Vol. 22 「必要だと思ったことを淡々と続けること。そうすることで世界が変わり、自分にとっても正しい人生の意思決定につながる」

CATEGORY : その他
shin-san

NPO法人Living in Peace理事長
投資ファンド勤務
慎 泰俊

1981年東京生まれ。モルガン・スタンレー・キャピタルを経て、現在はプライベート・エクイティファンドにて投資プロフェショナルとして働く。その傍ら、「貧困の終焉」に触発され、NPO法人Living in Peaceを設立し、理事長を務める。朝鮮大学校政治経済学部法律学科卒(人権)、早稲田大学修士課程修了(ファイナンス)。

【2013年1月17日公開】

ドラマチックなことではなく、自分が必要だと思ったら淡々とそれを続ける。続けると習慣になって苦しいことではなくなってくる

どのような学生生活を送っていましたか。また大学卒業後、海外のビジネススクールを目指し、将来はプライベート・エクイティ(PE)(*1)の仕事をしようと思った経緯を教えてください。
学生時代は勉強ばかりしていました。本、特に古典をずっと読んでいましたね。お金がなかったので、早稲田通りにある古本屋で岩波文庫の古典を片っ端から買いました。法学部だったのですが、法律の勉強自体にはさほどのめり込むことができず、関心のあった人権問題について必死に勉強していました。他にやったことと言えば、人権系の国際NGOでのインターンや、大学から始めて今も続けているドラムの演奏などですね。卒業後はとりあえず海外に行きたいと思っていて、また、若いうちなら色々な出会いやたくさんの刺激をもらえると思ったので、ビジネススクール(MBA)に行こうと考えていました。将来的に今のようなプライベート・エクイティ(PE)の仕事をするために、MBAは一番の王道だったということもあります。なぜPEで働きたいと思ったかというと、実際に勤めている人の話を聞いて、面白くやりがいのある仕事だと感じたからです。会社をよくすることは従業員の幸せや税収増加につながる立派な社会貢献になると思っていたので、日本の企業を強くしたいと考えたのです。実際に大学院への入学と同時に投資銀行での仕事を始め、主にミドルオフィス(*2) の仕事で財務モデルを作る業務等に携わっていたのですが、自分が思い描いていた通り楽しく働けました。


*1:投資ファンドの一形態。未公開株式または事業に対する投資を行い、経営支援等を行ってその企業や事業の価値を高め、株式公開や第三者に売却することを目的としたファンド等
*2:市場や取引相手との間で契約をまとめるフロントオフィスのサポート・チェックをする部門
その後、慎さんは金融のプロとしての道を歩みながらNPOの活動もパートタイムで始められるのですが、その時の経緯を教えて下さい。
金融を通じて社会を良くしたいと考えていたのですが、社会貢献をしようと思っていても、本業だけでは目の前の仕事にいっぱいいっぱいになり、そのような気持ちが薄くなりがちでした。それで、自分の当初の志を忘れないために活動を始めました。このような理由で社会貢献活動を始める人は少なくありません。僕の周りだけかもしれませんが、外資系企業で忙しく働いている人の中でボランティアをやっている人の割合はけっこう高いと思いますね。最初は勉強会がいいと思って、開発経済研究会という勉強会を始めました。月に1回、規模は10人くらいで始め、少ない時は3,4人でやっていました。人は減ったりしたけど、続けていると変わるもので、Living in Peace(NPO法人)の設立につながりました。
なぜ、今もパートタイムでの活動を続けているのですか?
理由は二つあって、一つ目は、このような働き方が特別なものではなく、この先当たり前になると思っているからです。将来的には、多くの人がパートタイムの活動を持つようになると思います。昔の日本みたいに終身雇用が当然だった時代には、本業というものが明確にありましたが、今後は終身雇用自体がなくなると思います。20、30年もすれば副業というコンセプトは希薄になり、フリーランスでの活動がもっと増えるでしょう。そんな過渡期の時代にパートタイムで働ける組織のモデルを作れたら面白いし、社会的にとても意味があるかなと。もう一つは、インターネットが発達した今、働く人が本業以外に少しでも社会のために時間を使えば、すごく大きな価値を生めるのではないかということ。これまでは技術的に、沢山の人が少しずつ働くことで大きな価値を生むことは難しかったのですが、例えば今では、一人のフルタイムスタッフが1日8時間の労働で生み出せる成果を、8人のパートタイムスタッフが1日1時間働くことで生み出せると思います。
また、今やっているパートタイムの仕事は異業種の方と一緒に働くことが多く、各々の強みを理解し、それを適宜利用して仕事を進めることで成果を出せるので、そういった経験を通じて成長することもできます。本業との兼ね合いでも意味があると思いますよ。このような活動は、そこから生まれる付加価値という点からも、起業しフルタイムで社会貢献するのとは別もので、たとえ今後起業する機会があったとしても、パートタイムでの活動は続けようと思っています。例えば、児童支援はビジネスとして成り立たせるには大変で、起業は難しいと思うのですが、支援活動自体は続けたいと思っています。それはパートタイムだからこそできることです。
金融の仕事でお忙しい中、どうやってNPOの活動へのモチベーションを保つのですか?
何かを続けるのにモチベーションはそんなに重要ではありません。大事なのは習慣にすること、責任感を持つことです。給料をもらっている仕事が優先なので、それが忙しいとNPOの活動はたしかに大変ですが、1度事業を始めたら責任があって、簡単にやめられるものではなくなります。特に僕は始めた人間なので、途中でやめるわけにはいかないんです。やると決めたらやる。3か月何かを続ければそれは日常になります。その3ヶ月を乗り切るのにはモチベーションは役に立つでしょう。別にドラマチックなことではなくて、必要だと思ったら淡々とそれを続ける。続けると習慣になって苦しいことではなくなるんです。人間の習慣の力は偉大です。続けていると、周りからは大変そうに見えるけど、自分にとっては大変でなくなる。僕にとって「続ける」とはそういう意味を持つことなんです。脳科学で人間のモチベーションは枯渇するということが言われています。特別意志が強くて、努力を続けられる人がいるわけではなく、そのように見える人は意志の力が必要でないように習慣化しているのです。それが日常なので何とも思っていない。例えば僕も苦手なこと、普段やっていないことをやっていたら辛くて投げ出したくなる。要は慣れるまで頑張れるかどうかなんです。意志の力は有限で、人間の起きている時間のようなもの。それを有効活用することが大切で、新しい習慣を作るために、意志の力を使うべきです。そして、新しい習慣を作り終わったら、また違うことを始める。きれいごとを言うのは簡単だけど、日々の生活にどれだけ組み込んでいるのかが重要なんです。僕は、特に才能に恵まれたわけではないのですが、何かをコツコツやることは得意で、そのコツコツした努力のおかげでここまで活動することができています。
最初に海外向けのマイクロファイナンスに関する活動を始められたとのことですが、なぜカンボジアで行うことになったのですか?その後、なぜ日本の貧困問題に対しても活動を始められたのですか?

カンボジアの農村部の朝

カンボジアにした理由は3つあります。まず、アジアで近いということ。GDP per capita(一人当たりの国内総生産)が低いということ。マイクロファイナンスの規制がよくできているということです。実際に現地に行く前に、カンボジアで投資を行うと決めて計画を立て、その後現地での活動に移しました。人間はどんな環境でも生きていけるので、カンボジアの人々も与えられた環境で真面目に暮らしていています。みんなドラマチックな状況を想像するけど、そのようなことはありません。ただ、日本と違って、真面目にやっていても、思うようにいかなかった時に、生活が一気に苦しくなるという現状があって、それは変えた方が良いなと思いました。かわいそうとかそういう感情はあまりありません。みんな対等な人間なのでそう思うこと自体が逆に失礼だと思っていました。現地に赴くと分かりますが、物質的に豊かでないという点では大変ですが、日々の生活という点では楽しいことはたくさんあるんです。一方、日本では飢え死にはしないけど、貧困の種類がすごくジメジメして陰鬱で、精神的に大変です。これらの大変さを比較することは難しく、どちらがより大変とは言い切れません。僕にとっては、日本の貧困問題と途上国の貧困問題、どちらも取り組む価値があると思ったので、どちらも取り組むことにしました。

ときどきビジョンも考えるけど、まずは行動する。自分の目の前にやることをただひたすら一生懸命やることで自分の天職に気付く

慎さんは、中学時代にあったいじめが嫌で、高校に入ってそれを同級生みんなで解決したそうですね。周りのことをより良くすることに生きがいを感じると前から思っていたのですか?
中学生とか高校生の時は全く思っていませんでした。ただ単に自分がいじめられていたから、いじめをなくしたいと思ったんです。怖いけど、言ったら後戻りできなくて続けるしかなかった。そしてやってみたら、それが喜ばしいことだと分かりました。頭で考えた自分がやりたいこと=天職というのは間違っている場合も多く、逆に成り行きでやってみて、それが天職だと気づく場合は正しいことが多いと思います。僕が当時やったことはそういうこと。正義感ではなくて、自分の中学時代の嫌な経験を変えたいと思っただけなんです。経験で得たことの方がやりがいにつながることが多く、それは本などで勉強して覚えるのは無理で、何かをやってみて初めて感じられるもの。だから学生にとってアクションする、行動を起こすことは非常に重要だと思います。そういう行動の積み重ねが人のいろんな能力を積みあげてくれます。それがより正しい人生、意思決定につながるんです。「ソマティック・マーカー仮説」というものがあって、ざっくり言うと年をとった人の直観は正しいということなんですが、それは、年齢を重ねたからではなく、いい経験をしてきたから得られるものなんです。それを意識的に作るのはとても大切だと思います。
何かアクションを起こす時には最終的な目標を設定されていますか?
その時々でやらなければいけないことは変わっていくので目標を固定するのはよくないと思っています。変化を予測することは難しいので、その時々の状況にすぐに対応することが大切。大切なのは未来のビジョンではなく、もうちょっと自然で、シャカリキではないことなんですよ。黙々とやっていて、ときどきビジョンも考えるけど、まずは行動する。自分の目の前にあるやるべきことをただひたすら一生懸命やる。意志とかエゴではなく、もうちょっと自然な形で足を進めることが、僕が続けていることで、それはすごく静かな世界なんですよ。こういう考えはマラソンで学びました。ウルトラマラソンで200kmという長距離を走った時、時間が経っていくと自分の意志だけでない何かで動かされていると感じました。これは言葉では通じないと思いますが、足が折れそうなのに、残りまだ50km走らなければならないというような経験によってわかるんです。最近はありがたいことに脳科学がそれを認めていて、体と脳はつながっていると分かっています。性格やものの見方、考え方ってなかなか勉強では身につかないですよね。つまり、身体知なんです。体を動かしてそれを覚えるのは大切です。
どんなに苦しい状況でも、コツコツ進める。これは本当に大切で、大きな変化に通じると思っています。例えば、今の活動でもメンバーが抜けるなんていうことはコントロールできないです。ただ、続けることでよくなるはずと信じています。続けると何かが変わる。続けるとなぜ変わるのか分からないですけど、僕は高校生のときにいじめを解決した時も含め、自分で周りのことを変えるときにこの考え方をテーマとしています。続けているとみんなが見てくれるんだと思います。良いことを言うのは簡単ですが、続けているかどうかを周りはすごく見ていて、それが嘘くさいと信じてくれない。行動を見るのが一番確実だということですかね。

在日朝鮮人として日本で生活することで価値観に影響はありましたか?

ホームステイ先の家族の皆さんと共に

僕の場合、必ずしもネガティブな方向には作用していないですけど、影響はあると思います。現在はインターネットで在日韓国人・朝鮮人と検索すると、百万の悪口があります。もう大人だから良いけれど、子どもが見てしまうと大変だと思いますね。今の世の中は情報が簡単に得られる時代なので、それらから子どもたちを守る術がありません。具体的に嫌なことと言えば、海外旅行は不便ですね。在日コリアンの大半の人は韓国籍を持つのですが、いまだに僕は「朝鮮籍」という国籍で、法律的に無国籍のまま。これは、日本の戦後に出てきた不思議な状態が続いているからです。この点について僕は実際に不便を感じているわけですが、本当は、人は生まれた時点で不便を感じたり不当な差別を受けたりするべきではないと思っています。また、不便を感じているからといって自分の信条を変えてしまうことは間違っている気がするんです。例えば、ゲイに対する差別が残っている日本で自分がゲイだとします。科学が発達し、ゲイでなくなる手術ができるとしても果たしてそれが正しいのかって思うんです。生きにくいから、周りがどうだからで自分が生まれ持った何かを意図的に失うことが正しいのか?それは正しくないと思うんです。人間というだけで不可侵な権利があるはず。それが300年くらいの歴史がある人権の考え方です。当然渡航の自由も含まれるはずだけれど、実際僕は海外に行くと、警察に捕まって大変な思いをします。このような考えは、在日コリアンだからというより、もっと普遍的な人権的な考え方に根付くものですが、在日コリアンとしての経験で多くのことを考える機会がありました。それはすごくありがたいことです。考えなければならないということは、神経が研ぎ澄まされるということ。いやなことがあったら、やり返しても仕方がなく、人生をかけてメッセージを伝えることが大事だと思っています。自分のきちんとした行為を通じて、反論ではないけど、こういう人もいると伝えたいと思いますね。

世界で活躍するために英語と教養は欠かせない。それができないと結局は能力が枯渇する。人間は生きている限り学び続けるべき

最近の大学生にどのような印象を持たれていますか?
最近の学生は格差が激しいですね。極端にできる人とできない人がいる。ソーシャルメディアが発達したことで、実際はそれほどでもないのにそう見えているだけかもしれないけれど、それが第一の印象です。もう一つの印象は、いわゆる意識が高いですね。不景気で、頑張らなければ就職できないという状況下で、意識が高くならざるをえないということもあるんでしょう。僕が学生の頃は、景気は悪いけど、勉強せずに、適当に飲んで遊んで就職活動だけ一生懸命やろうって感じだった。今の学生は危機感があるんだと思います。このままじゃやばいと。僕らの頃よりはるかに意識が高いと思いますね。日本で初めてのクラウドファンディングの事業を創った米良はるかさんなんかはすごいと思いますね。ただ、日本の学生は海外の学生と比較しても優秀だけど、言語能力が低いのは残念だと思います。海外の優秀な学生としゃべっていると英語はすごいけど、内容はあれ?ってこともあります。日本の学生がもしネイティブ並みに英語を喋れていたら、議論で負けないと思う。これは、学生に限らず日本人全般にいえることで、日本の優秀な経営者の方はとても素晴らしいのですが、言葉がだめだからイケてないということになっている。すごくもったいない。語学も習慣化すれば誰だって覚えられるんです。
これからはどのような人材が求められると思いますか?
これから必要な人材はT字型人材と言われています。一つ深い場所があり、あとは広い。僕は金融のプロとしての仕事に一番時間を割いていますが、特にこれからの時代は、他の分野の人とコラボすることが増えていくと思うので、他のことも分かっていないと仕事がしづらくなると考えています。特にPEはそういう仕事です。一つの案件で色々な人と仕事します。僕たちの会社から3人、弁護士5人、会計士10人、税理士5人、投資銀行の人10人くらいが集まって仕事をするので、その人たちのやっていることがわかっていないとダメです。もちろん完璧である必要はなく、彼らの仕事ができなくても良いのですが、何をやっているのかがわからないと仕事になりません。だから広くいろいろなことを勉強することは大切。こういう風に仕事ができないと結局能力は枯渇します。ひとつのことだけではやっていけない。
それでは、世界で活躍するのに何が大切とお考えですか?
世界的に活躍するためには英語と教養は欠かせないです。英語はできないと大変で、これはほぼ義務としてやるべき。TOEFL iBTで常に100点くらい取れないとダメだと思います。そうじゃないと仕事にならない。これから日本の企業も海外でやらないとダメなのは明らかで、英語ができないのはあり得ないと思う。また、様々な分野で最先端の情報は英語で流れています。僕は最近雑誌を読むときもほとんど英語のものしか読みません。質の高さが違うと思います。理由は簡単で、購読者数が多いからです。最新の情報をもとに最新の情報が出てくるので、英語とその他言語の間の情報差は雪だるま式に差が広がると思います。人類の歴史でさまざまな言葉があり、英語が最後の公用語といわれています。また、例えば将来公用語が英語から中国語になるとしても、その時にはもう機械翻訳ができていると思います。英語さえあれば、他の言語に行けるんです。将来の人はいちいち言葉を習う必要はないでしょうね。これから2,30年で自動翻訳は大きく発展すると思いますが、逆に僕らの世代は習わないとまずいです。また、教養は人間が積み上げてきた知の一番の土台です。それがあると他の分野の人のことも理解できる。教養は飾りでなくて、知の一番の根っこで、すべての他の専門を持った人と仕事する上で非常に重要です。特に歴史・哲学・文学・芸術などが重要だと思っていて、後は各専門学問分野での古典ですかね。学校でやる一般教養と同じです。僕は今も教養のための本を読んでいますし、これからもずっと続けます。人間は生きている限り、学び続けるべきなんです。
編集後記

