‘民間企業’ カテゴリーのアーカイブ

Vol. 32 「多様性を受容しつつ、自社の価値観を伝達・浸透できる人、それが企業におけるグローバル・リーダー」

CATEGORY : 民間企業

アスパイア・インテリジェンス社 代表取締役
リップシャッツ 信元 夏代

早稲田大学商学部卒業。ニューヨーク大学スターン・スクール・オブ・ビジネスにて経営学修士(MBA)取得。早稲田大学在学中にはミズーリ州セントルイス市のワシントン大学へフルスカラシップ奨学生として1年間交換留学。1995年に渡米後、伊藤忠インターナショナル・インク、マッキンゼー・アンド・カンパニー、Eisner LLP を経て、2004年にアスパイア・インテリジェンス社を設立。「戦略コンサルティング」や「組織開発コンサルティング」のサービスを提供し、ブランドとビジネスの戦略設計と実現に寄与。

【2014年1月30日公開】

留学経験のある友達を見て、かっこいいと思った

留学したいと考えたのは、いつ頃でしたか?
多分、高校生の時だったと思います。中高一貫の女子校に通っていたのですが、高校時代に留学をする友達が周りにいたんです。それで1年経って帰国すると、彼女たちがちょっとした時に、“Ouch!”とか言うんですよ。それを見て、かっこいいなと思って(笑)。また、もしかしたら、潜在的に父の影響で海外に興味を持っていたのかもしれません。父は自動車部品メーカーの創業者で海外を飛び回っていましたし、よく外国のおみやげを持って帰ってくれました。「海外は遠いものじゃない」という意識があったのかもしれません。でも高校生の時は、英語はあまりできないし、一人で生活する自信もなかったので、自分の中で留学にチャレンジできるという“納得感”が持てるようになってから行きたいと考えていました。そこで、大学生になってからトライアルという感じで、オーストラリアへ1ヶ月の短期留学をしました。
オーストラリアへの短期留学を経て、次の長期留学はどのように決意されたのですか?
そうですね。実は、オーストラリアで彼氏を作って帰ってきちゃったんです(笑)。内緒ですよ(笑)。そうしたら、両親が「お前はもう外にやらない!」と激怒してしまって。でも私は反対されると火がついてしまう性格というか(笑)。ならばやってやろうじゃないか!とハングリー精神に燃えた私は、交換留学のテストに向けて猛勉強しました。選考で選ばれ、さらに全額奨学金が出る交換留学プログラムで早稲田大学の代表として行くのなら、こんな名誉なことには父も反対できないだろうと思って、ワシントン大学セントルイス校の交換留学プログラムを目指しました。勉強の甲斐あり、ワシントン大学に行けることになったのですが、本当は選考の時点ではTOEFLの点数が少し足りなかったんです。それで選考の面接のときに、「留学するときまでには、スコアをクリアします!」と宣言したら、選考に通ってしまいました(笑)。「合格させていただいたのだから、約束した点数は取らなければ!」ということで、合格後も意地で必死に勉強し、最終的にはスコアを基準値以上に上げることができました。

つらい経験こそが次につながる

ワシントン大学での留学について詳しく聞かせてください。
初めは大変でした。2日に1回は泣いていましたね。ディスカッションをしながら進行するクラスがあったんですが、全然ついていけなくて。しゃべれないから、しゃべらない。しゃべらないから、しゃべれるようにならない。という悪循環に陥っていました。そんなある時、寮のパーティーで、あるアメリカ人学生から酔った勢いで「何で夏代はしゃべらないんだ?」と言われたんです。本人は冗談半分で言ったのですが、それは私がその時最も気にしていることだったので、私は皆の前で号泣してしまったんですね。そこから周りの目が変わりました。英語では”Ice break”と言いますが、まさに氷が解けたようになって、彼らとの溝が少し縮んだんです。しゃべりたくても、しゃべれない。そんな私の気持ちを理解してくれたのでしょう。彼らから話しかけてくれるようにもなったし、私の方も「話してみようかな」と積極的に話すようになりました。

また、冬休みに一人でアメリカ国内旅行をしたんですが、雪で飛行機が飛ばなくなってしまうことがしばしばありました。そうすると自分一人で対応しなければいけませんから、否応なしに英語を使わざるを得ない状況になって。一度は翌朝まで飛ばない、ということがあり、冬休みで閉まっているキャンパスに一人で運転して戻り、セキュリティーの人に説明して寮のドアを開けてもらい、誰もいない寮でたった一人で一夜を過ごしたこともありました。そんな冬休みが終わったら、「あれっ?私、自然と英語が出てくるかも...!」というレベルに届いていました。つらい経験こそが次につながるんだなと強く感じましたね。

MBAの取得を目指されたのは、いつ頃でしたか?
ワシントン大学留学中にビジネス専攻の友人ができ、その友人からMBAというものを聞いて興味を持ちました。そしてまず、ある有名校のアドミッションオフィスに電話してみたんです。「あなたの学校に興味があるのですがどうやったらMBAを取得できますか?」と。今考えたら無謀なことをしましたよね(笑)。そしたら、「勤務経験を4~5年積んでから来て下さい」と言われました。ならばアメリカで勤務経験を積んだら近道なのではないか、と考え、幸いにもニューヨークでの採用が決まったので、卒業後すぐにニューヨークに渡りました。働きながら勉強していましたが、GMAT対策が大変でした。根気良く7回くらい受け続け、満足のいく点数まで上げていきました。また、ビジネス・スクールに入るためには、プレゼンをして自分を売りこむことも大切なんです。採用官のオフィスの外で待っていて、彼女が出てきたら「偶然ですね」という感じで話しかけ(笑)、練習してきた1分間スピーチで自分をアピールしました。そんな甲斐もあってか、その翌日、ニューヨーク大学スターン・スクール・オブ・ビジネスから合格の電話がかかってきたんです。

リスクはチャンスだと考える

MBAを取得された後、マッキンゼーなどを経て起業されたわけですが、信元さんの背中を押したものはなんですか?
早稲田の先輩ですね。もともとビジネス・スクールに在籍していたころから、漠然と起業したいと思ってはいたんです。副専攻で起業について勉強しましたし、ビジネス・コンテストに参加したりしました。でも、具体的に何をやるかは考えていませんでした。起業を見据えて、いくつかビジネス・プランを書き留めていて、ある時に稲門会にいらっしゃった先輩に「こんなことをしたい」と相談しました。そしたら、「じゃあオフィススペースが必要でしょう。一緒にオフィスシェアしようか?」と提案してくださったんです。彼なりの「起業してみたら?」というメッセージだったと思っています。そんな先輩のメッセージに背中を押されて、起業の第一歩を踏み出しました。
そして見事、起業されたわけですが、業務においての失敗談はありますか?

もちろん沢山ありますよ(笑)。例えばこんなことがありました。コンサルタントとして雇って頂いた後に、クライアントがやろうと思っている方向性と、分析結果から私が提案した方向性が少しずれていたんですね。彼は「僕はこの業界の経験がある」という自負があり、譲りませんでした。そこで彼に理解してもらおうと、分析結果を元にして詳細をさらに論理的に説明したんです。そしたら彼は「君にそんなことを言われる筋合いはない」と激怒し、感情的になって私を解雇しました。これは“コンテクスト”(意志疎通の共通知識)の違いに私のコミュニケーション方法を適応しきれなかったことが失敗の原因だったと思っています。つまり彼は、いわゆる“お役所”出身のエリートで、雇う側と雇われる側、目上と目下、などの間の権力格差は当然で、相手が自分に従うという環境に慣れてきた方でしたし、“ハイコンテクスト(お互いに相手の意図を察しあうことで、なんとなく通じてしまう)”文化の中でずっと仕事をされていました。その彼が、「雇われた側」の「目下」の私に分析結果を直接的な表現で説得されたのですから、もしかして私の意見が正しいと思っていても、名誉が棄損されたと受け取ったのでしょう。異文化によるコミュニケーションスタイルの違いがどれほどビジネスに影響するのか、を実感した経験でした。

ニューヨークで起業された信元さんは世界でご活躍されていますが、信元さんの考える“グローバル人材”について教えてください。
あえて定義するのなら、グローバル人材とは「地球規模の最適化を常に考え、国や文化を超えた人々を束ねて変革や革新を実現する人」だと思っています。「地球規模の最適化を考える」とは、地球全体をリソースとして考えて人材を世界中から集めたりなどと、地球全体で考えた時にどういうことが最適化につながるのかを考えることです。さらに、企業におけるグローバル・リーダーは「多様性を受容しつつ、自社の価値観を伝達そして浸透できる人」です。「文化」と一括りに言っても、儀式のように目に見える部分と価値観のように目に見えない部分がありますし、「文化」には、国家や地域、職業や個人などで様々なレベルがあります。そしてその「文化」によって人々の行動は変化するので、文化間におけるギャップが生まれ、誤解も発生してしまいます。そのギャップを埋める為に、相手の発言を自分の言葉に変換したり、ジェスチャーやアイコンタクトをしながら聞いたりとアクティブ・リスニング(積極的傾聴)をすることが大切です。このアクティブ・リスニングとファシリテーションのスキルによって、コンフリクト(対立・衝突)をコンセンサス(合意)に変えるのが、グローバル・リーダーに必要な能力だと思っています。
最後に、グローバルに活躍したいと考えている早大生へのメッセージをいただけますか?
海外で働くのは、リスクがあるかもしれません。でも、リスクを取らなければチャンスもやってきません。私は「リスクはチャンス」だと考えています。海外に出て、失敗やつらい経験をすることもあります。でも、何でもうまくいくよりは、つらい経験こそが自分の実になると思います。また世界に出ると、日本は特殊な文化を持っていると感じます。つまり、日本の常識は必ずしも世界で通用するわけではないということです。皆さんには、旅行やホームステイなど短期間でも良いので、なるべく複数の国に行って異文化体験をしてほしいです。そして、視野を広げて、将来はグローバルに活躍してほしいなと思っています。
編集後記

信元さんはニューヨーク在住で、お忙しいなか、帰国された折にトーク・セッションとインタビューに応じてくださいました。起業家だけでなく、競技ダンス選手という一面もお持ちの信元さん、「これからも競技ダンスはずっと続けたい」と笑顔でおっしゃっていたのが印象的で、趣味の時間も大切にして、充実された生活を送られているのだなと思いました。リスクはチャンス。リスクを回避しがちな私にとっては、とても身に染みるお言葉でした。時間がたくさんある学生の間に、海外に行ったり留学生と交流したりして、できるだけたくさんの異文化体験をしたいと思っています。

町田 花菜子(商学部2年)

Vol. 31「もしも自分がこの理不尽な世界をほんの少しでも変える力になれるなら」

元青年海外協力隊村落開発普及員
徳星 達仁

2008年3月に早稲田大学法学部を卒業後、株式会社JTB関東旅行会社に就職し法人営業を担当。2010年2月退職。同年6月、青年海外協力隊にてベナンに派遣。主に小学校の衛生環境改善活動に携わる。2012年6月に帰国後、日本紛争予防センターにて瀬谷ルミ子事務局長補佐インターンを務めた後、国連UNHCR協会でファンドレイジングを担当。国際公務員を目指し、2013年9月よりイギリスの大学院に留学中。

【2013年12月4日公開】

内向き学生、“熱いバカ”に触発される

学生時代に特にやっておいてよかったことはありますか? また、やっておけばよかったことはありますか?
僕の学生時代は1年生の時と2年生以降で大きく変化します。1年のときも中学高校と続けていた吹奏楽のサークルに入ったり、法学部の法律サークルでテスト対策に勤しんだりと、それなりに充実していたのですが、なんというか・・・、内向きでした。国際交流だとか、国際協力って言葉は心のどこかには引っかかっていたかもしれないけれど、意識は全くしていませんでした。勉強は真面目にやる学生でしたが、人と関わることにそこまで魅力を感じていませんでした。
変わったのは2年の時です。ふとしたきっかけで「僕は全然外の世界のことを知らないな、自分の世界を広げたいな」って思ったんです。きっかけは多分本当に大したものではなくて、今となっては思い出せないくらい。インタビューで話すことでもないかもしれませんが、失恋したっていうのも一つのタイミングだったかもしれません(笑)。「俺、このままでいいのか」って思ったんです。
そのとき偶然、Waseda International Festival(WIF)という国際交流イベントサークルがスタッフ募集をしているのを見つけて、思い切って飛び込みました。早稲田には“熱いバカ”がたくさんいて、元々僕もそんな早大生には憧れを持っていたのですが、ちょっと自分には遠い存在だと思っていました。しかしそのサークルで、積極的に物事に熱中して取組む人達と一緒に活動するうちに、自分ももっとアクティブになっていいんだ! いろんな人に出会うのってめちゃくちゃ面白い!! と実感して。その後の学生生活はとにかくいろんなことに首をつっこみました。実は、ICCでもミュージカル企画※に参加したりしていたんですよ。
ですから、自分が学生時代にやっておいてよかったと思うのは、たくさんの人と関わり、たくさんの仲間と出逢えたということです。早稲田は特に、熱い心を持った面白い人たちが本当にたくさんいて、いくらでも自分の視野を広げることができます。
もう一つ頑張ったことといえば、英語の勉強でしょうか。後々国際協力分野を目指すならば、英語は絶対必要です。僕はサークルなどで国際交流に関わるうちに、英語は絶対この先自分に必要であると感じました。留学の経験もないどころか、英語は割と苦手な方だったのですが、チュートリアル・イングリッシュや、オープン教育センターで意識的に英語の授業をとって、英語の得意な人達に追いつけるよう努力しました。英語学習にお金をかけたわけではありませんが、大学内の機会を活用して勉強するだけでも、英語力はかなり伸びたと感じています。
一方で、やっておけばよかったなと思うことは、スタディツアーやボランティアなどで実際に途上国に行ってみることです。当時の僕には、忙しかったりお金がなかったりと、途上国に行かない「理由」を自ら作っていました。しかし、本気で途上国への想いがあったとしたら、必死でお金を貯め、時間を作って行けていたはずだと思います。実は、新卒のときも国際協力分野への就職も視野に入れていて、JICAの新卒採用も、最終選考までは残れたんです。しかし、最後の面接で突き詰めた質問をされたときに、自分の国際協力への意志とそれに伴う実行力がまだまだ弱いことを痛感させられたのです。だから、現時点でこういった進路を考えている学生の方はぜひ途上国に出かけてみてほしいです。僕の場合はそれがあって、その後の青年海外協力隊での派遣につながっています。

 

2007年度ICCミュージカル・プロジェクト『FAME』

 

国際協力に関心を持たれたきっかけはなんですか?
今思うとクリティカルなきっかけは、WAVOC主催のウガンダの子供兵士に関する写真展と講演会です。それまでもなんとなくアフリカには恵まれない子供たちがいる、という認識は持っていましたが、実際に聞いたウガンダの子ども兵士の話は想像以上に衝撃的で、残酷でした。一方で、ウガンダの子ども達の日常の写真はとても目が輝いていて、本当にキラキラとした笑顔だったんです。こんなに素敵な笑顔が一瞬で奪われてしまう世界があるということに非常にショックを受けました。同時に、生まれる場所は選べないにもかかわらず、なんて理不尽な世の中なんだろう、こんな不公平が許されるのか、なんとかできないかとも強く思いました。
もっともその当時は、自分が国際協力に将来携われるとは考えてはおらず、自分には無理だろう、きっとどこかのバリバリすごい人たちが変えていく世界なんだろうなぁと半ば諦めつつ考えていました。とはいえ、もし自分がこの理不尽な世界を、ほんの少しでも良い方向に導ける仕事ができるならば、それは僕にとってすごく幸せなことだしやりがいがあるだろうなとも思い始めました。頭の片隅にはずっと引っかかっている感じでした。だからこそ、学生時代の国際交流活動や英語の勉強もより熱心に取り組んでいたのだと思います。

今やっている仕事は一生をかけてやるものなのか? と自問した

ご卒業後は民間企業に就職されたそうですが、国際協力の世界に携わろうとは思わなかったのですか?
僕は法学部の学生だったのですが、就活で自分の進路を考えたときに弁護士など法曹の道はちょっと違うかな、と思っていました。ダブルスクールをして、必死に何年も勉強して・・・というほど本気で目指したいとも思っておらず、とりあえず社会に出たいと思いました。それでいざ何をやるかって考えた時にやっぱり国際協力をやりたいと思いました。でも一方で正直なところ当時は将来の安定も求めていて、国際協力の世界はNGOなども含めて不安定な要素が多い点が心配でした。収入の安定性がありつつ国際協力、つまり自分のやりたいことができるところと考えたときにJICAを見つけたので、第一志望で受けました。一方で旅行業界にも興味があり、結果的にJICAはその時はご縁がなく、第二志望のJTB関東に就職することになりました。ただ、依然として国際協力への想いもありましたので、一生JTBに骨をうずめるつもりかといえば、そうではなかったと思います。それでもやってみないとわからないですし、6~7割くらいはここでずっと仕事をしていくかもしれないとも考えていましたね。
営業関東一位の成績を取られるなど充実した会社員生活を送られるなか、青年海外協力隊に入ろうと思われたのはどんなことがきっかけですか?
2年間JTBで勤務しましたが、仕事は本当に充実して濃いものでした。僕は職場旅行など団体旅行の担当で、例えば一つの会社の社員旅行を行程の作成から添乗、精算まで全部一人で担当します。そういった担当先が複数あるんですね。僕にとっては複数あるお客様のうちのひとつでも、お客様にとって担当者は僕ひとり。僕がミスをしたら社員旅行が全部だめになってしまう。そのプレッシャーは大きくて、正直逃げたくなることもありましたが、僕の仕事でお客様が喜んでくれるのはすごく嬉しかったです。
ただ段々と、この仕事は本当に一生かけてやりたい仕事か? という問いが湧き起こってくるようになりました。予算達成のために毎日頑張る自分に何か違和感をもつようになったんです。このまま10年後、20年後同じ会社で働いている自分を想像したときに、それがあまりワクワクしなくて。一方で、国際協力の分野も相当大変なこともあるかと思いましたが、途上国に生まれて理不尽に哀しい想いをしている人の為になら一生を捧げられると思いました。もし自分が頑張ることで誰か一人でも哀しい想いをする人が減らせたならそれはすごいことだと思うのです。
会社員生活→青年海外協力隊への方向転換はご自身の中でかなり大きなご決断だったと思いますが、どのような感じで気持ちを固められたのですか?
それが気付いたら派遣が決まっていたというか・・・、勢いですね。当時は先ほどお話しした国際協力への想いが高まりつつも、もうあと数年はJTBにいる予定でした。それが2年目に入った頃に、たまたま会社の近くでJICAの青年海外協力隊の説明会をやっていて、それに参加したんです。そのときは今すぐ応募しよう! というよりは今後の参考に一応参加するくらいの気持ちでした。ところが話を聞いて結構盛り上がっちゃって(笑)、ちょっと書類だけでも出してみようと。そしたら募集枠が広かったこともあって、書類審査に合格して面接を受けられることになりました。もう、この辺から段々本気ですよね。それで面接も運良く通って派遣が決まりました。
とはいえ振り返ってみると、それまでも青年海外協力隊の説明会ってあったはずなのに自分が参加していなかったのは、まだそんなに国際協力の世界に身を投じる気持ちが固まっていなくてアンテナを張っていなかったからだという気もするので、あのタイミングで説明会に行ったのも意味があることだったと思っています。
ただ協力隊の派遣が決まってからも葛藤はありました。協力隊は帰国後の進路がどうなるかわかりません。ある意味JTBにいればこの先食っていくことはできるだろうという思いがありました。当時仕事も大変な時期だったので、これって今の仕事から逃げたいだけなんじゃないかな? と悩んだこともありました。だけど大学時代のサークルの先輩に相談したらさらっと、逃げてもいいじゃんって言われて。それですごく気持ちが軽くなりましたね。そもそも逃げているかどうかも分からないのですが、新たな場所で、本気で頑張れるならそれはそれで良いじゃないか、と気持ちを新たにしました。自分を奮い立たせる為に、国際協力のイベントや途上国を舞台にした写真展に行ったりしてアンテナは常に張っていました。

