Vol. 12 「今の日本人パスポートは天から降ってきたわけじゃない。未来の日本人へのリスペクトを賭けて戦え」

CATEGORY : その他
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英フィナンシャルタイムズ中国語版コラムニスト、香港フェニックステレビコメンテーター
加藤 嘉一

1984年静岡県生まれ。2003年高校卒業後単身で北京大学留学。同大学国際関係学院大学院修士課程修了。英フィナンシャルタイムズ中国語版コラムニスト、北京大学研究員、香港フェニックステレビコメンテーター。年間300以上の取材を受け、200本以上のコラムを書く。最新書「いま中国人は何を考えているのか」、「北朝鮮スーパーエリート達から日本人への伝言」。

【2012年2月23日公開】

大事なことは一分間ですべて伝えろ

加藤さんの名刺(名前のみ表記)の真意はなんですか。

加藤さんの名刺

加藤嘉一だから加藤嘉一と書いてあります。グローバルで活躍するために名前は必要条件というよりも十分条件です。日本では、どうしても肩書きや会社で人を決めてしまいますよね。例えば、部長や課長というだけでこの人はすごい、すごくないと決めてしまう。でも、海外ではそれは全く通用しませんよ。僕は一昨日シンガポールで開催されたある会議に出席してきました。その際もこの名刺を使用しましたが、肩書きは全く関係ありませんでした。名刺よりも眼力だなと感じましたね(笑) ただ一方で、名前は非常に大事です。名前は両親からもらったものだから、それを大事にするのは人として当たり前。きっちり名前で勝負するというのは最大の親孝行だと思います。
名刺以外に、自己紹介の場で心がけていることがあれば教えて下さい。
例えば、一昨日の話です。僕は、そこで会った方と、今シンガポールでこういうことをして、なぜ来て、何に悩んでいて、だから君とこういうコミュニケーションが取りたいんだと言って、握手するんです。それがすべてです。これを、1分間で常にプレゼンテーションできるようにしておけば、グローバルで戦えますよ。逆に日本の方だと永田町でも霞が関でもいいけど、名刺だけ渡して帰る。これは資源の無駄じゃないですか。日本の学校に提案したいのは、自分についての1分間プレゼンです。まず小学1年生で日本語で、高校1年生では英語で、社会人からは中国語がベストだけれども第2外国語でそれをやれるようにトレーニングするんです。内容は、成長するにつれて常にアップデートしていきます。ぜひ公立でも私立でも学校でホームルームの時間でやったらいいと思いますね。
加藤さんはいつごろからグローバルを意識していらしたのですか。
グローバルという言葉を知ったのはここ10年くらいだと思いますけど、幼いころから世界はずっと意識していました。5歳くらいの頃から、趣味は地図を見ることだったんです。スリランカの首都の名前はなんでこんなに長いんだろうとか、なんでフランスにはいろんな人種の人がいるんだろうとか。そういったことをイメージしながら地球儀を回していました。地図を見始めたのは自然にというより一種の反抗心。生まれた地域がとても保守的な所だったので、なぜ自分が起こしたアクションに対して、他人は潰しにかかるんだろうか、と常に閉塞感を感じていました。それを確かめるためには、物事を客観化する、相対化するしかありません。まず、日本のほかの都市に行ってみる。それでも分かりません。日本は均一化した社会ですからね。このとき、既に海外に行きたかったのですけど、人間1つの事をやるには3つ必要なものがあります。意思と能力、そして条件です。この3つが揃わないと難しいです。結局、意思と能力はあったと思いますが、なかなか条件が揃わなくて海外に出るのが18歳になってしまいました。

ピンチはチャンス。物売りのおばさんとの語学レッスン

中国語はどのように勉強しましたか。
北京大学で勉強していた当時、SARSの流行で授業が全部休校になったんです。在北京日本大使館が、日本人に対して強制帰国勧告を出していました。当然僕は帰らなかったけど、周りに日本人がいなくなったわけですよ。でも、ピンチはチャンス。なんとかして周りの人々とコミュニケーションをとって中国語を学ぼうと考えました。具体的には北京大学の西門で物売りをするおばさんと仲良くなったんです。だから、そのおばさんが僕の中国語の先生ですよ。最初はまずおばさんからアイスを買って握手をすることから始めました。それからは、おばさんの所にとにかく毎日通いました。1日8時間くらいひたすら会話するんです。話のネタを探すのに大変でしたよ。その時の1日のスケジュールは、まず4時半に起きて、辞書ひいて勉強してラジオ聞いてランニング行って、帰ってきたら簡単に朝食。朝8時くらいにはおばさんの所に行って夕方4時とかまでずっと会話していました。話をしているといろんな人が会話に入ってくるんです。おばさんのネットワークってすごいんですよ。
現地の方と交流するなかで、中国語以外に学んだことがあれば教えて下さい。
僕が思うに中国人は、ネットワーキングとインテリジェンスに長けています。どこの国にでもチャイナ・タウンを形成してしまうのですから。日本人にこれができますか?できないじゃないですか。海外で日本人だけで仲良く一緒に行動することと、コミュニティを形成したうえで他国の経済に参加することは全く異なりますよ。また中国人社会は相互不信の社会です。彼らは他人と接するとき、常に疑ってかかります。日本ほど性善説な社会はないですよ。他人を疑うこと、批判的に物事を見ること。このクリティカル・シンキングが大事です。僕は、中国人は全体的に、何をするときも上手にカーブを投げる、という印象を持っています。ユーモア・センスも実はあるんですよね。ただ礼儀正しくしているだけでは生産的でないと分かりました。中国語はもちろん、物売りのおばさんからは様々なことを学ぶことができました。日本人みたいに簡単に他人を信じてはいけないんですよ。自分なりに情報へのアプローチの方法を持つことは重要です。情報を鵜呑みにしていてはだめです。僕の場合は2つの国境を越えて新聞が同じことを言っていたら初めて信用できると思います。正しい見方、正しい情報にどうやってアプローチするか自分なりに構築しなくてはなりません。日常の中で自分で鍛えていく必要があります。これは新聞記者になるにしても、学者になるにしても、ビジネスマンになるにしても非常に大事なことですよね。
どのようにして人的ネットワークを構築することができたのですか。
通訳の仕事がきっかけです。最初は、翻訳が一番知的で良いバイトだと思って必死に勉強しました。HSKという試験を受けてスコアがよかったので、中国に着いて3ヶ月後には翻訳を始めました。1年後には逐次通訳、そのまた半年後には同時通訳をすることができるようになりました。そのときに僕は、単なる通訳で終わらせずに様々なところに入って行きました。例えば、僕が中国の大物政治家と知り合ったのは人民大会堂という日本でいう国会にあたる場所です。そこでの会議に通訳として参加したんですね。まずは、きっちり通訳の仕事をこなします。そして、休憩のときに政治リーダー達の様子を窺いながら、トイレであえてぶつかったり、椅子にかかっていたスーツの上着を落としたりしてね。「あっ大丈夫ですか。落ちましたよ」って拾ってあげるんです。すると「ありがとう。君は優しいな」となります。そうやって会話の機会を自ら作っていました。クリエイティブにアクティブに人的ネットワークを拡大していきましたよ。