投資ファンドでプロフェッショナルとして働きながら、パートタイムでのNPO活動で社会を変える。社会に貢献したいと思う人は数多くいても、なかなか行動に移せる人は少ないです。様々な困難に立ち向かい、自分の思いを実践している慎さんはさぞかし情熱的なパーソナリティー、強い意思をお持ちなのだろうと思っていました。また、そこにたどり着くまでにどのような思いを持って歩んでこられたのかとても想像つきませんでした。お会いしてお話を伺うと、すごく淡々と、地に足のついたこれまでの活動、キャリアに関するお考えを聞かせてくださいました。そのギャップがとても印象的で、自分が到底たどりつけない位置にいると考えていた人が、そこに行くまでにはコツコツ一歩一歩登って行ったのだと感じられました。

大芝 竜敬(会計研究科修士2年)

Vol. 21 「大切にすべきは『フェア・コンペティション』。自分の長所や才能を知り、それで闘い、周りに認められてこそ国際人」

CATEGORY : その他

社会的企業 ユニカセ・コーポレーション
ゼネラルマネージャー
中村 八千代

1969年東京生まれ。明治大学商学部を卒業後、カナダ留学。帰国後は、家業の一般酒販店代表取締役として10年間奔走する。児童福祉施設でのボランティアをきっかけに、2002年からNGOや国際協力の世界へ。2006年に初めて訪れたフィリピンで青少年の雇用機会創出の必要性を感じ、2010年社会的企業「ユニカセ・コーポレーション」を設立。

【2012年11月14日公開】

全部で勝とうとはせず、得意分野に早く気づいて伸ばしていく

どんな学生時代を過ごされましたか?
  明治大学短期大学に入学しましたが、明治大学への編入を考えていたので1年生の後半くらいからは試験の準備をしなければいけませんでした。父親のことをすごく尊敬していたので、「ああいう人材を育てた明治大学商学部に絶対入学したい」と思っていました。27歳の若さでスーパーマーケットを築いて、数年後には全国で400位以内に入るくらいのスーパーにした父が、私にとってはすごく自慢の父親だったんです。あとは、私が19歳のときに母が余命3ヶ月と宣告されて、「できることなら、お父さんと同じ大学に行ってほしい」と言って亡くなっていったので、そんな母の願いを叶えたいと思いました。明治大学で過ごした2年間というのは、今の自分の基盤をつくった大切な時間でしたね。マーケティングとの出会いが、私の人生を変えた気がします。
明治大学卒業後は、ご就職されたのですか?

カナダ留学時代の友人を再訪

  いえいえ。卒業式の翌日にカナダに飛んで、小学生の頃からの夢だった留学をしました。父親を尊敬していた反面、負けん気の強い子だったので「勝ちたい」という気持ちがあったんです。なんでもできるイメージの父親ができないことはなんだろう?と、子どもながらに考えたんですよね。それで、「あ!英語ができない」って(笑)。
  アルバータ州立大学でESL (English as a Second Language)プログラムを受けたのですが、数ヶ月目くらいから「このまま帰っても、仕事に使える英語じゃない」ということに気づきました。一年留学期間を延長して、「アルバータ州立大学よりも就職率のいい専門学校がある」と薦められた学校に入学したのですが、これがものすごく厳しくて・・・。プロの方にインタビューをしたり、クラス全員の前でプレゼンしたりという実践的な授業では、英語が母語でない留学生の私は最初から不利な立場にありました。当時、他に日本人はいませんでしたし、カナダ人の学生でもどんどん脱落していく学校だったんですよ。それについていくというのは至難の業でした。全科目で勝とうとすると、やっぱり難しいんですよね。だけど、準備をすればするだけ結果が出るし、しなければ玉砕しますから、まずは全体を見渡して、「ここは得意だな」というのを一分でも一秒でも早く見抜いて、そこで追いついていく。そんな場数を踏ませていただいたのは、カナダでしたね。
ちなみに、中村さんの得意分野は何でしたか?
  やはり、日本人が得意とする分野は数字を使うものなのでしょうね。私が優先した科目のなかでも、“Business Statistics”(統計学)はクラスで一番の成績でした。また“Business Communication”のクラスでは、ユニークな質問やプレゼンの内容が良いと、こちらも好成績をいただきました。

人を裏切るのは人だけど、助けてくれるのも人。真剣に生きていれば、誰かがどこかで見ていてくれる

2年ぶりに日本に帰国されてからは、どのような進路を選ばれたのでしょうか? カナダで学んだことは活かされましたか?
  「世界を駆け回って、日本にないものを買い付けたい」と、貿易会社に就職しようと考えて帰国しました。ところが、私がカナダにいる間に、父親が何十億円という借金を作ってしまっていたんです。私は、知らぬ間にその借金の一部の連帯保証人になっていました。なんとかしなくちゃということで、母の死後に私が引き継いで、実際は父や父の部下がまわしていた「中村商店」という会社の経営に、私が本格的に関わり始めることにしました。当時の中村商店は、4,000品目を扱う大きな酒屋でした。もちろん最初は何もわからなくて、泣きながら必死にお店をまわしましたよ。1~2ヶ月経った頃にだんだん動きがわかってきて、口座にも少しずつお金が入ってきたなという印象を受けました。半年ほどして、父親に「5,000万円貸してほしい」と言われて、悩んだ末に貸しちゃったんですよね。そうしたら父親の会社が1ヶ月後に倒産して、私の会社のお金は返ってこなくなってしまって。その上、父の会社は200社以上の問屋さんやメーカーさんとお付き合いがあったため、これだけ借金を膨らませてしまった以上、危険を伴う可能性があるということで、父と妹と親子3人で着の身着のままで夜逃げしました。でも、中村商店は店長にお願いしていたものの、やはり心配でした。結局、父親は1ヶ月隠れたのですが、私は刺されたり、誘拐されたり、脅されたりするのを覚悟で、夜逃げした1週間後にお店に戻りました。
その後の生活は、いかがでしたか?
  夜逃げのあと、父が迷惑をかけた謝罪をするため銀行に挨拶に行ったら、支店長室に連れていかれました。「あなた、のほほんとしていられないんだよ。あなたにも借金があるの知らないの?」と言われて、「借金ってなんですか?」って・・・。なんと、中村商店まで4億円の借金があったんです。ただ4億という額は大きすぎて、ぜんぜん実感がわかなかったですね。「ゼロ何個なんだろう・・・?」みたいな(笑)。返済プランを組んだら、毎月120万円返済の80年ローンでした。「100数歳まで、120万ずつのローンを払い続けるんだ、私・・・。死ぬまでやろう」って覚悟を決めましたね。
  そのときも、父親のことを恨むとかそういう気持ちはなくて、「なくなっちゃったものは仕方ないから、一緒にがんばって返していこうよ」みたいな気分でした。毎日朝6時に家を出て、車で片道2時間かけてお店に通って、夜中2~3時まで事務処理をして、帰宅して仮眠してお店に戻る・・・という生活が続きました。それに、お財布のなかにはだいたい80円くらいしかないんですよ。当時、中村商店には14人の従業員がいたのですが、「どんなに苦しくても、この人たちを騙したり傷つけちゃいけない」というのが私の信念でした。「なにか担保はないですかね?」という問屋さんには、「私の身体ひとつです」って言いましたね。いざとなったら、売春でもなんでもやろうという覚悟で。そうしたら、「そこまで言うんだったら支払いを待つ」と言ってくれて。いろいろな幸運も重なって、借金は10年かけて、私が36歳のときに一部を免除され、返済終了することができました。
たくさんの借金を背負わされてしまったのに、お父様を恨む気持ちはなかったということには本当に驚きます。最後まで「一緒にがんばって返していこう」と考えられていたのですか?
  いえ。実は、借金の保証人にされていたことが発覚したあとに、有志の方々が3,000万円用意してくれて、それをどう分割するかという話になったんですね。私は、まだ残っていた8~9ヵ所の子会社に少しずつ分配して、資金繰りに役立ててもらうべきだと提案しました。だけど当時、父が所有していたどのスーパーよりも売り上げを伸ばしていたのがパチンコ店だったんです。ただ問題は、当時、そのパチンコ店が区画整理のため、1年間ほど休眠していたことで。「休眠して来年まで売上のないパチンコ店を取るか、私との親子の縁を取るか、どちらかにして」と訊いたら、父は「夢を追いかけたい」と言ったんです。3,000万円をパチンコ店のみにつぎ込みたいと。あの一言で、もう怒り爆発ですよね。「もう、あなたとは一生縁を切らせていただきます」って。私の人生をめちゃくちゃにして、どうにかしてそれは受け入れたのに。まだ一生懸命がんばっているいくつかの子会社の従業員さんたちを見殺しにしてまで、自分の夢を追いたいという気持ちは、私には一生かけても理解できないと思いました。結局、私が経営していた酒屋以外、グループ会社ではパチンコ店は再起不可能になりましたし、それ以外の父の会社も全部つぶれました。その後父は謝罪してくれ、今では私も許しているんですけどね。
本当に大変な10年間でしたね。
  はい、すべてを諦めましたね。夢はもちろん、フィアンセもいましたけど、結婚も諦めました。でも私、若い頃は「私が世界を回してる」みたいな勢いの、根拠のない勘違い女でしたからね(笑)。謙虚にならなきゃいけないなと、すごく学びました。実際、自分の力だけでは借金の返済だってできませんでした。当時のことを思い浮かべると、本気で私を支えてくれた人全員の顔が思い浮かびますからね。真剣に生きていれば、誰かが見てくれているんだということが励みになりました。実は私、はじめの頃は誰にも相談できなかったんですよ。「こんなに借金抱えちゃって、どうしよう。恥ずかしい。死んじゃったほうが楽だ・・・」って、寝ても覚めても、夢のなかでまでそういうことばかり考えていて。でも、自殺を図ろうとしたときに、虫の知らせで飛んできてくれた友人たちがいたんです。夜中もずっと傍にいてくれて、「こんな友達がいる以上、死んだらいけない」と思いました。私を裏切ったのも人でしたけど、助けてくれたのも人でした。

親や社会に裏切られた子どもたち

一般酒販店の代表取締役だった中村さんが、NGOの世界に入られたのはどうしてですか?
  お金、お金で疲れ切ってしまっていた30代初めの頃、児童福祉施設の子どもたちに会う機会があったんです。私にも「父親に裏切られた」とか、「母親がいたらなぁ」という、どこか被害者意識みたいなものはありましたけど、少なくとも20歳までは母がいてくれた。「幼少時代から親に見捨てられてしまった子どもたちは、どういう心境なんだろう?」と、寄り添いたい気持ちが生まれてきて、その施設に通い始めました。親や社会の犠牲になっている子どもたちが、どうしても他人に思えないんですよ。その後、ある国際医療援助団体とご縁があって、2002年にNGO職員になりました。
今はこうしてフィリピンに住まれているわけですが、この国との出会いもNGOがきっかけですか?
  はい。2006年、NGO職員として初めて訪れました。国際医療援助団体で働いていた3年弱の間も、借金の返済は続いていたんです。負債者は長期で海外に行けないので、返済が終了して、紙に「0」って書いてあるのを見たときは、「これが自由なの?」と思いましたね。「私、海外で仕事できるんだ!」って。ちょうどその頃、国際医療援助団体の元同僚たちが、独立して別のNGOを運営していました。新宿駅で「〇〇さん、借金の返済終わったよ!」と電話したら、「ちょうどフィリピンのポストに空きがあるんだけど、行かない?」って訊かれて、ふたつ返事で「行く!」って答えましたよ。海外に飛び出したくてしようがない10年間のウズウズした気持ちがあったので、正直なところ「どこでもよかった」という感じでした。借金返済終了後、5分のうちに次のミッションが決まっちゃったというか(笑)。
もともと特別な思い入れがあったというわけではなさそうですね。そんなフィリピンの第一印象はいかがでしたか?
  フィリピンに来てからも波乱万丈は“to be continued”状態で・・・。2006年の7月に赴任してきて、一週間後には関係者の男の子が射殺されたんです。私が働いていたNGOの元裨益者で、21歳でした。スーパーマーケットでケチャップかなにかを万引きして、逃げようとしたところを警備員に射殺されたんです。「現場っていうのは、こういうものか」と思いました。もっと衝撃的だったのは、その子のご両親に連絡したところ、「葬儀場に行くお金がないから、葬儀には出られない」と言われたことです。「息子の葬儀に出るために、100円すら出せないの?」って、それがものすごくショックでした。その子の死を無駄にしないために、いわゆる“Children at Risk”(※)をひとりでも減らせるような何かがしたいという、決心につながった事件でした。
  ※路上生活を余儀なくされているストリートチルドレンや、人身売買にあったり、虐待を受けたり、育児放棄されている子どもたち、または貧困層出身ゆえに学校に通えない子どもたちなど、全てを総称し、危険にさらされた子どもたち。

”Children at Risk”を減らすというのは、とても大きなゴールですね。具体的にはどのようにお考えですか?
  もちろん、ストリートチルドレンの数を減らすなんていうことは、今の私にはできません。でも、せめて自分が出会った子どもたちには、自立して仕事を持ってもらいたいと思うんです。そして将来彼らに子どもができたとして、そのときお給料をもらっていたら、自分の子どもには食べさせてあげることもできるし、学校にも通わせてあげられるし、学校に通えばいい会社に勤められる可能性も高まる。そういう、20年越し、30年越しのプロジェクトです。大規模で動くためには、NGOのやっていることは今もこれからも大事です。だけど、問題点や限界もあると思います。たとえば奨学金プログラムで何十何百という子どもを学校に通わせてあげても、卒業後のフォローアップがしきれていないケースを私はたくさん見てきました。投資して、教育支援を行っていることを無駄にしないために、裨益者だった子どもたちが青少年に成長した段階で自立する方法を導いてあげる。どうやって仕事をしたらいいのか、どうやって責任を取ったらいいのかということを学べる場を作る必要があると思います。ひとりかふたりかもしれないのですが、せめて私が関わったなかで真剣に働きたいって思っている子には、それを叶えさせてあげたいと思いますね。
中村さんが起業された社会的企業「ユニカセ・コーポレーション」について教えてください。

ユニカセのフィリピン人青少年と中村さん

  2年ほどの準備期間を経て、2010年からロハス(Lifestyle Of Health And Sustainability)にこだわった健康食レストラン「ユニカセ・レストラン」を運営しています。NGOのボランティア・スピリットを引き継ぎながらも、ここで働く青少年たち自らが利益を追求するための方法を探っていく。でも一般企業とも違っていて、単なる利益追求で「こいつは使えないからクビにする!」とか、そういうことは避けたいなと考えています。私以外の有給スタッフは、みんなNGOから紹介されてきた青少年たちなので、過去はそれなりに苦労した子たちばかりです。元ストリートチルドレンの子たちも何人かいるのですが、路上にいた頃、空腹を避けるためにシンナーを吸っていたりするんですよね。シンナーは脳細胞をダメにしていくので、忘れっぽい子が多いんです。言ったことを守らなかったり、すぐに忘れちゃったり。そういう子を解雇しようか迷ったことがあって、結局そのときにどうしたかというと「あなたの仕事では、もうお給料は払えない。でも、もう少し働いて学びたいならそうしていいよ。『これならお給料払ってもいいな』っていうレベルまで達したら、またあげるから」って。そういうふうに対応しました。