ベナンの人に何かしてあげるのではなく、共に生活を営もうとした

派遣準備期間には語学研修などを含めて60日間集中的に事前研修を受けるそうですが、具体的な内容についてお教えいただけますか? 中でも苦労された研修はありますか?
協力隊は年に3~4回派遣のタイミングがあって、派遣前に60日間、訓練所に泊まり込みで研修を受けます。僕は長野県の駒ヶ根にある研修施設に行ったのですが、230人くらいが一緒でした。基本的にひたすら語学研修をやります。僕の場合はベナンの公用語であるフランス語を習得しました。一クラス生徒4~5人に先生が1人つき、午前中に3時間の語学クラス、午後にも語学や全体での国際協力についての座学、そして大量の宿題とテスト・・・とかなりみっちり勉強しました。あんなに勉強したのは、大学受験以来です(笑)
勉強はなかなか大変でしたが、協力隊に参加する人は色々なバックグラウンドを持っていて、そんな人たちと知り合えてすごく楽しかったですね。僕はやっぱり人と関わるのが好きだと実感しました。中間テストで一定の成績が取れないと派遣させてもらえないなどそれなりにプレッシャーはありましたが、最終的にはほとんどの人が派遣されているんだし人並みに頑張ればいけるだろう! と考えていたんです。これは友人ともよく話すんですが、物事を始める前に考えすぎても良いことはありません。Positive and activeを意識しています。
ベナンでは村落開発普及員として小学校の衛生環境改善活動をされたそうですが、どんなことで苦労されましたか? またどうやってその苦労を乗り越えましたか?
まず生活に慣れるのに苦労しました。言葉も通じず、気候も文化も違う。しかもベナンはアフリカ最貧国。覚悟して行きましたが、それでもストレスフルな場面は多くありました。

ベナンの小学校での衛生啓発活動

なかでもやはり言葉の壁は苦労しましたね。派遣前に勉強したもののそれは最低限生きていくためのレベルでしたし、あとベナンの人たちが使うのはアフリカン・フレンチなので、習っていたフランス語とは発音や単語が違ったりして、初めは意思の疎通がスムーズに行かなかったんですよね。伝えたいことが伝えられないのはもどかしかったです。でも、そこで頑張るしかないので、わかる言葉でジェスチャーを交えつつ頑張って話していました。そうすると相手も僕の話を理解しようと努めるようになってきて、また自分の語学力も上がっていくので、半年くらいすると随分と自然にコミュニケーションが取れるようになっていました。
もう一つの苦労は任務の内容に関わることですが、僕は村落開発普及員としてベナンに赴任し、衛生啓発活動などに取り組んでいました。具体的には近所の小学校をいくつか訪問して、手洗いの大切さや、適切なゴミ捨てについて紙芝居や歌を用いて普及していく活動です。まず手が不衛生な状態だと病気の原因になるというメカニズムを知ってもらうところから始めるんですが、習慣付けるのってとても難しい。いきなりよく分からない外国人が小学校にやって来て、「皆さん、今日から食事の前には手を洗いましょうね」とか言っても説得力がないですし、行動に移されないんですよね。
初めはそれがすごくフラストレーションでした。自分はベナンの衛生環境を少しでも良くしようと努力しているのに、なぜみんな協力してくれないんだろう、受け入れてもらえないんだろうと。自分の存在意義が分からなかったときもありました。
そんななかで気付いたのは、自分が「何かしてあげよう」と考えていたのは、少し上から目線だったということ。そこから行動がかなり変わりましたね。何かしてあげよう、ではなく、現地に溶け込むことが重要だと思うようになりました。僕は「トク」って呼ばれていたのですが、トクって仲間が村にはいて、そういえばあいつ、手を洗えって言っていたなぁくらいに誰かが思い出してくれればそれでいいと考えることにしたんです。

幼稚園では日本語の歌を教えたりもしていた

それから、民族衣装を着て現地のお祭りに参加したり、一緒に食事をしたり・・・、そうすると状況が好転し、最初は「外国人」のトクとして扱われていたのが、コミュニティの一員として、「仲間」のトクだと思ってもらえるようになりました。
ベナンの人ってそうなってくるとあんまり壁がなくて、本当に家族みたいに親しくしてくれます。あの人が親しいなら、トクって良い奴なんじゃって広まってきたりもして。学校の先生もプライベートで仲良くなってから、活動に協力してくれるようになっていました。もちろん仲良くしつつも、やることはきちんとやらなければならないのですが、一緒に生活する中で得られたものは大きかったですね。途上国も初めてで、肌の黒い人と接するのも初めてだったのが、彼らとけんかできるようになりましたから。人間は国籍や人種が違っても、みんな同じ人間だなと実感しました。同じひとりの人間として、構えずに接することができるようになりましたね。

まずは一歩踏み出してみよう

9月からイギリスの大学院に進学されていますが、協力隊後の進路についてはいつ頃からどのように考えていらっしゃいましたか?
国際協力の世界で仕事をする場合、一般的には修士号以上の学位、英語ともう一言語の語学力、2年以上の実務経験が求められることが多いです。協力隊員を経て語学力と実務経験は多少なりとも得られたので、次は修士号が必要だと考えました。そこで、ベナンから帰国後は大学院に留学しようと決めました。といっても経済的に余裕は全くなかったのですが、ベナンは幸いなことにインターネットが使えたので調べてみると、国際協力を目指す人向けの奨学金がたくさんあることが分かったんです。

帰国後、日本紛争予防センターでのインターン修了日の様子

ちょうど僕の出身地でもロータリー財団が奨学生を募集しており、このタイミングを逃すわけにはいかないと、休暇を利用して自費で日本に一時帰国して試験を受けました。これも一歩踏み出したことです。受かるか落ちるかは分からないけれど、やってみなければ分からない、受けなかったらずっと後悔するな、と。不安で一歩踏み出すのを躊躇してしまうとき、自分と対話するんです。いろんな不安要素はあるけれど、やってみたいんだろ? 結局お前にやらないって選択肢はないんだろ?って(笑)。実際に合格を頂けたので、現在平和構築の分野を修士課程で学んでいます。その後は国連職員を目指すつもりです。国連は組織が大きすぎてお役所的など、ネガティブな側面の話も聞きますが、それを含めてまずは挑戦し、自ら経験してみたいと考えています。

国際協力に憧れを抱きつつ、どうやってその道に進めばいいかわからない、あるいは分かっていても、その後のリスク対応に不安があったり、なかなか一歩を踏み出せないという学生もいるかもしれません。徳星さんの場合その道を選ぶことによって発生するリスクをどうお考えになって決断されたかも含め、そういった学生に何かメッセージをお願いいたします。
将来を不安に思うのは当然だと思います。リスクを考えるのも堅実だし必要なことです。ただ、ときにはその不安は実は考えすぎかもしれなくて必要以上に大きくなってしまっている場合もあると思うんですよ。先ほどから話していることですが、一歩踏み出してみてください。そうすれば実際にはなんとかなることが殆どなんですよね。むしろ、追い込まれると人間は何とかするように努力するものですし、自分で決めた道は自分で自然と正当化できるようになると考えています。だからそんなに怖がらなくて大丈夫です。もちろん、無鉄砲とは違うので対策できるリスクは事前に対応するべきなんですが。
そうは言ってもその一歩を踏み出すのが怖いしとてもエネルギーがいるんですよね。だから僕の場合は、国際協力のイベントやシンポジウムに参加したりして自分を奮い立たせたり、自分の夢を周りに話して思考を整理してみたり、不安を紛らわしてみたりしています。あと、小さな成功体験を積み上げていくのも大事です。勇気を出して一歩踏み出してみた経験を重ねていくとそれが自信になって次の一歩を後押ししてくれます。
もし何かを始めたい、でもいろいろな不安要素があると悩んでいるならぜひ、一歩踏み出してみてください。港を出る船と同じで、動き出すまでが一番エネルギーが要りますが、あとはスーっと進むだけです。悩んでいる時間はもったいないです。ビビッときたものを大事にしてください。
編集後記

にこにこと穏やかに、でも熱く想いを伝えて下さる徳星さんは本当に素敵な方で、インタビューしながらすっかりファンになってしまいました。
「国際協力なんて自分には無理だろうな、きっとどこかバリバリなすごい人たちが変えていく世界なんだろうなぁと」・・・まさか、青年海外協力隊を経て海外の大学院に行こうとしている先輩から伺うとは意外でした。どちらかと言えば、どちらかと言わなくても“すごい人たち”がご協力くださっているグローバル人材のインタビュー。そんな中にかつて内向きで国際協力を遠目に眺める学生だった方がいらっしゃることは、ごくごく普通の学生の私でも一歩踏み出したら何かできるかも・・・と思わせてくれる勇気が出る機会でした。

清水 瞳(商学部4年)

Vol. 29「他人と比較せず、対自分で判断し、自分だけの“生きる意味”を見つけてほしい」

CATEGORY : 民間企業

© Takahiro Igarashi(520)

株式会社 マザーハウス
代表取締役兼チーフデザイナー
山口 絵理子

1981年埼玉県生まれ。小学校時代にいじめに遭い不登校となる。中学時代はその反動で非行に走るが、柔道に出会い更生。埼玉県立大宮工業高等学校「男子」柔道部に唯一の女子部員として所属し、全日本ジュニアオリンピック第7位の成績を残す。2004年慶應義塾大学総合政策学部卒業後、バングラデシュBRAC大学院開発学部修士課程に入学。三井物産株式会社のダッカ事務所でインターンシップを経験。2006年株式会社マザーハウスを設立。

【2013年7月29日公開】

米国でのインターンシップを経て強まった「途上国」への想い

どのような大学生活を過ごされましたか?
とにかく勉強をしていました。授業が難しかったので、ずっと図書館で授業の予習復習をしていて、基本的に一人ぼっちでしたね。それに、高校まで柔道漬けで、工業高校出身だし、「この人たちと対等に話していいのかな」というコンプレックスがありました。今思うと、もっと相談できる友人を作っておけばよかったなと思います。同じように大学で過ごしたゼミのメンバーたちと比べると、私は違和感があるものをなかなか受け入れられないタイプで、「なにか違うんじゃないかな」とか、「本当はこうなんじゃないかな」と思ったことは、実際に調べてみたり、見に行かないと気が済まないタイプでした。
4年生の時にワシントンにある米州開発銀行でインターンシップに参加されますが、そこではどのような経験をされましたか?
途上国に対して直接貢献できる仕事をしたいと思い志願したのですが、現地では最初から苦労の連続でした。決して英語が堪能ではなかったものの、それでも選考を通過し、晴れて行けることにはなったのですが、実際は電話を受けるにしても、会議で発言するにしても、とにかくすごく勇気が要りましたね。何をするにも人の倍くらいの時間がかかってしまっていたと思います。だけど、言葉を発してコミュニケーションをとらないと仕事は進まないし、英語に苦手意識を感じていちいち気にしていても仕方がないので、必要に迫られ、開き直ってやっていました。同じインターン生のアルゼンチン人とルームシェアをしていて、仕事以外の時間も日本語を話す機会がゼロだったので、帰国してから日本語が上手く出てこないほど朝から晩まで英語漬けでしたね。
米州開発銀行は中南米・カリブ海諸国の社会・経済発展の支援を目的にした、世界銀行に次ぐ規模の国際開発金融機関で、私はその中でも予算戦略本部に配属され、銀行全体の予算と、銀行内のプロジェクトへの予算の割り当てを上司と一緒に行いました。ただ、そういった業務を経験した後も「果たして自分たちの支援が現地に届いているのか」が、わからなかったんです。もしかしたら自分にはその実感がないだけで、本当は届いているかもしれないとも思ったけれど、自信がありませんでした。その小さな疑問は、どんどん大きくなり、雇用契約が切れる間際に「自分の将来の進路を決める前に、途上国への援助が役に立っているのか、自分の目で見てみなければいけない」ということだけは確かだろうと思いました。そしてインターン終了後、「アジア 最貧国」で検索して出てきたバングラデシュに、ワシントンから直接向かいました。
現地での援助の効果を知りたいという目的で訪れたバングラデシュで、大学院まで進学されたのはどうしてですか?
はじめは短期滞在のつもりだったのですが、簡単には答えが見つからず、滞在するにつれて「私にはもっと現地を見て、現状を知る時間が必要だな」と思いました。調べてみると、教育ビザを取得すれば現地に2年間滞在できることが分かりました。それで、BRAC大学院というバングラデシュで一番大きいNGOが運営している私立の大学院の開発学部に興味を持って、試験を受け、進学を決めました。
専攻の開発経済学の授業では、NGOや国際機関から派遣された先生たちから、援助とは何かを教わりました。現地で学んでみてわかりましたが、基本的に途上国の教育というのは20年くらい遅れているんですよね。教科書も内容の古いものを使っていて、パソコンは10台くらいしかないし、試験も「テスト範囲は教科書全部だから丸暗記してきなさい」というものでしたから、学んだ内容自体には正直あまり意味を感じられませんでした。最新の情報に基づいた教育という意味では先進国の大学院の質とは比べ物にならないですね。
大学院の授業は18時からだったので、夕方まで三井物産のダッカ事務所でインターンシップをしていましたが、そちらの方がもしかしたらためになったかもしれないです。たとえそれが単純な事務作業であっても、三井物産の方と何か一つの仕事を一緒にやり、色々な工場を見ることができましたし、何よりインターンシップの一環で訪れた現地の展示会で、ジュート(※)という素材に出会えたのが人生の転機になりました。


※麻の一種で、処理する際100%土に還るエコフレンドリーなバングラデシュ特産の繊維素材。主に、じゃがいもやコーヒー豆を入れる袋として使用される。

 

他人との比較や競争ではなく、自分らしい仕事をやっていこう

大学院を卒業して、現地で起業をするという決断をされるまで、悩みや葛藤はありましたか?
バングラデシュに行ってからジュートに出会うまでの一年半くらいは、米国でのインターン時代に抱いた「途上国への援助が役に立っているのか」という問題意識に対する答えが見つからずに悶々としていた時期で、自分の気持ちが固まらないまま他の学生と同じように就職活動もしていました。けれどジュートに出会ってからは、「この素材で、何か人々のイメージを覆すようなものができるんじゃないか」という想いが強くなり、やがて「今はただの麻袋でしかないこのジュートを、もっと付加価値を付けたファッションバッグにしたい!」という目標ができました。それからはまったく悩むことはありませんでしたね。「これしかない」と思い、もう突っ走るだけだった気がします。両親や教授も含めて、誰かに相談する意味もあまり感じなかった。迷いがあったら相談したかもしれないけど、相談して意志が変わるというレベルではなかったです。

© Takahiro Igarashi(520)

直営工場マトリゴールにて

起業後に「こういうことをやっているんだ」、「こういう夢があるんだ」っていうのは、周囲に伝えていましたが、返ってくる答えは「絶対不可能、無理だよ」、「もっと考えなさい」というネガティブなものばかりだったので、途中からそういう言葉の引力に引きずられないよう、周りに意見を求めるのをやめました。
事業が成功するかどうかや、失敗したらどうするかなども考えませんでした。「このゴワゴワしている麻袋がどうやったら可愛くなるかな」、「そうなったら本当に素敵だな」という想いが私の思考を支配していて、そのための方法を考えるだけでもう精一杯でした。
日本に帰ってきてから自分の起業話をすると、とても大きいことをしているかのように捉えられるんですけど、バングラデシュにいたらもっと大変なことがたくさんあるし、もっと懸命に仕事をしている人ばかりで、私自身そういう認識はありませんでした。本当に底辺の生活の中に二年間もいたので、自分が偉大なことをしているという意識はなかったんです。日本に帰ってきてメディアの人たちと接して、日本ではこれだけ価値のあるストーリーなんだと初めて知ったんです。