海外に出るのはローリスク・ハイリターン、さらにローコスト

海外で生活することで、どのようなことを感じましたか。
日本に対しての愛国心が芽生えたこと、それから現地の人々から見たら自分が日本代表であるということですね。中国で様々な国の人々と語ることで、自分が日本人であるという意識は自ずと高まりました。自分は幼いころから日本が嫌いでした。でも中国の人から日本を誤解されたり、批判されると悔しかった。日本が嫌いだったはずなのに悔しかったんです。これは健全な愛国心だと思います。また、自分は加藤嘉一個人としての意見を言っただけのつもりであっても、外国人にとってはそれが日本人全体の意見になってしまいます。これは非常に責任を伴うことです。だから、まずは何より日本の国際社会における立ち位置や歴史をしっかり勉強することが大事ですね。国際社会で日本人としての意見を聞かれても、何も答えられない。それはとても恥ずかしいことですよ。
学生にメッセージをお願いします。

2010年、「中国時代騎士賞」受賞インタビュー

自分達がいかに恵まれているか知ることです。他国の学生と比べて自分達にはこれだけ情報が開かれていて、これだけどこにでも行ける環境にある。日本のパスポートを持っていれば、実際どこにでも行けるわけですよ。そのうえ今は円高です。今海外に出なかったらいつ出るんですか。一方、中国の学生は、人民元は切り上がっていないし、どこに行くにもビザが必要です。北京でアメリカのビザを取るためには、米国大使館の前で500メートルも並ばなければなりません。彼らは、そうまでしても行きたいと思うんです。でも僕は、ただ漠然と海外に出ろと言うつもりはないです。就活をするか、大学院に進学するか、留学するかなど、学生の皆さんも迷っているはずです。そんな人に僕からのアドバイスです。まずは選択肢を広げましょう。そしてどの選択肢が一番いいか決定するための視野を広げましょう。何か新しいことをしたいと思うのは、現状に不満を抱いているからです。それを違った視点、場所を変えて自分って何だろう、自分って何がしたいんだろうと考える事は非常に大切です。しかも学生のうちに海外に出るのはローリスク・ハイリターン。さらに今はローコストです。迷っていて新しい視点が欲しい。そんな時は留学でも海外旅行でも行く。自分を非日常に連れていくことです。そもそも、今日本人が海外に行きやすいのは、先人が汗水たらして必死にやってきたから。だから今のパスポートがあるんです。天から降ってきたものではないんですよ。日本のパスポートが今後どうなっていくかは、我々一人ひとりの日本人にかかっています。自分の海外での振る舞いが今後のパスポートにつながって、未来の日本人が国際社会でどれだけリスペクトされるかにつながるという意識が大切です。そうすれば緊張感が生まれるでしょう。緊張感が生まれたら人は真剣になるんです。
編集後記

インタビュー中、ほとばしる情熱で答えて下さった加藤さん。圧倒されました。一言一言に今までの経験からくる重みを感じました。ものすごく辛く、ものすごく苦しい時があったと思います。でもそれに歯を食いしばって耐え、見えてきたものだからこそ聞く人の心に入ってくる説得力があるのではないでしょうか。「パスポートは天から降ってきたものではない」という言葉が特に強く心に残りました。私達は、海外旅行しようかなと考えたり、留学するかどうかを悩んだりしますが、選択肢があること自体に感謝しなければと感じました。次の世代のためにも、先人が切り拓いてくれた道のその先をさらに切り拓かねばと思います。

相原 亮(基幹理工学研究科1年)

Vol. 11 「人生は計画通りに進まない。目の前にある事象に正面から取り組むだけ」

CATEGORY : 民間企業
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早稲田大学講師・慧洋海運独立取締役
(前住友商事理事・台湾住友商事会社社長)
岩永 康久

1945年生まれ。早稲田大学政治経済学部卒業後、69年住友商事株式会社 鋼材貿易部入社。アメリカ、台湾駐在を経て、2000年から2007年まで台湾住友商事会社社長を務める。2007年9月には、台湾経済・貿易発展に寄与したとして台湾政府・経済奨章を受章。2008年住友商事退職後から現職。

【2012年2月16日公開】

まとまった時間がある今しかできないことを!