自信は自分でつけていく。それが国際社会で生き残る術となる

これまでフィリピンの青少年のお話を伺ってきましたが、中村さんには今の日本の若者はどのように映っていますか?
  30人以上の日本人インターンたちと関わってきましたが、まず最初にいえるのは「素直で純粋な子たちだなぁ」ということです。わざわざお金を使ってまで、人の役に立つことをしようと国境を越えて来るくらいですからね。反面、国際社会で生き抜いていくためには、もっと前に出ていく姿勢が必要だと思います。しっかり準備して、スキルを使って、「私にしかできないんです」というのを証明していかない限り、相手は認めてくれないのが国際社会。国際人たちは、目の前のチャンスをがつっと掴み取っていきますから。でもね、ユニカセのインターンや青少年たちには、「誰かを引きずり落としてまで、自分がのし上がるのは勝負じゃない。『フェア・コンペティション』を意識しなさい」と言っているんです。自分の長所や才能に早く気づいて、それをガンガン活かして仕事に結び付けていく。そうすれば、必然的に周りが認めてくれて、尊敬してくれるようになるし、仕事もまわってくるようになる。そういう仕事の仕方をしてほしいとよく言っています。
中村さんが考える「グローバル人材」「国際人」というのは、ずばりどういう人ですか?
  自信のある人ですかね。どんなに小さくてもいいから「これは、がんばったな」というものをいくつも作っていくことによって、自信はだんだんついてくるもの。自信さえあれば、「どこでも生きていける」と感じることができるから、それが国際社会で生き残っていく術じゃないかと思います。自分を信じていなければ、国際社会なんかに出たらもうアウトですよね。日本人は必要以上に謙虚だから、“I cannot do anything.”とか言っちゃうかもしれませんけど、そんなこと言ったらもう「じゃ、帰りなさい」ってね(笑)。実際は8割くらいしかできなくても、「できます」って言わないとダメなんですよね。それで、やっている過程のなかで本当にできるようにしていく。「口からちょっとでまかせ言っちゃったけど、言ったからにはやるんだ!」ってね、そうやって生き残っていくしかない、国際社会は。
最後に、これから中村さんが目指す先について教えてください。

記念すべき「ユニカセ・レストラン」オープン日に

  もしかすると、ユニカセ・レストランはなくなってしまう可能性もありますよね。カタチあるものはみんな壊れるので。だから、レストランにこだわるのではなくて、「ユニカセ・スピリット」を一生継続させていきたいです。つまり「“Children at Risk”が、10年後、ひとりでも減っている社会・世界をつくる」というユニカセのビジョンです。ユニカセで働いている青少年たちに関しては、「私がこの子たちの人生を抱えているんだ!」っていう責任は、すごく感じます。私はいつも、「明日死んじゃうかもしれないから、今日を一生懸命生きよう」と自分に言い聞かせているんです。死ぬ5秒前に、「あぁいい人生だったな」って思うために、今を生きているので。そういう意味では、私が明日死んでしまったとしても、ここに関わった子たちがユニカセを守っていってくれるような指導の仕方をしたいなと思っています。でも、現実はそう簡単にもいかなくて、キッチンに入ってしまうと忙しくて怒鳴ってばかりいたりするんですけどね・・・(笑)。

編集後記

  3時間をも越えるロングインタビューに、終始笑顔で応えてくださった中村さん。しかし、彼女の口から飛び出してきたのは、素敵な笑顔と穏やかな雰囲気からは到底想像できないような衝撃的なお話の連続でした。私は、「グローバル人材」「国際人」と呼ばれる人に対して、生まれながらにして特別ななにかを持っていたり、エリートな人生を順風満帆に歩んできた人というイメージを抱きがちでしたが、今回のインタビューを通して、どんなに輝いて見える人にも、人知れずこぼした汗と涙があるのだということを再認識させられたように思います。むしろ、たくさんの逆境を乗り越えてこられた中村さんだからこそ、こんなにもキラキラ輝く今があるのだと確信しました。現在の中村さんを形作っているのが「フェア・コンペティション」を通して培われた「自信」なのだとしたら、私も必要以上に遠慮したり恐れたりせず、どんどん闘っていきたいと思います。そして、いつか中村さんのように、ありのままの自分の過去を笑顔で語れる素敵な女性になりたいです。

加藤真理子(アジア太平洋研究科修士2年)

Vol. 20 「自分が持つ目標に向けて、ただがむしゃらに努力を重ねた。その努力がツキをも呼び寄せる」

CATEGORY : 民間企業
murakami-san

株式会社 村上憲郎事務所 代表取締役
(元Google 米国本社 副社長)
村上 憲郎

京都大学工学部卒業後、日立電子株式会社、Digital Equipment Corporation(DEC)Japanを経て、Northern Telecom Japan社長兼最高経営責任者に就任。2001年に Docent の日本法人である Docent Japan を設立。2003年4月、Google 米国本社 副社長兼 Google Japan 代表取締役社長として Google に入社。2009年1月名誉会長に就任、2011年1月に退任し、村上憲郎事務所を開設。国際大学GLOCOM主幹研究員・教授。慶應義塾大学大学院特別招聘教授。大阪工業大学客員教授。会津大学参与。

【2012年10月12日公開】

私はガリ勉なんですよね。その努力がツキを呼び寄せたんだと思う

どのような学生生活を送られましたか? また、村上さんの専門分野であるITの能力はどこで身に付けられましたか?
  学生時代は学生運動が盛んな頃で、私もその活動に参加していました。また、同時に映画もよく観ていたのですが、当時公開された「2001年宇宙の旅」という映画に、人工知能:AI(Artificial Intelligence)型のコンピューターが登場しました。それまで知っていたような単純な操作しかできないコンピューターではなく、自意識を持ったコンピューターみたいなものだなという程度の認識ではありましたが、すごく惹かれましたね。また、大学は学生が占拠してましたので、コンピューター室は使い放題でした。参考書を買い、自習しながら、富士通のファコムというマシンを見様見真似で使っていました。そこで得たコンピューターの技術はほとんど初歩的なものでしたが、就職には役に立ちました。学生運動による逮捕歴ありだったので、縁故を頼って仕事を探していた時に、面接でコンピューターができると言うと、日立グループの日立電子というミニコンピューターの会社に入れてもらえたんです。日立に入ってからは猛烈に働いて、月の残業時間が200時間にもなるほどでした。ほとんど家には寝に帰るだけ。さらにひどい時はそのまま会社で寝たりもしていました。でもそこで、コンピューターの初歩から本格的に全て学ぶことができました。コンピューターがどうやって動くのか、ワンステップワンステップ全て分かるミニコンの会社に入ったことは本当にツいていましたね。
外資系企業であるDECに転職したことが、グローバルに活躍するきっかけになったかと思いますが、その経緯について詳しく教えて下さい。
  無計画な男なので、英語がしゃべれないのに、日立がミニコンの事業から撤退したことをきっかけにミニコンの世界的なトップだったDECへの転職を決意しました。当時のDECはすごい会社で、ビル・ゲイツ、スティーブ・ジョブス、エリック・シュミット達は全員、DECのマシンを使って育ったんです。転社に当たり、自分の視野を技術以外の部分にも広げたいと思い、また当時「男を磨くのは営業だ」というキャッチコピーの本を読んで(笑)、営業職への転職を決意しました。ただ、DECに入ってから言葉(英語)が通じないと気づきました。後の祭りでしたが、会社には英語ができるだけという人もいて、その人達を見返してやろうという思いもあり、英語を必死に勉強し始めました。それが後に色々なチャンスに繋がるきっかけになりました。仕事をしっかりとこなしながらも1日3時間の英語の勉強を3年間欠かさずやったおかげで、4年目くらいにはオーストラリアで最初の海外講演ができるぐらいにまでなりました。
その後、DECの米国本社へ移られるのですが、そのきっかけを教えていただけますか?
  当時、米国防総省の国防高等研究計画局(DARPA)は人工知能のプロジェクトに積極的に取り組んでいました。DECに入って分かったんですが、DECのコンピューターが米国防総省の予算の受け皿で、人工知能の研究に使われていたんですね。これは非常に運が良かった。また日本でも、通産省が第5世代コンピュータープロジェクトという人工知能に関わるプロジェクトを始め、こちらでも人工知能の研究はDECのマシンを使うしかないということでした。外資系企業の良いところで、やりたいといった人は挑戦させてもらえる環境だったので、僕が手を挙げてその担当になったんです。そのプロジェクトがきっかけで、コンピューターもたくさん買ってもらいました。また、人工知能について海外の論文を読み漁りました。そうこうしていたらミスターAI(Artificial Intelligence)と呼ばれるようになってたんですね。また、第5世代プロジェクトでたくさんコンピューターを売った以外にも、他のプロジェクトで人工知能を応用した製品を民間企業に売ったんです。アメリカでも研究目的のものとして扱われていた人工知能を民間企業へのビジネスと成し遂げたため、本社から「アメリカに来い」と言われました。私は終身雇用は信じていないですし、会社はいい意味で踏み台と思っています。日本DECで学ぶものはもうないけど、アメリカで仕事するということは獲得するべきキャリアだと思って、無謀にも本社に行くことにしました。1968年に「2001年宇宙の旅」を観て、人工知能を作りたいと思い、結果的にその目標に沿ったキャリアを歩めたのは本当にツいていますね。私は業界では”ツキの村上”として有名なんですよ(笑)しかも、その人工知能に関する知識を持っていたから最終的に、Googleにも誘われたんです。
村上さんはツキを呼び寄せる力があるのですね。
  結局、私はガリ勉なんですよ。ツキというか、私はこの後何が流行るか分かるんです。20代から30代の時は、年間200冊位の本を読んでいました。それで分かるようになったんだろうなと思いますね。というのも自分が他の人と比べて特別何かやったのはそれくらいですからね。また、元々要領がいいんです。第5世代プロジェクトに入ったときは、海外から送ってもらったダンボールいっぱいの人工知能の学術文献を読んだと伝説になっていますが、3分の1を読んだ後はたいてい同じことばかり書いてあるから読んでないとかね(笑) 学校できちんと人工知能を学び、しっかりと学位を取ったという先生からすれば、付け焼刃といわれると思いますが、そのような方法で、素早く自分の知識とすることに長けていました。それで、私は自分を生まれつきのマーケッターだと思うんです。自分で自分が素早く習熟した分野を流行らせてしまう。DECへの転職とか無鉄砲だったというのは、結果的にはいくつかはツイていたと言えますが、全部が単なるツキではないですね。例えば、今自分はどんな話題を振られても、それについて、何か話せますよ。Frame of reference(物事を考えるための枠組)が頭の中に構築されているんです。図書館司書みたいなものです。これも大量の本を読んだからだと思います。そして、なぜそんなに本を読んだかといえば、それは、この宇宙の森羅万象を知り尽くしたいという欲求があるからです。宇宙の真理に触れたいということですね。そのような努力がツキを呼び寄せるんだと思います。

米国エリートは日本人が持たない「絶対的」な価値軸を持つ。それがあるから彼らは強い

DEC米国本社で米国のエリートである人たちと仕事をされて、どのような印象を持ちましたか?
  米国のエリートは、日本人が持たない価値軸を持っていますね。例えば、日本では、よい大学を出て、日立に入った人は当時英雄だったんですよ。そこで、例えば、日立をリストラ、または、他の会社に行くということになると大事件なんです。法事には行けなくなるし、ひどい時は、かみさんにも言えない。田舎ではヒーローは嫉妬と羨望の的なんですよね。つまり、日本人の中には、仕事や地位などで人を測る価値観が強すぎるほどあるんですよね。一昔前の日本の女性の理想の結婚相手は、三高(高収入、高学歴、高身長)の男であったように、日本人は給料が高いことで人格的に優れていると思い込んでいたり、背が高いとか学歴とかで人格を測ろうとしたりする。逆に米国エリートは人格とは神様が判定するものという価値観を持っている。それがあるから最終的にただの高収入、高学歴、高身長などに満足せず、逆に、低収入、低学歴、低身長にも、めげません。強いんです。成功している人は、それだけでは神様のおぼえが良いという保障はないので、社会貢献しようという気持ちを持つという点が米国のエリートにはあると言えると思いますね。
アメリカのエリートの社会貢献、いわゆるNoblesse oblige(高貴なる者の義務)はどのように作られるのでしょうか?
  一神教の人達は本音で言うと、神様はいないかもしれないと思っている。もちろんそんなことは絶対に口に出して言いませんが。でも、逆にもしかしたらいるかもしれないとも思っているんです。その場合は、ちゃんとNoblesse obligeをやっておかなければならない。地上では大丈夫でも最後の審判があるかもしれないから保険をかけておくということです。また、アメリカの教育のプロセスでは、エリートの地位にある人がエリートとしての教育を受けているのは普通の学校の場合もありますが、ボーディングスクールが一般的なんです。全寮制で日本の中高に相当する教育をしていて、広大なキャンパスにほぼ全員が博士号を持った先生達も家族共々住んでいて、24時間常に面倒見てくれる。夜でも教えてもらえる。そういう環境でエリートとしてアメリカ社会からの期待を背負っているというようなことも教えてもらえる。哲学をちゃんと古典ギリシャ、ラテン語で読む。リベラルアーツのベースとして西洋哲学の流れを教えてもらえる。国を率いる人間としては人類史を見ておく必要がある。そのような環境からNoblesse obligeが出てくるんです。もともとはヨーロッパの貴族社会で、特にイギリスにそういう考えが強いですよね。今、イギリスの王子様はアフガニスタンでパイロットをしています。また、将校は本来、貴族階級です。そして、将校の死傷率は、英国が最も高い。こういうのがNoblesse obligeを体現している証拠だと思います。
DEC米国本社から日本へ帰ったときはどのようにお考えだったのですか?

