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Vol. 30「海外での仕事は常に異文化との接触と新たな発見の連続。好奇心を持って飛び込んでいってほしい」

CATEGORY : 民間

共同通信外信部 副部長
及川 仁(おいかわ ひとし)

1961年、岩手県水沢市(現奥州市水沢区)生まれ。水沢高校、早稲田大学第一文学部ロシア文学専修(現文学部ロシア語ロシア文学コース)卒業後、85年共同通信社入社。ベオグラード、モスクワ、バグダッド、カイロ各支局を拠点に旧ユーゴスラビアやコソボ、チェチェンなど旧ソ連、東欧、中東での紛争、戦争を取材。米中枢同時テロ発生直後のアフガンからの一連の報道で2001年度「ボーン・上田記念国際記者賞」を受賞。現在、外信部副部長。

【2013年9月12日公開】

社会の矛盾を自分の目と耳で確かめて、理解したかった。

どのような学生生活を送っていらっしゃいましたか?
体育会のボクシング部での活動がメインでした。毎朝1時間以上のロードワークと夕方のジムワークで、汗と鼻血を流しながらボクシングに明け暮れていましたね(笑) 毎日の激しいトレーニング、つらい減量、試合前の緊張感などを通して培った粘り強さ、忍耐、逆境に耐える「なにくそ」という精神は、ものすごいプレッシャーの中に置かれた特派員生活に生かされたと思います。学部は第一文学部ロシア文学専修(通称・露文)だったのですが、もっと勉強の方にも時間を割いていればよかったとも思います(笑)
ジャーナリストを志望したきっかけは何でしょうか?
10歳の時に父親を亡くし、普通の主婦だった母親がそれまで父親が経営していた小さな会社を引き継ぐことになりました。その直後にオイル・ショックで日本経済全体が大打撃を受けるなど、激動の社会情勢の中で死にものぐるいで働く母親の姿を目にして、その中で子どもながらにいろいろ社会の矛盾というか不条理のようなものも感じ、ぼんやりですが、そういう社会のゆがみとかそういうものがなぜ起きるのか?ということに迫れるのがジャーナリストという仕事なのかなと考えるようになりました。
別の動機もあります。私が社会人になる前の当時は米国とソ連が激しく対立する東西冷戦時代でした。あのころ日本で見聞きする情報がとても少ない、“謎の国”だったソ連に関心があったことも大きな理由の一つです。ロシア文学専修ではありましたが、文学志向というよりは「ロシア人、ロシアの社会はどんなものなのか」を勉強したいという思いが強かったです。
それとドストエフスキーやチャイコフスキーのような世界に冠たる作家や音楽家を多数輩出するなど優れた芸術性を持ち、科学技術の分野ではガガーリンが人類で初めての宇宙飛行に成功するなどアメリカに先行すらしていた才能を持つ人間としてのロシア人と、1968年のプラハの春を戦車で蹂躙したり、1979年のアフガニスタン侵攻や83年の大韓航空機撃墜事件などを通して、冷酷で非人間的と見られていた国家としてのソビエト連邦とのギャップに興味があったんです。ジャーナリストという職業ならそのギャップを自分の目と耳で確かめることができるのではないかと考えていました。
海外特派員志望であっても、地方勤務からのスタートになると思いますが、その際も海外勤務を意識されていましたか?
記者生活振り出しの佐賀支局で4年、その後、川崎支局で2年、千葉支局で1年半勤務し、その間、警察を担当して殺人や汚職などの事件ものを取材したり、県庁、市役所担当として行政を担当したりしましたが、そのそれぞれは、一見、海外取材、国際報道とは縁のないドメスティックなものでした。しかし、特派員として海外で取材をするようになって気付いたのは、取材の基本は国内だろうが海外だろうが同じなんだなということです。「いまニュースになっているのはどんなことで、いま自分は何を取材し、書くべきなのか」を自分で判断して行動する“取材力”を地方勤務時代に身につけていなければ、海外で記者としての仕事はできません。
海特派員としての海外駐在の前にロシアへ留学されていたということですが、当時のことについて教えてください。
入社8年目に社の留学制度への申請が認められ、ロシアのサンクトペテルブルク大学に留学しました。1992年から93年の1年間です。1985年にゴルバチョフが書記長に就任してペレストロイカが始まり、91年末にソ連が崩壊、あのころはソ連絡みのニュースの見出しが連日のように新聞の一面をにぎわし、誰もがその動向に目を凝らしていました。旧ソ連圏での取材強化のためロシア語での取材要員に対する需要が高まりつつある時期だったこともあり、運がよかったのだと思います。留学してとにかくロシア語の勉強に集中しました。休みの日も日本人の留学生仲間ではなく、ロシア人もしくはアゼルバイジャン人、キルギス人、カザフ人など、ロシア語のネイティブスピーカーである旧ソ連圏出身の学生たちと過ごすよう努めていましたね。そのため留学して2、3か月経ったころには、コミュニケーションが苦でなくなり、1年を経て留学を終えて帰国するころには、何とかかんとか取材をこなせるまでのロシア語の習熟度には達していたのではないかと思います。週末は学生寮で彼らの宴会に潜り込んでウオツカの飲み方の作法も学びました(笑) それもさておき、せっかくロシアに来ていたのでコンサートやバレエを観に行くなど、ロシアの一流の文化に触れる時間も作るようにしていました。
“人間としてのロシア人と国家としてのソ連とのギャップ”に関心があったとおっしゃっていましたが、実際にロシアに留学されて、どのようなことを感じられましたか?
ロシア人も私たちと変わらない、当たり前の人間だということでした。決して当時、多くの日本人が抱いていたような「感情もなく、イデオロギーで生きているような人たち」ではありませんでした。情にもろくて、ユーモアにあふれ、時に粗野な部分もあり、誇り高い、ごく普通の人間でした。西欧的な合理主義とは一線を画していて、義理人情を重んじ、ある意味「浪花節」的なものを持っていて、私たち日本人とキャラは全く違うのだけど、どこか通じる部分がある。私はそんなロシア人が大好きです。
及川さんが駐在された国々について、日本人が誤解していると感じることはありますか?
バグダッド、カイロに駐在しましたが、こうしたイスラム圏、中東の国々に対してステレオタイプな印象を持っている人が多いですね。ある意味仕方がない部分もありますが、もっと理解があってもいいかなとも思いますね。例えば同僚の女性記者がイランの首都テヘランに駐在することになった時、親御さんから「そんな危ないところには行くな!」

