本道じゃなくていい。UNEPを見渡してみても、それぞれ色々好きなことをして国連に流れついた人、NGOなどで活動してきた人、30歳や40歳まで民間企業に勤め、自分の人生これでいいのかな?と思い、国連へ来た人など実に様々です。だから、最初から国連っていう考えをする必要はないと思います。大学の時には、自分の興味があることをする。例えば、外国に行くスタディツアーなどが提供されているのなら、ぜひ利用するべき。見聞が広められるでしょう。今の時代の日本の学生はすごく恵まれています。このようなWebマガジンを通して、海外で働いている人からアドバイスを得ることもできる。学生時代にスタディツアーと言って海外へ簡単に行くこともできる。私の時代にはそういうのはありませんでした。ですので、学生のみなさんには与えられた機会をぜひ自らつかみ取って、見聞を広め、知識を深め、自分の世界を大きく、豊かにしてほしいです。人生は一本道じゃなくていいから。
編集後記

途上国の生活向上や、世界各地の紛争や環境問題の解決に取り組む、まさにワールドワイドな組織である国連に憧れを抱くことも私はしばしばあります。しかし組織がとても大きいので、各団体でそれぞれのスタッフがどういった思いでどういう仕事をしているのだろうと思っていました。今回はそれに合わせ、お仕事の裏話も聞くことができ、とても勉強になりました。海外の第一線で今現在活躍されている大賀さんだからこそ、日本人の特徴と強みを客観的に見ることができるのではないでしょうか。また、自分の価値観とは全く異なる人でさえも受け入れる力を持つことが、グローバルに活躍する人の素質にもつながるし、自分の人生も豊かにしていくものだなと思いました。

斉藤 愛里(教育学部4年)

Vol. 14 「途上国で直面した貧困という課題。経済からアプローチしてその解決に日々取り組む」

CATEGORY : 国際機関
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国際通貨基金(IMF)アジア太平洋地域事務所(OAP) 所長
石井 詳悟

1981年にIMFに着任後、タイ駐在上級代表をはじめ、マレーシア、シンガポール及びベトナムのIMF代表団を率いたほか、アジア太平洋局ならびに政策企画審査局(現戦略政策審査局) や金融為替局 (現 金融資本市場局)の要職を歴任した。また、1989年から92年までは日本輸出入銀行 (現 国際協力銀行)で参事役を務めた。南山大学経済学部、 同大学院修士課程を経て、オレゴン大学で博士号を取得。