現地では文化的に違うこともたくさんあると思いますが、どのような点に苦労されましたか?
始めは、洪水やテロなど不自由な中でもきちんと生活していくという、現地の人にとっては当たり前のことが自分にとってはハードルが高く、大変でした。現在も日本の本社と現地工場を往復する生活をしていますが、現地で生活する中で苦労がない時はなく、常に色々なことが起こります。むしろ日本は特別だと思うようになりましたね。あらゆる面でこんなにも恵まれ、リラックスして街を歩ける方が特殊で、日常生活に危険がつきまとっている国や地域の方が普通だと思います。
起業してからは特に大変なことだらけでした。汚職率世界1位のバングラデシュでは、一市民でも日常のあらゆることに賄賂を要求されます。また、バングラデシュで一から土地を捜し歩きやっと立ち上げた工場で、作業中にパスポートを盗まれたり、ある日工場に行ってみたら、人もおらずモノも全てなくなっていたり…。大変な生活だったけれど、そのような、裏切られたり騙されたりしなければいけない生活を強いられているんだなと少しずつ理解するようになりました。もしその都度感情的になっていたら、途中で挫折していたかもしれないです。

© Takahiro Igarashi(520)

現地の工場を運営するのも、最初はもう失敗だらけで・・・たとえばバングラデシュは「相手のプライドを傷付けたら何も動かない国」だと思います。一方的に怒ったり、指示をしたり、或いは相手の権利に乗っかって何かを動かそうとすると、全然動きませんでしたね。生産を始めた当初、みんなの作業が遅くて、とにかく毎日怒ってばかりでした。しかし、そういう進め方をすると、さらに納期が遅れて、何も進まなくなったんです。そこで、うまくできた時には相手を褒めちぎるようにしたところ、みるみる内に作業がはかどるようになりました。彼らはすごく自尊心やプライドが高いので、むしろそこと調和するような形で指示を出していかないと難しい。何度も何度もそういった失敗をして、だんだんわかってきました。

バングラデシュに渡る前と後で、ご自身にどのような変化がありましたか?
大学四年生時の自分は、周りのみんなが就職活動をしてすごく良い会社に決まっていく中、私は本当にバングラデシュにいていいのかなとか、色々なことを誰かと比べて考えていたし、ジュートで鞄作りを始めた頃なんて、「この世界で2位になったらだめだ、1位でなければだめなんだ」という想いで、365日過ごしていました。でも、バングラデシュで生活していく中で、「自分が死ぬ時、誰かと比べて勝っていたら幸せに死ねるかって言ったらそれは絶対に違う。自分のやり遂げたいことをやり切ったから幸せに死ねるんだ。それって対自分でしかないじゃん」と思うようになりました。バングラデシュで洪水が起きると、何千人もの人が犠牲になります。実際に目の前で死んでいく人達を何度も見ました。そして、彼らを見て思ったんです。「彼らは隣の家より貧しかったと悔しがりながら死んでいるか」と。そういう本質のところをずっと問い続けてきて、自分との対話の先にあったのが、「もし何十年か後に、このマザーハウスが何十万円しか売り上げのない、ちっちゃなちっちゃなネットショップになってしまったとしても私はやっていこう」、「これこそ自分らしい仕事だ、誰にバカにされようともやっていこう」という強い思いでした。以来、「誰かと比較してどうのこうのっていうところで生きるのは嫌だな」と感じています。

“答え”はそんなに早く出ない、結論を急ぎすぎるな

自分の進むべき道を見つけるために、学生時代に学んでおくべきことは何でしょうか?
それぞれの価値観で考えて、自分にとって幸せだと思えることが見つかれば、それでいいと思います。それはもう、百人に百通りの選択肢があるので、何が正しいのかというのは自分で見つければいいと思います。
私の場合は、バングラデシュに行って、自分の「生きる意味」を見つけることができたので、それをやり続けるのが私なりの幸せの価値基準であり、大変だからって簡単にやめられるものではないんです。

© Takahiro Igarashi(520)

マトリゴールのスタッフたち

また、経営などの知識ももちろん必要だと思いますが、一番必要なのはビジョンですよね。それに、やりながら身に付く力やスピードの方が圧倒的なものがあると思います。私自身バッグを作ったことも経営を学んだこともなかったのですが、実際に作ってみると、「こういうふうにして、いろんな経費がかかるんだ。だから月の売り上げがいくら必要なんだな。そしたら最低これくらいは売らなければならないんだ…」と学んでいくわけです。こうやって体で覚えてやってきたので、今でも本はほとんど読まないですね。たまにあらためて工場運営の本を読んだりして、「あ、これやったことあるな」って振り返ることはありますが、それくらいです。新聞も読まないですよ、経営者なのに(笑)
マザーハウスは、大企業と戦って何とかやっていこうという方針ではなくて、むしろ会議では「それってマザーハウスしかできないことなの?」、「それってうちがやらなきゃいけないのかな」って6年間ずっとずっと言っています。それはつまりは、他の人がやっていないことをやることになるので、本には絶対書いてない。だから自分たちの頭を使わなければならない。すべてオリジナルなことをやりたいのであれば、もしかしたら答えは本じゃなく、自分の頭の中の創意工夫とかクリエイティビティから出てくるのだと思います。

最後に、学生にメッセージをお願いします。
マザーハウスが受け入れているインターンシップ生や新入社員の面接をしていて思うのは、「“答え”というものはそんなに早く出ない、結論を急ぎすぎていていないかな」ということです。急いで出した答えでは、それに向かって頑張ったとしても、ずっと続けてはいけないかもしれないし、一つのことも極められないと思いますね。私はこの7年間、デザイナーをやって、経営者をやって、それでもまだまだ何も見えてきていません。10年続けて何か見えたらいいなって、それくらいに思ってるんです。それなのに今の子たちって、店舗に1年立ったらお店のことが分かるって思っているんですよね。
「自分が本当にやりたいことを見つける」という作業は、本来はものすごく時間がかかるはずなんですよ。大学にいる4年間に見つけられたら本当にラッキーだし、それ以降もきっと見つめ続け、探し続けていくものだと思うんですね。その作業ってすごく面倒だけれど、あきらめずに続けて欲しいなと思います。日本は誘惑がすごくたくさんあるけれども、日記を書いて自分と向き合ったり、本当にこれやりたかった?と自分自身に問いかける作業は、面倒がらずにやって欲しいなと思います。
編集後記

「生きる意味」を見つけ、それに人生を賭けて取り組んでおられる山口さんの表情や言葉には全く迷いがなく、決意の強さをうかがい知りました。また、「比較対象は自分」という山口さん独自の価値観には、勝ち負けという尺度に囚われがちな思考から自由になれるように感じました。
「何のために学び、何のために生きるのか」という問いかけは、何歳になっても、人生に行き詰った時、進むべき道を照らし出す明かりになることと思います。自分で切り開いた道を前へ前へと進む山口さんの背中が、今はとても遠くに見えますが、私も、問いに対する「答え」にいつかたどり着けるよう、そこへ続く道を一歩一歩前に進んでいきたいです。

R. T.(商学部4年)

Vol. 28 OB座談会企画 「“日本人としての誇り”と“異文化理解”。 二つをバランスよく兼ね備えることが重要な鍵となる」

(右)荒木 岳志(あらき たけし) 2005年大学院理工学研究科卒。丸紅株式会社入社。2008年にビジネストレーニーとして台北に派遣後、2009年~1年間上海赴任。現在は化学品総括部 企画課。
(中)鈴木 威一(すずき いいち) 2002年政治経済学部卒。富士通株式会社入社。2009年~3年間英国Fujitsu Servicesに出向。現在は金融・社会基盤営業グループ 金融グローバルビジネス統括部に所属。
(左)山岸 健太郎(やまぎし けんたろう) 1999年法学部卒。住友信託銀行株式会社(現三井住友信託銀行)入社。社内トレーニー制度で1年間シンガポール駐在。その後東京での勤務を経てニューヨークに赴任。現在は本店営業第二部(法人営業/総合商社担当)。

【2013年7月1日公開】

旅先で危険に遭遇した時に、英語ができないとまずいと思った

どのような学生時代を過ごされましたか?また、その頃から海外志向がありましたか?
山岸 一言で言ってしまえば怠惰な学生生活でした。海外に対する意識は昔からありましたが、英語力が伴わなかったため、留学を経験することはできませんでした。海外に関することといえば、僕は法学部で国際法のゼミを履修していたので、その授業の中で多少は海外を意識して勉強することができたと思います。

 

鈴木 僕も、いかに効率的に単位を取っていくかということばかり考えていました。所属していた国際交流サークル(国際交流虹の会)では、留学生が銀行口座を開くのを手伝ったり、合宿などのイベントを開いたりしていました。また当時流行っていた紀行小説『深夜特急(沢木耕太郎著)』の影響を受けて、友達と夏休み中に1ヶ月くらいかけてアジア各国を旅行したりしていました。白木先生(政治経済学術院教授)のゼミでは、3年の夏にタイ合宿があり、それにかこつけて友達と香港からタイまで陸路で行きました。それが僕の最初の海外経験だったと思います。

 

荒木 学生時代はバイトに精を出していましたね。また、学部が理工系で、華やかな本キャン(早稲田キャンパス)とは少し雰囲気が違っていたので、いかに学生時代を楽しく過ごしていくかということを考えていました。英語に真剣に向き合うようになったのは、大学院に進学してからですね。当時所属していた研究室が海外の研究室と提携していたこともあり、英語で研究成果を発表しなければならないこともありました。その当時はきつかったですが、海外の研究者や教授と交流することで、この人たちは何を考えているのだろう、何か面白そうなこと考えているな、というように少しずつ海外の人の考えていることに興味を持つようになりました。就職先も商社に絞っていたわけではなかったですが、海外を見てみるのも良いかなと思い、今の会社にお世話になることにしました。

 

山岸さんと鈴木さんは当時英語の勉強はされていましたか?
山岸 やはり学生時代から海外に対する意識は強かったですけど、英語ができないというジレンマがずっとありましたね。大学4年生でニューヨークに旅行した時、英語が話せない自分をとても恥ずかしく思いました。英語をやらなきゃいけないと本気で思い始めたのはその頃からです。その旅行で、自分の未熟さを痛感し、今後世界の中で一人前に戦っていくには、やはり英語の勉強が必要なのだと感じました。

 

鈴木 僕も旅行先で自分の英語のできなさを痛感しました。インドに行った時に現地の人の言うことを理解できないと命に関わるという場面に遭遇した時は、やっぱり英語ができないとまずいなと思いました。本格的に英語を勉強し始めたのは、社会人になってからですね。最初に配属されたのは関西だったのですが、いつかはグローバルに働きたいと考えていました。

 


やる気、勢いがあったからこそ実現した海外赴任

実際に海外に赴任されるまで、どのようなプロセスを経たのでしょうか?
荒木 僕の場合は商社だったので海外志向が強い人も多いかと思いましたが、当時は僕の周りでは意外にも少なく、そんな中僕は「どこに行くかは分からないけど、それでもいいなら」という条件付の部門内海外研修プログラムに応募しました。結果、台湾に赴任することになりました。

 

赴任先が台湾と聞いた時はどんな気持ちでしたか?
荒木 ほっとしましたね。所属している部門は化学品を扱っていて、当時は中国の内陸に進出するという話だったので、「もしかしてウルムチかな」とも思っていましたから。

 

鈴木 僕は、始めは関西、大阪でしたが、公募で東京に移り、外資系金融機関を相手にシステム営業を担当していました。その頃社内で、ローテーションで若手を海外に派遣しようという計画があったので、その一環として僕もロンドンに赴任しました。

 

海外に行きたいと、自ら志願されたのですか?

鈴木氏 ロンドン赴任時

鈴木 そうですね。前々から海外には興味があったので、英語の勉強も学生時代に比べれば頑張ってやっていました。そんな折、上司から「海外に行きたいのか」と尋ねられることがあったので、その時は「機会があれば行きたいです」と答えていました。それが、意外に早く話が進んで、ロンドンに赴任することになったという形ですね。

 

山岸 僕も鈴木さんと同じで、最初の配属先は関西・神戸でした。勤務開始当初は、仕事に加え、新しい土地での生活に慣れるので精一杯でした。ただ、当時の先輩の中に海外勤務を経験された方がいて、その方から海外での経験を伺ううちに、自分もいつかは国外で働いてみたいと改めて思うようになりました。

 

海外勤務に向けての具体的なきっかけはどんなものだったのでしょうか?
山岸 その海外勤務をされていた先輩から、シンガポールのトレーニー(研修生)公募があるので、それに応募するのはどうかというお話を頂きました。ただその時は、すぐには返事をしなかったですね。というのも、その頃長年希望していた自分のやりたい仕事ができる部署にやっと異動させてもらったばかりで、すぐに海外希望を出してしまっては、ある意味上司を裏切ることになるのではと少し悩んだんです。ただ、このチャンスを逃したら次はいつ来るか分からないと思い、思い切って応募しました。

 

日本での仕事に未練はなかったですか?
山岸 特にはありませんでしたね。うちの会社自体がドメスティックな企業なので、いずれ日本に帰ってくることは分かっていたし、むしろシンガポールでの経験が自分の強みの一つにできるなと思っていました。だから、シンガポール行きが決まった後は、後ろを振り返らず、後任の人への引き継ぎをしっかりして、前だけを向いていましたね。

 

海外赴任が決まるまでに、試験などがあったと思いますが、なぜ自分が選ばれたと思いますか?

山岸氏 旅行先、ブラジル/リオ・デ・ジャネイロにて
現地で知り合った人々とサッカーをし、名物シュラスコを一緒に。

 

山岸 強いて言うなら勢いですかね。当時英語は全く勉強しておらず、面接の際に英語の勉強について尋ねられた時も「毎晩、映画を一生懸命観ています!」とだけ答えました。英語はツールであり、結局コミュニケーションをするのはハートだから、自分の言いたいことは絶対伝えられると思っていたし、面接でも「いずれ慣れます。僕の言いたいことは絶対伝わります!」と言い切りました。そういう勢いがあったからこそ自分が選ばれたのだと思います。

 

鈴木 僕も山岸さんのように、「勢い選抜」かもしれません。選ばれた理由が英語力ではなかったのは確かですね。やはりやる気が一番評価されたのだと思います。真面目に仕事をやれるかどうかや、環境が変わっても耐えられるかどうかです。英語力に関しても、その後の伸びしろを期待された面が大きかったですね。

 

荒木 僕の場合も同じで、やる気が買われたのだと思います。台湾への赴任が決まったのが出発の半年前、時間的にもまだ余裕があったので、中国語を勉強しようと思ったのですが、日本で勉強すると発音がおかしくなるからするな、と言われ結局中国語を勉強せずに台湾へ行きました。ただ台湾には日本語を話せる方が多くて何とかなりましたね。

 


日本人とは違ったコミュニケーションの仕方に気づくことが重要

赴任先での仕事内容はどのようなものだったのでしょうか?
山岸 僕は、シンガポールでもニューヨークでも、海外に進出している日系企業への融資を行っていました。だから、見る書類は英語でも実際に話をする時は日本語で、というケースが多かったですね。書類に関しては辞書さえあれば読めるし、英語でのメールも時間をかければ書けるので、なんとかなりました。ただ、リーマンショックを境に周りの環境が変わりましたね。どの企業にとっても、日本人を現地に派遣するのはコストのかかることだったので、英語を使って現地の人々を相手に仕事をする機会がとたんに多くなりました。その頃から、英語で電話をしたり、英語を使って会議に参加したりしなければならなかったので「ビジネス・サバイバル・イングリッシュ」の習得に努めました。

 

英語でのミーティングに慣れるのには苦労されましたか?
山岸 多少苦労しましたね。ただ、そういう会議では得てして専門用語が多く使われるので、それらをしっかり理解できれば何とかついていけました。また、アメリカ独自のコミュニケーションの作法を認識できたことで、会議での理解も進みました。例えば、アメリカ人は自分の言いたいことを、手を替え品を替え、何度も繰り返す傾向があります。だから会議で一度聞き逃しても、それほど慌てる必要はないんですよね。そのような日本人とは違ったコミュニケーションの仕方に気づくのも重要だと思います。

 

鈴木氏 出張先のスウェーデンにて

鈴木 僕も山岸さんと同じように、日系企業を相手に仕事をする機会も多くありました。ただ赴任先がイギリスの会社を買収してできた会社で、社員はイギリス人が大多数。日本人は少数派だったため、イギリス人に何かをしてもらおうとする時や、会議に出席する時は必ず英語が必要でした。だから家に帰ったら常にBBCを見ていたり、朝はラジオを聴いたりして英語力を鍛えていました。スペイン人やドイツ人は日本人と同じくネイティブではないので、彼らとの仕事は多少やりやすかったのですが、イギリス人との会話はスピードが速く表現も難しい。とにかくイギリスにいる間は英語が必要不可欠でした。

 

英語での会議に慣れるまでにはどのくらいかかりましたか?
鈴木 僕は丸3年かかりましたね。3年かけてようやく、重要な部分でイギリス人の会話を止めて意見を言えるようになりました。

 

荒木 僕は研修生の立場だったので、台北に赴任した頃は、半分会社、半分学校という形で過ごしていました。その頃は英語ではないですが現地の中国語の新聞を日本語に訳し、社内の関係者にメールで流すという作業をしていました。また現地の方を相手に化学品の新規開拓の商売をしていました。化学品は一物一価で価格の差別化ができないので、こんな機能がありますとか、ピンポイントに物を運びますとか、品物そのものの特徴よりも商社機能をアピールしていました。また相手に顔を売ることも大切だったので、飲み会に参加し、交流を図るようにも努めていましたね。

 

台湾と上海での現地の人の対応に違いなどはありましたか?
荒木 台湾よりも中国の方のほうが、何というか、良くも悪くも表現が直接的でしたね。営業に行った際も、「これ意味あんの?安いの?高いじゃん。じゃあいらない。もう来なくていい」みたいな感じでした。だからいかにそこに切り込んでいくか、というのが自分の中で大きなテーマでしたね。現地の方と一緒に営業に行った際も、「こういう表現は結構使えるな」とか「こういう返事にはこう切り返せばいいんだな」というようなことを一つひとつ勉強していきました。