バグダッドのザウラ公園

と言われたそうです。イランは米国と激しく対立し、現在も核開発問題で国際社会から孤立していますが、テヘランの治安自体は悪くありません。
「アラブの春」後のいま現在は分かりませんが、私が駐在していたころのカイロも夜10時に子供が一人で友達の家から歩いて帰ってくるなんてことを当たり前にしていたくらい安全でした。中東、イスラム圏のニュースというとイスラム過激派のテロなどがニュースで大きく取り上げられるので、こうした地域全体をひとくくりに〝危険〟と思い込んでしまいがちなのだと思いますし。こうした誤解を解くのもわれわれジャーナリスト、メディアの責務だとも思います。

海外であっても取材の基本は同じ。地道に対話を積み重ねて、信頼関係を築くことが重要。

日本と海外で取材する際に最も異なる部分は何でしょうか?
日本での常識、特にセキュリティーに関しての常識は通用しないということでしょうか。バグダッド(イラク)に駐在していた時、現地で何人もの日本人が武装勢力によって殺されました。その多くの人が取材などを通じ個人的にもよく知っている人たちでした。最初のころは駐留米軍が武装勢力、イスラム過激派の主な標的だったのですが、次第に外国人に協力するイラク人、イスラム教徒以外の外国人へと標的が拡大し、日本人も狙われるようになってきました。当時は車で移動する際には必ず後部座席で半身になり、常に前後に注意を払うようにしていました。3回角を曲がっても同じ車両がついてくるようなら、尾行されていると判断して急いでまいてしまうとか、同僚、あるいは大使館など関係先に連絡するよう申し合わせていました。またこうしたテロだけでなく、海外では総じて日本時間と比べて交通マナー自体が荒っぽいので、交通事故も要注意です。あらゆる意味で日本にいる時と同じ感覚でいると非常に危険、十二分に注意を払う必要があります。
ジャーナリストとして外国で取材する上で特に心掛けていることはありますか?
これまで話したように、取材の基本は日本でも海外でも変わりません。取材相手と信頼関係を築き、取材を積み重ねることによって得た経験と勘から、取材相手が信頼に値するかどうか、その発言の信憑性が判断できるようになってきます。日本と海外の違いを強いて挙げるとすれば、相手の文化に敬意を払う必要があるということでしょうか。例えば、ロシア人は誕生日などに性別に関係なく花を贈ることがあるので、取材する相手が誕生日であれば花を持っていったり、一緒にウオツカを飲んだりもしますよ(笑) 中東などイスラム圏の国であれば宗教的な習慣に留意します。イスラム教徒が日中食事のできないラマダン(断食月)中は、日没まで彼らの見えるところで食事したり水を飲んだりしないよう気を遣ったりします。
図らずも紛争地取材を多くすることになったということですが、そのことに対して抵抗はありませんでしたか?