【2012年3月19日公開】

初めて直面した貧困の世界

海外に興味を持ち始めたのはいつですか。またどのような学生生活を送っていましたか。
私が通っていた南山大学で、外国人留学生との交流活動を盛んに行っていたことがきっかけです。私が学生だった当時、出身地の名古屋で大学を卒業したら、そのまま名古屋の企業に勤める、というコースが一般的でした。しかし、私の場合は大学で留学生と交流する機会が増えるにつれ、海外への興味が増していきました。学部生時代に海外留学をしたかったのですが、当時は1ドル=365円の時代で留学は大変難しかったのです。経済学で学位を取得した後も研究を継続するために、大学院に入学しました。当時、経済発展に関する研究は、アメリカやイギリスが進んでいたため、大学院で使用するテキストは英語の原著を和訳したものがほとんどでした。翻訳版テキストを使って勉強するうちに、なぜ自分は日本で勉強しているんだという疑問を持つようになりました。そして、最先端の研究が行われているアメリカで勉強したいという希望が次第に強くなっていきました。幸いなことに、奨学金を受けてアメリカで学べることになりましたが、1年間という短い期間でした。アメリカでの勉学を続けたいと思い、留学期間が終了に近づくころ、奨学金を提供してくれる機関を探して、その先も留学を続けることができたのです。
IMFに就職した経緯について教えてください。
大学院生だった当時は、正直国際金融機関にはあまり興味がなかったです。ただビザの取得が非常に難しい時代でしたので、金銭的な理由以外でも留学後にアメリカに残るのは困難でした。そのときに、IMFや世界銀行のような国際機関にはビザの問題がないということを知りました。つまり、合格さえすればそこで勤務できるのです。そうした理由から国際機関に興味を持ちました。それでは、どうしてIMFを選んだのかと言うと、1980年代初頭のIMFは今とは異なり、経済研究と実務に関する仕事がほぼ半分ずつくらいあったからです。IMFには国際経済と金融分野の研究者がたくさんいましたし、IMFから多くの論文が提出され、最先端の研究が行われていたのです。私は研究と実務の両方に関心があったため、その希望が叶うと思いました。実際入ってみると、ラテン地域に債務危機が発生しました。その後も多くの途上国が国際収支問題を抱えるようになり、IMFの仕事がだんだんと融資に関係した実務に移行していきました。
国際金融機関で実際に働くようになって、石井さんご自身に何か変化はありましたか。
世界には貧困に苦しむ多くの人々が存在するということを認識したことです。実務として、私が最初に担当したのはバングラデシュでした。各国からの援助や国際機関からの融資を頼りにしている非常に貧しい国です。現地に出張し、バングラデシュの政策担当者と協議したとき、初めは大学院での研究とはまったく異なる世界であると感じました。IMFでは加盟国への経済調査団を通常ミッションと呼んでいます。ミッションは5~6人のエコノミストで構成され、当該国の政策担当者と議論を繰り返し、課題を分析し政策提言を行います。それまでは日本とアメリカの経済だけを研究していたので、貧困に対する知識はほとんどありませんでした。バングラデシュは当時洪水の影響で食糧危機が深刻でした。餓死者も多い現場に突然出張したわけです。非常にショックでしたね。自分は日本に生まれてよかったと気づくと同時に、貧困にあえぐ人々を可能な限り救いたいという思いが募りました。それには、ただお金を渡すということだけではいけません。経済面の政策提言を行うことで、当該国が少ない資源で経済成長を遂げられるようにしなければなりません。バングラデシュに赴任した後は、世界中に貧しい人々がいることを常に意識するようになりました。

人々の生活に影響を与える仕事だから責任も大きい

バングラデシュ勤務の後はどのようなキャリアを歩まれましたか。
その後は中国、ネパール、ベトナムを担当したのですが、大体同じような仕事内容です。1997年にタイを中心にアジア危機が起きましたね。その際タイの危機対応にあたるチームの一員に加わりました。調整プログラムを作るなどして、本当に夜寝る暇もないほど働きました。そのあとバンコクに2年間ほど駐在員として勤務しました。実際に政策担当者と協議し、政策提言することが実は各国に大きな影響を与えるんですね。特にIMFの融資を受ける国はIMFの条件を実行しない融資が実施されないので、交渉を経て政策提言を受けます。政策提言はその国の人々の生活に大きな影響を与えますので、我々はその責任を自覚しながら行わないといけません。振り返ってみたときにそれが常に正しかったというわけにはいきませんが、その場ではできる限りの努力をし、適切な政策を提言していくことが必要です。それがやはり一番やりがいがあるところであり、大学では経験できないことですね。非常に大きな責任が伴う仕事です。
政策提言というのはどのようなプロセスで行われるのですか。
ミッションチームはだいたい5,6人で、財政、金融、国際収支、実態経済などの分野をそれぞれ担当し、Mission Chiefがチームの仕事を統括します。調整プログラムを作るときですと、まずお互いに連携を取りながら、現地に行く前にできる限りの情報を集めて分析をします。そしてどのような問題・課題があるのかを洗い出し、それに対してどのような政策が必要なのかをチーム内で議論し、それらをまとめたものを持って現地に向かいます。現地では政府機関や銀行、民間それぞれから意見を聞き、具体的にどのような政策が適切なのかをさらに議論したうえで、調整プログラムを交渉します。調整プログラムの内容はPress Statementとしてウェブ上に公表されます。