 


日本人としての誇り、そして異文化に対する理解の重要性を痛感した

海外赴任の中で、最も苦労したことは何ですか? また、海外に滞在する中で、最も大切なことは何ですか?
山岸 苦労とは少し意味合いが違うのですが、海外赴任したことで、日本人としてどうあるべきかについて考えさせられましたね。海外の人たちと接するなかで、日本人はもっと自分の国を知るべきだし、自信を持つべきだと思いました。アメリカでたくさん知り合いができたのですが、向こう(アメリカ)の人たちは「自分たちの国、故郷が一番だ」というように、故郷についての話をたくさんします。彼らは自分たちのルーツ、生まれ育った場所を本当に誇りに思っていましたし、それぞれの文化、歴史に対してしっかりした知識を持っていました。かたや、自分を含め日本人は、海外の人から日本の歴史や文化について質問された時に、しっかりした返答ができるかと問われれば、僕は「できない」と思います。やはり留学や海外赴任をする際に、自国について正しい知識を持っているかどうかは、実際海外に行った時に大きな差になると思いますね。海外に行く日本人は、母国についてしっかりとした知識を蓄え、それを誇りに思うべきです。変に卑屈になってしまうと、物事はなかなかうまくいかないですから。営業でも自分の会社について尋ねられた時に「全然大した会社じゃありませんよ」なんて言ったらだめですからね。自分の会社に誇りを持つのと同様に、日本に対して誇りを持つべきです。

 

日本人は謙虚すぎるのでしょうか?
山岸 そういう面は多少なりともあると思います。日本人の中には、アメリカと聞くと「ナンバーワン」という印象を持つ人も多いとは思いますが、実際に一対一で仕事をさせると、日本人の方が仕事の処理能力は高いと思います。ただ、もっと日本人は打たれ強くなる必要があります。アメリカ=ナンバーワンと思うのは、ある意味、日本に誇りを持てていない証拠だと思います。自分の国についての知識を蓄え、海外の人に自慢できるくらい誇りに思うことで、もっと打たれ強くなれるのではないでしょうか。

 

鈴木 一番大事なことは、相手の国の文化を知ることですね。日本人はアメリカとヨーロッパを「欧米」として一括りに語ることが多いですが、例えばヨーロッパの人は、自分たちはアメリカ人と全く違うと思っていますし、イギリス人は、「ヨーロッパ」とは大陸ヨーロッパのことで、自分たちがヨーロッパに属しているとも思っていません。このようなそれぞれの文化的事情や感覚をしっかり認識する必要がありますね。

 

異文化に対する理解が一番重要だということですね。
鈴木 そうですね。特にヨーロッパのように複数の文化が共存する地域に赴任する場合はなおさらです。その国の歴史、文化、気質などをしっかり理解しておかないとその地域の人々と仕事をするのは難しいです。例えば、イギリスとスペインは基本的にあまり仲が良くないのですが、そこにはアルマダ(無敵艦隊)の海戦やジブラルタルの領有問題など、歴史的・政治的な背景があるということを知っているか否かでは、会話の理解が全然違います。あとは、ドイツ人は真面目で仕事が正確、南欧の人は良くも悪くも非常におおらか、などの国民性を把握すること。そのような赴任先の文化的、歴史的背景や社会構造を理解しておくことが、仕事をするうえで重要ですね。

 

荒木 やはり僕も、異文化理解の重要性はすごく感じましたね。特に台湾は中国との間でかなり複雑な歴史を経てきているので、営業の際のちょっとした会話にも気を遣わなければなりませんでした。その辺りが日本とは異なる点ですね。やはり日本は民族紛争などの種々の対立からある程度守られてきた国なのだなと思いました。

 

上海に勤務された時はいかがでしたか?

荒木氏:旅行先の中国のハワイ「海南島」にて

荒木 上海に行ってからは、台湾時代とはまた異なる目線や現地の人の考えに気づかされましたね。中国というと反日デモなどの暴動が頻発しているイメージがありますが、現地の人の中には「あれはただのガス抜きなんです」「政府によって仕向けられているだけです」と言う人もいます。特に僕のお客さんなんかは結構冷めた目で見ていました。そして、中国はとても大きな国なので、一口に中国と言っても、南と北では方言も違えば考え方も異なります。現地では「北と南の人は方言が違いすぎて会話ができない」と言われているくらいです。そんな巨大な国の中で、自分は日本人として何ができるのだろうと常に自問していました。自社の商品にいかに付加価値をつけて売るかということが、苦労というよりは一番面白みを感じましたね。

 

やはり異文化の理解は大切なことなんですね。
山岸 そうですね。僕が一番印象に残っているのは戦争について認識の違いですね。僕たち日本人は、唯一の被爆国として、原爆に対する教育をある程度に受けて育ってきたので、考え方の違いはあるにせよ原爆に対してはそれなりの思い、考えがあると思います。ただアメリカ人は原爆に対して日本人ほど深い考えは持っていないんですよね。彼らからしてみれば、原爆のおかげで戦争が終わったから良いじゃないかという感覚なんです。むしろアメリカでは、12月8日の日本による真珠湾攻撃の特集などが未だに放送されていたりします。原爆にしても真珠湾攻撃にしても、やられた側の方がやった側よりも、そのことにまつわる記憶は深く刻まれるんですよね。歴史の事実は1つだけれども、その捉え方は国によって異なります。だからそのようなことを知らずに海外へ飛び込むと、痛い目に遭うと思いますね。

 

最後に早大生へのメッセージをお願いします

山岸 最近若い社員が会社に入ってくるのを見て感じるのは、英語を話せるのはもう特別ではないということです。英語を話せることはある種のスタートラインのように感じます。だから、英語に加えてもう1つ2つ、自分の強みを持てるといいですね。また、若いうちに海外の文化に触れておくことは本当に大切だと思います。日本は島国なので、多様性という点では他の国に劣ります。ですので、積極的に海外に出て様々な文化を吸収すべきです。そしてその際に、日本の歴史や政治に関する知識や自分なりの考えをちゃんと持っていく必要があります。先入観を持て、というわけではありませんが、ある程度思想的に武装していった方が、海外の人とも渡り合えますし、得る物も大きいと思います。世界を意識しつつ、日本人としての誇りをしっかり持って、頑張ってほしいですね。

 

鈴木 積極的に海外に出るべきというのは、荒木さんと一緒ですね。お金と時間に余裕があるのなら、留学や海外旅行は積極的にすべきです。やはり海外に出ることによって自分を客観視できると同時に、日本も客観視できると思います。今現在いろいろな国際問題がありますが、やはり「自分の国が一番」という思想だけではダメですね。「自国と比べて海外はどうだろう」、という視点を欠いてはいけません。そのような視点を育むためには、やはり海外で暮らしてみることが一番早いと思います。また海外で直面した日本との違いを否定するのではなく、なぜそこに違いがあるのだろう、と考えていくことが非常に大切です。

 

荒木 学生時代にしかできないことをしてほしいですね。個人的にはできるだけ長く海外に滞在することをお勧めします。短期の観光目的の滞在でも楽しめますが、その国の表面的な部分しか見ることができません。しかし、1ヶ月も滞在するとその国の文化のディープな部分をある程度知ることができます。そしてその先には、先にお二人が述べたような、「日本を客観視する」ことができていくと思います。早大生には学生のうちにしかできないことに積極的に取り組んでほしいと思います。

 

編集後記

終始和やかな雰囲気で質問に答えて下さった荒木さん、鈴木さん、そして山岸さん。ご自身の学生生活や海外赴任の経験をもとにしたお話はどれもユーモアに富んでいて、楽しみながらインタビューを行うことができました。その中で、お三方は「日本人としての誇り」と「異文化理解」の大切さについて、何度も言及されており、特に海外で働く際には、この2つの要素が非常に大切であるというお話にははっとさせられました。普段日本で生活している限りにおいては、自分が日本人であることを強く意識することはあまりありません。しかし一旦海外に出ると、「自分が日本人である」ことは、とても重要な意味を持つのです。だからこそ、海外の人に対し、自分が日本についてどう考えているか、自らの言葉でしっかりと語れるようになることが重要なのだと認識をあらたにしました。

森 雄志(政治経済学部2年)

Vol. 25 「スキル(英語力)・教養・センス・自立心・人間力を備えた新世代リーダーへ」

CATEGORY : 民間企業
 sasaki-san

株式会社東洋経済新報社
デジタルメディア局 東洋経済オンライン編集長
佐々木 紀彦

慶應義塾大学総合政策学部卒業後、東洋経済新報社で自動車、IT業界などを担当。2007年9月より休職し、スタンフォード大学大学院で修士号取得(国際政治経済専攻)。09年7月より復職し、『週刊東洋経済』編集部に所属。『30歳の逆襲』、『非ネイティブの英語術』、『世界VS中国』、『ストーリーで戦略を作ろう』『グローバルエリートを育成せよ』などの特集を担当。『米国製エリートは本当にすごいのか?』(東洋経済新報社)を2011年に出版(発行部数5万部)。

【2013年3月22日公開】

日米の学生の差を生んでいるのは読書量

アメリカの大学院に留学されたご経験から、アメリカの学生の能力についてどう思われますか?
アメリカの学生の質の高さは大きく分けて3つの要因があると思います。まずは、読書量です。アメリカの大学生の能力は、圧倒的な読書量と圧倒的なレポート量、そして圧倒的なプレゼン量に支えられています。特に私が通っていたスタンフォード大学の学部生は、授業において大量のリーディングアサインメントを強いられるため、4年間に約500冊も本を読むことになります。そして、読書によって大量にインプットされた情報や知識を、レポートやプレゼンを通してアウトプットし、他の学生や教授との議論を戦わせることで、自らの知的筋力を養っていくわけです。端的に言うと、日米の学生の差を生んでいるのは読書量だと思います。アメリカの調査機関「NOPワールド」の調査によれば、一週間当たりの活字媒体読書時間の世界平均が6.5時間なのに対し、日本は4.1時間で、世界で2番目に読書量が少ないことが分かりました。やはり若い皆さんは学生のうちに、できるだけ多くの本を読むべきですね。
2つめは集団知です。福沢諭吉は日本人と西洋人の集団行動について次のように述べています。
「日本人は団体行動をする段になると、個人個人に備わった知性に似合わぬ愚を演ずる」
「西洋人は集団をなすと、一人ひとりに不似合いな名説を唱え、不似合いな成功を収める」
アメリカをはじめ西洋は、個人主義が強いイメージがありますが、それは幻想です。実際スタンフォードの授業の評価でも、グループワークやプロジェクトへの貢献度などが重点的に評価されています。アメリカの学生はプレゼンや議論を大量にこなすため、集団で物事を考えたり、それを実行に移す能力が、日本人に比べて長けていると思います。
そして3つめは、教養・リベラルアーツです。アメリカの大学には、学生が豊かな教養を養えるような環境が整っています。教養と専門のイメージは、木に例えることができます。専門分野ばかり磨くことは、殺風景な景色の中に、枯れた木を一本立たせるようなものです。これを続けても決して森へと成長させることはできません。なぜなら、専門ばかり磨く人には「教養」という豊かな土壌がないからです。しかし、教養という豊かな土壌がある人は、その土壌の上に豊かな専門という木を何本も立たせることができ、これらはやがて森へと成長していきます。このように教養がなければ、専門分野を大成させることは難しいのです。自分の専門と一見関係ないような知識を教養・リベラルアーツとして自分の中に取り込むことにより、思わぬアイデアが生まれてくるものです。例えばアップルの創業者スティーブ・ジョブスは「テクノロジーとリベラルアーツの交差点に立ってきたから、アップルの製品が生まれた」という言葉を残しています。彼は大学を中退後、大学でたまたま聴講生としてカリグラフィーの授業をとり、それがアップルの美しいフォントを作るきっかけになったと言っています。アップルの製品には、ジョブズがたまたま学んだカリグラフィーの要素がふんだんに盛り込まれているのです。
日本の大学は、入学する際に自分の専攻を決めなければなりませんが、これは良くないシステムだと思います。大学生に関しては、昨日の今日で自分のやりたいことが変わるのは日常茶飯事なので、長い時間をかけて、自分が本当に学びたいことを見極められるようなシステムにすべきです。そして、その間に自分の教養をたくさん磨いて、その後の専門分野の研究に生かせるようにすべきです。

アメリカでは勝負時は遅く来る

日本のアメリカのエリートの差は、どうして生まれるのでしょうか?

中国にスタディートリップに行った際の一枚

日本はうさぎ、アメリカは亀であると感じます。あくまで個人的な感覚であり、科学的根拠はないのですが、大学に入学するまでは、日本のエリートの方が、アメリカのエリートよりも知的能力は上回っていると思います。しかし大学入学後はそれが逆転し、アメリカのエリートに追い越されてしまいます。厳しい受験戦争を勝ち抜いた日本のエリートは、大学生になると、その反動で少しペースダウンしてしまいがちです。高校生の時にあまり遊べなかったかわりに、大学生活ではたくさん遊んでしまおうという感覚です。しかし、アメリカの学生は逆で、それまでの遅れを取り戻すかのように、大学生になって勉学に励みます。この違いが、日本と米国のエリートの差を生んでいる気がします。
アメリカのエリートの就職状況について教えてください。
アメリカでは今や金融ブームが終焉したと言われています。しかし、リーマンショック以前までは、大学や大学院卒業後の進路としては金融の分野が最も人気でしたし、現在でも多くの学生が金融の分野に就職しています。ところが、金融に進んだ学生がみな、金融の仕事に就きたいと希望しているわけではありません。事実、ハーバード生を対象としたアンケートでは、将来の理想の職業として、金融は最も低い支持しか得られませんでした。それではなぜ、多くの学生が金融の道へ進むのでしょうか。それは、金融の仕事で稼いだお金で、奨学金を返済したり、そのお金を軍資金として、自らの理想の職業にステップアップするためです。先ほどのハーバード生に対するアンケートでは、学生の理想の進路としてアートや教育、医療の分野が高い支持を受けています。このような学生にとっては、大学や大学院を卒業したあとの就職選びが勝負時なのではなく、卒業後に一旦就いた職業でお金を貯め、自分が理想とする次の職業へとステップアップする時が、本当の勝負時なのです。それに対して日本では、勝負時が22歳や24歳という若い年齢できてしまいます。卒業後の進路決定が勝負時とみられ、一旦ついた職業を踏み台にして次の職業へ、という感覚が薄い気がします。私は、アメリカのように勝負時が遅く来るというのは非常にいいことだと思います。またアメリカの就活では、コネや紹介によって就職先が決まることが非常に多いです。コネというとあまり良いイメージはありませんが、コネ作りはアメリカにおいては、学生時代にやっておくべき非常に重要なことです。

恋愛、そして失恋をして成長しよう

グローバルに活躍するための条件は何だと思われますか。

欧州や南米の友人と仲良くなるならサッカー

グローバルという言葉は、長らく人口に膾炙されて、かなり手垢のついたものとなっています。なので、ここでは、将来グローバルな舞台で活躍できるような人材を、新世代リーダーとよびたいと思います。
新世代リーダーとして必要な条件は、スキル(英語力)、教養、センス、自立心、人間力の5つです。
まず1つ目のスキルに関してですが、英語力を例に挙げると、TOEFLのスコアの国別ランキングで日本はアジア30カ国中27位で、韓国や中国を大きく下回っているんです。この差はパナソニックとサムスンの新人採用の英語力の基準に如実に表れています。パナソニックでは、海外勤務に必要なTOEICの点数が650点なのに対し、サムスンでは新人足切りの点数が900点なんですよ。
2つ目の教養ですが、これは、正しい読書、アート・スポーツ、深い経験の3つの要素によって精錬していくべきですね。
3つ目の美意識ですが、チームラボ代表取締役である猪子俊之さんは「すべてのビジネスはアートになる」と言っています。私は、知識や論理的思考だけではエリートの間では差がつかないと思います。差がつくのは、知識や論理よりも、勘やセンスだと思います。だから自分のセンスや美意識を磨くのはとても重要なことです。こればっかりは勉強で身につけるのは難しいです。映画、絵画、茶道、旅行、などさまざまな活動を通じて、多様な経験を積んでおくことが大切です。
4つめの自立心についてですが、これを養うにはまず親離れをすべきです。特に一人暮らしの経験がすごく重要だと思います。しかし、慶応や早稲田の現状を見ていると、完全に関東のローカル大学化しています。自宅から通う学生が多く、一人暮らしをしている学生が少ないように感じます。そして、親離れと同時に、日本離れも意識して行っていくべきです。海外でたくさん経験を積み、日本でなくても生きていけるような経験値や忍耐力を身につけるのです。この親離れと日本離れが両立して、初めて自立心を身につけることができると思います。
最後の人間力についてです。以前私は、男は、貧困、戦争、恋愛の3つを多く経験して成熟した大人になれると聞いたことがあります。学生のうちは、勉学ばかりに励むのではなく、たくさん恋愛すべきだと思います。その過程で失恋などを経験することで、人間は成長することができると思います。
作家の小林秀雄が残した言葉「女は俺の成熟する場所だった。書物に傍点をほどこしてはこの世を理解して行こうとした俺の小癪な夢を一挙に破ってくれた」からも分かるように、学生のうちは、勉学ばかりに励むのではなく、たくさん恋愛をすべきだと思います。その過程で、失恋などを経験することで、人間は成長することができると思います。