  DECの米国本社において、VP(Vice President)への出世は難しいと思っていました。僕は38でアメリカに行って、42で帰ってくるのですが、42歳でMBAは持っていないし、VPでもない。また、英語が相変わらず下手でした。1対1の会話なら良いのですが、会議でみんなが一斉にしゃべって混乱してついていけなくなったら、“ノリオ・タイム”というのをやっていました。「ちょっとここで会議ストップ!賛成の人は誰で、反対の人は誰? オッケー。じゃあ会議再開」みたいな(笑) つまり、本社で今言ったようなエリートの人たちと競うと、最後に退職のはなむけとしてVPになれたかもしれないけど、それが限界だろうと。ツキの村上だけど、天下の形成も見ていたんです。一方で、日本DECに帰れば社長になれるなと思いました。日本DECでは上から数えて5指に入るくらいの英語の上手さでしたしね。
その後、様々な外資系企業のマネジメントを行い、2003年にGoogleに参加されたのですね。
  僕が入社したとき、Google日本法人は10人くらいの会社でした。さすがにここまですごい企業になるとは予想できませんでしたね。会社の受付は他のベンチャー企業と共有で、会議室も予約しないと使えない。オフィスのデスクだけが使えるという状態でした。日本法人の社長は弁護士の方が名前を貸していた状態で、僕の上司に当たる人が、米国本社から遠隔操作していました。ただ、私はむしろこういう小さい会社に勤めた方が良いと思っていました。将来の見通しと、サイズは関係ないんです。また、サラリーマンがお金を手に入れる方法は、Stock option(株式をあらかじめ決められた額で買える権利)しかないです。年俸を貯めたところで、老後の余裕ある生活なんかありえない。これからの年金についていえば、統計で絶対にかけ損ですと政府が言ってるんですから。もう頼ることなんかできないんです。だから、小さい会社の日本法人を任せてもらうのはよいキャリアだと思います。私がGoogleに選ばれた理由に人工知能に関わった仕事をしていたことがありますが、その頃には最新の技術にはついていけてなかったです。でも、CEOのエリック・シュミットが僕を雇うときに、「俺も最先端の技術はわからないけど、お前は分かったふりができる」ということを言っていました。当時、Googleでは、特定の分野では世界一というような人材がいました。ただ、たとえそのような優秀な人材に囲まれている中でも、自分がコードを書くわけではないので、洞察力があれば良いんです。僕がエリックに会う前にGoogleの社員10人ぐらいから面接を受けていて、エリックにはその面接官たちからのフィードバックで、こいつは俄か勉強したことを大昔から全部知っていたように話すやつだと判っていたんでしょう。若い優秀な人達は上司が何も知らないとどうしても馬鹿にするんですが、人工知能、コンピューターに関して黎明期から仕事していたということになると、なんとなくできそうと思ってもらえるんです。仕事としては、アメリカ本社のVPと言うポジションもFor Japanという役職だったので、やっぱりブリッジ役ということですね。

人類は英語がしゃべれる人としゃべれない人に分かれる。決して遅いということはないから海外に行け

外資系日本法人と日本企業のマネジメント職では、求められる能力は違いますか? 村上さん自身はご自分をどのような経営者とお考えですか。
  求められる能力は変わらないと思います。ただ、アメリカではCEOが下から上がる例はないです。それまでがだめだから経営者を変えるんです。そこで、下から調整役を連れてきてもうまくいく訳ないですよね。自分で自分を経営者として見たとき、そんなに立派なリーダーだとは思いません。もともと、エバれない性格なんです。また、いわゆる人脈作りも嫌いです。人脈作りは相手を手段・道具としてみている。それは失礼極まりないです。人脈作りが役に立たないということではなく、手段としてやるところが嫌なんです。自分のやることは、チームと苦労を共にする、助けを必要としている人には手を差し伸べるということです。ただ、気をつけている点として、嘘は言わないです。会社に入ると、最初に、「終身雇用はないです。みなさんが終身雇用される力をつけてください。会社は、その手伝いは、できるだけします」と言っています。世界の情勢、会社のミスなど色々な要因がありますから、どんなに優秀な人に対してでも、終身雇用なんか保証できませんよね。
日本・世界の学歴主義・大学教育についてどのようにお考えですか?
  最近、田村耕太郎さんや僕がこの問題を正面から取り上げ始めて、日本でも海外の大学教育に注目が集まっています。田村さんはインドの大学も良いと言っていて、私はそこでどのようなことが学べるか把握していませんが、でもインド人の英語の方が我々よりも通じるじゃないかというのは事実です。もはや、日本語で高等教育を受けても無駄だと思います。また、世界では学歴は非常に重要で、実際Googleはあるレベル以下の大学からは採用しません。皆さんは、早稲田を出た後、更なる高等教育を受けるかどうか迷うところだと思います。確かにアメリカのエリート学生は、飛び級制度で20歳位で学士号を取得したりするので、彼らと同じスピードで競争するのは難しいです。でも日本人の皆さんは彼らに比べて、10歳は若く見られます。また、グローバリゼーションというのはアメリカナイゼーションなんですよ。つまり、これからは会社の採用のときに年齢を聞けないんです。アメリカの判例でAge discrimination(年齢による差別)は禁止されているから、面接で年齢を聞かれて落とされたら、裁判で1億円もらえますよ。年齢が全く関係ないのは日本人にとって有利です。なるべく早いうちに海外に行った方がもちろん良いです。ただ、いったん社会に出てからでも遅すぎるということはありません。皆さんは35歳の時に25歳に見られる。つまり、自分の気持ち次第なんですよ。また、留学に行くとしたらどこがよいかといえば、学部では高いGPA(Grade Point Average)を稼いで、修士でなるべくいいところに行く。最初は二流校でもよいから、移っていく。最後にどこでMaster degree(修士号)を取るかが重要です。この話はもうかなり日本にも広まっていて、日本の富裕層に送られてくる雑誌があるんですが、そこにボーディングスクールの広告が多く出るようになりました。日本でも富裕層の人は、自分の子供をアメリカにひっそりと送り込んでいるんですよ。

最後に学生にアドバイスをお願いします。
  まず、英語がしゃべれなければ、20年後にまともな仕事はないと思う。人類は英語がしゃべれる人としゃべれない人に分かれるんです。当たり前ですが、会社で言葉の喋れないサルは雇わない。「猿の惑星:創世記」に出てくるシーザーの無念な立場を思い出すべきです。日本人が英語をしゃべれなかったらそれと同じことなんです。そういう時代が来ているんです。日本企業も問答無用でグローバル採用になると思います。例えば、学業成績が同じなら、英語がしゃべれない日本人より英語ができるベトナム人を雇いますよ。就職活動で日本人同士だけで競い合う時代は終わります。明治維新の後で帝国大学として始めた教育は、外国人教師を連れてきて外国語で始めましたが、最終的には母国語で勉強できるようになった。世界最先端の学問まで母国語でできる。それが今は足かせになってきたんです。本当に危機的だと思います。僕自身の英語の勉強についても、田舎の秀才で上昇志向が強かったから30過ぎてからでもあんなに無理な勉強ができたんだと思います。年をとってからそれだけの苦労をするぐらいなら若いうちにアメリカに留学することをお勧めします。英語を勉強するのではなく、英語で勉強する。私はいまだに聴き取れないんです。でも、皆さんの年齢なら何とかなる。私は筋肉と言っているけど、聴力の周波数音域を広げるんです。要は筋トレと同じなんです。英語は日本語と同等までにはならないかもしれないけど、なるべく近づけるためにはすぐに海外に行ったほうがよいです。私は自分だったらどうするということしか言わないんです。もし、自分が今学生であればこのような選択をしますね。
編集後記

  自ら上昇志向があるという村上さんの情熱と、常にユーモアを伴って話す人柄を存分に感じた。インタビューが終わって最初の印象は「村上さんは、何か特別な秘訣があるわけでなく、とてつもない努力によってグローバルな活躍を成し遂げている」ということだった。世界で起こっていることを鋭く洞察するための読書。31歳から英語を始め、ビジネスレベルまでに持っていった努力。グローバルに活躍するためには、もちろん運や偶然の人とも出会いも必要かも知れないが、それすらも努力が呼び寄せるものだと感じた。また、自分の目標が見つかった際に、それに向かって努力を始めることに遅すぎるということはない。自分の気持ち次第で、自分が成し遂げたいことが、成せるかどうか変わってくるということを教えて頂いた。

大芝 竜敬(会計研究科2年)

Vol. 19 「恵まれた状況にある者こそが果敢にリスクをとり、社会に還元していくべき。自分たちが社会を変えるという気概を持ってほしい」

CATEGORY : 民間企業
iwase-san

ライフネット生命保険株式会社
代表取締役副社長
岩瀬 大輔

1976年埼玉県に生まれ、幼少期をイギリスで過ごす。1998年、東京大学法学部を卒業後、ボストン・コンサルティング・グループ、リップルウッド・ジャパンを経て、ハーバード経営大学院に留学。同校を上位5%の成績で卒業(ベイカー・スカラー)。2006年、ライフネット生命保険の設立に参画。2009年2月より現職。世界経済フォーラム(ダボス会議)「ヤング・グローバル・リーダーズ2010」選出。

【2012年8月8日公開】

人に疑問を持たれても、自分らしいと思える道を選んだ。自分自身を知ることは、より良く生きるためにとても重要

どのような学生生活を送っていましたか。また、学生時代からグローバルに活躍することを意識されていましたか?
  法学部で、1年生の時から司法試験の勉強をしていました。それと、塾講師のアルバイト、サークル(ジャズ研)でピアノを弾いていたというこの3つが、大学時代に主にやっていたことです。僕は帰国子女で、小学生の時はイギリスに住んでいました。中学2年の時には、住んでいた千葉の佐倉市が主催したスピーチコンテストで優勝して、オランダに1週間連れて行ってもらいました。高校生の時、親がニューヨークに転勤になり、僕は日本に残って高田馬場の寮で3年間住んだのですが、夏休みなどにはよくニューヨークに行きました。大学生の時、海外には旅行で行くぐらいでしたが、大学4年になる前の春休みに、日本弁護士連合会でアメリカの司法制度視察があって、同級生(ヒューマン・ライツウォッチ東京代表の土井香苗氏)と共にアメリカに連れて行ってもらい、ハーバード・ロースクールの学生と交流したりしました。そのような経験から、海外の影響は受けていたし、意識もしていましたね。
大学卒業後、ボストン・コンサルティング・グループ(以下、BCG)に就職することになった経緯を教えてください。
  大学3年次に司法試験の3つの試験のうち、2つが終わりました。3つ目の口述試験は合格率90%ぐらいなので、その時点で試験はほとんど終わっていたと言えます。そのためほとんど就活はしなかったのですが、無数に届く会社案内の中で、BCGから来た封書だけが手書きだったので、たまたま開けてみました。その内容がおもしろそうだったので、とりあえずインターンだけ受けてみることにしたんですね。それでも就職する気持ちはなかったのですが、インターンで経験させてもらった仕事が新鮮でとても楽しかったし、BCGの人たちはおもしろくてスマート。こういう人たちと一緒に仕事がしたいという気持ちが出てきました。逆に弁護士事務所の人に会った時は、あまり魅力を感じませんでした。
  また、司法試験合格者は当時一年間に750人もいて、そのなかの1人となって埋もれたくないと思ったことも大きいです。当時BCGは就職先として全然人気がない会社で、例えば、東大法学部の人はおそらく半分ぐらいは知らない。さらに同期入社はたったの3人ということで、周りからはせっかく司法試験に合格したのに、どうしてそんな会社に行くのかとよく聞かれました。でも僕は、司法試験合格者750人のうちの1人でいるより、BCG新卒入社3人のうちの1人でいるほうが自分らしいと思ったんですね。
人と違っていても、自分らしいことがやりたいと思うきっかけはありましたか?
  子供の頃は、みんなと同じじゃないといやだったことを覚えています。例えば、母親がうっかりしていて小学校で使う画板が人と違うものになった時、それがいやで泣いたこともあったし、イギリス在住時、遠足のお弁当におにぎりを持っていったら、サンドイッチを食べていた周りから馬鹿にされ、今度からサンドイッチにしてほしいと母親に頼んだ記憶があります。ただ、イギリスで暮らしていると、外国人である僕はどうしたってみんなとまったく同じではいられない。そのうちにみんなと違っていることが普通になっていき、今ではむしろ人と違っていたいと思っています。子供の頃の体験や感じたことというのは、自分の価値観、世界観に大きな影響を与えるものですね。
  そういった価値観や原体験を含め、自分自身を知ることは実はとても重要です。例えば、ハーバード・ビジネススクール(以下、HBS)のリーダーシップのクラスも、自分の半生を振り返ることから入ります。僕らは本を読んだりして自分の外のことについてはよく知っているかもしれませんが、案外自分自身のことを知らないものです。当時は意識していませんでしたが、留学中に書いていたブログは、ある種の自分探しみたいなものだったのではないかと今では思っています。子供の頃の話を思い出して書いたりして、すごく内省的な時間が多かったですね。そういう時間をとって自分自身をよく知ることは、リーダーシップのトレーニングとしても、仕事以外のことも含めてよりよく生きるためにも、すごく重要なことだと思います。

たまたま恵まれたのだから果敢にリスクをとるべき

岩瀬さんは社会人2年目でBCGを辞めてベンチャー企業へ行くことになるのですが、その時の経緯を教えて下さい。
  僕がBCGを辞めた2000年はベンチャーブームの時でした。また、ベンチャー企業に移った会社の先輩がいて、その選択をみんな最初はいぶかっていたのですが、結果的にその先輩が成功されたんですね。そういう例を身近に見て、ベンチャーはおもしろいと思い始めました。それから、アメリカ生まれのベンチャー企業の日本法人で先輩の手伝いをすることになったのがきっかけです。
後にHBSを修了したときに、起業という道を選ばれたわけですが、その時の心境を教えていただけますか?

HBS卒業式の様子

  HBSの2年間の教育で、アントレプレナーシップ(起業家精神・起業家活動)にも、全くのゼロから小さなビジネスを起こすことから、大企業のリソースを使って新しいものを作るといったものまで色々な形があると知り、幅広い意味で何かベンチャー的なものをやりたいと思うようになりました。早大生でベンチャーをやろうとしている人はあまりいないと思うし、おそらくハーバード大学の学部生でもそんなに多くはいませんが、HBSではそう思わされる雰囲気があります。アメリカではHBSなどトップ層の学生にはエリート意識があるんです。それは、彼らが積極的にリスクをとって道を切り拓き、そこで得られた成果を社会に還元するということを意味しています。ノブレス・オブリージュということです。日本ではエリートであると意識すること自体がまず避けられますよね。でも、たまたま恵まれたのだから果敢にリスクをとるべきだと僕は思いましたし、早稲田の人にもそう思ってほしい。ここにいるみなさんは早稲田大学卒業というブランドですごく守られると思います。そんなみなさんがリスクをとっていくべきですよ。でなければ誰が挑戦するんですか? 日本ではエリート層のチャレンジ精神が少ないと思います。
岩瀬さんは今までにいわゆるエリートと言われる経験を積み重ねて、その結果として成功されたように感じますが、まだ具体的に何をやりたいかわからないけれど、将来リスクをとって、ベンチャーをやりたいという人はどうすればよいと思いますか?
  ベンチャーをやりたいと思うなら、実際にベンチャーに入るか、少なくとも小さい規模の会社に行くべきです。当たり前ですが、ベンチャーに近い環境で経験を積むべきだと思います。僕自身についてもすごい経歴だと言われだしたのはつい最近のことで、起業という道がうまくいきだして、初めて周りから認められたんです。以前はむしろ、「司法試験に受かったのにコンサルティングファームに行った変わった人」でした。しかも、そこもすぐに辞めてベンチャーに行って、そこでも最初はうまくいかなかった。その次はさらに職種を変えてファンドに行った。当時、ファンドは全然知られていませんでした。BCGの先輩からも、岩瀬はなかなかできる奴なのにコロコロ仕事を変えてもったいないと言われていました。それが最近になって、コンサルティングファーム、ベンチャー企業、ファンドが流行ってきただけのことです。
  当時、僕自身もすごい経歴をたどっているとは思わず、ただみんなが行かない道を選んでいました。例えば今も、何で生命保険なんかやっているの? もっと大きいこと、もっと楽しいことをやればいいのに、などと言われます。でも、僕はこういう風にみんなが言うからこそ、生保がおもしろいと思っているし、金融の中のプラットフォームとしての重要性、人々の生活に与える影響の大きさ、競争が少ない点など多くの点ですごく良い業界だと思います。このように、人と違う風に感じることが重要だと思います。みんながあこがれる道とは全然違う、むしろなぜ? と思われながらも、自分らしいことをやってきた。その結果として今があるんです。華やかなエリートの道をたどってきた積み重ねで、ここまできたわけではないんですよ。
リスクをとって常に挑戦されてきた岩瀬さんですが、将来のビジョン・目標を持って、キャリアを選択されていますか?
  「将来のことは本当に分からない」と思っています。例えば、10年前に今のようになるとは夢にも思っていませんでした。これから10年後のことも全然分からないし、また予想が当たったらすごくつまらないことだと思います。10年前のちっぽけな世界観では思いつけない、想像もできないようなことをやりたいと思いますね。でも、最近ひとつ目標ができて、「60歳になったときに元気な若者を捕まえて、荒唐無稽なベンチャーをやれたらおもしろいな」と思っています。
  社会人生活については、終わりよければ全て良しだと思っています。自分の父親が会社を退職する前の最後の仕事をすごく楽しんでいて、それを見ていて、僕もうれしかったんですよね。父親とライフネット生命社長の出口(58歳にしてライフネット生命保険の前身であるネットライフ企画株式会社を創業)を見て、今(若いうち)よりも、どうやって後ろ(キャリア後半)を上げていくかが重要と思うようになりました。だから、今は力をためる時だと思います。ただ、あっという間に36歳になってしまったので、毎日必死に生きていくということは意識していますね。

日本で通用することなら海外でも通用する

留学当初、HBS修了後はアメリカで働くつもりで、またHBSで優秀な成績を残したのに、なぜ日本に戻ってこられたのですか?