英語のライティング力とディベート力を磨いた留学時代

グローバルに活躍するためにはどのような能力が必要だとお考えですか。

スピーチする石井さん

まずは英語力。特に書くことが大事です。それからディベートができるということですね。日本人は授業でも質問しませんし、こういう質問をするとまずいのではないかと恐れるんですね。一方で私がアメリカの大学で教えていたときは、学生から質問がたくさん来ましたし、彼らはまったく恥じません。自分がわからなかったら質問すればいいんですよ。その傾向は国際会議でも出てきます。日本人を含めアジアの人はなかなか質問しません。会議で発言しないと、国際的な舞台では何も考えがないと見なされてしまいます。ディベートは、日本語でも練習することを勧めます。学生なら授業中に質問をすることが第一ですね。英語で話す機会を作るのも大切です。英語の新聞や雑誌を読むこともお薦めします。今はケーブルテレビで英語のチャンネルも見られますので、ニュースをできるだけ英語で聞いて理解するというようなアプローチが必要だと思います。私は大学院の留学時代は、TAをしていましたが、当時は授業料が無料になったばかりでなく、学生とのやり取りで自然に英語の練習になりましたのでお薦めします。
世界を舞台に活躍したい学生に向けて最後にメッセージをお願いします。
グローバルに活躍するためには、異なる文化、社会制度の中で育った人たちと対話ができるということが一番大事だと思いますね。当然その中に英語力が出てきますし、外交技術も大事です。自分が思っていることを言うと同時に、相手が言っていることを理解することも重要ですね。あとは常に世界に目を向けて、優れている点を見出して、学んでいくというのがグローバルな人だと思います。学生にとってはやはり世界を歩いてみることだと思うんですよ。実際に自分で世界を見てもらいたいですね。
国際通貨基金(IMF)アジア太平洋地域事務所(OAP)のホームページ
http://www.imf.org/external/oap/jpn/indexj.htm
編集後記

今回のインタビューを通じて、一口に国際金融機関と言っても、IMFではエコノミスト以外に、半数が様々な分野の専門職や一般職の職員であると知り、IMFを目指す人には多くの可能性が開かれていると感じました。しかし、日本人スタッフをはじめ、アジアのスタッフはまだまだ少ないのが現状です。石井さんも、国際機関に興味をもつ若者が減ってきていると感じているそうで、IMFに興味がある学生の力になりたいともおっしゃっていました。進路選択に限ったことではありませんが、難しそうだからと最初から諦めるのではなく、自分にできることからやっていくことが大事だと思いました。「人の何倍も努力すればなんとかなる」という石井さんの言葉がとても心に残りました。

陸 欣(国際教養学部4年)

Vol. 5 「知らない領域に飛び込んで世界を広げてみよう。それから好きなものを選択すればよいのだから」

CATEGORY : 国際機関
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欧州復興開発銀行(EBRD)
中沢 賢治

1956年新潟県出身。79年東京大学法学部公法コース卒業。79~90年東
京電力株式会社勤務。88年ペンシルベニア大学院行政学修士号取得。90年外務省アソシエート・エキスパート試験合格。91~92年国連工業開発機関ウイーン本部勤務。93年より欧州復興開発銀行勤務。ロンドン本部電力チームウズベキスタン、マケドニア、キルギス事務所長歴任。2011年8月EBRDビジネス開発担当。12月EBRDロンドン本部中小企業技術支援チームに赴任。