学生時代はどのようなことをしていましたか。
勉強以外にもいろいろなことにチャレンジしました。社会に出たら朝から晩まで仕事をしなければならないため、時間があり余っている学生時代を有効に活用しようと考えていましたね。具体的に例を挙げると、大学生の頃に日本国内はほとんど周りました。海外に行くお金がなかったので、それでは国内で何ができるだろうかと考えた結果です。たとえば、北海道を一人、野宿同然で自転車で一周した後、青森-秋田-新潟-東京間2,300kmを50日かけて自転車で走り続けました。他にも、九州に帰省する途中にテントを持ち歩き、中国・四国地方に寄ったこともあったし、北陸地方まで足を延ばしたこともありました。
先生にとっての学生時代というのは、どのような時代でしたか。
まとまった時間があるときにしかできないことを経験できた時代ですね。正直に言って勉強はあまりしませんでした。しかし、貧乏旅行などで培われた経験や精神力は、住友商事に入社してからも私の大きな力となりました。また、学生時代は友人とよく遊びました。友達との繋がりというのは社会に出てからも非常に大切です。大学で出会った友人とは卒業後何十年経過した現在でも食事に行ったり、お酒を飲んだりするものですよ。学生の皆さんも今の友人関係を大切にしてほしいですね。もしも私が学生時代に勉強しかしていなかったら、自転車旅行の時間や、友人と馬鹿な遊びをして過ごす時間は持てなかったでしょうね。そのような学生時代の経験は、今の学生たちのように就職活動のノウハウを勉強することよりも、私にとってはず~と重要なことでした。

どこの国の人も自分の人生が大事で、精一杯生きている

総合商社・住友商事を就職先として志望した理由を教えてください。
私の学生時代は日本も外貨がなく、海外への渡航は簡単でない時代でした。貨物船に乗って皿洗いしながら米国に渡り、自転車でアメリカ大陸横断をやろうと計画しましたが、VISAが下りませんでした。自分のお金で海外へいけないのであれば、会社のお金で行くしかないなと、それなら総合商社が一番ではないか、と考えたのです。当時は学校推薦を取れば、あとは役員面接と身体検査だけで内定が出る時代で、運よく住友商事に決まりました。当時総合商社を目指す人の志望理由なんて考え抜いた高尚なものではなく、寧ろ単純なものでした。海外に飛躍したい、海外へ派遣される会社に行きたい。まあ、そのような事でした。入社してからは楽しい事も失望した事も紆余曲折がありましたが、今振り返ってみると、私の夢はほぼ叶ったと言えるでしょう。アメリカや台湾の駐在を含めて、合計48ヶ国へ出張し、やりがいのある仕事をすることができたのですから。
アメリカ駐在時代に印象に残っている仕事は何ですか。

このようなカーブに高級レールが使用されている

鉄道の高級レールの輸出ビジネスを、着想から利益が出るところまで作り上げたことですね。30歳を過ぎて、鉄鋼係長としてアメリカに駐在していた私は、ねじ輸出の担当をしていました。しかし、当時円高が原因で日本製品の競争力は低下しており、取引していた会社も倒産してしまうほどでした。業績不振で帰国辞令が出かねない!今思うと、会社生活で一番苦しんだ時期でしたよ。債権回収には頭を痛めたし、利益が出るような新しいビジネスを如何にしたら作れるかと日々苦悶していました。しかし名案は浮かびませんでした。苦悩する中である時ふと、「扱い商品の中に電車のレールをつなぐ部品(ボルトナット)も含まれているけど、なぜレールは輸出していないのか」、と疑問に思ったのです。そして、レールの輸出ビジネスを始めようと考えました。しかし、当時の日米間では貿易摩擦が大問題でした。ただでさえ日本製品の輸出が増加し、アメリカが日本に対して不満を持っていた時代です。これ以上輸出を増やせるはずがありませんでした。従い、何処の商社も米国向けレールは扱っていなかったのです。そこで考えついたのが、高級レールの輸出ビジネスです。高級レールというのは、鉄道路線の急カーブに使われるものです。電車に乗っていると急カーブで“キッキッキー”という軋み音が聞こえますよね。これはレールと車輪がお互いの鉄を削り合っている音です。アメリカでは一編成で機関車が3両、100両の車輛が一度に1万トン以上を運びますから更に過酷な条件です。従い、激しい圧力にも耐えられる高級なものでなければなりません。高級レールを高価格で、過酷な使用条件の場所のみに少量輸出するのであれば、貿易摩擦も生じません。理論としては完璧ですよね。あとは、保守的な米国鉄道会社、日本の鉄鋼会社の人を説得することに腐心しました。しかし、いろいろな方々の協力を得て、何とか成功させる事が出来ました。このビジネスの功績で、後に社長表彰をいただく事ができました。
アメリカで、考え方の違いを感じたことはありましたか。
私がアメリカ人の考え方を全然理解できていなかったことが原因で、アメリカ人と何度も喧嘩しました。当時の日本が急速な経済発展を遂げていたこともあり、日本人としてのビジネスの方法を過信していたように思います。私は、チャンスがあれば、全力投球で積極的な攻めの営業をしていました(今思うとtoo pushyだった!)。しかし、一緒に働いていたアメリカ人は、別の考え方を持っていました。彼は、押し過ぎるのではなく、周囲をじわりじわりと固めつつ、「万有引力でリンゴがぽとりと落ちる」ように、後は時期がくるまで待つという考え方を持っていたのです。彼とは率直に議論をしながら、私は多くを学びました。その後、ビジネスの進め方が変わり、大いに役立ちました。
台湾住友商事社長としての経験から、多くの現地スタッフを動かす際に気を付ける点は何だと思いますか。
私は日本人を過度に優遇しないように気を付けていました。当時、日本企業は国際化が遅れていました。その最大の理由が言語です。日本人の中には英語が苦手な人が多く、台湾にある会社であっても日本語主体のシステムになってしまったのです。当然社内では日本語が堪能な日本人が有利になります。しかし、これでは台湾人の現地スタッフが不満を持ってしまいますよね。私は常々「人生はそれぞれの個人にとって一番大切なもの」と思っています。日本で生まれたから、台湾で生まれたから、という理由で差別がでたら、不満が生まれますよね。やる気もなくなり、会社の業績だって上がらないでしょう。そのため、絶対に台湾人現地スタッフを差別しないように心がけていました。むしろ意識的に日本人派遣員よりも台湾人スタッフの考え方を尊重し、フェアな処遇になるよう考えていました。