アフガン北部同盟のゲリラたち

ありませんでした。重要なニュースが起きている時、その現場に取材に行くというのが記者でしょう。仮にそれが紛争、戦争の現場であったとして、私たちジャーナリストが現場に行かなければ、平和な東京の街頭に伝えなければならない現実は伝わりません。紛争地を取材する意義は、戦争という巨大な暴力によって苦しんでいる、それなのに声を上げられない人々の声、現実をすくい上げて伝えることにあると思います。「正義」「大義」を掲げた戦争の陰で、「独裁者」「悪の政権」と全く関係のない人々が殺されたり、愛する人々を失っている。そうした矛盾、あるいは「正義」を掲げる人々にとって不都合な現実を伝えることがジャーナリストの使命のひとつであると考えます。

現場で、より真相に近づこうとすればするほど自らの命の安全が危うくなるということもあると思いますが、その点についてどうお考えですか?
真相に近付くために踏み込まなければならない場所が危険を伴う場所であることもあるでしょう。ジャーナリストにとって重要なのは自分が見てきた真実、伝えなければならないことを伝えることで、そのためには生きて帰ってこなければなりません。それが大前提です。100%の安全は戦争取材にはありえないかもしれませんが、いちかばちかの取材はすべきでないと思います。ただこの部分の判断は非常に難しい。「こうすれば絶対安全だ」という方程式はありませんし、戦争取材を長く経験しているジャーナリストたちですら間違いを犯すこともありますから。

ジャーナリズムの原点は好奇心。それは紛争地取材であっても変わらない。

何が及川さんを動かす原動力になっているのでしょうか?

アフガンのピンホールカメラ

「人より先にものを見たい」、「自分が見てきたものを知らせたい」という、ある意味プリミティブな好奇心ですね。それは紛争地取材であっても変わりませんし、個人的にはその方がジャーナリズムとしては健全かもと思っています。
紛争地の取材をするなかで、暴力に対する激しい怒りを感じることもあります。ただ正義感とか使命感に燃えてというのは逆にちょっと危ない気がしますね。

ジャーナリストをやっていてよかったと思う瞬間はありますか?
まず学生時代から志していた仕事をいまも続けていられることは幸せだと思います。そして、これも学生時代から勉強してきたロシア、卒論で扱った旧ユーゴスラビアに特派員として駐在することができました。記者になれたとしても自由に勤務地を選ぶことができるわけではないので、この2つとも叶えられたことは、とてもラッキーでした。アフガニスタンやイラク戦争の現場を自分の目で見、戦争の建前と現実の違いを検証することができたことも記者、ジャーナリストとして貴重な経験でした。
学生時代にやっておいた方がいいと思うことは何かありますか?
勉強ですかね(笑)とにかく学生時代を有意義に使ってほしいです。早稲田にはたくさんのチャンスがあります。いろんな人に会えるし、いろんなことにチャレンジできる環境が整っていると思うので、4年間という限られた時間を存分に使い切って欲しいと思います。海外で仕事をしようと思うなら英語は不可欠のツールだし、もう一つ別の言語をやっておくともっとチャンスが広がると思います。そして語学だけでなく、音楽や芸術など幅広い教養を身につけたり、生涯の友人も見つけられるよういろんなことにチャレンジしてほしいですね。
最後にグローバル人材を目指す学生にメッセージをお願いします。
外国で仕事をするということは、常に異文化との接触であり、毎日新たな発見があります。それは非常に楽しいことだと思いますし、皆さんのような若い人たちにはどんどんそういった国際的な舞台を目指していってほしいと思います。
編集後記

ジャーナリストとして「新しいものを見てみたい」というピュアな好奇心が大事なモチベーションであると話してくれた及川さん。紛争地取材をご経験されたとお聞きし、短絡的に”正義”といった文脈で理解しようとしていた私が想像していたものとは違う答えが返ってきたことが非常に新鮮でした。また「国内外問わず、取材の基本は同じ」という言葉に、どこであっても、現場でひたむきに「人」と向き合おうとする及川さんの姿勢が感じられ、それこそがいい取材、いい記事につながるのではないかと感じました。

由利 啓祐(文学部4年)