【2011年12月27日公開】

今の仕事との出会いは運命のようなもの

今のお仕事に就かれた経緯について教えてください。
日本の電力会社で燃料関係の仕事をしていましたが、海外の燃料事情を調査し、国際的に活躍する人々と関わる過程で、自分も外の世界を経験してみたいという気持ちが強くなりました。ちょうどその頃、たまたま新聞で外務省アソシエイト・エキスパートの募集を見つけました。1989年の夏の話です。これは日本政府が国際機関に2年間日本人を派遣するプログラムです。このプログラムがなければ、私が国際機関で働き始めることはなかったでしょう。このプログラムの資格試験に合格したあと、受け入れ先の国際機関は自分で探す必要がありました。それまで燃料事情調査、調達計画の仕事をしていましたので、経験を活かせる仕事を探しました。ちょうどウィーンに本部のある国際連合工業開発機関(UNIDO)の省エネルギー・省資源に関するプログラムで空席があると聞いて、応募を決めました。以前の仕事から発展途上国の経済開発に興味を持っていましたし、やはり自分の経験を踏まえて一貫性のある仕事がしたかったですね。自分の専門分野を見つけることは、学生の皆さんが将来の選択肢の一つとして国際機関で働くことを考える際に一番大切なポイントだと思います。自分の専門から全く異なる分野に移るのはとてももったいないし、なかなか難しいと思います。欧州復興開発銀行(EBRD)との出会いについては、運命かな
としか言えませんね。EBRDが発足したばかりで、たまたま私が欧州で仕事をしていて、その新設の国際機関が電力分野の経験
者を募集していたという3つの偶然が重なったのは幸運でした。
今までで一番印象に残っているお仕事は何ですか。
1993年にEBRDに入ってからいろいろな国を回ってきましたので、どれか一つを選ぶのは難しいですね。でも一番心に残っているという意味では、EBRDに入って初めてプロジェクト・リーダーとして、アゼルバイジャンの水力発電所の改修工事を担当したことです。1994年のことで、プロジェクトの発掘から理事会承認を得るための最終報告まで、仕事のサイクルのすべてを責任者として担当しました。EBRDでリーダーとして責任を与えられた初めての経験でした。アゼルバイジャンの電力公社総裁とは、情報開示の必要性、電力事業の構造改革の方向性、将来の投資家誘致策などを話し合いました。発足したばかりのEBRDに対してマスコミでその活動を批判するキャンペーンが行われるなど、EBRDが難しい状況を迎えていた頃でした。そうした中で自分にまかされた大きなインフラ・プロジェクトでした。これが調印に至り、英経済誌エコノミストの記事でEBRDの最近の活躍の例として言及されたときは、とても嬉しかったのを覚えていますね。EBRDはとてもスリムな組織なので、それだけの権限を与えられ易いという面白さがあります。