大学院にて講義をする岩瀬さん

  ビジネスに関していえば、アメリカも日本もヨーロッパもあまり変わらないと分かったからです。例えば、日本のトップ5%とアメリカのトップ5%の企業のビジネス・レベルはほとんど変わらないと思います。日本で通用することなら海外でも通用します。例えば、グローバルな会議でも難しいことやすごいことを言う必要はないんです。学生の皆さんも著名な経済系のブログ等を読んでいると思いますが、内容的にはそこで議論されていることをちゃんと自分で咀嚼して話すことができれば大丈夫です。
  また、HBSの仲間に、今とても熱いマーケットであるアジアに帰らないのは、ローカルな強みがあるのにもったいないと言われたことや、日本で成功できないならアメリカでも成功することは無理だろうという考えもありましたね。アメリカと比べると日本は競争が少ない点も良いと思います。例えば、ベイカースカラー(HBSをトップ5%以内の成績で修了した人に与えられる称号)は毎年45人排出されます。30年経つと1,000人以上のベイカースカラーが誕生するわけです。実際、アメリカの一部の投資銀行などでは社員がベイカースカラーばかりということもあり、それほど存在価値が際立たないんです。また、大人になってからの海外生活は初めてで、常に自己主張し続けないといけないカルチャーには少し疲れました。日本の方が食べ物もおいしいし、自分にとって居心地がよかったですね。
日本のトップ企業もアメリカのトップ企業も同じであるとしても、日本経済の状況は悪くなっているように思うのですが、どのようにお考えですか?
  平均では確かに落ちています。例えば、GDPの成長率や世界の企業の株式時価総額の上位に日本企業はあまり名を連ねていないという点、新聞等で盛んに日本経済に関して悲観的なことが報じられている点は事実です。しかし、平均で見ることにあまり意味はなく、むしろ過ちを起こしやすいと思います。マクロじゃなくてミクロで見るべきともいえます。例えば、最近の学生のことをとってみても、内向きだとか言われていますが、僕が学生の頃は、学生で名刺を持っている人はいなかったし、社会起業家やベンチャーをやっている人なんかいませんでした。この「グローバル人材プロジェクト」のように社会人を呼んで勉強をするなどという機会もなかったです。
  ただし、学生のなかで、意識の高い人とそうでない人の二極化が進んでいることは事実だと思います。それと同じで、日本企業にもだめな企業とすぐれた企業があります。ある企業は大きな損失を出していますが、利益を出している企業もたくさんある。みなさんは伸びている会社に行けばよく、マクロの心配をする必要はないんです。そこで自分たちの周りをよくしていくことが重要です。また、新聞などでは書き手の意見・主観が如実に表れ、事実が実際と異なるニュアンスで伝えられてしまうこともあります。自分の手足で情報を調べ、自分の頭で考えることが非常に重要で、メディアの情報に踊らされて安易に日本がだめだと思ってしまってはだめですよ。

皆さんこそが社会を変えるんだという気概をもってほしい。今は世界を意識しないわけにはいかない

岩瀬さんのご経験から、グローバルに活躍するために特に学生時代にやっておけば良いと思われることはありますか?

シンガポールのITカンファレンスにて

  まず、英語を勉強することは重要です。社会人になってからでももちろんいろんなことにチャレンジはできますが、まとまった時間をとるのが難しいので、学生時代は特に多くの時間を必要とすることをやるべきだと思います。その最たるものが語学です。ただ、流暢、いわゆるペラペラにならなくても大丈夫です。例えば、会議に行って、中国人、韓国人、インドネシア人、タイ人、ドイツ人、ブラジル人と、下手な英語でも良いから、言いたいことを言えるか。アメリカ人と同等でなければいけないと思うとハードルが高いと感じるかもしれないけれど、下手な英語でよいと思えば、そんなにつらくはないはずです。また、実際仕事をするようになればいつも同じようなことを話すので、使う語彙や言い回しなども絞られてきます。他にも、国際的なコミュニケーションの”お作法”を知っているということも大事です。例えば、男性だったら、へなっとした弱々しい握手はだめで、目を見てぎゅっと力を込めて握手する。まずはそこから始まります。これを学ぶには場数を踏むしかないです。コミュニケーションに関するお作法、メールの書き方や会議で別れる時の挨拶などをちゃんと習得すれば、世界は遠くないと今は感じています。
  そのような作法を前提として、何より重要なのがコンテンツとメッセージです。コンテンツはボキャブラリーを圧倒します。要は、自分が伝えたいことがあるかということです。僕ら日本人は学校などであまり意見を求められてこなかったと思いますが、欧米の人はいちいち反論してきます。世界で起こっていることを理解し、自分なりの意見をきちんと伝えられるようになることです。自分の意見を持っておくことは、グローバルに活躍するためには必須です。
世界を舞台に活躍したい学生に向けて最後にメッセージをお願いします。
  皆さんこそ、自分たちが社会を変えるんだという気概をもってほしい。今は世界を意識しないわけにはいかない時代です。学生時代に留学したり、海外の人たちと積極的に会うのもよいと思いますし、一生懸命勉強するということも大事です。活躍している人は、みんなとても勉強しています。例えば、今世界で起きていることについて、社会人の僕のほうが学生の皆さんよりたくさん勉強していると思います。でも学生の皆さんこそしっかり勉強するべきですよね。実は、社会人も大学生も勉強しないで乗り切れるんですよ。反射神経、常識、ノリなどがあれば(笑)。ですが、僕は常にエコノミスト、フィナンシャルタイムズ等をチェックし、それ以外にも色んな本を読むようにしています。また、同世代のビジネスマンの中では、一番勉強しているくらいの自負を持っています。そのような積み重ねで少しずつ差がつきますよ。皆さんにも世界で起こっていることも常に意識して、これからも勉強してほしいなと思います。
編集後記

  グローバルに活躍することに憧れているけれど、その途方もない大きな目標に、具体的に何をしていいのか分からない人も多いと思う。そのような人の1人である僕にとって、実際にグローバルに活躍されている岩瀬さんから、直接、世界のビジネス・レベル等について伺えたことは、知識・情報が得られたということ以上に重要な意味を持つことになった。さまざまな現場を知っているからこその説得力。努力することで、グローバルに活躍することも夢じゃないと感じた。日本の現在の状況を憂う人はとても多いが、自分の置かれている状況について、自分で考え、行動する必要がある。現在グローバルに活躍している人達が、リスクをとって果敢に挑戦していた年齢に、僕もあっという間に到達してしまうことを意識し、毎日必死に努力していきたいと思う。

大芝 竜敬(会計研究科2年)

Vol. 18 「世界はハイ・ポテンシャルズが競争している。日本のぬるま湯に浸かっている場合ではない」

CATEGORY : 大学
shiraki-san

政治経済学術院教授
早稲田大学トランスナショナルHRM研究所所長
白木 三秀

1951年滋賀県生まれ。早稲田大学政治経済学部経済学科卒業後、同大学院経済学研究科博士後期課程修了。博士(経済学)。国士舘大学政経学部助教授・教授等を経て、1999年4月より早稲田大学政治経済学部教授。2005年より同大学政治経済学術院教授。専門は、社会政策、人的資源管理論。

【2012年6月14日公開】

ハイ・ポテンシャルズ

学生時代のお話をお聞かせください。また、現在の研究を始めたきっかけは何ですか。
学生時代は海外に行きました。1974年だから今から38年前ですね、大学を休学してヨーロッパで約9ヶ月生活していました。当時の日本は学園紛争の時代で、自分が何をすればいいのか分かりませんでした。だから海外に行って自分が通用するか試そう、視野を広めようと考えたことがきっかけです。いざロンドンに着くと、ちょうどオイルショックの直後で、ストライキが発生していました。電気さえ点いてなくて。でも何が起きているのか分からなかったんですよ。その時に、自分がいかに知識不足かを思い知りました。留学中に芽生えた問題意識から、帰国後は大学院で「日本企業の労働」について研究しようと考えました。当時は、日系企業が海外に積極投資していたため、労働・人材分野の研究をするには海外でも調査をする必要がありました。そのため、東南アジアなどに研究調査に行くようになり、現在の研究分野につながっています。
グローバルに事業を展開する日系企業の特徴は何でしょうか。
ビジネスの形態によって異なるので、一概にこうだとは言えないと思いますが、欧米系のグローバル企業と比べると大きな特徴があります。簡単に言うと、日系企業には第三国籍人がいないのです。例えば、ある日系企業がインドネシアに投資したとします。現地支社には、日本人とインドネシア人しかいません。多国籍企業とは言えませんね。二国籍企業です。アメリカ人やシンガポール人といった第三国籍人は入っていません。欧米の多国籍企業であれば、第三国籍人はたくさんいます。日系企業には、本社の方針が外資系のそれと異なるためにできないんです。
なぜ欧米系の企業には第三国籍人が存在するのですか。
以前研究の一環で米企業の本社を十数社回り、グローバル人事部門の責任者から直接話を聞いた経験から言うと、欧米系多国籍企業は、全社員の中からエリート集団「ハイ・ポテンシャルズ」というものを入社後に識別しているためです。例えば、某多国籍企業では、世界中に700~800の子会社を持ち、総社員数は25万人を超えます。そこでは、世界中の子会社の中から、入社後数年が経過した30歳前後の社員5万人の中で、特に優秀な人材を「ハイ・ポテンシャルズ」として選別します。倍率は100倍以上です。そうして選別された人材には、(1)部門変更、(2)職能変更、(3)海外勤務という3つの特別な職務を与えるのです。(1)は医療部門から金融部門へというようにビジネスを変え、(2)は営業から経理へというように役割を変え、(3)は国を変えるのです。日本で採用された場合、何年間かタイに派遣するというようにね。だから、第三国籍人が存在するのです。
なぜ日系企業にはそれができないのでしょう?
日系企業は、日本人のみを競争させて日本人のみを出世させるシステムを採用しているからです。これからはそれを改善していこうという企業も多いですが。海外支社の現地採用スタッフで、どんなに優秀な人がいても子会社でキャリアを終えています。これまで日系企業は、「ハイ・ポテンシャルズ」を選別するシステムを持っていませんでした。世界の多国籍企業のように、世界中の子会社の新入社員が全員同期という意識がないんですね。世界を見回すと、このシステムで出世したのはカルロス・ゴーン氏がいますよね。彼はフランスで教育を受けたそうですが、就職したのはブラジルの子会社です。フランスの自動車会社・ルノーは、そこでどんどん頭角を現すゴーン氏を見逃しませんでした。その彼が今は日産自動車の社長です。

インド人に知られていない日系企業

日系企業は外国人をうまく使いこなせていないのでしょうか。
私が過去に研究した、日本で採用されて海外支社に派遣された日本人に対しての、現地における評価を分析した結果を見ると、使いこなせていないと言えるでしょうね。例えば、タイに赴任した日本人に対しての、その部下に当たる現地人スタッフの評価は一様に低いです。つまり、現地人スタッフの方が赴任した本社の日本人よりもレベルが高いということです。これは大問題ですよ。先程のハイ・ポテンシャルズの話は、就職活動で企業の人事担当者が話すこととは違うと思います。「グローバル人材」を考える時に、そのハイ・ポテンシャルズを採れるだろうか、育てられるかどうかが重要です。日系企業はまず、日本の本社の人材のレベルを上げなくてはいけません。そうしなければ、日本で留学生を採用したり、海外でレベルの高い現地スタッフを採用しても、今より難しい状況になっていくでしょう。「グローバル人材」として日本や海外で外国人を採用するのはいいことです。でも問題は、採用した外国人を使いこなせるかどうかです。
海外の学生から日本と日系企業がどのように評価されているか教えてください。
私が早稲田大学留学センター所長を務めていた当時(2006~2010年)、中国からの留学生は毎年1,500人程度来ていましたが、インドからの留学生はなんと6人だけでした。そこで、インドに早稲田への留学生を募集しに行ったんです。その時に原因がわかりました。言語(日本の大学教育は日本語オンリーだと思われている)や、奨学金(入学後しか申し込めない)の問題はありますが、それ以上に大きいのは、インド人学生は日系企業に魅力を感じていないということです。インド人にとって日系企業がとても魅力的で、ぜひ就職したいと思うならば、日本語を勉強してでも日本の大学で学びたい、と考えるはずなんですよ。彼らは、日系企業をまず知らないし、さらに日系企業の中では出世が不可能だと思っています。インドだけではなく、海外の優秀な学生たちはみんな日系企業の本社では外国人が出世できない環境にあることを理解しています。そこで現在、日系企業も評価制度を変えようと必死です。これが変わったら日本人の学生にとっては大変なことになりますよ。大学卒業の段階で、世界の学生と対等に勝負できる人材になっていなければならないのですから。

井の中の蛙になるな!

今、学生がすべきことは何ですか。
世界レベルを意識しながら勉強することです。日系企業の海外支社に赴任する日本人社員のパフォーマンスを調査すると、なるべく若いうちに海外経験を積んだ人の方が高いことがわかります。若いうちに日本の弱いところに気づき、考えることが大切です。世界レベルを知らないと、日本はこのままで大丈夫と考えて努力しないで終わってしまいます。今のままで世界でも通用すると勘違いしてしまう。視野を広げれば何をすべきかはおのずとわかります。世界レベルの人材に追いつくためには、例えば語学だって滅茶苦茶に勉強する必要があるのです。日本人として、どれだけハイ・ポテンシャルズになれるかですよ。大相撲を見てください。今や横綱や大関は外国人ばかりですよね。しかし、もしモンゴルやヨーロッパから外国人力士が来ていなかったら、日本人でもっとレベルの低い力士でも横綱や大関になれてしまうということです。すごくレベルの低い世界で横綱だ、大関だって威張ることになるんですよ。企業も同じです。世界から人材を選んでくるか、日本の中の狭い範囲の同僚だけで競争するかです。世界レベルを意識するとはそういうことです。
グローバル人材を目指す学生にメッセージをお願いします。
井の中の蛙になるな!ということですね。自分は英語が上手いから海外でも通用すると思っていても、もっと能力のある人間は世界中にたくさんいるんです。若いうちに1年間くらい海外留学すると、それを肌で感じることができます。発展途上国でも優秀な人間は、常に世界レベルを意識して勉強していますから日本人とは全然違いますよ。だから世界に出てみることは非常に大切です。自分の能力、そして日本の能力を相対的に評価することができるようになりますね。そういうことを知らないで大企業に入社すると大変です。文系学生は特に名の知れた企業に入っただけで、なんとなく世界で通用しそうだと勘違いするんですよ。実際は全く通用しません。逆に技術はあるのに語学ができないために、世界で通用していないのが理工系学生です。日本人エンジニアは、語学が圧倒的に弱いです。企業の中でも大問題になっています。英語で論文を発表する技術者は少数派で、企業内のエンジニアは基本的に全く英語ができません。例えば、日本の某大企業はインド人エンジニアを雇用していますが、日本人エンジニアは彼らの話す内容や、仕様書の英語が理解できないそうです。そこで、シンガポールの子会社で翻訳してもらうそうですよ。残念な話ですね。インド人と一緒に働ければもっとイノベーションが起こるだろうに。英語ができないためにその機会が奪われています。日本人エンジニアの英語力が上がれば、日本の国力はもっと伸びますよ。理工系のグローバル人材育成こそが大きな課題です。問題点が英語力であることはわかりきっています。少し勉強すれば1年でかなりできるようになるでしょう。英語ができない日本人はもう通用しません。世界で通用するためには何をするのかを考えることです。そのためにも。いつまでもぬるま湯にいないで世界を意識しなさい、ということですね。
編集後記

衝撃的でした。私が、当初質問しようと考えていた事柄が次々と打ち砕かれていくような展開のインタビュー。これが現在の、そして世界の現実なのかと。白木教授のお話の途中あまりのショックに目の前が霞んできたくらいです。私は今就職活動中ですが、このお話を聞いてから就職活動に対する考えがガラリと変わりました。このことを知ってどう感じてどう動くかです。確かに状況は厳しいかもしれません。でも、本当に世界と勝負したいなら、本気の競争をしていかなければならない。ぬるま湯から出て、目を覚まさなければ。競争相手は、今自分の周りにいる人々ではなく世界中にいるのだから。

相原 亮(基幹理工研究科1年)