古典は教養を養う際の最良の教材

正しい読書というお話がありましたが、教養を身に着けるのに読むと良いジャンルはありますか。
アメリカの学生が寮で古典について議論を行うのは、豊かな教養・リベラルアーツを獲得することに主眼が置かれているからです。教養を養う際の最良の教材と言える古典や、歴史ものをたくさん読むのが良いと思います。古典では特にアリストテレスやルソー、カントなどがお勧めですね。古典、歴史を読むメリットは、①本質をつかめる ②総合的に考えられる ③効率が良い の3点です。今、日本では年間に約79,000冊の新刊が発売されていますが、その中にはハズレのものも多く、新刊を読むのは効率的だとは思いません。10冊中9冊はハズレと言ってもよいほどです。私も学生時代に、多くのビジネス書を読み漁りましたが、どれも役に立ちませんでした。出版社で働く私が言うのもなんですが(笑)。その点古典は出版されてから現代に至るまで、長きにわたりその価値が評価されてきたのですから、ハズレはほとんどありません。アメリカの学生寮には、寮生が古典を読み、それらについて議論をする場が設けられているほどです。古典を選ぶ際は、光文社文庫の古典新訳文庫をお勧めします。古典の翻訳といえば岩波文庫が有名ですが、岩波は好きではありません。わざと分かりにくくしているとしか思えません。その点光文社の古典新訳文庫はとても読みやすいです。

英語力を上げるためにはどうすればよいでしょうか。
まずは留学です。留学といっても、留学する期間や留学先の教育機関などによって多種多様なかたちがありますが、私は、高校時代で1年留学、大学で交換留学、大学院で留学、20代、30代で海外赴任。この4つを一つでも多く経験すべきだと思います。特に私は、高校時代に1年留学することをおすすめします。高校時代に留学を経験した学生は日本人の行動様式をしっかりと身につけていながら海外のことも良く知っているので非常にバランスがいいように感じます。このような学生が増えることを望みます。
あとは、TOEFL, TOEIC, BULATS(ブラッツ)などの各種試験を受けて、英語力を磨くことが大事です。しかし、必ずライティングとスピーキングが導入されている試験を受けるべきです。TOEICも今は、TOEIC SWというスピーキングとライティングの試験が導入された形式があるので、普通のTOEICは無視して、TOEFLやTOEIC SWの勉強に力を入れるべきですね。また、多少金銭的に余裕がある人には、通訳学校に通うことをお勧めします。日本人が英語を喋れるようになるためには、日本語から英語、英語から日本語への変換スピードを究極まであげることに重点を置いた方が効率的です。
最後に、米国製エリートは本当にすごいのでしょうか?
結論から言うと、すごい点もあれば、見かけ倒しな点もあり、我々は見習うべき点と、そうでない点をしっかり区別する必要があります。 
アメリカの学生と日本の学生を比べた際に感じるのは、上澄みの優秀な学生の間には、両国にそれほど差がないということです。日本の優秀な学生が、アメリカの優秀な学生と競っても、十分戦っていけるはずです。しかし、全学生の平均的な力を比べると、日本の学生はアメリカの学生に比べて大きく劣るように感じます。日本の大学は学生の平均力の底上げに努めるべきですね。
編集後記

スタンフォード大学大学院への留学のご経験をもとにした佐々木さんのお話は、将来アメリカの大学に留学を考えている私にとって非常に刺激的でした。教養を養うために古典を読むことや、TOEFLなどの英語の勉強方法など、今すぐに実行できるアドバイスがたくさんあり、1年生のうちにこのようなお話が聞けて本当に良かったです。また佐々木さんの「修行としての留学」という言葉は非常に印象に残りました。実際に留学してみて、アメリカをはじめ、世界各国のエリートから刺激を受けることはとても貴重な経験だと思います。佐々木さんが「早稲田の良いところは、留学制度の豊富さ」とおっしゃっていたように、自分も早稲田にいることの利点を活かして、留学をはじめ様々な経験を積んでいきたいと思いました。

森 雄志(政治経済学部1年)

Vol. 23 「チャンスが巡ってきたときに8割がたReadyでいること。そのための準備と勉強を」

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G&S Global Advisors Inc.
代表取締役社長
橘 フクシマ 咲江

清泉女子大学文学部英文科卒業。ハーバード大学大学院教育学修士課程、スタンフォード大学大学院経営修士課程修了。べイン&カンパニーを経て、1991年から2010年までコーン・フェリー・インターナショナルで人財コンサルタント。その間、日本支社の社長、会長を務め、1995年から2007年まで米国本社取締役を兼務。2010年G&S Global Advisors Inc.を設立し代表取締役社長に就任。人財のグローバル競争力強化、企業のガバナンスに関するコンサルティングを行う。大手企業各社の社外取締役を歴任。2011年より経済同友会副代表幹事。人財・キャリア開発に関する執筆・講演多数。

【2013年2月25日公開】

今のキャリアはタイミングの良さと人との出会いがあったから

学生時代はどんなキャリアを思い描いていましたか?
実はあまりキャリア志向はなく、1,2年働いたら、結婚して家庭をもつであろうと思っていました。清泉女子大学に入学したのには、高校生の頃の先生がやんちゃだった私を見て、「清泉なら良いお嬢さんになれますよ」と薦めてくださったことも影響しました。
清泉には学生によって運営される自治会「学生会」があり、そこの外渉担当役員の選挙に立候補し、選ばれました。男女共学であれば男性がこうした役割をしたと思いますが、女子大は必然的に女性がリーダーシップを取る環境でした。その点は今の自分に少なからず影響を与えていると思います。
ターニングポイントはいつですか?
大学3年生で、日米学生会議に参加したときですね。日米学生会議とは、1934年から続いている歴史のある会議で、アメリカの学生約20人対日本の学生約20人で、政治・経済等のテーマについて議論するものです。毎年アメリカと日本で交互に開催されていて、私は1970年の夏にアメリカに行きました。生のアメリカを見て、自己表現の仕方の違いを体感するなどたくさんの刺激を受け、価値観が変化しました。特に当時はヒッピーの盛んなカウンターカルチャー(*)の時代でしたから、実に自由な雰囲気でした。
また、そこで今の夫である、グレン・S・フクシマに出会いました。夫は当時スタンフォードの学部学生。卒業とほぼ同時に23歳で結婚しました。夫は、「女性の能力を活用しないのは勿体ないので、仕事をしないことは考えられない、主婦などありえない」というような、女性が働くことに積極的な考えを持っていました。またいずれ学者になると言って、アメリカの大学院に行こうとしていたこともあり、経済的にも私が稼ぐ必要がありました。しかし、英語もできない、仕事の経験もない。そんな人間にアメリカで何ができるだろうと考えました。
そこで偶然、当時働いていた会社に来られたある大学の先生から「日本語を教えたらどうですか」とアドバイスをいただき、ICU(国際基督教大学)の大学院で日本語教育を学びました。そのプログラムの修了時に指導教官の先生に挨拶に伺い、夫がハーバード大学に行くことをご報告すると、「ハーバード大学で教えている教え子から今朝連絡があって、ハーバードで教えられる日本語の先生を紹介して欲しいということだけど、あなた行く?」と推薦していただけたのです。


*既存の文化や体制を否定し、それに敵対する文化。1960年代のアメリカで、最も盛り上がりをみせた。
すごいタイミングのよさですね。
そうなんです。そうして9月からハーバードで教え始めました。講師を始めたばかりの頃は、夫いわく、「世の中に私以上に不幸な人はいない」という顔をして歩いていたらしいです。自信がなかったし、楽しいと感じる余裕もなかった。
1年目が終了した時に学生が高い評価をしてくれたので、初めて少し自信が出て、教えることが楽しくなってきました。数年すると、これが天職だと思うようになりました。夫は学者になる予定で、大学教授の終身雇用の資格であるテニュアが取れるまでは、アメリカの各地の大学を州立大学も含め回ることが予測されましたので、私も州立大学で日本語講師として教えられるようにアメリカの大学の修士を取ろうと大学院に入りました。その間は、ハーバード大学が提供していた夜のエクステンション・コースで教えました。その学生が、一年目が終了した段階で継続して受講したいと大学に申請してくれて、初級、中級と同じ学生を教えるコースが毎年更新され、大学院卒業後、教壇に戻ってからも継続し、合計で4年ほど教えました。

「やってみなきゃわからないよ」― いつも背中を押してくれた

なぜコンサルティングの世界に入ったのですか?
当時は日本の経済成長が注目され、アメリカでも日本企業を脅威として意識し始めていました。そこで「ビジネスを全然知らないけど日本に詳しい人」と、「日本を全然知らないけれどビジネスには詳しいMBAのメインストリームのコンサルタント」を一緒に働かせ、お互いに学び合うようにしようというユニークなコンサルティング会社にヘッドハンティングされたのがきっかけです。6年も教えた日本語教育が天職だと思っていましたので、今までの投資を全て捨てることを決断するのにはだいぶ勇気が要りました。そのときに夫の「やってみなければわからないじゃない。咲江ならできるよ」という言葉に後押しされました。日本語教育の経験は全て捨てたつもりでしたが、意外にも、日本語教育で培った「説明する」ことはコンサルティングにも生かすことができ、無駄な経験はないと痛感しました。
コンサルティングは学ぶことも多く、大変楽しかったのですが、ビジネスの経験がないので全体像がつかめない。どうやったら一番短期間でビジネスのフレームワークを学べるか考えた時にMBAしかないと思ったんです。その時ちょうど夫がフルブライト奨学金をもらって東大で研究することになったので、一緒に日本に戻ることになったのですが、英語を忘れないように帰国してすぐにサイマルの同時通訳のコースで勉強を続けました。 2年後にアメリカに戻り、スタンフォードでMBAを取得しました。
その後勤められたコーン・フェリーではどうして入社4年で取締役になられたのですか?
ベイン・アンド・カンパニーを経て、1991年にコーン・フェリーに入社しました。2年半でパートナーに昇格したのですが、ある日突然、コーン・フェリーの創業者でありCEOでもあるリチャード・フェリーから電話があって、「君の名前が(取締役を決める候補の)トップ10に入っている。選ばれたら引き受けてくれる?」と言われたんです。まだ入って4年だったので会社のことは何も分からない。当然「できません」と言いました。が、リチャードはまたここで「君は自分が思っている以上にreadyだと思うよ」と言ってくれて。全然readyじゃなかったんですけどね。夫に相談したら、夫も「やったらいいじゃない。日本人でアメリカ企業の本社の取締役はなかなかできないと思うから、すごく貴重な経験じゃないの。やってみなきゃわからないよ」と背中を押してくれました。そして95年に選挙で選ばれて就任し、12年間務めました。当時はアジアで一番の売り上げを挙げていたことと、あまり政治的なことを考えずにパートナーミーティング等で発言していたことで選ばれたのだと思いますが、自分自身が引き受けようと決心したのは、業績を重視する会社だったことと、リチャードのような良いメンターに恵まれたことが大きかったと思います。当時はできるという自信がなかったので、本当によく働きました。
大学入学前のビジョンと結婚後の実際の生活にギャップがありますが、戸惑いは感じなかったのですか?
あまり感じませんでした。結婚したのが、23歳で大学卒業したばかりで若かったというのもあり、夫とは二人で一緒に成長してきたという感じでしたね。夫はアメリカ人ですが、日系3世で母親は日本人、日常生活では日本語を使っていました。一度私が「うそー!」と言うのを、夫が“liar”と言われたと思ってケンカになったことはありましたが(笑)
夫に対してとても感謝しているのは、いつも「新しいことにチャレンジしなさい」と言って励ましてくれたことです。それまでは当時のふつうの日本人女性と同様に、自分が前に出ないで夫のキャリアを支えるという価値観を持っていましたが、「やってみなきゃわからないじゃない」と言って、常に背中を押してくれ、私が取締役になったときは自分のことのように喜んでくれました。また、夫は自分の仕事で作ったネットワークを私にも紹介して、様々な会合に一緒に行こうと誘ってくれました。そうして私をミセス・フクシマではなく、咲江・フクシマとしてみていただけるようにポジショニングしてくれたんです。だから、戸惑いを感じることはあまりなかったです。本当に感謝しています。

いつも、8割がた“Ready”でいること

グローバル人材とはなんですか?

私は漢字で書く時、「人材」ではなく、「人財」の方を使っています。 10年以上前にその言葉を使い始めた当初は、みな「何それ?」といった感じでしたが、だいぶ浸透してきたことをうれしく思います。どのようなグローバル人財が今求められているのかというと、大きく3つ挙げられると思います。
1つ目は、「グローバルに国境を越えて活躍できる」ということ。体が国境を越えるということではなく、日本は島国だからこそ、常にグローバルを意識したマインド・セットを持って、ビジネスをする必要があるという意味です。
2つ目は、「特定の組織に属さない汎用性のある高いプロフェッショナルスキルをもった起業家的人財である」ということ。日本は起業家のようにインフラがないところから仕事を始めた経験のある人が少ないんですね。特定の組織のなかで仕事ができても、その人のスキルが特定の組織インフラに属したものであり、そこから移ると活躍できないケースが時々ありました。包丁1本でどこの料理屋さんでも通用する板前屋さんのような、汎用性の高いプロフェッショナルスキルが必要です。
3つ目は、「変革のための創造的問題解決を持った人財」であるということ。誰にも頼れないところで想定外の問題が起きたときに、自分の英知、経験をもとに一から考えて創造的に問題を解決することが、非常に重要な要件になっています。
こうした要件を全部満たす人は、日本では少ないということを日本以外の国のクライアントに理解してもらうのは大変でした。「1億も人口がいるのに、こういう条件を満たす人がいないんですか?」とよく言われました。

いま特に日本人に必要な資質は何ですか?
一つだけ挙げるとすれば「多様性に対応する能力」、つまりは、様々な価値観を持った人や、想定外の出来事に対応し、問題解決ができる力のことです。そのためには、「危機管理能力」、「コミュニケーション能力」、「創造的問題解決能力」が不可欠です。コミュニケーション能力と言っても、傾聴力だけでなく「説得力」が重要です。日本では聞くことの重要性は強調されますが、積極的に相手に分かってもらい、説得するという努力をあまりしません。たとえば、ビジネスを成功させたにもかかわらず、「いやぁ、部下がやってくれまして…」と謙虚に話す人が多いのですが、具体的にどのように指示を出し、ビジネスを進めたのかということをきちんと説明しなければ、相手にはわかってもらえません。自分がどう「二つのジリツ(自立・自律)」して対応したのかということを、きちんと説明できることが重要ですね。
グローバル人財に求められる「性格」としては、「ダイナミック且つエネルギッシュでカリスマ性があり、創造的で柔軟で敏捷性があり、前向きで積極的にリスクを取り、なおかつインテグリティが高い」、といったことが挙げられますが、外に出るエネルギッシュでカリスマ性があるダイナミズムはむしろ欧米的と言ってもよいと思います。性格はかなり国民性がありますので、ダイナミズムも内に秘めた日本的ダイナミズムもあります。日本人はまじめで礼儀正しく忍耐力があり、慎重でリスクを回避するといった性格があります。インテグリティの高さはとても高く評価されていますが、これらのすべて要件を満たすのは難しいかもしれません。

どうすればフクシマさんのようにチャンスを掴むことができるのでしょうか?
何かチャンスがきたときに常に自分が8割がたReadyでいることだと思います。Readyの状態にするには、まず準備、勉強をたくさんすることですね。たとえば、ミーティングに行く前には必ず議論する書類に目を通すようにする。会社の数字については押さえておく。「それって何ですか?」と聞かなくて済むようにすることで短期間でもついていけるようになります。シミュレーションもよく勧めています。たとえば自分が会社の上司だと想定し、部下に何をして欲しいかを考えます。ちょっとデータ入力作業を頼まれたときに、そのデータを上司がどのように使うのかを考えるだけで、ちょっとした工夫もできるし間違いも少なくなります。そのためには「作業」でなく、その作業の目的を把握した「仕事」をすることが大切です。そして、いろんなチャンスが巡ってくることを想定しながら仕事をすることが大事なのです。
大学生、特に自分のやりたいことがなにかわからない学生に対してメッセージをお願いします。
まず、焦らない方がいいですよ。何に向いているかはやってみなければわからないし、天職は天から降ってこないです。人が与えてくれるものではないので、自分でやってみること、そして一定期間は続けることで分かってきます。そして、一生懸命やることが大事です。私自身、サーチをやっているときは24時間体制で働き、サーチが天職だと思いましたし、日本語を教えているときも同様な働き方で、教育が天職だと思っていました。
「多様性対応能力」を身に付けるには、大学生のうちに、ぜひ外に出て、多様な文化や人や考え方に触れて頂きたいと思います。たとえば、日本国内でも留学生と多様な接点をもつことで経験できます。アメリカ人であるとか、中国人であるとかいうことは最初は意識するかもしれませんが、性別や国籍はその人の一個性であるとして考えると、お付き合いがしやすいですね。
大学を卒業すると、みなさん仕事を始めると思いますが、初めから自分が考えたような楽しさのある仕事はないものだと思っていてください。初めの3,4年は、ワークライフバランス等を考えず、たくさん働いて、自分の可能性、能力を広げておくのがよいと思います。

ご講演中のフクシマさん

私自身も、土日通して働いていましたし、みんなそうだったので特に何も思いませんでした。ゆっくりした仕事に慣れた人だとキャパが広がらず、スピード感に差がついてしまうものです。だから、若いうちはあまり自分を甘やかさないようにしたほうが、後の仕事が楽になり、ワークライフバランスが必要な頃には、短い時間で同じ成果が出せるようになると思います。また、会社は学校とは違い給料をもらって貢献する場ですから、「会社が育ててくれる」という考えは捨て、自己研鑽は自分ですべきです。そのために会社のプログラムは積極的に利用することは可能です。もちろんその間は、その会社に貢献しないといけませんよ。会社が機会を与えてくれることには感謝し、自分から育とうという姿勢でいましょう。常に「会社がしてくれない」と言っているより、前向きに自己研鑽をする人の方が成長は早いです。

編集後記

やわらかな雰囲気をもちつつ、エネルギッシュなフクシマさん。ずっとお話ししていたいと感じる魅力的な方でした。お話を伺って驚いたのは、大学入学時には今のような生活は考えていなかったということ。フクシマさんの場合、きっかけはアメリカでの日米学生会議でした。私自身昨年イギリスに留学し、キャリアについての考え方が変化したことも考えると、海外に行くことは、重要なきっかけづくりのひとつなのだと思います。しかし、本当にグローバルに活躍できる人になるにはもちろんそれだけでは足らない。地道な勉強の積み重ねと、今自分に何が必要か考えそれを達成していく実行力が大切だと感じました。自分の専門を極めつついろんなことに挑戦し、チャンスを掴みとっていきたいです。