12年間に及んだ途上国勤務経験を活かして新たな分野に挑戦したい

今のお仕事のやりがいを教えてください。
EBRDは1991年に発足しましたが、世界銀行やIMFと比べて後発の機関である点から、設立の際に既存のものとは異なる機関にするという条件がありました。その例として、EBRDはマクロ経済分析を担当する部局は少数精鋭でオペレーション・サポートを優先課題とし、経済分析については可能な限り、先行機関のデータと調査結果を活用していることが挙げられます。EBRDが民間セクターに傾斜し、非常に専門性が強く、機動性が高いというのは、このような国際協調があって初めて可能になる話です。それから私にとってEBRDの一番の魅力は、柔軟性があって風通しが良いというところです。私が日本の会社を辞めた理由の一つが、日本だけでなく他の世界も見たいと思ったことでした。私はEBRDで18年間勤めてきましたが、最初は電力チームのバンカーになり、ウズベキスタン、マケドニア、キルギス共和国の事務所長として現地でEBRDを代表する仕事に就いてからは地場の銀行や中小企業の支援を仕事の中心としてきました。このようにいろいろなタイプの業務と金融商品を経験し、銀行内で職種を変えることができたので、EBRDの業務に飽きるということはまったくありませんでした。「自分は専門家として一つの分野を長くやりたい」という方もいますが、そういう方はEBRDを経験してから元々の産業セクターに戻ることが多いようですね。EBRDには長く勤続しなければならない文化はなく、風通しがとても良いですし、現実の経済と近いところで仕事ができることがやりがいです。この12月からはロンドンの本部に赴任し、中小企業向けの技術協力を担当することになっています。
辛かった経験や壁にぶつかった経験があれば教えてください。
国際機関で働き始めて、最も大変だったことは言葉です。英語圏での留学経験はあったので、会議やレポート作成もなんとかなると思っていましたが、最初は大きなプレッシャーがありました。国際機関で働く際に、英語でのレポート作成能力とプレゼンテーション能力は必須です。幸か不幸か、世銀出身で人使いの荒いことで有名だった当時の上司は、私の作成したレポートにいちいちコメントを入れる人でした。自分のドラフト力が不足しているのかと最初は悩みました。ところがその後、ネイティブの同僚たちも同じ目にあっていることを知って気が楽になりました。この上司の指導の下で6年間を過ごした頃には、一人で仕事ができるようになっていました。EBRDの場合はロシア語圏の国が多いので、次のチャレンジはロシア語でした。途上国の勤務で現地の言葉がわからないで、通訳を待っていると交渉が不利になることもあります。私はロシア語の歌のCDを毎日聞き、ロシア語と日本語の両方の字幕付きの映画を繰り返し見ることで、会話の内容がだいたい理解できるようになりました。相手の言っていることが理解できると、国際会議でも非常にプラスなのは間違いないです。話すほうはまだ発展途上段階ですね。
中沢さんは中央アジアの国々についてはどのような印象をお持ちですか。
「発見」の一言につきますね。学生時代の世界史の授業でイスラム圏の様々な学者や医者の名前を学びましたが、それらが実際にどこの国の人なのか知りませんでした。たとえば、日本でもヨーロッパでもウズベキスタンのことを知らなくても、サマルカンドの青タイルのモスクやブハラのミナレット(尖塔)のことは本で読んだことがあるという人はたくさんいるわけです。私はシルクロードと言ったらなんとなく中国の西域あるいはトルコの周縁あたりかなと思っていました。しかし、ウズベキスタンに行って驚いたのが、イスラム文明にとって非常に重要な遺跡がそこにあることでした。キルギスの場合は、三蔵法師が書いた大唐西域記に出てくるイシク・クルという湖があります。中国でもなく、トルコでもなく、ペルシャでもなく「中央アジアという世界があるんだ」ということが私にとっての発見でした。中央アジアは日本人にとっては、とても不思議な場所です。自分のおじいちゃんやおばぁちゃんに似た顔立ちの人がたくさんいますので、自然とノスタルジックな気分になってしまいます。ところがいろいろな人々がいますから、その中で遊牧民族系だったりすると、考え方はまったく違います。何が似ていて、何が違うかを考えることは、自分がどういう人間なのかを考える一つのきっかけになりました。

自分の知らない面白そうな世界を見てみたかった

中沢さんには今の大学生はどのように映っていますか。
私が海外勤務に憧れていた頃と比べると、やはり「内向き」ということをよく聞きます。私にとって、知らないところに行って、新しいことを経験するということは喜びですが、どうも最近はそれを喜びとして感じない人が増えているように感じます。やはり経験してみないと分からないということはありますよね。そういう喜びを知らないまま生きていくとしたら、それはそれで残念な話かなと思います。私がそもそも国際機関に憧れたのは、明石康さんや緒方貞子さんの回顧録などを読んで、自分の知らない面白そうな世界があることを知り、そういう世界を見てみたいという気持ちが強かったわけです。今の大学生があまり外に興味を持っていないとなると、果たしてそれは若い大学生たちの責任なのか、それともその上の世代が「君たちの知らないこんなに面白い世界が外にあるんだ」と紹介し、刺激をあたえる努力を怠っているのか微妙なところでしょう。私が思うのは、国内での仕事が好きな人もいれば、海外での仕事が好きな人もいて、どちらもいても良いということです。私の場合は、長い間、海外にいたからこそ日本の古典が懐かしくなり、外から日本を眺めて、あらためて日本を好きになったことを強く感じます。日本にいることと日本の外にいることの両方を経験し、比較して始めて実感できることもあると思います。どちらも経験した上で好きなほうを選べば良いのです。お互いの違いを認識でき、落ち着いて比較検討したうえで自分の意見を形成することがグローバルなアプローチだと思います。
最後に、大学生にメッセージをお願いします。
途上国勤務を12年間やってきた中で、いろいろな形でJICAの協力隊員の若い人たちに出会いました。大学を卒業してまだ間もない人たちもいました。おそらく自分探しの旅をしている途中ではないかと思います。試行錯誤をしながら現地の人たちと触れ合うことでまた啓発されて、自分の方向を定めていこうとしているとても元気で魅力的な日本の若い人たちを大勢見たわけです。このような途上国での協力ボランティアは一つに選択肢にすぎないにしても、日本にいて行き詰ったと思う方や、2,3年違ったものの見方や感じ方をしてみたいと思う方がいたら、「今とは違うオプションもあるんだ」ということを私は強調したいと思います。
欧州復興開発銀行
http://www.ebrd.com/pages/homepage.shtml