Vol. 17 「マルチな専門性を獲得すること。誰もがもう一度話したいと思うアイデア人材を目指せ」

CATEGORY : 国際機関
taniguchi-san

世界銀行東京事務所 駐日特別代表
谷口 和繁

1977年、東京大学法学部卒業。81年、米国スタンフォード大学ビジネス・スクール、MBA取得。29年間の財務省勤務を経て、2008年3月より世界銀行駐日特別代表。国際金融では、開発金融政策、外国為替市場に携わったほか、ウルグアイ・ラウンド、日米構造協議にも参加。IMFに審議役として4年間出向。国際交渉や知的支援などの目的で50カ国以上を訪問した経験を持つ。

【2012年5月23日公開】

日本人は英会話が苦手? 違う、リーディングとライティングだって通用しない

学生時代は将来のキャリアについてどのようなイメージを持っていましたか。
将来この仕事に就きたいという具体的なイメージはありませんでしたが、世界で通用する人材になりたいということは常々思っていました。大きな仕事をして、それによって世の中をよくしたいと思っていましたね。世の中が変わっていくプロセスの中で、貢献したいというイメージを持っていました。大学卒業後、そんな風にダイナミックに社会に貢献できる舞台と信じて当時の大蔵省に入省しました。財政や金融に対してはある意味、社会を変えることのできる道具として興味を持っていましたが、本来の目的としては大きな社会の仕組みづくりとか、新しいことをやってみたいと漠然と考えていましたね。
世界で通用する人材になりたいと思ったきっかけは何ですか。
学生時代は、受験英語でもそれなりに通用すると思っていた時期もありましたが、英語のラジオ・ニュース・チャンネルも聞き取れなかったんです。まして会話はできません。これでは世界で通用しないと思いました。法学部でしたので、法律の勉強もがんばってはいましたが、それに加えて一生懸命英語の勉強にも取り組みました。夜間の英会話学校に毎日3時間通っていた時期もあります。しかし、実際は、英会話だけでなく、リーディングもライティングもできないことがわかりました。日本人は英語の読み書きはできても話せないとよく言いますが、そうではないんです。読むことも書くことも業務をこなせるレベルではないんですよ。しかし、ライティングは訓練すればスピーキングよりも早く上達します。私の場合、書く力はアメリカのビジネス・スクールに留学していたときに鍛えられました。そのとき現地学生も受けることができる学生向けのライティングのプログラムを受けました。現地の学生よりも書くのに時間はかかってしまいますが、相手にわかりやすく論理的に書くことを念頭において書く訓練を続けましたら、最後はネイティブよりもよい点数が取れました。

来る仕事は拒まず、の精神でどんな仕事にも前向きに立ち向かう

お仕事をする上で大切にしていることはありますか。
来る仕事は拒まず、という自分のポリシーを大切にしています。なぜかというと、どんな仕事を受けたとしても、後々さまざまな場所で必ず役に立つからです。財務省で始めて課長補佐となったときに世界銀行の担当でしたが、その最初の仕事が世界銀行総裁の報酬を審査することでした。世界に一つしかないポストの報酬を審査するというスキルが、後の仕事に役立つのか、と疑問に感じたこともありました。ところが、次の仕事がたまたま銀行局で日本銀行総裁の報酬を審査する仕事だったのです。またも世界に一つしかないポストです。前回の経験が役に立ちましたが、前にもっとやっておけば良かったとも思いました。これは、自分の経歴を振り返って気づいたことですが、一生懸命にやった仕事、自分が真剣に携わった仕事は必ず人生のある部分で繋がります。与えられた仕事に対して、つまらないなぁとか、自分にとって何のメリットがあるのかなぁとか、そのように思うときは必ずきます。でも、不思議なことに、一生懸命にやっておくと必ず後々自分の役に立つんですよね。
国際的な場で交渉をされるときはどのようなことを心がけていますか。
交渉するときは、最後はイエスかノーの話になってきますが、そのときに反対する人たちがどうして反対するのか、何に困っているのか、ということをよく理解することが大事だと思います。話し合っても必ずしも本当に不満な点を教えてくれるわけではないので、相手のバックグラウンド、つまり国なら歴史や政治、経済を勉強する必要があります。そして、反対している人たちが受け入れられやすい論理を一緒に作り上げて行くんですね。最終的な段階に来ると、お互いにこれをやると得をする、これは損をするというようなことがゼロ・サムのように見えてきます。そういうときに、実は相手にとってマイナスではなく、どのような利点があるのかを説明して納得してもらうことが大事です。交渉している同士というのは面白くて、お互いが何を考えているのかわかるわけですよ。だから交渉が長い場合は、交渉している人同士は仲良くなるのですが、お互いの立場があるために、なかなかうまく交渉がまとまらないときがあります。そういう場合は、どのような論理が相手の後で妥協を妨げている勢力を和らげ、説得できるかを考え、相手が納得しやすい論理を作っていきます。

目指すべきは、幅広い専門性を持つオールラウンダー

将来グローバルに活躍するためには何が大事だとお考えですか。

講演する谷口さん

世界的に活躍している人を見ると、相手を感動させられる何かを持っていることです。グローバル人材として、どういう人を目指すかというと、重要なのは、何か課題を抱えている人が相談したいと思う人、壁にぶつかっているときに何らかのアイデアやインスピレーション、示唆を与えることのできる人材だと思います。アイデア人材、とでも言いましょうか。そのような人材を目指すうえで、少なくとも自分の専門についてはより深く勉強するのが当たり前です。さらにさまざまな人と会い、その考え方から多くを学ぶことや現場に出向くことが大切です。そういう機会を貪欲に探していって、自分の引き出しをどんどん増やしていけるとおもしろいですよね。自分が憧れる存在、将来同じように国際的に働きたいと思える人を見つけることも大事だと思います。そういう人がいると勉強の励みにもなりますよね。
専門性を磨く上で大切なことは何ですか。
国際的な社会は一種のプロ野球のような組織。プロ野球でも単に運動神経がよいから採るというわけにはいきませんよね。チームの戦略をもって選手を採用しているはずなので、ピッチャーが欲しいチームに足の速い外野手が応募してもチームのニーズにマッチしません。ですが、足の速い外野手は必ずどこかで必要です。そういう意味で、「私はこういうことができます」、「私が貢献できることはこれです」というものを一つ持っていると活躍できる舞台はどこかに必ずあります。だから、自分の専門性を狭めて追求していくというやり方もありますが、世の中は変わりますので、ファーストもできるしセカンドもできるというように、少し応用力を持った方が本当はよいと思います。一つひとつ自分の専門性を作ったうえで、それを広げていく必要があります。なぜなら自分一人では仕事はできないんですよ。一人で完結するという仕事はありえません。世界銀行の場合も大きなプランを作るためには、他のセクターの専門家と話ができること、相手の専門も理解できることがとても重要なのです。
どのような日本人学生が世界銀行に就職することを望みますか。
日本という立場から途上国を見てチャリティーに近い発想を持つ人よりも、むしろ成長を遂げている途上国の人々と協力することでチャンスを広げていける人がいいですね。現在、成長しているのは先進国ではなく途上国です。日本で生活していたら、入り口として貧しい人を助けてあげたいという気持ちで国際機関に入ってくるのは理解できます。しかし、パートナーだという意識を持って、この世界に飛び込んでほしいです。途上国での持続的成長チャンスは世界の持続的成長のチャンスです。支援することで世界中がよくなるという発想ですね。情けは人のためならず、と言いますが、相手だけでなく自分のためでもある、ということです。国際援助というのは、結局世界中のためになるし、自分のためになるんです。マルチな専門性で、問題の解決に対して幅広い視点から考えられる、そういう専門家を期待しています。
学生に向けてメッセージをお願いします
たとえその瞬間はつまらない仕事だと思っても一生懸命やっておくことです。スティーブ・ジョブズが言っている有名なセリフで、「ドット(点)を繋げ」というのがあります。点というのは自分がしてきたいろいろなことで、それを繋いでいくということです。前にやった仕事の価値があとから出てきて、それが後になって分かるというような意味です。やる前にそのことが将来どのドットに繋がるかあらかじめわかっているわけではありません。しかし、そのドットをしっかりやれば、あのときのドットが今の自分がやっているこのドットと繋がって、新しい大きい仕事ができるということになります。一個一個のドットを大事にして、一生懸命にやればあとから太く繋がるんですよ。一生懸命やらないと、ドットが消えかかって、いつまでも網にはならずにドットが一個しかない状態のままです。そういう意味では、自分があまりやりたくないことにこそ、チャンスは広がっているのかもしれませんね。
編集後記

一生懸命やったことは必ずどこかで繋がる。学生の立場から見て、これは勉強にも言えることだと思いました。何の役に立つかわからないと思って勉強していたことが、あとになってふとしたことから、やっておいてよかったと思えた経験をしたことがある人も多いのではないでしょうか。そして、谷口さんが伝えたかったのは、目の前のことを一つひとつ一生懸命やることが大事だということだと思います。私も「自分にはこれができる!」と胸を張って言えるように、将来太く繋がるようなドットを増やしていきたいです。

陸 欣(国際教養学部4年)

Vol. 16 「人生は一本道じゃなくていい。体力・ネットワーキング能力・コミュニケーション能力を培って国際舞台へ」

CATEGORY : 国際機関
oga-san

国連環境計画(UNEP) ナイロビ事務所
大賀 敏子

東京都生まれ。1983年一橋大学卒、環境庁に勤務後、国連環境計画(UNEP)の環境計画官(ナイロビ)、JICA専門家・タンザニア政府環境政策アドバイザー、ESCAP環境管理専門家(バンコク)を経て1999年より再びUNEPナイロビ勤務(事務局長室管理理事会渉外官・職員組合副委員長)。著書に『心にしみるケニア』(岩波新書)があるほか、季刊『ニューエネルギー』(都市エネルギー協会)など雑誌記事への寄稿多数。ソフトバンク新書から『日本人の知らない環境問題―「地球にやさしい」では世界は救えない』本年5月15日刊行予定。

【2012年5月18日公開】

国連とは、コミュニケーションとネゴシエーションとロビイングを合わせた塊

国連での仕事内容を教えてください。
UNEPは、環境に関する世界各国の活動の総合的な調整をし、また新たな問題に対しての国際的な協力を推進しています。私の仕事は、UNEPで決議されたことを実行するために世界中の環境大臣と話し合い、調整をすること。また、UNEP内に常駐している各国の代表ともやり取りをしています。言わば、「国家間の調整窓口」ですね。よく国連を世界政府のようなものだと勘違いしている人がいますが、国連というのは「場」なんです。意見の調整の場を提供しているだけに過ぎません。世界中の人が集まり、何かを決め、きちんとその方向に持っていくために、各国間の調整役として国連職員というのはいるのです。
国連職員になるまでの道のりを教えてください。

UNEPでの大賀さん

大学を卒業して環境庁に入省しました。国際機関で働きたいなと思いながらも、どうやったらそういうところで働けるのかわからなかったので、とりあえず国家公務員になったわけです。5年半環境庁で働いた後、JPO(Junior Professional Officer)派遣制度でUNEPへ行きました。JPOとは、自国の若手職員を国際機関に送り込むために、外務省が費用を負担して、世界にある国連の部署へ2、3年派遣する制度です。UNEPへの派遣期間が終了した後、環境庁の席は残したまま、今度はJICAの仕事でタンザニアとタイへ行きました。その後直接UNEPからオファーが来た際、ケニアはとても住みやすくて気に入っていたこともあり、環境庁を退職し、国連の正規職員として戻ろうと決意しました。
国連で働いていて難しいことは何ですか?
国連に入る時に、どこの国にも偏らない、中立の立場を取って行動することを誓わなければなりません。しかし、それって実際は非常に難しいことなんです。国連職員の役目は各国の調整をすることと言いましたが、政府間の調整は、表舞台でのみ行われるわけではない。例えば、A国が自分の政策をUNEPにさせたいとなると、まずはUNEP事務局職員に取り入って、中からもその政策が通るように動く。このようにコミュニケーションとネゴシエーションとロビイングを合わせた塊が、国連なんです。ちなみに、日本は政策を通したい時も、日本人らしい生真面目さでやることが多いですよ。

価値観が異なる人と出くわして大変な時には「こういう人もいるんだ」と思えばいい

オランダ人や日本人にとってのスラムと、ケニア人にとってのスラム

赤道直下のケニア

国連で働く動機として、「世界の貧困を撲滅したい」だとか「世界の福祉の向上を願って・・・」というのは一般的によく聞かれる優等生的な答えですよね。私自身も、小さな貢献しかできないかもしれないけど、世界のために働きたいという想いでやっています。しかし、ケニア人の同僚に国連勤務の志望動機を聞くと、「お金のためさ!」と堂々と答える人がいる。もうびっくりしました。去年、うちのオフィスにオランダ人のインターンが来て、インターンシップの最後に「スラムへ行って、貧困の中でもたくましく生活している人をこの目で見たいから連れていってくれ」と言ったんです。私は、すごくいいことだと思いましたよ。もちろん、スラムやそこに住んでいる人は見せ物ではない。それでもオランダや日本に住んでいると、貧困というものがやはりよくわからないですからね。すると、ケニア人の同僚は「とんでもない!あんなところはわざわざ行くような場所じゃない!」って言う。彼らケニア人エリート達は、スラムに住むような人達は別世界の人間だと思っているんです。そのオランダ人や、日本人の私とは感覚が全く違う。同僚のみんながみんな、「よい世界にするために働きたい!」と思っているわけではない。国際的な場で働くこととは、価値観や考え方が違う人がたくさんいるということ。それでもそういう時は「ああ、こういう人もいるんだな」って思えばいいんです。
感情を押さえて冷静に判断、分析する訓練を
みんながお互いに友好な関係を保とうと思っているわけではない。自分の主張を通そうという時に、ガーっと闘いを挑むかのようにアプローチをしてくる人もいる。例えば、各国に流さないといけない文書をA国に頼まれて流したところ、「なに間違ったことやっているんだ?!」とB国からお怒りの電話を受けました。ガーガー怒鳴って、罵倒するわけですね。それで、お互いのやり取りを遡ると、最初にB国がA国に情報を送った時点でB国に誤りがあった。そうやって自分の意見を通す時に、怒鳴り散らし、まくし立ててくる人って世の中にはいるんですよ。人間ですから怒鳴られると腹が立つ。それでも、抑えて、聴いて、相手が本当に言いたいことは何だろうとシンプルに考えるんです。その時は、「要するにまた直せばいいんでしょ?」となりました。咄嗟に反応せずに、分析してから行動に移す。これは訓練です。
日本人の強み
先ほどのような人がいるかと思いきや、本当に真面目な人もいます。日本人はまさにその例です。国連っていうのは、専門知識が豊富な人たちが大勢いるから、会議の度に15cmほどの分厚い資料を配布する。それを読んでこない国の代表もいっぱいいるのに、日本の出席者は隅々まで読んできます。意識しなくても、持ち合わせている日本人の真面目さはグローバルな場でも信頼を得る大きな強みだと思っています。

人生は一本道じゃなくていい

グローバル人材に必要な資質とは何だとお考えですか?
三つあります。一つ目は、ずばり体力です。グローバルに働くということは、時には時差との勝負です。私のボスなんて、1年の3分の2は海外出張ですよ。そして、1年の半分は機中泊です。12時間の時差があるようなところへ飛んでいって、飛行機を降りたらお迎えの車が待っていて、すぐ会場へ連れて行かれて、疲れた顔もせずにそこでスピーチをしたり、各国のお偉方と必要な事柄を話し合ったりして、結論をまとめる。まあ、それは事務局長クラスの話ですが。
次にネットワーキング能力。フォーマルとインフォーマルの両方で友達を作れることは大切です。ネットワークって何かというと、ずっと親しげである必要もないし、愛し合っている必要もないですが(笑)、必要な時に頼んだら情報をくれるなど、そういう関係を作れることですね。
そして、最後にコミュニケーション能力です。自分を的確にわかりやすく表現できること。日本人にとって、英語はハンディー。私も最初は全然わからなかったです。しかし、国連の仕事で使う英語の単語は、そんなに多くない。だから、練習さえすればすぐ慣れます。過度に心配する必要はない。もっと言えば、日本人は英語がだめだと思っている人がいっぱいいますけど、世界には英語がだめな人はもっといっぱいいるんです。コミュニケーション能力というのは話すことだけではない。相手の話を聴くことも入ります。怒鳴り込んでくる人の話も静かに聴き、お金のために国連で働くと言う人の話も聴く。そういうことができる人っていうのは、どこでも通用すると思います。
最後に、国際機関で働きたいと思っている学生にメッセージをお願いします。