間違いは素直に謝ることが信頼につながる

今の学生は内向きだと思いますか。
日本の学生全体が内向き志向になっていると思います。その理由は、豊かな社会で育ったことと、少子化の2点であると思います。今の学生は、豊かな社会で親に大事に育てられたので、苦労の経験が昔の学生と比べると圧倒的に少ないです。また、少子化であるために、親や親戚の愛情を独り占めにして成長してきました。その結果、ハングリー精神が足りない、わがままで打たれ弱い学生が増えたのだと思います。このハングリー精神の欠如から、全体として今の学生は、内向きになりがちであると思います。ただし私は、他大学の学生と比べ、早大生は比較的にバイタリティがあると思います。私の講義をとる学生には外向き志向の人が多く、機会があれば海外に飛躍しようと考える学生が多くいます。もちろん全体として見て、我々の時代の早大生と比べれば、まだまだ内向きですがね。
なぜ外向きになる必要があるのでしょう。
時代が変化しているからです。これまでの日本は、世界第2位の経済大国でした。日本でやっていれば世界と戦えたのです。しかし、これからは日本の市場は縮小していく一方です。世界に目を転じて、市場を拡大していかないと、企業は生き残れません。早稲田の学生たちには、そういう外向きの志向を持ってほしいと思っています。世界に出ていくと、考え方・価値観が異なりますから、日本で美徳のように語られる以心伝心など通じません。意見は堂々とはっきり言うことが求められます。また日本人としてのアイデンティティ・価値観を持って議論してほしいものです。良く歴史問題などの議論も出ますから、歴史も良く理解しておいてほしいですね。そして激しい議論を恐れない事です。口論になる事を恐れて自分の意見を引っ込めれば、真の理解は生まれません。相手の立場を尊重して、誠意を持って当たれば、率直な議論を通じてこそ真の相互理解が生れるものです。
これから社会に出る学生へメッセージをお願いします。
間違いは「素直に謝る」ことが信頼につながる、ということです。例えば、私が住友商事に勤めていたころ、見積もりの計算ミスで何十億円という赤字が出かねない失敗をしたことがあります。悩みましたが、かかる事は隠さず即報告すべきと思い、当時の課長に打ち明けました。すると、そのときの課長が「間違いは誰にでもある。二度と間違えなければいい。よく話してくれた」と逆にほめてくれたのです。取引先には即訪問し、正直に自分のミスを説明して謝罪しました。付き合いの長い取引先であったため、最終的には理解を得ることができました。みんないい格好はいくらでもします。しかし、間違いを認めることは、誰にでもできることではありません。過ちを素直に認める心をもってほしいですね。もう一点、「苦労は買ってでもする」べきであり、「正面から向き合いなさい」、ということも伝えたいですね。人生は山あり谷ありです。調子がいいときがあれば、次には落ち込む時がきます。このときに、困難から逃げずに正面から向き合うことが肝要です。若いときに苦労した経験がある人は、将来仕事で辛いことに出くわしても、必ず突破口を見いだせると思います。最後に、あまり就職・勉強だけに執着しないでほしい、ということです。私も今になってもっと勉強しておけばよかったと思う事もあります。しかし社会に出たら朝から晩まで仕事・また関連の勉強をしなくてはなりません。むしろ、学生時代の貴重な4年間でしかできないことをしてほしい、と思いますね。
編集後記

インタビューの中で、何度も先生が協調なさったのは、「学生時代には、まとまった時間がないとできない経験をした方が良い」ということでした。岩永先生が、アメリカで「ボルトからレールの輸出へ」という案を思いつくことができたのも、学生時代のさまざまな経験で積み上げた引き出しの多さゆえではないかと思います。私自身、残された1年間の学生生活で、今しかできないことに全力を注いでいき、「経験の蓄積」を増やしていけたら、と思っています。

飯沼亜季(国際教養学部3年)

Vol. 10 「大切なのは言葉より“迎える心”。外国人を特別だと思わず、そのままの自分で接することが大切だ」

CATEGORY : 民間企業
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澤の屋旅館館主
澤 功

1937年新潟県生まれ。60年大学卒業後、東京相互銀行に入行。64年旅館澤の屋の一人娘と結婚。翌年銀行を退職し、澤の屋の経営者となる。82年外国人受け入れを始め、98年まで外国人客受け入れ旅館の全国組織「ジャパニーズ・イン・グループ」会長を務める。2003年には観光カリスマ(下町の外国人もてなしカリスマ)に認定。現在、社団法人日本観光旅館連盟会長補佐。