キルギス駐在時代

  • タラス峡谷の天幕に住む人々

    タラス峡谷の天幕に住む人々

  • ゴルフ・トーナメント表彰式

    ゴルフ・トーナメント表彰式

  • 投資評議会の様子

    投資評議会の様子

編集後記

シルクロードと言ったら私も中国やトルコのイメージが強かったのですが、中沢さんが語ってくださった中央アジアのお話がとても新鮮で興味深かったです。実は文化的・歴史的な意味で中央アジアもシルクロードの中で非常に重要な地域であるというお話があったように、実際に現地に行った人にしか感じ取ることができないものはたくさんあるということを改めて感じました。そして、中沢さんがおっしゃるように、自分自身のことも周りのことも「こうだ」と決めつけるのではなく、いろいろなことを経験して、そこから生まれてくる自分にとっての発見を一つひとつ大事にしていきたいと思いました。

陸 欣(国際教養学部4年)

Vol. 4 「日本人としての誇りを忘れないでほしい。まずは何より自分に自信を持つこと」

CATEGORY : 国際機関
Hata-sensei

国連広報センター(UNIC東京)所長
山下 真理

1990年、政務官補佐として国連に加わる。政治局において選挙支援やアフリカ南部、東南アジア地域などを担当。クロアチアPKOで国連次席選挙事務官、国連ネパール・ミッションで政務室長を歴任。2010年7月から現職。

【2011年12月19日公開】

国連という仕事場がオプションとしてあるということ

国連で働きたいと思ったきっかけは何ですか。
一番大きな理由は、私の生い立ちだと思います。家庭が国際的な環境にあったので、日本で生まれましたが、3歳から小学校2年生まではドイツで教育を受けました。自分の人間形成の過程で自然に外に目が向いたのだと思います。中学生高学年の頃再びドイツに住み、インドのドイツ人学校に通いました。しかし、日本の大学に入りたいと思っていたので、そのためにも日本の高校に入学する必要があると考えて帰国しました。その時期に国連という舞台があることを知って、もしかして自分に合うのは国連かなと考えていました。自分に合う職場は何だろうと、そして自分のバックグランドに合うところはどこだろうと考えたときに、自然と国連が自分にマッチしました。
どのような学生時代を送っていましたか。
私は上智大学法学部国際関係法学科を卒業しました。国連についてもっと知りたかったので、当時は国際機構論や組織論など限られた授業しかない中、国連に関係する授業は一通りとりました。大学のゼミがとても厳しかったのですが、英語の文献をたくさん読み、英語力はとても鍛えられましたね。また、国際関係の学生団体にも所属していました。そこで国際会議を開いたり、留学生と国際交流をしたりしていました。そして大学3年生のとき、当時上智大学で教鞭を執られていた緒方貞子先生のもとで、日本でも模擬国連を組織化しようという動きがありました。私は「自分が探していたものはこれだ!」と思って、大学時代最後の一年は模擬国連にかなり没頭しました。今は模擬国連というと全国的に広まっていますけど、当時はいくつかの大学にしかありませんでした。そういえば早稲田の学生も多かったのですよ。今でも一番仲のよい友達はそのときに知り合いましたね。

その後国連で働き始めた経緯を教えてください。
私は、これをよく言うんですけど、おうし座なんですよ。おうし座は突進型で、本当にあの当時は突っ走っていましたね。大学院はやはり語学と専門性のために絶対に行こうと思っていました。大学院を卒業するときに、たまたま国連競争試験があったので、受験するしかないと思いました。それで合格をいただいて、かなり珍しいケースではありますが、大学院卒業後にすぐに国連で働き始めました。今は状況もかなり違うし、私のようなケースで国連に入れることはまずないと思うので、非常にラッキーだったと思います。大学院1、2年生のころにインターンをやっていましたが、そのオフィスにちょうど空席が出たのと、専門の政治で試験を受けられたというのも偶然でした。そういうことが重なって国連に入ることになりました。