人生は一本道じゃなくていい。UNEPを見渡してみても、それぞれ色々好きなことをして国連に流れついた人、NGOなどで活動してきた人、30歳や40歳まで民間企業に勤め、自分の人生これでいいのかな?と思い、国連へ来た人など実に様々です。だから、最初から国連っていう考えをする必要はないと思います。大学の時には、自分の興味があることをする。例えば、外国に行くスタディツアーなどが提供されているのなら、ぜひ利用するべき。見聞が広められるでしょう。今の時代の日本の学生はすごく恵まれています。このようなWebマガジンを通して、海外で働いている人からアドバイスを得ることもできる。学生時代にスタディツアーと言って海外へ簡単に行くこともできる。私の時代にはそういうのはありませんでした。ですので、学生のみなさんには与えられた機会をぜひ自らつかみ取って、見聞を広め、知識を深め、自分の世界を大きく、豊かにしてほしいです。人生は一本道じゃなくていいから。
編集後記

途上国の生活向上や、世界各地の紛争や環境問題の解決に取り組む、まさにワールドワイドな組織である国連に憧れを抱くことも私はしばしばあります。しかし組織がとても大きいので、各団体でそれぞれのスタッフがどういった思いでどういう仕事をしているのだろうと思っていました。今回はそれに合わせ、お仕事の裏話も聞くことができ、とても勉強になりました。海外の第一線で今現在活躍されている大賀さんだからこそ、日本人の特徴と強みを客観的に見ることができるのではないでしょうか。また、自分の価値観とは全く異なる人でさえも受け入れる力を持つことが、グローバルに活躍する人の素質にもつながるし、自分の人生も豊かにしていくものだなと思いました。

斉藤 愛里(教育学部4年)

Vol. 15 「夢を叶えるためにはまず自分を知ること。目標に向かって突き進むハングリー精神を持とう」

CATEGORY : 政府機関
andrew-san

在日本米国大使館政治部一等書記官
アンドリュー・ハク・オウ

1973年、韓国ソウルで生まれる。ケニアのナイロビにて高等教育を修了後、外交官を目指し、ジョージタウン大学に進学。卒業後、日本政府および日本の教育機関にて4年間勤務。ハワイ大学および東西センターで韓国における日本の植民地支配を研究し、01年に修士号を取得。早稲田大学(93-94年)およびソウル大学(00年)でも学び、日本語および韓国語を話す。01年に米国国務省に入省。在ジャマイカ大使館、在香港領事館、本省の朝鮮部(韓国担当)に勤務後、在京大使館へ。ベーカー・加藤国際交流プログラムの米国側代表として、09年の夏まで日本の外務省で政務に就いた後、現職。

【2012年4月11日公開】

「交渉」、「政治」、そして「さまざまな文化」。3つの要素を含む職業は外交官だった

学生時代からさまざまな文化に接してきたと思いますが、どのような学生でしたか。
学生時代は勉強に集中していました。父の仕事の関係で高校はアフリカのケニアだったんですよ。小さな学校で全学年あわせても200人くらいしかいませんでした。ケニアはすごく自由で美しい国です。とにかく自然がきれいなところでしたね。だから自然の中で生きる一人の人間としての意識が非常に強くなった気がして、人間的に成長した時期でもありましたし、物事を考える視野が広くなりました。アメリカに行ってからも、自分は他のアメリカ人とは違うなと気づくことが多々ありました。ケニアではあまり競争が激しくなかったので、ワシントンD.C.のジョージタウン大学に入学したときは、周りの友達がみんな頭がよくてびっくりしました。これは頑張らないといけないなあと思いましたね。ジョージタウン大学を選んだ理由は、国際政治と外交に強いというのを知っていたからです。アメリカでは成績がよくないと就職できないので、とにかく一生懸命勉強しました。とても充実していて、悔いのない学生生活だったと思います。
外交官になりたいと思ったのはいつ頃でしたか。
高校3年生のときです。やはりアフリカにいたときの影響が大きかったと思いますね。ケニアのナイロビの学校では、いろいろな国の学生が集まっていたのですごく国際的でした。他の文化の人と交流するのはおもしろいなと思い始めたときでもありましたね。模擬国連に関連する授業があって、それもすごく刺激的で、交渉したり国際的な課題に取り組んだりするのもおもしろいと思いました。海外に住むことや旅行することも個人的に好きだったので、交渉と政治、様々な文化、これら全ての要素が入っている職業は何だろうと考えていたら、外交官かなと思いました。国籍はアメリカですが、韓国で生まれ育ったことも大きな要因だと思います。普通の韓国人とも違いますし、普通のアメリカ人とも違いますので、生まれたときから文化が混ざったようなアイデンティティーでした。これは一生自分に影響してくると思いますね。
外交官になるためにどのような勉強をされていましたか。
高校生の時は外交官がどのような仕事をしているのか全然知らなかったですね。でもなんとなく国際政治や国際法、歴史、外国語は大事で、将来必要だと思っていました。そして実際、大学卒業後、大学院で歴史を勉強しました。東アジア専門の外交官になりたいと思っていましたので。そのために日本と韓国、中国の歴史と政治を全部勉強しましたね。ジョージタウン大学にいた時も早稲田大学に留学した時も、東アジア関連の勉強が中心でした。むしろそのコースがあるからジョージタウン大学を選んだのだと思います。僕は目標を設定するのが好きということもありますが、小さな目標を一つひとつ達成し、大きな目標をつかむということは、外交官になることに限らず、夢をつかむためには大事なことだと思います。

多岐にわたる外交官の業務

日本に駐在する前はどのようなお仕事をされていましたか。
ジャマイカと香港に駐在していたころは、領事部で仕事をしていました。アメリカ国務省では、入省後新人のうちに領事の仕事をしないといけないんですね。領事部の主な仕事は、ビザの発行やアメリカ国外にいるアメリカ国民のお手伝いです。例えばジャマイカにいたときは、毎月刑務所に行って服役中のアメリカ人の面倒を見ました。しっかり栄養を取れているのか確認し、リクエストがあったら対応するといった仕事でした。香港のときは、親族がいない遺体の引き取りをやったこともあります。これらの仕事は、その後の外交官業務を行ううえで非常に重要な経験となりました。アメリカ国外にいるアメリカ国民を守ること、これは外交官や国務省在外大使館がやらなければならない仕事の基本だと思います。自分の中で、こうした意識が芽生えたことが大きなポイントです。専門は政治なので、このような仕事は二度としないと思いますが、外交官として、こうした意識を忘れてはいけないと思います。僕は外交官の仕事をとても誇りに思っています。
東アジア専門の外交官、特に日本で働きたいと思った理由は何ですか。
父が日本で生まれ育ったので、よく夏休みに日本に遊びに来る機会がありました。それで大学に入学してからは東アジアのことを勉強したいと考えて、父のルーツから日本に辿りついたわけです。日本のことは好きですし、若い時からなんとなく日本の文化の方が自分に合っていると思っていました。それまでは歌を聴いたりテレビを見たりして日本語を耳にすることもあったのですが、大学1年生が終わった後の夏休みから本格的に日本語を勉強し始めました。日本語のクラスを履修したとき、一回目の授業から楽しくて仕方がなかったのです。そういうこともあって、日本に行こうと決め、早稲田大学に一年間留学しました。外交官になってからも日本に駐在したいと考えていたんですよ。それで、実際に来ることができたのだから、僕と日本の間には縁があるんだと思います。
一等書記官というのは具体的にどのような仕事をするのですか。
一等書記官の仕事は大使館によって異なっていて、私の同僚の中には日米安全保障を担当している人もいればアジア地域を担当している人もいます。私が所属する政治部の一等書記官の仕事は、端的に言えば、現場(日本)でさまざまな情報を収集し、それを本国の政策決定者に報告することです。具体的には、日本の外務省の自分と同レベルの官僚との打合せや、日本の国会議員との会話などから、日本政府が本音の部分で何を考えているのかを把握し、それをアメリカ政府に向けて正しくレポートします。
特に印象に残っている仕事は何でしょうか。

日本に来て3年半になりますが、学生のときに名前を聞いたことがある人物やニュースに出てくる人物に実際に会うことができるのは刺激になります。世界の方向性を決めていくような人物ばかりですからね。以前、ワシントンD.C.にあるアメリカ法務省で仕事をしていたとき、ちょうど韓国のパク・チョンヒ元大統領のご息女で、大統領候補でもあるパク・クネ議員がアメリカを訪問していて、ライス国務長官(当時)と対面しました。その時僕の上司は都合が悪くて行けなかったので、代わりに僕がその会議に出ることになったのです。歴史の本に出てくるような人物が目の前にいたので、業務上ノートを取らなければならないのに、ずっと聴き入ってしまいましたね。現在、日本人の方々と交渉するときも、政策や日々の問題に何か進展があると、すごくモチベーションが上がります。例えば、日本の国会議員にアメリカの政策に関する新しい情報を提供することができたときや、僕が彼らからアメリカ政府や日米関係全体にとって有意義な情報を得ることができたときなどです。しかし、僕が最もやりがいを感じるのは、オフィスの外で日本人と信頼関係を構築して、お互いの国について学ぶときです。僕にとっては、それが本当の外交なのかもしれませんね。

いつまでもチャレンジ精神を忘れないでいたい

これからお仕事の中でチャレンジしたいことは何ですか。
この仕事の一番おもしろいところは、仕事が終わらないということです。毎日必ずやることがあります。例えばジャマイカでビザを発行していた時ですが、休日にサーフィンをしに田舎に行くときがありました。アメリカの外交官の車はナンバーですぐに分かりますので、その時にいろいろな批判の声を浴びたというような経験をしました。彼らの頭の中のアメリカのイメージを変えないといけないと思いましたし、アメリカの代表としてそういう責任をもつのが我々なんですね。だから今毎日日米関係に関わることができることにとてもやりがいを感じています。夢としては、大きく環境を変えたいと思っています。僕は韓国と日本の二つの国と特別な関係があるので、この二つの国とアメリカとの関係がより良くなるように貢献したいですね。それぞれが異なる分野でお互いに助けることができると思うんです。
外交官としてのお仕事の上で、毎日欠かさずにやっていることはありますか。
外交官に限らないかと思いますが、いかに情報を得るかが一番大事です。情報が自分のところに入ってくるのは「得」です。誰よりも早く自分が情報を得るとことができると、それは「有利」になります。そして自分だけが知っている情報があれば、「立場が上がる」ことになります。だから、自分でも無意識のうちにさまざまなところから情報を取り入れようとしていますね。ニュースでも電話でもそうですし、人と話をしていても実は情報を得ようとしているのかもしれませんね。今は日本とアメリカの情報に集中していますが、在韓国アメリカ大使館が出すレポートや電報を読むこともあります。それと、次は中国に駐在することが決まっていますので、中国の情報も入手しようとしています。とにかく僕は欲張りで、全部を知りたいんです。また、外交には政治だけではなく、あらゆる分野が含まれていますので、さまざまな分野の知識を得るために日々活動しています。これは外交官以外の仕事にも共通して言える、どの分野でもエキスパートになるための要素だと思いますよ。
ものごとがうまくいかないときは、どのように立ち直るのですか。

同僚とカフェテリアにて

高校の時に夢見ていた外交官になるということが遠のいたような時期もありました。そのときは、日本に住んでいたので、仲のよい日本人の友達に相談して、すごく助けられたのを覚えています。みんな同じような年齢で、みんなそれぞれ夢を持っていたので、話をすることでとても気が楽になりましたね。スランプに陥ったときは、自分はまだまだ未熟な存在だ、ということをまず素直に認めることですよね。自分を過度に責めないほうがいいです。それから友達と話したり、スポーツや趣味に没頭したりしながら、我慢して待つことですよね。僕の場合は、1カ月くらいすると、やらなければならないことが自然に見えてきましたね。最初の一歩は小さくてもかまいません。一歩踏み出すことで物事も、そして自分も変わっていけます。学生のみなさんも将来を不安に感じることが多いでしょう。そんなときは仲間と話し、目の前の一歩から踏み出してみてください。
アンドリューさんのように、夢を掴み取るためには何が大事だと思いますか。
一番大事なのはやはりself-awareness(自己認識)だと思います。自分がどういう人で、何をしたいのか、朝起きるときに何が一番自分をウキウキさせるのか、こういう意識ですよね。それが分からないと幸せにならないし、夢も叶えられないと思います。それが分かるようになる時期は人それぞれですが、分からないうちはいろいろな経験をして、探そうとする努力が重要です。それから大事なのは、失敗しても次のチャレンジに進むことだと思います。僕は一時期政治家になろうかなと思っていました。その仕事の実態がよく分からなかったので、大学2年の夏休みを利用してインターンシップをしたんですね。しかし、やってみるとこれは向いてないと思いました。行動を起こしたから、次のステップが見えたのです。目標を作って、それに向けて行動を起こしてみる、そしてそれに向けて努力をするということが大事ですね。夢を叶えるために何が必要なのかを考えて、毎日少しでも努力をすることですね。本当に実現したいのなら失敗してもトライしてみることだと思います。
最後に学生に向けてメッセージをお願いします。
若いうちにいろいろなチャレンジをしてほしいですね。とにかく思いついたことをやってみることです。将来何をやりたいか分からなかったら、海外に行ってみたり、日本のどこか行ったことがない場所に行ったりするのもいいと思います。どこからインスピレーションが来るか分かりませんからね。僕は日本の田舎に行くのが大好きで、いろいろなヒントが待っている気がします。日本の中にもいろいろな素晴らしいものがあるということを忘れないでほしいですね。もちろん海外に行くのもいい経験になります。特に海外に行くと自分の国について分かるようになりますし、自分のこともよく分かるようになります。刺激を受けて、自分の強さと弱点が見えてきますよ。学生のみなさんは表に出さなくてもハングリー精神を持っているはずですから、自分の小さな輪の中だけではなく、もっと広い世界が待っていますので、それを見てほしいですね。
編集後記

どこまでもポジティブで、前向きなアンドリューさんからはたくさんのパワーをいただき、私も頑張ろうという気持ちになりました。今度は中国に行くから近々中国語の勉強を始めると、新しい環境でのお仕事をとても楽しみにしているそうです。外交官というとなんとなく華やかなイメージがありますが、具体的にどのような仕事をしているのか正直知りませんでした。今回のインタビューを通じて、外交官としての使命や思いというものを伺うことができ、大変感銘を受けました。常に夢や目標を持ち続けることは簡単のようで難しいことだと思いますが、大事なのはそれに向かって少しずつ努力するということをしっかりと心に留めておきたいと思いました。

陸 欣(国際教養学部4年)

Vol. 14 「途上国で直面した貧困という課題。経済からアプローチしてその解決に日々取り組む」

CATEGORY : 国際機関
ishii-san

国際通貨基金(IMF)アジア太平洋地域事務所(OAP) 所長
石井 詳悟

1981年にIMFに着任後、タイ駐在上級代表をはじめ、マレーシア、シンガポール及びベトナムのIMF代表団を率いたほか、アジア太平洋局ならびに政策企画審査局(現戦略政策審査局) や金融為替局 (現 金融資本市場局)の要職を歴任した。また、1989年から92年までは日本輸出入銀行 (現 国際協力銀行)で参事役を務めた。南山大学経済学部、 同大学院修士課程を経て、オレゴン大学で博士号を取得。