白井 優美(先進理工学部3年)

Vol. 20 「自分が持つ目標に向けて、ただがむしゃらに努力を重ねた。その努力がツキをも呼び寄せる」

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株式会社 村上憲郎事務所 代表取締役
(元Google 米国本社 副社長)
村上 憲郎

京都大学工学部卒業後、日立電子株式会社、Digital Equipment Corporation(DEC)Japanを経て、Northern Telecom Japan社長兼最高経営責任者に就任。2001年に Docent の日本法人である Docent Japan を設立。2003年4月、Google 米国本社 副社長兼 Google Japan 代表取締役社長として Google に入社。2009年1月名誉会長に就任、2011年1月に退任し、村上憲郎事務所を開設。国際大学GLOCOM主幹研究員・教授。慶應義塾大学大学院特別招聘教授。大阪工業大学客員教授。会津大学参与。

【2012年10月12日公開】

私はガリ勉なんですよね。その努力がツキを呼び寄せたんだと思う

どのような学生生活を送られましたか? また、村上さんの専門分野であるITの能力はどこで身に付けられましたか?
  学生時代は学生運動が盛んな頃で、私もその活動に参加していました。また、同時に映画もよく観ていたのですが、当時公開された「2001年宇宙の旅」という映画に、人工知能:AI(Artificial Intelligence)型のコンピューターが登場しました。それまで知っていたような単純な操作しかできないコンピューターではなく、自意識を持ったコンピューターみたいなものだなという程度の認識ではありましたが、すごく惹かれましたね。また、大学は学生が占拠してましたので、コンピューター室は使い放題でした。参考書を買い、自習しながら、富士通のファコムというマシンを見様見真似で使っていました。そこで得たコンピューターの技術はほとんど初歩的なものでしたが、就職には役に立ちました。学生運動による逮捕歴ありだったので、縁故を頼って仕事を探していた時に、面接でコンピューターができると言うと、日立グループの日立電子というミニコンピューターの会社に入れてもらえたんです。日立に入ってからは猛烈に働いて、月の残業時間が200時間にもなるほどでした。ほとんど家には寝に帰るだけ。さらにひどい時はそのまま会社で寝たりもしていました。でもそこで、コンピューターの初歩から本格的に全て学ぶことができました。コンピューターがどうやって動くのか、ワンステップワンステップ全て分かるミニコンの会社に入ったことは本当にツいていましたね。
外資系企業であるDECに転職したことが、グローバルに活躍するきっかけになったかと思いますが、その経緯について詳しく教えて下さい。
  無計画な男なので、英語がしゃべれないのに、日立がミニコンの事業から撤退したことをきっかけにミニコンの世界的なトップだったDECへの転職を決意しました。当時のDECはすごい会社で、ビル・ゲイツ、スティーブ・ジョブス、エリック・シュミット達は全員、DECのマシンを使って育ったんです。転社に当たり、自分の視野を技術以外の部分にも広げたいと思い、また当時「男を磨くのは営業だ」というキャッチコピーの本を読んで(笑)、営業職への転職を決意しました。ただ、DECに入ってから言葉(英語)が通じないと気づきました。後の祭りでしたが、会社には英語ができるだけという人もいて、その人達を見返してやろうという思いもあり、英語を必死に勉強し始めました。それが後に色々なチャンスに繋がるきっかけになりました。仕事をしっかりとこなしながらも1日3時間の英語の勉強を3年間欠かさずやったおかげで、4年目くらいにはオーストラリアで最初の海外講演ができるぐらいにまでなりました。
その後、DECの米国本社へ移られるのですが、そのきっかけを教えていただけますか?
  当時、米国防総省の国防高等研究計画局(DARPA)は人工知能のプロジェクトに積極的に取り組んでいました。DECに入って分かったんですが、DECのコンピューターが米国防総省の予算の受け皿で、人工知能の研究に使われていたんですね。これは非常に運が良かった。また日本でも、通産省が第5世代コンピュータープロジェクトという人工知能に関わるプロジェクトを始め、こちらでも人工知能の研究はDECのマシンを使うしかないということでした。外資系企業の良いところで、やりたいといった人は挑戦させてもらえる環境だったので、僕が手を挙げてその担当になったんです。そのプロジェクトがきっかけで、コンピューターもたくさん買ってもらいました。また、人工知能について海外の論文を読み漁りました。そうこうしていたらミスターAI(Artificial Intelligence)と呼ばれるようになってたんですね。また、第5世代プロジェクトでたくさんコンピューターを売った以外にも、他のプロジェクトで人工知能を応用した製品を民間企業に売ったんです。アメリカでも研究目的のものとして扱われていた人工知能を民間企業へのビジネスと成し遂げたため、本社から「アメリカに来い」と言われました。私は終身雇用は信じていないですし、会社はいい意味で踏み台と思っています。日本DECで学ぶものはもうないけど、アメリカで仕事するということは獲得するべきキャリアだと思って、無謀にも本社に行くことにしました。1968年に「2001年宇宙の旅」を観て、人工知能を作りたいと思い、結果的にその目標に沿ったキャリアを歩めたのは本当にツいていますね。私は業界では”ツキの村上”として有名なんですよ(笑)しかも、その人工知能に関する知識を持っていたから最終的に、Googleにも誘われたんです。
村上さんはツキを呼び寄せる力があるのですね。
  結局、私はガリ勉なんですよ。ツキというか、私はこの後何が流行るか分かるんです。20代から30代の時は、年間200冊位の本を読んでいました。それで分かるようになったんだろうなと思いますね。というのも自分が他の人と比べて特別何かやったのはそれくらいですからね。また、元々要領がいいんです。第5世代プロジェクトに入ったときは、海外から送ってもらったダンボールいっぱいの人工知能の学術文献を読んだと伝説になっていますが、3分の1を読んだ後はたいてい同じことばかり書いてあるから読んでないとかね(笑) 学校できちんと人工知能を学び、しっかりと学位を取ったという先生からすれば、付け焼刃といわれると思いますが、そのような方法で、素早く自分の知識とすることに長けていました。それで、私は自分を生まれつきのマーケッターだと思うんです。自分で自分が素早く習熟した分野を流行らせてしまう。DECへの転職とか無鉄砲だったというのは、結果的にはいくつかはツイていたと言えますが、全部が単なるツキではないですね。例えば、今自分はどんな話題を振られても、それについて、何か話せますよ。Frame of reference(物事を考えるための枠組)が頭の中に構築されているんです。図書館司書みたいなものです。これも大量の本を読んだからだと思います。そして、なぜそんなに本を読んだかといえば、それは、この宇宙の森羅万象を知り尽くしたいという欲求があるからです。宇宙の真理に触れたいということですね。そのような努力がツキを呼び寄せるんだと思います。

米国エリートは日本人が持たない「絶対的」な価値軸を持つ。それがあるから彼らは強い

DEC米国本社で米国のエリートである人たちと仕事をされて、どのような印象を持ちましたか?
  米国のエリートは、日本人が持たない価値軸を持っていますね。例えば、日本では、よい大学を出て、日立に入った人は当時英雄だったんですよ。そこで、例えば、日立をリストラ、または、他の会社に行くということになると大事件なんです。法事には行けなくなるし、ひどい時は、かみさんにも言えない。田舎ではヒーローは嫉妬と羨望の的なんですよね。つまり、日本人の中には、仕事や地位などで人を測る価値観が強すぎるほどあるんですよね。一昔前の日本の女性の理想の結婚相手は、三高(高収入、高学歴、高身長)の男であったように、日本人は給料が高いことで人格的に優れていると思い込んでいたり、背が高いとか学歴とかで人格を測ろうとしたりする。逆に米国エリートは人格とは神様が判定するものという価値観を持っている。それがあるから最終的にただの高収入、高学歴、高身長などに満足せず、逆に、低収入、低学歴、低身長にも、めげません。強いんです。成功している人は、それだけでは神様のおぼえが良いという保障はないので、社会貢献しようという気持ちを持つという点が米国のエリートにはあると言えると思いますね。
アメリカのエリートの社会貢献、いわゆるNoblesse oblige(高貴なる者の義務)はどのように作られるのでしょうか?
  一神教の人達は本音で言うと、神様はいないかもしれないと思っている。もちろんそんなことは絶対に口に出して言いませんが。でも、逆にもしかしたらいるかもしれないとも思っているんです。その場合は、ちゃんとNoblesse obligeをやっておかなければならない。地上では大丈夫でも最後の審判があるかもしれないから保険をかけておくということです。また、アメリカの教育のプロセスでは、エリートの地位にある人がエリートとしての教育を受けているのは普通の学校の場合もありますが、ボーディングスクールが一般的なんです。全寮制で日本の中高に相当する教育をしていて、広大なキャンパスにほぼ全員が博士号を持った先生達も家族共々住んでいて、24時間常に面倒見てくれる。夜でも教えてもらえる。そういう環境でエリートとしてアメリカ社会からの期待を背負っているというようなことも教えてもらえる。哲学をちゃんと古典ギリシャ、ラテン語で読む。リベラルアーツのベースとして西洋哲学の流れを教えてもらえる。国を率いる人間としては人類史を見ておく必要がある。そのような環境からNoblesse obligeが出てくるんです。もともとはヨーロッパの貴族社会で、特にイギリスにそういう考えが強いですよね。今、イギリスの王子様はアフガニスタンでパイロットをしています。また、将校は本来、貴族階級です。そして、将校の死傷率は、英国が最も高い。こういうのがNoblesse obligeを体現している証拠だと思います。
DEC米国本社から日本へ帰ったときはどのようにお考えだったのですか?

  DECの米国本社において、VP(Vice President)への出世は難しいと思っていました。僕は38でアメリカに行って、42で帰ってくるのですが、42歳でMBAは持っていないし、VPでもない。また、英語が相変わらず下手でした。1対1の会話なら良いのですが、会議でみんなが一斉にしゃべって混乱してついていけなくなったら、“ノリオ・タイム”というのをやっていました。「ちょっとここで会議ストップ!賛成の人は誰で、反対の人は誰? オッケー。じゃあ会議再開」みたいな(笑) つまり、本社で今言ったようなエリートの人たちと競うと、最後に退職のはなむけとしてVPになれたかもしれないけど、それが限界だろうと。ツキの村上だけど、天下の形成も見ていたんです。一方で、日本DECに帰れば社長になれるなと思いました。日本DECでは上から数えて5指に入るくらいの英語の上手さでしたしね。
その後、様々な外資系企業のマネジメントを行い、2003年にGoogleに参加されたのですね。
  僕が入社したとき、Google日本法人は10人くらいの会社でした。さすがにここまですごい企業になるとは予想できませんでしたね。会社の受付は他のベンチャー企業と共有で、会議室も予約しないと使えない。オフィスのデスクだけが使えるという状態でした。日本法人の社長は弁護士の方が名前を貸していた状態で、僕の上司に当たる人が、米国本社から遠隔操作していました。ただ、私はむしろこういう小さい会社に勤めた方が良いと思っていました。将来の見通しと、サイズは関係ないんです。また、サラリーマンがお金を手に入れる方法は、Stock option(株式をあらかじめ決められた額で買える権利)しかないです。年俸を貯めたところで、老後の余裕ある生活なんかありえない。これからの年金についていえば、統計で絶対にかけ損ですと政府が言ってるんですから。もう頼ることなんかできないんです。だから、小さい会社の日本法人を任せてもらうのはよいキャリアだと思います。私がGoogleに選ばれた理由に人工知能に関わった仕事をしていたことがありますが、その頃には最新の技術にはついていけてなかったです。でも、CEOのエリック・シュミットが僕を雇うときに、「俺も最先端の技術はわからないけど、お前は分かったふりができる」ということを言っていました。当時、Googleでは、特定の分野では世界一というような人材がいました。ただ、たとえそのような優秀な人材に囲まれている中でも、自分がコードを書くわけではないので、洞察力があれば良いんです。僕がエリックに会う前にGoogleの社員10人ぐらいから面接を受けていて、エリックにはその面接官たちからのフィードバックで、こいつは俄か勉強したことを大昔から全部知っていたように話すやつだと判っていたんでしょう。若い優秀な人達は上司が何も知らないとどうしても馬鹿にするんですが、人工知能、コンピューターに関して黎明期から仕事していたということになると、なんとなくできそうと思ってもらえるんです。仕事としては、アメリカ本社のVPと言うポジションもFor Japanという役職だったので、やっぱりブリッジ役ということですね。

人類は英語がしゃべれる人としゃべれない人に分かれる。決して遅いということはないから海外に行け

外資系日本法人と日本企業のマネジメント職では、求められる能力は違いますか? 村上さん自身はご自分をどのような経営者とお考えですか。
  求められる能力は変わらないと思います。ただ、アメリカではCEOが下から上がる例はないです。それまでがだめだから経営者を変えるんです。そこで、下から調整役を連れてきてもうまくいく訳ないですよね。自分で自分を経営者として見たとき、そんなに立派なリーダーだとは思いません。もともと、エバれない性格なんです。また、いわゆる人脈作りも嫌いです。人脈作りは相手を手段・道具としてみている。それは失礼極まりないです。人脈作りが役に立たないということではなく、手段としてやるところが嫌なんです。自分のやることは、チームと苦労を共にする、助けを必要としている人には手を差し伸べるということです。ただ、気をつけている点として、嘘は言わないです。会社に入ると、最初に、「終身雇用はないです。みなさんが終身雇用される力をつけてください。会社は、その手伝いは、できるだけします」と言っています。世界の情勢、会社のミスなど色々な要因がありますから、どんなに優秀な人に対してでも、終身雇用なんか保証できませんよね。
日本・世界の学歴主義・大学教育についてどのようにお考えですか?
  最近、田村耕太郎さんや僕がこの問題を正面から取り上げ始めて、日本でも海外の大学教育に注目が集まっています。田村さんはインドの大学も良いと言っていて、私はそこでどのようなことが学べるか把握していませんが、でもインド人の英語の方が我々よりも通じるじゃないかというのは事実です。もはや、日本語で高等教育を受けても無駄だと思います。また、世界では学歴は非常に重要で、実際Googleはあるレベル以下の大学からは採用しません。皆さんは、早稲田を出た後、更なる高等教育を受けるかどうか迷うところだと思います。確かにアメリカのエリート学生は、飛び級制度で20歳位で学士号を取得したりするので、彼らと同じスピードで競争するのは難しいです。でも日本人の皆さんは彼らに比べて、10歳は若く見られます。また、グローバリゼーションというのはアメリカナイゼーションなんですよ。つまり、これからは会社の採用のときに年齢を聞けないんです。アメリカの判例でAge discrimination(年齢による差別)は禁止されているから、面接で年齢を聞かれて落とされたら、裁判で1億円もらえますよ。年齢が全く関係ないのは日本人にとって有利です。なるべく早いうちに海外に行った方がもちろん良いです。ただ、いったん社会に出てからでも遅すぎるということはありません。皆さんは35歳の時に25歳に見られる。つまり、自分の気持ち次第なんですよ。また、留学に行くとしたらどこがよいかといえば、学部では高いGPA(Grade Point Average)を稼いで、修士でなるべくいいところに行く。最初は二流校でもよいから、移っていく。最後にどこでMaster degree(修士号)を取るかが重要です。この話はもうかなり日本にも広まっていて、日本の富裕層に送られてくる雑誌があるんですが、そこにボーディングスクールの広告が多く出るようになりました。日本でも富裕層の人は、自分の子供をアメリカにひっそりと送り込んでいるんですよ。

最後に学生にアドバイスをお願いします。
  まず、英語がしゃべれなければ、20年後にまともな仕事はないと思う。人類は英語がしゃべれる人としゃべれない人に分かれるんです。当たり前ですが、会社で言葉の喋れないサルは雇わない。「猿の惑星:創世記」に出てくるシーザーの無念な立場を思い出すべきです。日本人が英語をしゃべれなかったらそれと同じことなんです。そういう時代が来ているんです。日本企業も問答無用でグローバル採用になると思います。例えば、学業成績が同じなら、英語がしゃべれない日本人より英語ができるベトナム人を雇いますよ。就職活動で日本人同士だけで競い合う時代は終わります。明治維新の後で帝国大学として始めた教育は、外国人教師を連れてきて外国語で始めましたが、最終的には母国語で勉強できるようになった。世界最先端の学問まで母国語でできる。それが今は足かせになってきたんです。本当に危機的だと思います。僕自身の英語の勉強についても、田舎の秀才で上昇志向が強かったから30過ぎてからでもあんなに無理な勉強ができたんだと思います。年をとってからそれだけの苦労をするぐらいなら若いうちにアメリカに留学することをお勧めします。英語を勉強するのではなく、英語で勉強する。私はいまだに聴き取れないんです。でも、皆さんの年齢なら何とかなる。私は筋肉と言っているけど、聴力の周波数音域を広げるんです。要は筋トレと同じなんです。英語は日本語と同等までにはならないかもしれないけど、なるべく近づけるためにはすぐに海外に行ったほうがよいです。私は自分だったらどうするということしか言わないんです。もし、自分が今学生であればこのような選択をしますね。
編集後記

  自ら上昇志向があるという村上さんの情熱と、常にユーモアを伴って話す人柄を存分に感じた。インタビューが終わって最初の印象は「村上さんは、何か特別な秘訣があるわけでなく、とてつもない努力によってグローバルな活躍を成し遂げている」ということだった。世界で起こっていることを鋭く洞察するための読書。31歳から英語を始め、ビジネスレベルまでに持っていった努力。グローバルに活躍するためには、もちろん運や偶然の人とも出会いも必要かも知れないが、それすらも努力が呼び寄せるものだと感じた。また、自分の目標が見つかった際に、それに向かって努力を始めることに遅すぎるということはない。自分の気持ち次第で、自分が成し遂げたいことが、成せるかどうか変わってくるということを教えて頂いた。

大芝 竜敬(会計研究科2年)