【2012年2月6日公開】

「お客様ゼロ」からスタートした、外国人のお客様の受け入れ

澤の屋旅館について教えてください。
台東区の谷中で、家族で経営している旅館です。義母が1949年に開業しました。私が澤の屋旅館の一人娘である家内と結婚した1964年当時は、修学旅行の生徒さんで賑わっていました。しかし、私が経営者になった頃から、あっという間にお客様が減っていきました。その理由はいくつかありますが、修学旅行の生徒さんが大手ホテルに泊まるようになったことが一番の理由です。また、生徒さんの次に多かったビジネスパーソンのお客様も、駅前に増えたビジネスホテルへと移っていきました。澤の屋旅館は家族旅館として喜ばれていたのですが、日本人の生活スタイルが変化したことで、家族的な対応よりも一人ひとりにベッドとお風呂、トイレがついているホテルの方が好まれるようになってきたのです。
外国人のお客様を受け入れるようになったきっかけは何でしたか?
お客様が減ってきた頃、新宿の矢島旅館さんから「日本人のお客様が来ないなら、外国のお客様を受け入れなさい」と勧められたことです。矢島旅館さんでは、以前から外国人の受け入れを始めていたのですよ。でも、一年間は踏み切ることができませんでした。外国人のお客様を受け入れるということは、世界中からお客様が来るということです。フロントで様々な国の人たちから外国語で話しかけられたらどうしようと思い、言葉ができないのに「外国人の方、どうぞいらっしゃい」とは言えませんでした。日本人のお客様が泊まってくれない全室和室のお風呂もついていない旅館に、外国人のお客様が泊まってくれるわけがないと思っていたのです。そうこうしているうちに、1982年の夏にとうとう3日間連続で宿泊客がゼロというときがありました。「このままでは潰れてしまう」と危機感が高まり、矢島旅館さんを見学させてもらうことにしました。すると、驚いたことに設備はほとんどうちと一緒だったんです。矢島さんが簡単な英語で話している様子を見て、うちの旅館でもできるんじゃないかと思いました。それで、外国人のお客様の受け入れを始めました。
どのようなご苦労があって、外国人のお客様を増やすことができたのですか?
矢島旅館が全国の小さな旅館に呼びかけて、外国人のお客様を受け入れる旅館の組織「ジャパニーズ・イン・グループ」を作っていました。毎年、パンフレットを年2回7万部ずつ作製して、世界1,000ヶ所に送っていたのです。澤の屋旅館が受け入れを始めた年の外国人のお客様は230人でしたが、そのグループに入れてもらったことで翌年には3,000人になりました。当時は、インターネットもない時代でしたから、そのパンフレットに載ることが唯一の広報手段でした。この中に、澤の屋旅館の情報やイラスト付きで紹介する日本式旅館の利用法、FAXでの予約フォームを掲載することによって、外国人に澤の屋旅館の知名度が徐々に浸透していきました。そうして来てくれたお客様を夢中で受け入れていたら、1984年にはお客様が4,000人を超え、客室の稼働率も平均90%を超えました。年々お客様が増えていき、毎日ほぼ満員の状態となったのです。

外国人だからと言って特別なことはしなくていい。日本人と同じように接することが大切だ。

外国人のお客様を受け入れるために、どのような工夫をされてきましたか?
澤の屋旅館では、谷中の町と一緒になって外国人のお客様の受け入れを進めてきました。うちの旅館では、朝食しか出していません。それ以外は、外国人のお客様は街に出て行き、町の人のお世話になっています。長期間滞在してくれるお客様に対して、うちだけで毎日違う食事を作って、様々なサービスを提供し続けるのは難しいことですが、町の中には食事や買い物ができる場所がたくさんあります。たとえ3ヶ月間泊まるお客様がいらしても、町と一緒に受け入れれば、より多くのサービスを提供できるのです。外国人のお客様は、日本人が当たり前だと見過ごしている普通の日常的な活動に興味を持っています。そういう経験をするには、日本の生活が残っていて、文化や歴史に触れ合うことができるこの町が最適だと思っています。外国人のお客様が街に買い物に行き、町の人といい思い出ができれば、その町が好きになって、日本が好きになって、澤の屋旅館のリピーターになってくれるんじゃないかという想いがあって、谷中の町全体で一丸となって受け入れ続けています。谷中の町があって、谷中の人がいるから、澤の屋旅館が成り立っているのだと思っています。
外国人のお客様が町に出るために、どのような工夫をされているのでしょうか?
澤の屋旅館は家族旅館ですから、旅館の中だけではそんなに交流はできません。そのため、町の人と交流できる機会を紹介して、どんどん町中に出ていってもらうようにしています。私の仕事の一つは、外国人のお客様と町の人との交流の橋渡しをすることだと思っています。たとえば、近くで盆踊りをやると聞いた時は、町会の人に頼んで、踊りの輪に入れてもらい、また、夏祭りでは、神輿をかつぐ体験をさせてもらいます。餅つきや桜見物に行くこともあり、谷中では様々な体験ができます。他には、日・英両言語の谷中エリア・マップを作って、お客様に渡しています。豪華な宿や美味しい料理のことは忘れてしまいますが、その国の人との触れ合いや、ちょっと親切にされたことは旅の思い出として後々まで残ります。世界遺産を見ることもいいですが、町の人との良い思い出を作れたら、その人を通してその町や国が好きになって、旅館にもまた来てくれます。町ぐるみで交流することがとても大切なんです。
外国人のお客様を受け入れるために、澤の屋旅館が方針を転換したことはありますか?
設備や言葉などは何も変えずに受け入れてきました。世界中のすべての人が喜んでくれる宿はないと思っています。ですから、外国人のお客様を増やそうと思って新しい設備をこしらえるのではなく、今現在日本にあるものをなくさないことが大切です。お客様は、旅の目的に合わせて宿を選んでいます。旅が目的で、宿は手段なのです。あるリピーターのお客様は「いつ来ても家族でやっていて、顔が見えるから澤の屋旅館が好きだ」と言ってくれますが、すべての外国人旅行者にとって家族経営で小さな旅館が適しているわけではないわけです。仕事のときはホテルに行く。温泉に入って美味しい和食を食べたいときは、観光旅館に行く。ゴールドカードを持っている富裕層のお客様も澤の屋旅館に泊まってくれますが、それは旅の目的に合わせて選んでくれるからです。だから、いくらお客様が増えても、設備を拡張したり、チェーン店にすることはしませんでした。また、言葉についても、外国のお客様と話すときに私は単語しか話していません。でも、お客様は「うん、うん」と聞いてくれます。澤の屋旅館でコミュニケーションができなかったというクレームは一つもないのです。言葉は流暢に話せないし、部屋にお風呂もついていないけれど、「良い旅館だよ」と言ってもらえて、たくさんのサンキュー・レターをいただいています。