【2012年3月19日公開】

初めて直面した貧困の世界

海外に興味を持ち始めたのはいつですか。またどのような学生生活を送っていましたか。
私が通っていた南山大学で、外国人留学生との交流活動を盛んに行っていたことがきっかけです。私が学生だった当時、出身地の名古屋で大学を卒業したら、そのまま名古屋の企業に勤める、というコースが一般的でした。しかし、私の場合は大学で留学生と交流する機会が増えるにつれ、海外への興味が増していきました。学部生時代に海外留学をしたかったのですが、当時は1ドル=365円の時代で留学は大変難しかったのです。経済学で学位を取得した後も研究を継続するために、大学院に入学しました。当時、経済発展に関する研究は、アメリカやイギリスが進んでいたため、大学院で使用するテキストは英語の原著を和訳したものがほとんどでした。翻訳版テキストを使って勉強するうちに、なぜ自分は日本で勉強しているんだという疑問を持つようになりました。そして、最先端の研究が行われているアメリカで勉強したいという希望が次第に強くなっていきました。幸いなことに、奨学金を受けてアメリカで学べることになりましたが、1年間という短い期間でした。アメリカでの勉学を続けたいと思い、留学期間が終了に近づくころ、奨学金を提供してくれる機関を探して、その先も留学を続けることができたのです。
IMFに就職した経緯について教えてください。
大学院生だった当時は、正直国際金融機関にはあまり興味がなかったです。ただビザの取得が非常に難しい時代でしたので、金銭的な理由以外でも留学後にアメリカに残るのは困難でした。そのときに、IMFや世界銀行のような国際機関にはビザの問題がないということを知りました。つまり、合格さえすればそこで勤務できるのです。そうした理由から国際機関に興味を持ちました。それでは、どうしてIMFを選んだのかと言うと、1980年代初頭のIMFは今とは異なり、経済研究と実務に関する仕事がほぼ半分ずつくらいあったからです。IMFには国際経済と金融分野の研究者がたくさんいましたし、IMFから多くの論文が提出され、最先端の研究が行われていたのです。私は研究と実務の両方に関心があったため、その希望が叶うと思いました。実際入ってみると、ラテン地域に債務危機が発生しました。その後も多くの途上国が国際収支問題を抱えるようになり、IMFの仕事がだんだんと融資に関係した実務に移行していきました。
国際金融機関で実際に働くようになって、石井さんご自身に何か変化はありましたか。
世界には貧困に苦しむ多くの人々が存在するということを認識したことです。実務として、私が最初に担当したのはバングラデシュでした。各国からの援助や国際機関からの融資を頼りにしている非常に貧しい国です。現地に出張し、バングラデシュの政策担当者と協議したとき、初めは大学院での研究とはまったく異なる世界であると感じました。IMFでは加盟国への経済調査団を通常ミッションと呼んでいます。ミッションは5~6人のエコノミストで構成され、当該国の政策担当者と議論を繰り返し、課題を分析し政策提言を行います。それまでは日本とアメリカの経済だけを研究していたので、貧困に対する知識はほとんどありませんでした。バングラデシュは当時洪水の影響で食糧危機が深刻でした。餓死者も多い現場に突然出張したわけです。非常にショックでしたね。自分は日本に生まれてよかったと気づくと同時に、貧困にあえぐ人々を可能な限り救いたいという思いが募りました。それには、ただお金を渡すということだけではいけません。経済面の政策提言を行うことで、当該国が少ない資源で経済成長を遂げられるようにしなければなりません。バングラデシュに赴任した後は、世界中に貧しい人々がいることを常に意識するようになりました。

人々の生活に影響を与える仕事だから責任も大きい

バングラデシュ勤務の後はどのようなキャリアを歩まれましたか。
その後は中国、ネパール、ベトナムを担当したのですが、大体同じような仕事内容です。1997年にタイを中心にアジア危機が起きましたね。その際タイの危機対応にあたるチームの一員に加わりました。調整プログラムを作るなどして、本当に夜寝る暇もないほど働きました。そのあとバンコクに2年間ほど駐在員として勤務しました。実際に政策担当者と協議し、政策提言することが実は各国に大きな影響を与えるんですね。特にIMFの融資を受ける国はIMFの条件を実行しない融資が実施されないので、交渉を経て政策提言を受けます。政策提言はその国の人々の生活に大きな影響を与えますので、我々はその責任を自覚しながら行わないといけません。振り返ってみたときにそれが常に正しかったというわけにはいきませんが、その場ではできる限りの努力をし、適切な政策を提言していくことが必要です。それがやはり一番やりがいがあるところであり、大学では経験できないことですね。非常に大きな責任が伴う仕事です。
政策提言というのはどのようなプロセスで行われるのですか。
ミッションチームはだいたい5,6人で、財政、金融、国際収支、実態経済などの分野をそれぞれ担当し、Mission Chiefがチームの仕事を統括します。調整プログラムを作るときですと、まずお互いに連携を取りながら、現地に行く前にできる限りの情報を集めて分析をします。そしてどのような問題・課題があるのかを洗い出し、それに対してどのような政策が必要なのかをチーム内で議論し、それらをまとめたものを持って現地に向かいます。現地では政府機関や銀行、民間それぞれから意見を聞き、具体的にどのような政策が適切なのかをさらに議論したうえで、調整プログラムを交渉します。調整プログラムの内容はPress Statementとしてウェブ上に公表されます。

英語のライティング力とディベート力を磨いた留学時代

グローバルに活躍するためにはどのような能力が必要だとお考えですか。

スピーチする石井さん

まずは英語力。特に書くことが大事です。それからディベートができるということですね。日本人は授業でも質問しませんし、こういう質問をするとまずいのではないかと恐れるんですね。一方で私がアメリカの大学で教えていたときは、学生から質問がたくさん来ましたし、彼らはまったく恥じません。自分がわからなかったら質問すればいいんですよ。その傾向は国際会議でも出てきます。日本人を含めアジアの人はなかなか質問しません。会議で発言しないと、国際的な舞台では何も考えがないと見なされてしまいます。ディベートは、日本語でも練習することを勧めます。学生なら授業中に質問をすることが第一ですね。英語で話す機会を作るのも大切です。英語の新聞や雑誌を読むこともお薦めします。今はケーブルテレビで英語のチャンネルも見られますので、ニュースをできるだけ英語で聞いて理解するというようなアプローチが必要だと思います。私は大学院の留学時代は、TAをしていましたが、当時は授業料が無料になったばかりでなく、学生とのやり取りで自然に英語の練習になりましたのでお薦めします。
世界を舞台に活躍したい学生に向けて最後にメッセージをお願いします。
グローバルに活躍するためには、異なる文化、社会制度の中で育った人たちと対話ができるということが一番大事だと思いますね。当然その中に英語力が出てきますし、外交技術も大事です。自分が思っていることを言うと同時に、相手が言っていることを理解することも重要ですね。あとは常に世界に目を向けて、優れている点を見出して、学んでいくというのがグローバルな人だと思います。学生にとってはやはり世界を歩いてみることだと思うんですよ。実際に自分で世界を見てもらいたいですね。
国際通貨基金(IMF)アジア太平洋地域事務所(OAP)のホームページ
http://www.imf.org/external/oap/jpn/indexj.htm
編集後記

今回のインタビューを通じて、一口に国際金融機関と言っても、IMFではエコノミスト以外に、半数が様々な分野の専門職や一般職の職員であると知り、IMFを目指す人には多くの可能性が開かれていると感じました。しかし、日本人スタッフをはじめ、アジアのスタッフはまだまだ少ないのが現状です。石井さんも、国際機関に興味をもつ若者が減ってきていると感じているそうで、IMFに興味がある学生の力になりたいともおっしゃっていました。進路選択に限ったことではありませんが、難しそうだからと最初から諦めるのではなく、自分にできることからやっていくことが大事だと思いました。「人の何倍も努力すればなんとかなる」という石井さんの言葉がとても心に残りました。

陸 欣(国際教養学部4年)

Vol. 13 「世界のトップ人材のレベルははるかに高い。だからこそ世界と闘っていくためには、野心と向上心を持とう」

CATEGORY : 民間企業
shibasaki-san

フォースバレー・コンシェルジュ株式会社
代表取締役
柴崎洋平

1975年生まれ。上智大学 外国語学部 英語学科卒業。大学卒業後は、ソニー(株)、ソニー・コンピュータエンタテインメントに勤務。2007年9月に円満退社し、同年11月、フォースバレー・コンシェルジュ株式会社を設立、代表取締役に就任。

【2012年3月5日公開】

常に新しいこと、わくわくできることをやるのが面白い

どのような学生時代を送られていましたか。海外を意識し始めたきっかけは何ですか。
大学時代は、午後の3時から夜遅くまでアメリカンフットボールばかりやっていました。昼間もあまり授業に出ないで、留学生との交流サークルを立ち上げました。国際的なイメージを抱いて上智大学に入ったのですが、当時はキャンパス内にほとんど日本人しかいなかったんですよ。市ヶ谷キャンパスには留学生はたくさんいたのですが、彼らともっと交流しないとこの大学に入った意味がないぞと思って、行ったり来たりで毎日留学生とランチを食べて過ごしていました。アメフトの練習にオフがあると、留学生と一緒に旅行にも行きましたね。いつ頃から海外を意識し始めたのかと言いますと、幼少時代はイギリスで過ごしたんですね。その時代があったからでしょうね。自分の中で将来は世界を舞台に活躍したいなという思いは小さい頃からなんとなくありました。年齢が上がるにつれてその気持ちが大きくなり、大学もそのイメージで選びました。就職のときも日本でグローバルな企業と言ったときに、僕の中ではソニーしか思いつかなかったんですね。世界で活躍したいという夢を持ってソニーに入りました。
今はどのようなお仕事をされていますか。
僕たちがやっているのは、日本を代表するグローバルカンパニーが、全世界から優秀な人材を新卒で採用するというビジネスのサポートをすることです。例えば、就職活動のイベントを開いたりキャリアカウンセリングをしたりしています。というのは、ソニーにいた時代に一番感じていたのは、世界の人材レベルの高さだったんです。エンジニアリングは日本も強いのですが、経営企画やマーケットなどの分野のプロフェッショナリズムのレベルの高さというのは、毎回完敗ですよね。とにかくすごい人をたくさん見たので、こういう人たちを日本のグローバル企業の本社に集めたいと思いました。世界のグローバルスタンダードと日本の働き方は真逆なので、求職中の外国人学生には徹底して伝えています。今世界30カ国以上700大学と連携が取れていて、リサーチをしながら世界中のネットワークを作っています。人材業界はもともとドメスティックな産業でしたが、全世界をシェアに入れればまったく違うマーケットになると思いました。これはやっていてわくわくするし、国際交流にもなるので、インパクトのある新しいビジネスモデルだと思っています。今は外国人に特化するのをやめて、世界の優秀層を扱う会社というのを目指しています。
外国人の方と仕事をする上で心がけていることはありますか。
まず一つは日本人だろうが外国人だろうが、まったく同じ扱いをするということです。そして、あまりにも日本的になってもいけないので、なるべくグローバルスタンダードにマッチした形に持っていく、というこの二つですね。外国人に気を遣いすぎた待遇をしてしまうと逆に日本人社員のほうに失礼になってしまうということもありますよね。会社には本当にいろんな人がいますからね。会社の設立当初もアルバイトスタッフとして留学生を雇いました。ビジネスを立ち上げるために知能を貸してほしいと呼び掛けたらすごい数が集まったんですよ。外国人のためのビジネスをやるんだったら、外国人が周りにいて、彼らの意見を常に聞いて、外国人と一緒に考える外国人向けのビジネスというのを僕は意識していました。

日本の新卒は世界一ゆるい。新卒の学生もまだまだ未熟

日本人学生が内向きだと言われていますが、それについてはどのようにお考えですか。
日本人学生全体を見たら、内向き志向がやや上がっているかもしれません。でも僕が付き合っている日本を代表するような企業に入る学生たちにそのような傾向はまったく感じません。僕が毎日接している日本を背負うような学生にその内向き志向というのが強まっているともまったく思っていません。全員がグローバルになる必要はないですから、世界に飛び出していくトップ層に関しては、そのような意識は全然生まれていないと思いますね。そして、内向き志向だと言われているのは学生のせいではなく、日本の企業、社会の責任だと思うんです。日本の古い企業体制や制度が逆に日本の学生に悪影響を与えていると僕は思っています。一括採用をなくしたら、留学する人も増えますよね。そして、海外のようにインターンシップを経験してお互いがマッチングすると採用されるという直結型の採用ができたら、日本でも1dayばかりではなく長期のインターンシップが増えますよね。日本学生の内向きよりも日本のプレゼンスの低下のほうがはるかに悪影響だと思っています。
柴崎さんには今の大学生はどのように映っていますか。
これに関して言えるのはまず日本人学生と世界の学生との比較ですね。世界中の学生を見てきた中で、日本は圧倒的に競争がゆるいです。これは勉強に限らずあらゆることにおいてです。要するに日本の新卒というのは世界一ゆるいんですよ。日本の就職活動が社会問題になっていますが、内定率の低さは世界一ゆるいです。国中をあげて新卒採用をやる国は日本以外ないですよ。例えば韓国の新卒は転職組とも闘うので、学生が勝てるわけがないですよね。日本は一括採用があるから実際はものすごく楽だし、長期採用の文化なので、採る数もものすごく多い。しかし、グローバルスタンダードは正反対で、海外だとトップ層の新卒が最初に入った会社にいるのは平均で3年間なんです。海外でトップ企業に入るためには能力が問われるので、みんな専攻がかなり就職に直結するし、インターンシップも半年から1年は必ずやっています。彼らはビジネスの世界で自分がどう活躍できるかとか将来のビジョンとか全部がはっきりしています。日本でそういうことを考えている人は皆無に近いですよね。常にプレッシャー下に置かれながら一社会人になるための鍛錬がされている海外のトップ人材と勝負していくのは大変です。だからいろんな面で日本の大学4年生というのは世界の中で未熟な部分が多いですね。

大学時代の過ごし方によって将来に対する意識が変わる

将来世界と闘っていくために、学生時代にやっておくべきことは何だと思いますか。
僕がいつも言っているのは、アジアのトップスクールへの留学です。アメリカに留学に行く人はまだ多いと思いますが、語学留学プラスアルファというのが多いですよね。もちろん欧米の学生と交流することも素晴らしいことですが、ビジネスのマーケットはこれから完全にアジアだし、アジアの人材と触れるというのはビジネスの中ではものすごく価値があります。僕はそういう観点でお勧めしています。トップスクールだとやはりそれなりの人材がいて、その国のリーダーになる人がいるので、国によって強い産業の大学や大学院に行くのは面白いと思います。あとは月並みですが、学生時代に発展途上国を旅してみることですね。最後にもう一つは、企業での就業経験ですね。夏休み1カ月くらいを利用して企業の長期インターンシップに挑戦して、自分のビジネスセンスを早いうちに確認しておくということは大事な作業だと思います。そうすると将来の自分のキャリアと残りの大学生活をすごくリンクさせて活動できるんです。課外活動を通して意識が変わってくるはずです。そして、やはり大学や企業がそういう環境を与えないといけないとは思いますね。
柴崎さんにとっての「世界に通用する高度人材」とは何ですか。
世界のトップを目指す人だと思っています。トップというのはいろんな意味がありますが、とにかく高みを目指すということですね。こういう人材がこれから求められると思います。トップに行くという思いとその思いの強さ、これが一番大事だと思います。どんなに優秀でも心が弱い人は上には行けないですからね。心が強い人は努力をするので、必ず上に行きます。僕が今まで出会った中で、優秀だなと思った学生は例外なく強い野心を持っているんですよね。「僕はこんな感じでいいんです」という人は一人もいない。彼らは、こうやって自分の国を、世界を変えたい、というような大きな野心や想いがあります。そして、言語だけができる人がグローバル人材ではないですよね。英語ができるというのはもちろん必須にはなりますが、言語ができることとグローバル人材とは別です。やはり大事なのは想いで、骨太で気持が強い人が評価されます。
フォースバレー・コンシェルジュ株式会社
http://www.4th-valley.com/
編集後記

例年より少し遅れて今年度の就職活動も本格的にスタートしました。就職活動の時期になって初めて働くことについて考える学生が多い中、社会との繋がりを意識し、自分のキャリアを常に考えながら学生時代を過ごしてほしいという柴崎さんのメッセージが心に残りました。目的を持って長期のインターンシップを経験することももちろんそうですが、学生のうちに社会人と触れる機会を増やしたり、行動範囲を広げたりすることで、社会の仕組みを知るきっかけにもなるのではないでしょうか。今回のインタビューを通して、日本と海外との就職活動のあり方の違いだけでなく、学生の就職に対する意識の違いを実感し、身が引き締まる思いがしました。

陸 欣(国際教養学部4年)

2 / 41234