強い信念とグローバルな意識を持つということ

国連で実際に働くようになって、働く前と比べて国連に対するイメージが変わったところはありましたか。
学生として勉強していた国連はどうしても論理的な内容が多かったし、仕事をする場としては想像もつきませんでした。実際に入ってみると国連というのはすごく大きな組織で、とにかく世界規模でものを動かしているシステムだということがわかりました。その国連に携わることができるというのは、私にとってとてもエキサイティングなことでした。ビルに入っただけで、当時はすごくわくわくしていましたね。国連は国際ニュースのヘッドラインになるようなことに必ず関わってくるし、そういう実感は湧いてきましたね。自分に合っているなあとも思いました。あと職場ですが、職場はやはり人が作る雰囲気ですよね。色々な国の人が集まっているので、人種も宗教ももちろん違いますが、それが普通という感じです。あとはやはりチームベースで働いているので、お互いのことをよく知っています。日本の会社ではあまりないかもしれませんが、家族ぐるみで付き合ったりすることが多いですよ。すごく人間的な職場だと思います。
国連で長いキャリアを積んでいらっしゃいますが、国連での仕事を続けてこられた理由は何ですか。国連ならではの仕
事の難しさはありますか。
やはり国連の理念に強く賛同しているところでしょうか。それだけではなく、その理念に直接関わることができるということ、それが自分の原動力になっています。いつも意識していることは、国連を通して世界に携わるということは貴重な機会であること、そして国連の仕事に携われることがとても光栄であることです。あとはやはり「自分に合った職場」であるということが大きいですね。それから、国連の仕事というのは、私が携わっていた選挙支援はまだしも、その多くはすぐに結果が出るものではありません。「国連は結局、何をしているんだ」ということをよく言われますが、結果が出ていない中で対外的に説明をしないといけないというのは大変なことなんです。時間がかかるということは、信じて動かないと継続できないということでもあるのです。
女性だからこそ国際社会に貢献できることは何だと思いますか。
国連は女性にとって働きやすい職場だと思います。私がニューヨークにいたときは、在宅勤務制度も導入され、様々なフレキシブルなオプションがあります。でも、女性の地位がまだまだ平等ではないところはたくさんあります。特に若い女性が国連を代表して政府代表や現地のリーダーと交渉をしたりする場合、それに抵抗を感じる人も沢山います。そういう時は自分の専門性に自信を持つことが大事です。それから自分に託されたものは何か、その時々の自分が置かれている状況は何か、ということをきちんと理解することが必要です。「人生いつまでも勉強」というのは本当にそのとおりです。世の中はどんどん変わっていますから、常に情報をアップデートするための勉強が必要です。あとは中身で勝負ですよね。そこは女性も男性も変わらないと思います。どうやって話をするかとか、相手がどういう文化的背景から来ているのかを理解するとか、そこはセンシティブに対応しないといけないですね。女性やアジア人には、そういう気配りがあるような気がします。