Vol. 19 「恵まれた状況にある者こそが果敢にリスクをとり、社会に還元していくべき。自分たちが社会を変えるという気概を持ってほしい」

CATEGORY : 民間企業
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ライフネット生命保険株式会社
代表取締役副社長
岩瀬 大輔

1976年埼玉県に生まれ、幼少期をイギリスで過ごす。1998年、東京大学法学部を卒業後、ボストン・コンサルティング・グループ、リップルウッド・ジャパンを経て、ハーバード経営大学院に留学。同校を上位5%の成績で卒業(ベイカー・スカラー)。2006年、ライフネット生命保険の設立に参画。2009年2月より現職。世界経済フォーラム(ダボス会議)「ヤング・グローバル・リーダーズ2010」選出。

【2012年8月8日公開】

人に疑問を持たれても、自分らしいと思える道を選んだ。自分自身を知ることは、より良く生きるためにとても重要

どのような学生生活を送っていましたか。また、学生時代からグローバルに活躍することを意識されていましたか?
  法学部で、1年生の時から司法試験の勉強をしていました。それと、塾講師のアルバイト、サークル(ジャズ研)でピアノを弾いていたというこの3つが、大学時代に主にやっていたことです。僕は帰国子女で、小学生の時はイギリスに住んでいました。中学2年の時には、住んでいた千葉の佐倉市が主催したスピーチコンテストで優勝して、オランダに1週間連れて行ってもらいました。高校生の時、親がニューヨークに転勤になり、僕は日本に残って高田馬場の寮で3年間住んだのですが、夏休みなどにはよくニューヨークに行きました。大学生の時、海外には旅行で行くぐらいでしたが、大学4年になる前の春休みに、日本弁護士連合会でアメリカの司法制度視察があって、同級生(ヒューマン・ライツウォッチ東京代表の土井香苗氏)と共にアメリカに連れて行ってもらい、ハーバード・ロースクールの学生と交流したりしました。そのような経験から、海外の影響は受けていたし、意識もしていましたね。
大学卒業後、ボストン・コンサルティング・グループ(以下、BCG)に就職することになった経緯を教えてください。
  大学3年次に司法試験の3つの試験のうち、2つが終わりました。3つ目の口述試験は合格率90%ぐらいなので、その時点で試験はほとんど終わっていたと言えます。そのためほとんど就活はしなかったのですが、無数に届く会社案内の中で、BCGから来た封書だけが手書きだったので、たまたま開けてみました。その内容がおもしろそうだったので、とりあえずインターンだけ受けてみることにしたんですね。それでも就職する気持ちはなかったのですが、インターンで経験させてもらった仕事が新鮮でとても楽しかったし、BCGの人たちはおもしろくてスマート。こういう人たちと一緒に仕事がしたいという気持ちが出てきました。逆に弁護士事務所の人に会った時は、あまり魅力を感じませんでした。
  また、司法試験合格者は当時一年間に750人もいて、そのなかの1人となって埋もれたくないと思ったことも大きいです。当時BCGは就職先として全然人気がない会社で、例えば、東大法学部の人はおそらく半分ぐらいは知らない。さらに同期入社はたったの3人ということで、周りからはせっかく司法試験に合格したのに、どうしてそんな会社に行くのかとよく聞かれました。でも僕は、司法試験合格者750人のうちの1人でいるより、BCG新卒入社3人のうちの1人でいるほうが自分らしいと思ったんですね。
人と違っていても、自分らしいことがやりたいと思うきっかけはありましたか?
  子供の頃は、みんなと同じじゃないといやだったことを覚えています。例えば、母親がうっかりしていて小学校で使う画板が人と違うものになった時、それがいやで泣いたこともあったし、イギリス在住時、遠足のお弁当におにぎりを持っていったら、サンドイッチを食べていた周りから馬鹿にされ、今度からサンドイッチにしてほしいと母親に頼んだ記憶があります。ただ、イギリスで暮らしていると、外国人である僕はどうしたってみんなとまったく同じではいられない。そのうちにみんなと違っていることが普通になっていき、今ではむしろ人と違っていたいと思っています。子供の頃の体験や感じたことというのは、自分の価値観、世界観に大きな影響を与えるものですね。
  そういった価値観や原体験を含め、自分自身を知ることは実はとても重要です。例えば、ハーバード・ビジネススクール(以下、HBS)のリーダーシップのクラスも、自分の半生を振り返ることから入ります。僕らは本を読んだりして自分の外のことについてはよく知っているかもしれませんが、案外自分自身のことを知らないものです。当時は意識していませんでしたが、留学中に書いていたブログは、ある種の自分探しみたいなものだったのではないかと今では思っています。子供の頃の話を思い出して書いたりして、すごく内省的な時間が多かったですね。そういう時間をとって自分自身をよく知ることは、リーダーシップのトレーニングとしても、仕事以外のことも含めてよりよく生きるためにも、すごく重要なことだと思います。

たまたま恵まれたのだから果敢にリスクをとるべき

岩瀬さんは社会人2年目でBCGを辞めてベンチャー企業へ行くことになるのですが、その時の経緯を教えて下さい。
  僕がBCGを辞めた2000年はベンチャーブームの時でした。また、ベンチャー企業に移った会社の先輩がいて、その選択をみんな最初はいぶかっていたのですが、結果的にその先輩が成功されたんですね。そういう例を身近に見て、ベンチャーはおもしろいと思い始めました。それから、アメリカ生まれのベンチャー企業の日本法人で先輩の手伝いをすることになったのがきっかけです。
後にHBSを修了したときに、起業という道を選ばれたわけですが、その時の心境を教えていただけますか?

HBS卒業式の様子

  HBSの2年間の教育で、アントレプレナーシップ(起業家精神・起業家活動)にも、全くのゼロから小さなビジネスを起こすことから、大企業のリソースを使って新しいものを作るといったものまで色々な形があると知り、幅広い意味で何かベンチャー的なものをやりたいと思うようになりました。早大生でベンチャーをやろうとしている人はあまりいないと思うし、おそらくハーバード大学の学部生でもそんなに多くはいませんが、HBSではそう思わされる雰囲気があります。アメリカではHBSなどトップ層の学生にはエリート意識があるんです。それは、彼らが積極的にリスクをとって道を切り拓き、そこで得られた成果を社会に還元するということを意味しています。ノブレス・オブリージュということです。日本ではエリートであると意識すること自体がまず避けられますよね。でも、たまたま恵まれたのだから果敢にリスクをとるべきだと僕は思いましたし、早稲田の人にもそう思ってほしい。ここにいるみなさんは早稲田大学卒業というブランドですごく守られると思います。そんなみなさんがリスクをとっていくべきですよ。でなければ誰が挑戦するんですか? 日本ではエリート層のチャレンジ精神が少ないと思います。
岩瀬さんは今までにいわゆるエリートと言われる経験を積み重ねて、その結果として成功されたように感じますが、まだ具体的に何をやりたいかわからないけれど、将来リスクをとって、ベンチャーをやりたいという人はどうすればよいと思いますか?
  ベンチャーをやりたいと思うなら、実際にベンチャーに入るか、少なくとも小さい規模の会社に行くべきです。当たり前ですが、ベンチャーに近い環境で経験を積むべきだと思います。僕自身についてもすごい経歴だと言われだしたのはつい最近のことで、起業という道がうまくいきだして、初めて周りから認められたんです。以前はむしろ、「司法試験に受かったのにコンサルティングファームに行った変わった人」でした。しかも、そこもすぐに辞めてベンチャーに行って、そこでも最初はうまくいかなかった。その次はさらに職種を変えてファンドに行った。当時、ファンドは全然知られていませんでした。BCGの先輩からも、岩瀬はなかなかできる奴なのにコロコロ仕事を変えてもったいないと言われていました。それが最近になって、コンサルティングファーム、ベンチャー企業、ファンドが流行ってきただけのことです。
  当時、僕自身もすごい経歴をたどっているとは思わず、ただみんなが行かない道を選んでいました。例えば今も、何で生命保険なんかやっているの? もっと大きいこと、もっと楽しいことをやればいいのに、などと言われます。でも、僕はこういう風にみんなが言うからこそ、生保がおもしろいと思っているし、金融の中のプラットフォームとしての重要性、人々の生活に与える影響の大きさ、競争が少ない点など多くの点ですごく良い業界だと思います。このように、人と違う風に感じることが重要だと思います。みんながあこがれる道とは全然違う、むしろなぜ? と思われながらも、自分らしいことをやってきた。その結果として今があるんです。華やかなエリートの道をたどってきた積み重ねで、ここまできたわけではないんですよ。
リスクをとって常に挑戦されてきた岩瀬さんですが、将来のビジョン・目標を持って、キャリアを選択されていますか?
  「将来のことは本当に分からない」と思っています。例えば、10年前に今のようになるとは夢にも思っていませんでした。これから10年後のことも全然分からないし、また予想が当たったらすごくつまらないことだと思います。10年前のちっぽけな世界観では思いつけない、想像もできないようなことをやりたいと思いますね。でも、最近ひとつ目標ができて、「60歳になったときに元気な若者を捕まえて、荒唐無稽なベンチャーをやれたらおもしろいな」と思っています。
  社会人生活については、終わりよければ全て良しだと思っています。自分の父親が会社を退職する前の最後の仕事をすごく楽しんでいて、それを見ていて、僕もうれしかったんですよね。父親とライフネット生命社長の出口(58歳にしてライフネット生命保険の前身であるネットライフ企画株式会社を創業)を見て、今(若いうち)よりも、どうやって後ろ(キャリア後半)を上げていくかが重要と思うようになりました。だから、今は力をためる時だと思います。ただ、あっという間に36歳になってしまったので、毎日必死に生きていくということは意識していますね。

日本で通用することなら海外でも通用する

留学当初、HBS修了後はアメリカで働くつもりで、またHBSで優秀な成績を残したのに、なぜ日本に戻ってこられたのですか?

大学院にて講義をする岩瀬さん

  ビジネスに関していえば、アメリカも日本もヨーロッパもあまり変わらないと分かったからです。例えば、日本のトップ5%とアメリカのトップ5%の企業のビジネス・レベルはほとんど変わらないと思います。日本で通用することなら海外でも通用します。例えば、グローバルな会議でも難しいことやすごいことを言う必要はないんです。学生の皆さんも著名な経済系のブログ等を読んでいると思いますが、内容的にはそこで議論されていることをちゃんと自分で咀嚼して話すことができれば大丈夫です。
  また、HBSの仲間に、今とても熱いマーケットであるアジアに帰らないのは、ローカルな強みがあるのにもったいないと言われたことや、日本で成功できないならアメリカでも成功することは無理だろうという考えもありましたね。アメリカと比べると日本は競争が少ない点も良いと思います。例えば、ベイカースカラー(HBSをトップ5%以内の成績で修了した人に与えられる称号)は毎年45人排出されます。30年経つと1,000人以上のベイカースカラーが誕生するわけです。実際、アメリカの一部の投資銀行などでは社員がベイカースカラーばかりということもあり、それほど存在価値が際立たないんです。また、大人になってからの海外生活は初めてで、常に自己主張し続けないといけないカルチャーには少し疲れました。日本の方が食べ物もおいしいし、自分にとって居心地がよかったですね。
日本のトップ企業もアメリカのトップ企業も同じであるとしても、日本経済の状況は悪くなっているように思うのですが、どのようにお考えですか?
  平均では確かに落ちています。例えば、GDPの成長率や世界の企業の株式時価総額の上位に日本企業はあまり名を連ねていないという点、新聞等で盛んに日本経済に関して悲観的なことが報じられている点は事実です。しかし、平均で見ることにあまり意味はなく、むしろ過ちを起こしやすいと思います。マクロじゃなくてミクロで見るべきともいえます。例えば、最近の学生のことをとってみても、内向きだとか言われていますが、僕が学生の頃は、学生で名刺を持っている人はいなかったし、社会起業家やベンチャーをやっている人なんかいませんでした。この「グローバル人材プロジェクト」のように社会人を呼んで勉強をするなどという機会もなかったです。
  ただし、学生のなかで、意識の高い人とそうでない人の二極化が進んでいることは事実だと思います。それと同じで、日本企業にもだめな企業とすぐれた企業があります。ある企業は大きな損失を出していますが、利益を出している企業もたくさんある。みなさんは伸びている会社に行けばよく、マクロの心配をする必要はないんです。そこで自分たちの周りをよくしていくことが重要です。また、新聞などでは書き手の意見・主観が如実に表れ、事実が実際と異なるニュアンスで伝えられてしまうこともあります。自分の手足で情報を調べ、自分の頭で考えることが非常に重要で、メディアの情報に踊らされて安易に日本がだめだと思ってしまってはだめですよ。

皆さんこそが社会を変えるんだという気概をもってほしい。今は世界を意識しないわけにはいかない

岩瀬さんのご経験から、グローバルに活躍するために特に学生時代にやっておけば良いと思われることはありますか?

シンガポールのITカンファレンスにて

  まず、英語を勉強することは重要です。社会人になってからでももちろんいろんなことにチャレンジはできますが、まとまった時間をとるのが難しいので、学生時代は特に多くの時間を必要とすることをやるべきだと思います。その最たるものが語学です。ただ、流暢、いわゆるペラペラにならなくても大丈夫です。例えば、会議に行って、中国人、韓国人、インドネシア人、タイ人、ドイツ人、ブラジル人と、下手な英語でも良いから、言いたいことを言えるか。アメリカ人と同等でなければいけないと思うとハードルが高いと感じるかもしれないけれど、下手な英語でよいと思えば、そんなにつらくはないはずです。また、実際仕事をするようになればいつも同じようなことを話すので、使う語彙や言い回しなども絞られてきます。他にも、国際的なコミュニケーションの”お作法”を知っているということも大事です。例えば、男性だったら、へなっとした弱々しい握手はだめで、目を見てぎゅっと力を込めて握手する。まずはそこから始まります。これを学ぶには場数を踏むしかないです。コミュニケーションに関するお作法、メールの書き方や会議で別れる時の挨拶などをちゃんと習得すれば、世界は遠くないと今は感じています。
  そのような作法を前提として、何より重要なのがコンテンツとメッセージです。コンテンツはボキャブラリーを圧倒します。要は、自分が伝えたいことがあるかということです。僕ら日本人は学校などであまり意見を求められてこなかったと思いますが、欧米の人はいちいち反論してきます。世界で起こっていることを理解し、自分なりの意見をきちんと伝えられるようになることです。自分の意見を持っておくことは、グローバルに活躍するためには必須です。
世界を舞台に活躍したい学生に向けて最後にメッセージをお願いします。
  皆さんこそ、自分たちが社会を変えるんだという気概をもってほしい。今は世界を意識しないわけにはいかない時代です。学生時代に留学したり、海外の人たちと積極的に会うのもよいと思いますし、一生懸命勉強するということも大事です。活躍している人は、みんなとても勉強しています。例えば、今世界で起きていることについて、社会人の僕のほうが学生の皆さんよりたくさん勉強していると思います。でも学生の皆さんこそしっかり勉強するべきですよね。実は、社会人も大学生も勉強しないで乗り切れるんですよ。反射神経、常識、ノリなどがあれば(笑)。ですが、僕は常にエコノミスト、フィナンシャルタイムズ等をチェックし、それ以外にも色んな本を読むようにしています。また、同世代のビジネスマンの中では、一番勉強しているくらいの自負を持っています。そのような積み重ねで少しずつ差がつきますよ。皆さんにも世界で起こっていることも常に意識して、これからも勉強してほしいなと思います。
編集後記

  グローバルに活躍することに憧れているけれど、その途方もない大きな目標に、具体的に何をしていいのか分からない人も多いと思う。そのような人の1人である僕にとって、実際にグローバルに活躍されている岩瀬さんから、直接、世界のビジネス・レベル等について伺えたことは、知識・情報が得られたということ以上に重要な意味を持つことになった。さまざまな現場を知っているからこその説得力。努力することで、グローバルに活躍することも夢じゃないと感じた。日本の現在の状況を憂う人はとても多いが、自分の置かれている状況について、自分で考え、行動する必要がある。現在グローバルに活躍している人達が、リスクをとって果敢に挑戦していた年齢に、僕もあっという間に到達してしまうことを意識し、毎日必死に努力していきたいと思う。

大芝 竜敬(会計研究科2年)

Vol. 13 「世界のトップ人材のレベルははるかに高い。だからこそ世界と闘っていくためには、野心と向上心を持とう」

CATEGORY : 民間企業
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フォースバレー・コンシェルジュ株式会社
代表取締役
柴崎洋平

1975年生まれ。上智大学 外国語学部 英語学科卒業。大学卒業後は、ソニー(株)、ソニー・コンピュータエンタテインメントに勤務。2007年9月に円満退社し、同年11月、フォースバレー・コンシェルジュ株式会社を設立、代表取締役に就任。