大切なのは言葉ではない、「ありのままの日本」を伝えること。

今後は、どのような宿にしていきたいですか?
今後は、長く滞在してくださるお客様を増やしていきたいです。そして、外国人のお客様を受け入れる宿が増えるためのお手伝いをするのが、私の仕事だと思っています。30年前の私は、設備が整っていて、世界中の言葉を話せないと、外国のお客様は受け入れられないと思い込んでいました。でも、世界中の人に合う旅館なんて存在するはずないじゃないですか。だから、「日本の旅館はこういうところですから、どうぞ」という考えで受け入れた方が楽だということを、外国人のお客様を受け入れていない他の旅館にも伝えていきたいです。
どのような想いがあって、ご自身の経験を伝えているのですか?
日本は、国を挙げて訪日外国人旅行者を3,000万人にしようという目標を掲げています。5年先か10年先になるかわかりませんが、訪日外国人旅行者が2,500万人にまで達すると、延べ宿泊者の5人に1人が外国人になるそうです。ですから、宿泊施設を経営する人が外国人の好き嫌いを言っていられる時代ではなくなります。2008年に総務省が実施した意識調査では、日本の宿泊施設の38%が外国人客を受け入れていませんでした。この外国人の宿泊がなかった施設の72%が、「これからも受け入れたくない」と回答しています。言葉がわからない、設備がない、トラブルが嫌だという理由です。言葉がわからない、設備がないというのは30年前の澤の屋旅館と同じです。「言葉ができるようになったら」、「外国人向けの設備ができたら」と言っていたら、100年経っても受け入れられません。旅館は旅館のままで、日本人のお客様と同じように受け入れればいいのです。日本に来る外国人も、自分を特別に扱ってもらおうと考えているわけではありません。だから、今のままで大丈夫ですよと言い続けていきます。もっと多くの宿が外国人のお客様を受け入れるようになれば、宿も潤って、町も賑やかになるんじゃないかと思っています。私の経験を伝えることで、宿泊施設の経営者だけでなく、学生の皆さんにも「澤さんができるんだから、やってみよう」と思っていただけたら嬉しいです。日本人も外国人も関係ありません。ありのままで接すればそれでいいんです。
最近の学生は「内向き」だと言われています。外国人と交流したいけれどその一歩を踏み出せない学生に、メッセージをお願いします。
言葉ができるに越したことはないと思いますが、先ほども申し上げたように、世界中の言葉など誰も覚えられません。ですから、多少英語が苦手でも気にせずに、「迎える心」を大切にして外国人と交流してみてください。私も、外国人のお客様を受け入れる前は、最も言葉が障害になると思っていました。しかし、いざ受け入れてみると、言葉が一番障害にならなかったんです。最初は、息子が中学校で使っていた英語の教科書を見て、使えそうな文章を暗記しましたが、その英語でお客様に話しかけても全然通じませんでした。でも、単語だけ言ったら通じたんです。もし、どうしても通じないときでも、紙と鉛筆さえあれば、どうかできちゃうんですね。それから、言葉が堪能になるよりも「よくいらっしゃいました」と迎える心を持つ方がもっと大切だと思うようになりました。ですから、言葉ができないからだめだと思っている学生のみなさんも、言葉よりも「迎える心」を大切にして、身近な外国人に積極的に話しかけてみてください。
旅館 澤の屋HP
http://www.sawanoya.com

普段の澤さんのご様子

  • 澤さんの写真

    旅館を営むご家族全員と(玄関前にて)

  • 外国人のお客さんとお話しされている
    澤さん

  • 諏訪神社のお祭りで町内神輿に参加中

編集後記

昨今の日本では、グローバル人材の要件として、語学力や異文化対応能力が必須だと言われています。「言葉ができないとグローバルに活躍できない」と諦めてきた読者の方もいらっしゃるのではないでしょうか。私自身も外国人と交流する際には、まず言葉の心配をしていました。しかし、このインタビューを通して学んだのは、何か特別な準備をするよりも、相手を迎える心真心を持って、ありのままの自分と日本の姿を伝えていくことが大切だということです。たとえ接する相手が外国人であっても、「人と人との触れ合い」に必要なことは共通しているはずなのです。言葉や習慣の違いを認めた上で、肩肘張らずに自然体で会話を楽しめるようになることが、真の「グローバル人材」への第一歩となるかもしれません。

西辻 明日香(商学研究科1年)

Vol. 9 「好奇心を持って大きな夢を描け。追い続ければ道は必ず開ける」

CATEGORY : 政府機関
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駐日パラグアイ共和国特命全権大使
豊歳 直之

1936年生まれ。58年早稲田大学第一政治経済学部経済学科卒業。同年大阪商船株式会社入社。60年アルゼンチンブエノスアイレスS. Tsuji SA勤務。69年パラグアイに移住。2009年までToyotoshi S.A.会長などを歴任。同年10月駐日パラグアイ共和国特命全権大使就任。

【2012年2月1日公開】

なんとかして海外に行きたいと模索していた学生時代

どのような学生時代を送られましたか。
私は早稲田大学に入って、一生懸命“優”を取ることだけに専念していた普通の学生だったんですよ。当時の日本はまだまだ裕福ではなかった時代ですからね。私も9人兄弟でしたから、お小遣い稼ぎに家庭教師や土木などのアルバイトをやりました。そのうちに、漠然と卒業後に何をやりたいかということを気にするようになりました。そんななか、外国に行って何かしたいという大きな夢はずっと持っていました。私が子供だったときに日本が戦争で負けて、アメリカの進駐軍の兵隊を見て、特にアメリカのような裕福な国に行きたいと思っていました。しかし、アメリカに行くにはビザが必要で、今のように簡単には取れません。それでも何か方法はないかと思って模索していました。そうこうしているうちに、海外に出たいという学生が何人か集まって、海外移住研究会というサークルを作ったんです。それぞれいかに海外に行くかをいつも語り合いました。今でもOBで集まって会合を開いていますよ。
南米に興味を持たれたきっかけは何ですか。
あるとき新宿の紀伊国屋書店へ立ち読みをしに行ったところ、『世界地理体系』という本がずらっと並んでいたんですね。そこから南米の国々を知りました。初めて見る国ばかりで、アメリカよりは南米のほうが行けるチャンスがあると思い、当時高かったその本を買って帰りました。パラパラと見ていたらアルゼンチンが目に入りました。アルゼンチンには技術移民としてあるいは呼び寄せの形で保証人がいれば行くことが可能ということを知って、これなら行くチャンスがあるかもしれないと思ったんです。一応英語は一生懸命勉強していましたよ。当時進駐軍は民間のところに家を借りて住んでいたのですが、近くにたまたま2軒ありました。そこで知り合った同世代の子供といつも英会話の練習をして、将来に役立てたいと思っていました。