外に目を向けるということ

国連で働くために、求められる能力は何だとお考えですか。
語学力というよりは、まずコミュニケーション力が抜群でないとだめですね。これは間違いないです。そのうえで、コミュニケーションを何語でするかが問題なんです。まず英語で抜群のコミュニケーション力をつけないといけない。英語圏で生まれた人以外はみんな訓練ですよ。ひたすら訓練です。ここで言うコミュニケーション力はいろいろあると思います。もちろん話す能力、自分の意思を伝える能力、分析したものをプレゼンテーションする能力は必要です。とにかく伝えたいことをいかに簡潔に分かりやすく伝えるか、論理性がどれだけ通っているのかというのも大事です。それ以上に大事なのは聴く能力ですね。特に国連の様に多文化な環境では、まさに相手の立場を理解するために聴く能力も抜群でないといけない。聴くだけじゃなくて理解もしなきゃいけないのが難しいんです。どんなにオープンマインドでいようと思っていても、やはり無意識に自分の中に入っているものがあるんですよね。自分にとって常識であるものが世界で必ずしも常識じゃない、そしてすべての人が共有しているわけではない、ということを認識する。そういう姿勢が大事です。
現在はどういったお仕事をされていますか。
国連の広報センターというのは実は歴史が古くて、PKOよりも古いんですよ。世界中に今67カ所ありますが、東京の国連広報センターは1958年に設置されたのですよ。それでその国において国連の広報活動をすると。日本では日本語で国連の活動を紹介するというのが大きな役割です。色々な形で広報するのですが、一つは公式文書翻訳。決議とか国連の報告書など、重要性の高いものから優先順位を決めて翻訳します。なるべく多くのものを日本語で読めるようにするのが一つですね。これは日本の政府も重要視していることです。もう一つはアウトリーチと言うんですけれども、啓蒙活動を含め、イベントや講演、執筆等を通して広報活動をします。それに加え最近私たちが挑戦しているのがソーシャルメディアで、facebookやツイッターをなるべく取り入れています。これからは、ソーシャルメディアに一層力を入れていきたいと思っています。
今の大学生は内向きだと言われていますが、その点に関してはどのようにお考えですか。
私は去年の夏に、日本に22年ぶりに帰ってきました。そのとき、何で日本と日本人はこんなに自信喪失しているんだろうとショックを受けました。戦後からの急成長、素晴らしい技術力、安全で平和な国、それが世界から見た日本のイメージです。もっと身近なもので言えば、モノカルチャーや食文化、日本を世界に自慢できることは数え上げたらきりがありません。アフリカに行ったときなどは、日本から来たと言うと、尊敬と期待の目で見られましたよ。日本というブランドはすごくポジティブなんです。そういうことを私は20年間当然なこととして海外で生活してきました。それが帰ってきたら日本がしょぼんとしていて本当に驚きました。最近は講演する度に、そうじゃないですよということをできるだけ伝えています。日本の学生についても大いに期待しています。数は少ないかもしれませんが、国連や国際社会などに興味を持っている学生は必ずいます。そういう人たちを大事にしないといけないなぁと。興味があってポテンシャルがある人たちに道が開かれるような、そういうシステムを維持しないといけないと思います。
最後に、国連など国際社会で活躍したいと考えている学生に、メッセージをお願いします。

国連広報センターオフィスにて

夢を大きく持つことはとても大事です。まず、夢を持つことが学生の特権なので、ぜひ大きな夢を持っていただきたいと思いますね。そして、みなさんにぜひ国連に目を向けていただきたいです。職場のオプションとして国連があるということを、常に考えてほしいです。日本人職員は、私が入った20年前も今も同じくらい少なく、日本人はいつでも歓迎されています。日本人が国連に関わることを世界は求めています。自分の専門分野でグローバルに関わっていきたいと思う人にとって、国連はとても良い職場だと思います。ぜひ志を強く持ってほしいですね。学生だと先が見えないし、不安があると思いますが、私も同じ悩みを持っていました。本当に国連で働けるのか、と。でも、悩みを持ちな
がらも追求する情熱と力さえあれば、これは必ず実現できる夢なので、諦めないで頑張ってもらいたいと思います。

国連広報センター
http://unic.or.jp/index.php
編集後記

インタビュー中も笑顔の絶えない山下所長でしたが、話の節々に国連に対する強い思いが感じ取れました。「自信を持つこと」という力強いお言葉に背中を押された気がしました。国連に対する憧れはあるもののやはりどこか遠い存在でしたが、今回のインタビューを通して、国連で働くことはいろんな関わり方があるということを知りました。様々な分野から異なったバックグラウンドを持った人たちの集まりである国連はまさに世界の縮図のような気がしました。この記事を読んでくださった皆さんも国連を身近に感じていただければ嬉しいです。

陸 欣(国際教養学部4年)