【2012年3月5日公開】

常に新しいこと、わくわくできることをやるのが面白い

どのような学生時代を送られていましたか。海外を意識し始めたきっかけは何ですか。
大学時代は、午後の3時から夜遅くまでアメリカンフットボールばかりやっていました。昼間もあまり授業に出ないで、留学生との交流サークルを立ち上げました。国際的なイメージを抱いて上智大学に入ったのですが、当時はキャンパス内にほとんど日本人しかいなかったんですよ。市ヶ谷キャンパスには留学生はたくさんいたのですが、彼らともっと交流しないとこの大学に入った意味がないぞと思って、行ったり来たりで毎日留学生とランチを食べて過ごしていました。アメフトの練習にオフがあると、留学生と一緒に旅行にも行きましたね。いつ頃から海外を意識し始めたのかと言いますと、幼少時代はイギリスで過ごしたんですね。その時代があったからでしょうね。自分の中で将来は世界を舞台に活躍したいなという思いは小さい頃からなんとなくありました。年齢が上がるにつれてその気持ちが大きくなり、大学もそのイメージで選びました。就職のときも日本でグローバルな企業と言ったときに、僕の中ではソニーしか思いつかなかったんですね。世界で活躍したいという夢を持ってソニーに入りました。
今はどのようなお仕事をされていますか。
僕たちがやっているのは、日本を代表するグローバルカンパニーが、全世界から優秀な人材を新卒で採用するというビジネスのサポートをすることです。例えば、就職活動のイベントを開いたりキャリアカウンセリングをしたりしています。というのは、ソニーにいた時代に一番感じていたのは、世界の人材レベルの高さだったんです。エンジニアリングは日本も強いのですが、経営企画やマーケットなどの分野のプロフェッショナリズムのレベルの高さというのは、毎回完敗ですよね。とにかくすごい人をたくさん見たので、こういう人たちを日本のグローバル企業の本社に集めたいと思いました。世界のグローバルスタンダードと日本の働き方は真逆なので、求職中の外国人学生には徹底して伝えています。今世界30カ国以上700大学と連携が取れていて、リサーチをしながら世界中のネットワークを作っています。人材業界はもともとドメスティックな産業でしたが、全世界をシェアに入れればまったく違うマーケットになると思いました。これはやっていてわくわくするし、国際交流にもなるので、インパクトのある新しいビジネスモデルだと思っています。今は外国人に特化するのをやめて、世界の優秀層を扱う会社というのを目指しています。
外国人の方と仕事をする上で心がけていることはありますか。
まず一つは日本人だろうが外国人だろうが、まったく同じ扱いをするということです。そして、あまりにも日本的になってもいけないので、なるべくグローバルスタンダードにマッチした形に持っていく、というこの二つですね。外国人に気を遣いすぎた待遇をしてしまうと逆に日本人社員のほうに失礼になってしまうということもありますよね。会社には本当にいろんな人がいますからね。会社の設立当初もアルバイトスタッフとして留学生を雇いました。ビジネスを立ち上げるために知能を貸してほしいと呼び掛けたらすごい数が集まったんですよ。外国人のためのビジネスをやるんだったら、外国人が周りにいて、彼らの意見を常に聞いて、外国人と一緒に考える外国人向けのビジネスというのを僕は意識していました。

日本の新卒は世界一ゆるい。新卒の学生もまだまだ未熟

日本人学生が内向きだと言われていますが、それについてはどのようにお考えですか。
日本人学生全体を見たら、内向き志向がやや上がっているかもしれません。でも僕が付き合っている日本を代表するような企業に入る学生たちにそのような傾向はまったく感じません。僕が毎日接している日本を背負うような学生にその内向き志向というのが強まっているともまったく思っていません。全員がグローバルになる必要はないですから、世界に飛び出していくトップ層に関しては、そのような意識は全然生まれていないと思いますね。そして、内向き志向だと言われているのは学生のせいではなく、日本の企業、社会の責任だと思うんです。日本の古い企業体制や制度が逆に日本の学生に悪影響を与えていると僕は思っています。一括採用をなくしたら、留学する人も増えますよね。そして、海外のようにインターンシップを経験してお互いがマッチングすると採用されるという直結型の採用ができたら、日本でも1dayばかりではなく長期のインターンシップが増えますよね。日本学生の内向きよりも日本のプレゼンスの低下のほうがはるかに悪影響だと思っています。
柴崎さんには今の大学生はどのように映っていますか。
これに関して言えるのはまず日本人学生と世界の学生との比較ですね。世界中の学生を見てきた中で、日本は圧倒的に競争がゆるいです。これは勉強に限らずあらゆることにおいてです。要するに日本の新卒というのは世界一ゆるいんですよ。日本の就職活動が社会問題になっていますが、内定率の低さは世界一ゆるいです。国中をあげて新卒採用をやる国は日本以外ないですよ。例えば韓国の新卒は転職組とも闘うので、学生が勝てるわけがないですよね。日本は一括採用があるから実際はものすごく楽だし、長期採用の文化なので、採る数もものすごく多い。しかし、グローバルスタンダードは正反対で、海外だとトップ層の新卒が最初に入った会社にいるのは平均で3年間なんです。海外でトップ企業に入るためには能力が問われるので、みんな専攻がかなり就職に直結するし、インターンシップも半年から1年は必ずやっています。彼らはビジネスの世界で自分がどう活躍できるかとか将来のビジョンとか全部がはっきりしています。日本でそういうことを考えている人は皆無に近いですよね。常にプレッシャー下に置かれながら一社会人になるための鍛錬がされている海外のトップ人材と勝負していくのは大変です。だからいろんな面で日本の大学4年生というのは世界の中で未熟な部分が多いですね。

大学時代の過ごし方によって将来に対する意識が変わる

将来世界と闘っていくために、学生時代にやっておくべきことは何だと思いますか。
僕がいつも言っているのは、アジアのトップスクールへの留学です。アメリカに留学に行く人はまだ多いと思いますが、語学留学プラスアルファというのが多いですよね。もちろん欧米の学生と交流することも素晴らしいことですが、ビジネスのマーケットはこれから完全にアジアだし、アジアの人材と触れるというのはビジネスの中ではものすごく価値があります。僕はそういう観点でお勧めしています。トップスクールだとやはりそれなりの人材がいて、その国のリーダーになる人がいるので、国によって強い産業の大学や大学院に行くのは面白いと思います。あとは月並みですが、学生時代に発展途上国を旅してみることですね。最後にもう一つは、企業での就業経験ですね。夏休み1カ月くらいを利用して企業の長期インターンシップに挑戦して、自分のビジネスセンスを早いうちに確認しておくということは大事な作業だと思います。そうすると将来の自分のキャリアと残りの大学生活をすごくリンクさせて活動できるんです。課外活動を通して意識が変わってくるはずです。そして、やはり大学や企業がそういう環境を与えないといけないとは思いますね。
柴崎さんにとっての「世界に通用する高度人材」とは何ですか。
世界のトップを目指す人だと思っています。トップというのはいろんな意味がありますが、とにかく高みを目指すということですね。こういう人材がこれから求められると思います。トップに行くという思いとその思いの強さ、これが一番大事だと思います。どんなに優秀でも心が弱い人は上には行けないですからね。心が強い人は努力をするので、必ず上に行きます。僕が今まで出会った中で、優秀だなと思った学生は例外なく強い野心を持っているんですよね。「僕はこんな感じでいいんです」という人は一人もいない。彼らは、こうやって自分の国を、世界を変えたい、というような大きな野心や想いがあります。そして、言語だけができる人がグローバル人材ではないですよね。英語ができるというのはもちろん必須にはなりますが、言語ができることとグローバル人材とは別です。やはり大事なのは想いで、骨太で気持が強い人が評価されます。
フォースバレー・コンシェルジュ株式会社
http://www.4th-valley.com/
編集後記

例年より少し遅れて今年度の就職活動も本格的にスタートしました。就職活動の時期になって初めて働くことについて考える学生が多い中、社会との繋がりを意識し、自分のキャリアを常に考えながら学生時代を過ごしてほしいという柴崎さんのメッセージが心に残りました。目的を持って長期のインターンシップを経験することももちろんそうですが、学生のうちに社会人と触れる機会を増やしたり、行動範囲を広げたりすることで、社会の仕組みを知るきっかけにもなるのではないでしょうか。今回のインタビューを通して、日本と海外との就職活動のあり方の違いだけでなく、学生の就職に対する意識の違いを実感し、身が引き締まる思いがしました。

陸 欣(国際教養学部4年)

Vol. 11 「人生は計画通りに進まない。目の前にある事象に正面から取り組むだけ」

CATEGORY : 民間企業
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早稲田大学講師・慧洋海運独立取締役
(前住友商事理事・台湾住友商事会社社長)
岩永 康久

1945年生まれ。早稲田大学政治経済学部卒業後、69年住友商事株式会社 鋼材貿易部入社。アメリカ、台湾駐在を経て、2000年から2007年まで台湾住友商事会社社長を務める。2007年9月には、台湾経済・貿易発展に寄与したとして台湾政府・経済奨章を受章。2008年住友商事退職後から現職。

【2012年2月16日公開】

まとまった時間がある今しかできないことを!

学生時代はどのようなことをしていましたか。
勉強以外にもいろいろなことにチャレンジしました。社会に出たら朝から晩まで仕事をしなければならないため、時間があり余っている学生時代を有効に活用しようと考えていましたね。具体的に例を挙げると、大学生の頃に日本国内はほとんど周りました。海外に行くお金がなかったので、それでは国内で何ができるだろうかと考えた結果です。たとえば、北海道を一人、野宿同然で自転車で一周した後、青森-秋田-新潟-東京間2,300kmを50日かけて自転車で走り続けました。他にも、九州に帰省する途中にテントを持ち歩き、中国・四国地方に寄ったこともあったし、北陸地方まで足を延ばしたこともありました。
先生にとっての学生時代というのは、どのような時代でしたか。
まとまった時間があるときにしかできないことを経験できた時代ですね。正直に言って勉強はあまりしませんでした。しかし、貧乏旅行などで培われた経験や精神力は、住友商事に入社してからも私の大きな力となりました。また、学生時代は友人とよく遊びました。友達との繋がりというのは社会に出てからも非常に大切です。大学で出会った友人とは卒業後何十年経過した現在でも食事に行ったり、お酒を飲んだりするものですよ。学生の皆さんも今の友人関係を大切にしてほしいですね。もしも私が学生時代に勉強しかしていなかったら、自転車旅行の時間や、友人と馬鹿な遊びをして過ごす時間は持てなかったでしょうね。そのような学生時代の経験は、今の学生たちのように就職活動のノウハウを勉強することよりも、私にとってはず~と重要なことでした。

どこの国の人も自分の人生が大事で、精一杯生きている

総合商社・住友商事を就職先として志望した理由を教えてください。
私の学生時代は日本も外貨がなく、海外への渡航は簡単でない時代でした。貨物船に乗って皿洗いしながら米国に渡り、自転車でアメリカ大陸横断をやろうと計画しましたが、VISAが下りませんでした。自分のお金で海外へいけないのであれば、会社のお金で行くしかないなと、それなら総合商社が一番ではないか、と考えたのです。当時は学校推薦を取れば、あとは役員面接と身体検査だけで内定が出る時代で、運よく住友商事に決まりました。当時総合商社を目指す人の志望理由なんて考え抜いた高尚なものではなく、寧ろ単純なものでした。海外に飛躍したい、海外へ派遣される会社に行きたい。まあ、そのような事でした。入社してからは楽しい事も失望した事も紆余曲折がありましたが、今振り返ってみると、私の夢はほぼ叶ったと言えるでしょう。アメリカや台湾の駐在を含めて、合計48ヶ国へ出張し、やりがいのある仕事をすることができたのですから。
アメリカ駐在時代に印象に残っている仕事は何ですか。

このようなカーブに高級レールが使用されている

鉄道の高級レールの輸出ビジネスを、着想から利益が出るところまで作り上げたことですね。30歳を過ぎて、鉄鋼係長としてアメリカに駐在していた私は、ねじ輸出の担当をしていました。しかし、当時円高が原因で日本製品の競争力は低下しており、取引していた会社も倒産してしまうほどでした。業績不振で帰国辞令が出かねない!今思うと、会社生活で一番苦しんだ時期でしたよ。債権回収には頭を痛めたし、利益が出るような新しいビジネスを如何にしたら作れるかと日々苦悶していました。しかし名案は浮かびませんでした。苦悩する中である時ふと、「扱い商品の中に電車のレールをつなぐ部品(ボルトナット)も含まれているけど、なぜレールは輸出していないのか」、と疑問に思ったのです。そして、レールの輸出ビジネスを始めようと考えました。しかし、当時の日米間では貿易摩擦が大問題でした。ただでさえ日本製品の輸出が増加し、アメリカが日本に対して不満を持っていた時代です。これ以上輸出を増やせるはずがありませんでした。従い、何処の商社も米国向けレールは扱っていなかったのです。そこで考えついたのが、高級レールの輸出ビジネスです。高級レールというのは、鉄道路線の急カーブに使われるものです。電車に乗っていると急カーブで“キッキッキー”という軋み音が聞こえますよね。これはレールと車輪がお互いの鉄を削り合っている音です。アメリカでは一編成で機関車が3両、100両の車輛が一度に1万トン以上を運びますから更に過酷な条件です。従い、激しい圧力にも耐えられる高級なものでなければなりません。高級レールを高価格で、過酷な使用条件の場所のみに少量輸出するのであれば、貿易摩擦も生じません。理論としては完璧ですよね。あとは、保守的な米国鉄道会社、日本の鉄鋼会社の人を説得することに腐心しました。しかし、いろいろな方々の協力を得て、何とか成功させる事が出来ました。このビジネスの功績で、後に社長表彰をいただく事ができました。
アメリカで、考え方の違いを感じたことはありましたか。
私がアメリカ人の考え方を全然理解できていなかったことが原因で、アメリカ人と何度も喧嘩しました。当時の日本が急速な経済発展を遂げていたこともあり、日本人としてのビジネスの方法を過信していたように思います。私は、チャンスがあれば、全力投球で積極的な攻めの営業をしていました(今思うとtoo pushyだった!)。しかし、一緒に働いていたアメリカ人は、別の考え方を持っていました。彼は、押し過ぎるのではなく、周囲をじわりじわりと固めつつ、「万有引力でリンゴがぽとりと落ちる」ように、後は時期がくるまで待つという考え方を持っていたのです。彼とは率直に議論をしながら、私は多くを学びました。その後、ビジネスの進め方が変わり、大いに役立ちました。
台湾住友商事社長としての経験から、多くの現地スタッフを動かす際に気を付ける点は何だと思いますか。
私は日本人を過度に優遇しないように気を付けていました。当時、日本企業は国際化が遅れていました。その最大の理由が言語です。日本人の中には英語が苦手な人が多く、台湾にある会社であっても日本語主体のシステムになってしまったのです。当然社内では日本語が堪能な日本人が有利になります。しかし、これでは台湾人の現地スタッフが不満を持ってしまいますよね。私は常々「人生はそれぞれの個人にとって一番大切なもの」と思っています。日本で生まれたから、台湾で生まれたから、という理由で差別がでたら、不満が生まれますよね。やる気もなくなり、会社の業績だって上がらないでしょう。そのため、絶対に台湾人現地スタッフを差別しないように心がけていました。むしろ意識的に日本人派遣員よりも台湾人スタッフの考え方を尊重し、フェアな処遇になるよう考えていました。

間違いは素直に謝ることが信頼につながる

今の学生は内向きだと思いますか。
日本の学生全体が内向き志向になっていると思います。その理由は、豊かな社会で育ったことと、少子化の2点であると思います。今の学生は、豊かな社会で親に大事に育てられたので、苦労の経験が昔の学生と比べると圧倒的に少ないです。また、少子化であるために、親や親戚の愛情を独り占めにして成長してきました。その結果、ハングリー精神が足りない、わがままで打たれ弱い学生が増えたのだと思います。このハングリー精神の欠如から、全体として今の学生は、内向きになりがちであると思います。ただし私は、他大学の学生と比べ、早大生は比較的にバイタリティがあると思います。私の講義をとる学生には外向き志向の人が多く、機会があれば海外に飛躍しようと考える学生が多くいます。もちろん全体として見て、我々の時代の早大生と比べれば、まだまだ内向きですがね。
なぜ外向きになる必要があるのでしょう。
時代が変化しているからです。これまでの日本は、世界第2位の経済大国でした。日本でやっていれば世界と戦えたのです。しかし、これからは日本の市場は縮小していく一方です。世界に目を転じて、市場を拡大していかないと、企業は生き残れません。早稲田の学生たちには、そういう外向きの志向を持ってほしいと思っています。世界に出ていくと、考え方・価値観が異なりますから、日本で美徳のように語られる以心伝心など通じません。意見は堂々とはっきり言うことが求められます。また日本人としてのアイデンティティ・価値観を持って議論してほしいものです。良く歴史問題などの議論も出ますから、歴史も良く理解しておいてほしいですね。そして激しい議論を恐れない事です。口論になる事を恐れて自分の意見を引っ込めれば、真の理解は生まれません。相手の立場を尊重して、誠意を持って当たれば、率直な議論を通じてこそ真の相互理解が生れるものです。
これから社会に出る学生へメッセージをお願いします。
間違いは「素直に謝る」ことが信頼につながる、ということです。例えば、私が住友商事に勤めていたころ、見積もりの計算ミスで何十億円という赤字が出かねない失敗をしたことがあります。悩みましたが、かかる事は隠さず即報告すべきと思い、当時の課長に打ち明けました。すると、そのときの課長が「間違いは誰にでもある。二度と間違えなければいい。よく話してくれた」と逆にほめてくれたのです。取引先には即訪問し、正直に自分のミスを説明して謝罪しました。付き合いの長い取引先であったため、最終的には理解を得ることができました。みんないい格好はいくらでもします。しかし、間違いを認めることは、誰にでもできることではありません。過ちを素直に認める心をもってほしいですね。もう一点、「苦労は買ってでもする」べきであり、「正面から向き合いなさい」、ということも伝えたいですね。人生は山あり谷ありです。調子がいいときがあれば、次には落ち込む時がきます。このときに、困難から逃げずに正面から向き合うことが肝要です。若いときに苦労した経験がある人は、将来仕事で辛いことに出くわしても、必ず突破口を見いだせると思います。最後に、あまり就職・勉強だけに執着しないでほしい、ということです。私も今になってもっと勉強しておけばよかったと思う事もあります。しかし社会に出たら朝から晩まで仕事・また関連の勉強をしなくてはなりません。むしろ、学生時代の貴重な4年間でしかできないことをしてほしい、と思いますね。
編集後記

インタビューの中で、何度も先生が協調なさったのは、「学生時代には、まとまった時間がないとできない経験をした方が良い」ということでした。岩永先生が、アメリカで「ボルトからレールの輸出へ」という案を思いつくことができたのも、学生時代のさまざまな経験で積み上げた引き出しの多さゆえではないかと思います。私自身、残された1年間の学生生活で、今しかできないことに全力を注いでいき、「経験の蓄積」を増やしていけたら、と思っています。

飯沼亜季(国際教養学部3年)

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