ずっと夢見続けていた南米への渡航を実現

南米に渡航された経緯について教えてください。
港に移民船を何度か見に行ったことがあり、そのとき印象に残った大阪商船(現商船三井)を卒業後に受験しました。大阪商船に入れば南米に行けるチャンスがあると思ってどうしても入りたかったのです。無事試験に合格し、私は南米方面の船員としての海上勤務を希望していましたが、配属されたのがニューヨーク行きの船で、しかも船のオペレーション等の陸上勤務でした。すごく落胆したのを覚えています。その後本社勤務になって東京に来ました。当時は自由競争ではなく、海運同盟の中で運賃を決めていましたが、それをいくらにするかなどを決める会議に出席していました。しかし、私は早く日本を抜け出したいとばかり考えていました。ちょうど海外日系人大会というのがあって、そこにアルゼンチンから来た人がいないかを探したところ、それがいたんですよ。アルゼンチンで雑貨の輸入をしている日系の会社でした。それで呼んでくださいと2年間ずっと頼み続けましたら、そこの社長が日本に来たときになんとか私を呼び寄せてくれて、移民として話が成立しました。アルゼンチンに移住する私の夢が実現したわけです。
パラグアイのどのようなところに一番惹かれましたか。
パラグアイに入ったときは、今までと全然違う国だと感じました。話すスペイン語も少し違いましたし、人も違うんですよね。質素で親切で、最初に行ったアルゼンチンよりもずっと貧乏な国だけれども、人柄が良くてすっかり気に入りました。南米に行った後は、いろいろな商売を持ち込みました。ウルグアイでおもちゃを売り歩きましたし、チリにも行きました。電車やバス、馬車を乗り継ぎながら、アルゼンチンでも国境まで商品を売り歩きましたね。そのあとにパラグアイでホンダの商品の販売しないかと誘いを受けました。アルゼンチンは国産品の保護のために頻繁に輸入制限をしていたのに対し、パラグアイは何でも輸入が自由だったというところにも惹かれました。貿易が私の取り柄でしたので、生きていくためには輸出入が自由な国がいいと思って決心してパラグアイに船で渡りました。
単身で最初にアルゼンチンに行かれたとき、言葉には困りませんでしたか。
南米に渡るまでスペイン語は全く勉強していませんでした。そこで、船で読もうと思って『スペイン語4週間』という本を持ち込みました。ところが、船にいろいろな船客が乗ってきて、彼らと一緒にパナマやヴェネズエラなどいろいろなところで船を降りて観光をすることになりました。それが楽しくて楽しくて、その本は結局1ページも開きませんでした。だから着いたのはいいですが、スペイン語はしゃべれないんですよね。やはり商売にはならないので、とにかくスペイン語を聞いて、話している内容を想像していました。そうするとだんだんと話していることが想像から実際に分かるようになりましたね。負けず嫌いな性分で、その国の人に負けるようなスペイン語を話したり書いたりしてはいけないと当時から思っていました。

日パ両国の懸け橋としてこれからも奮闘し続ける

パラグアイ国籍の取得と、異国での大使就任に迷いはありましたか。
好奇心からやってみようという気持ちはあったけれども、やはり未知の世界で、しかも大使というのは国を代表する仕事だから迷いました。一番迷ったのはやはり日本国籍を離脱しなければならないということでしたね。感情的には非常に悩みました。しかし、私がこのようにやってこられたのは、南米、特にパラグアイ辺りが規制された社会ではなかったからなんですよね。まだまだこれから作っていく国なんです。日本だったら私が今やっていることはできなかっただろうし、アメリカに行ってもできなかったのではないかと思います。私が好きなようにやってこられたのは、やはりまだまだ自分で頭を使ったり労働力を提供したりして、一生懸命やればなんとかなるという世界がだったからではないかと思います。すごくお世話になった国でしたし、何度も要請を受けたということもあり、ひとつの恩返しと考え、大使の就任を引き受けました。
今後はどのようなところに注力していきたいですか。

非遺伝子組換の大豆

両国の間に立つのは難しい立場で、困ることもあります。しかし、日本国籍を離脱したからといって、100%パラグアイというわけにはいかないんですよね。やはり日本と、そして新しく私の国になったパラグアイが混在しているわけです。まずは将来のパラグアイの指導者になるような優秀な人間が必要だと思っています。だから、学術的に優秀で、道徳心をもった生徒を育てたいと思って、日本パラグアイ学院を創設しました。つまり、パラグアイで私が昔受けたような、学校と先生に全てを任せるという教育方針をそこで今やっています。また、震災後は、パラグアイで作った非遺伝子組換の大豆を被災地に配布してきました。これを最初に言い出したのがパラグアイの日系人の農家で、これは私たちからの日本への思いです。
編集後記

好奇心の塊だから、今大使をやっているのも好奇心からだと笑って話す豊歳さん。南米での数多くの出会いを楽しそうに話されている姿が印象的で、パラグアイへの熱い想いが何度も何度も感じられました。著書『パラグアイにかけた夢―豊歳直之・わが人生』を読みましたが、夢に向かって強い意志を持って臨み続ければ必ず成功が訪れるということを豊歳さんはご自身の経験を踏まえて教えてくれました。これから社会に出ても、自分の道は自分で切り開くんだという前向きな心構えを大事にしていきたいと思いました。

陸 欣(国際教養学部4年)

Vol. 8 「登るべき高い山を持って、必死になって登っていけ。夢や目標を本気で目指すと、人は強くなれる」

CATEGORY : スポーツ
Okada-Takeshi

中国杭州緑城足球倶楽部監督
サッカー日本代表前監督             岡田 武史

1956年大阪府生まれ。早稲田大学政治経済学部卒業。97年日本代表監督就任。フランス大会で日本を初のW杯出場へ。99-01年コンサドーレ札幌、03-06年横浜F・マリノスの監督を歴任。07年から再び日本代表監督、10年W杯南アフリカ大会でベスト16。現在は中国のサッカー・スーパーリーグ杭州緑城監督。日本サッカー協会理事(環境担当)、Okada Institute Japan代表理事、富良野自然塾理事。

【2012年1月27日公開】

日本人であることに誇りを持って、どんどん厳しい世界に出て行け!

サッカー日本代表の監督を二度務められましたが、どのようなことを大切にしていましたか?
世界との力の差を冷静に把握することかな。日本は、1998年のフランスのワールドカップ(以下、W杯)に初めて出たんだけれど、その当時の対戦相手はほとんどがテレビで観ている選手、つまり憧れの存在で、試合が終わったらサインをもらいに行きそうな感じだったね。要は同じ土俵で戦っていなくて、100メートル競走で言うと5メートルくらい後ろからスタートしているような感覚があった。W杯ってどんなもんかもわからないし。ところが、その後U18やU20とかいろんな世代が国際試合を経験していくにつれて、みんなが経験を積んで、2010年の南アフリカ大会のときは、ほぼ同じスタートラインからスタートできたと思うね。まだちょっと後ろだったけれど。日本人として劣っている部分は必ずある。でも、優れている部分もあるわけよ。それをきちっと分析して、把握する必要がある。例えば、ジャマイカのボルト(陸上競技短距離選手)っているじゃん。パワーで考えたら、日本人がどれだけ鍛えても勝てないよ。これは差があるなとわかる。でも、「あー、外国人の方がやっぱりすごいなー」とかじゃなくて、何が問題なのかをきちっと把握し、「持久力では十分対等に戦えるな」とか勝てる方法を考えないといけない。だから、W杯とか世界で戦うときに一番気をつけているのは、力の差を冷静にしっかり把握すること。「弱気じゃ駄目だ!」とかいう気持ちの問題ではなくて、しっかり分析して、その中でどう戦うか考えることが大事。相手がすごいからといって気後れしていては、はなからだめ。逆に、煽られて「絶対勝ちます、絶対勝ちます」って精神論だけでもだめ。そういうことに気をつけていたね。
世界を舞台に戦う際に必要なことは何ですか?
海外に行くときに、自分たちを卑下して、自分の国、自分に対して誇りを持っていないと必ず馬鹿にされる。俺もドイツに一年住んでいたけれど、差別は必ずあると思う。でもそんなの関係なくて、日本人としてのアイデンティティに誇りを持つことが大事。今は、「日本人はすごい」って煽るような風潮もあるんだけれど、それもやっぱり違う。自分たちに素晴らしいところがあると同時に、相手にも素晴らしいところがあるっていうことを認められる度量がないといけない。代表チームは、日本に対する誇りを持っていないと戦えないんですよ。下手に勘ぐると変なナショナリズムになってしまうけれど、本当のナショナリズムっていうのは自分に愛する故郷があるように、相手にも愛する故郷があることを認める、ということ。自分たちだけじゃないんだよね。俺たち、南アフリカ大会でパラグアイにPKで負けたんだけれど、パラグアイの選手たちは勝った瞬間みんな大喜びしていた。その中で、一人だけホセ・サンタクルスという選手が日本人選手のところにスーッと来て、肩を抱いて握手していった。素晴らしいなぁと思った。こいつは、「日本は負けたけれども、日本人も同じように国を愛して戦ったんだ」ということがわかっていたんだよね。そういう度量というか、幅を持っていることが大切だと思う。
日本人であることに誇りを持つようになったきっかけは何でしたか?
俺は中学を卒業したら高校に行かないで、海外でプレーすると言って親を困らせた。全然上手くなかったんだけれどね。でも、いつか努力したら、ヨーロッパのプロのやつらに追いつくってずーっと思っていたんだよね。ところが、34歳のときにバイエルン・ミュンヘンというドイツのチームと戦ったときに「俺がこれからどれだけ努力したとしても、こいつらには追いつかない」って感じた。その瞬間、自分の選手人生に終止符を打ち、後進の指導に当たろうと決意した。それ以来、日本代表チームが世界で戦うときに、どうしたらこいつらに勝てるのかっていうことをずっと考えてきた。そういう意味では、だいぶ前から日本人の良さを見なければという感覚があったのかもしれない。サッカーだけじゃないんだけれど、日本人の社会はある程度コンプレックスの社会。サッカーの世界で言うと、ヨーロッパや南米の誰々がこう言っているって必ず言う。俺が記者会見をしても、「世界で戦うにはこうじゃないんですか?」って聞かれる。「何で?」って聞き返すと、「ヨーロッパの誰々がこう言っています」って。俺は「そんなに日本人はだめかい?」ってずっと思っていた。日本人には日本人の良いところ、外国人には外国人の良いところがある。でも、日本人は、自分たちの良いところを見ないようにしている。オシム(サッカー日本代表元監督)の後に、日本代表の監督を引き受けたのは、そんな悔しさがあったからなんだ。

自分の責任でリスクを冒せないやつは世界なんかで勝てない

世界で活躍できる選手には、どのような共通点があると思いますか?
今まで多くの選手たちを見てきて思うのは、成功する選手は物事をポジティブに考えるということかな。表現が難しいけれど、ある程度いい加減なやつ。この前日本代表のマネージャーに電話したら、たまたま近くで練習していた長友(佑都選手)に代わってくれて、いろんな話をしていたら最後に、「岡田さん、今日はわざわざ僕のために電話をありがとうございました!」って(笑)。あいつが海外で活躍できるのも、このくらいの図太いポジティブさがあるからだと思うよ。あとは、自分で判断できるかどうか。これは個人だけじゃなくて、チームとして世界で勝つためにも重要。なでしこの佐々木則夫(監督)も言っているけれど、監督に言われたことをこなしているだけのチームじゃ勝てない。でも、日本の選手は保証を欲しがる。「ミスしていいからシュートを打て」「捕られていいから、勝負しろ」って。それなら誰でもできる。世界で勝つためには、自分の責任でリスクを背負って、判断する勇気を持たないとだめだ。だから、俺は監督として原則的な指示は出すけれど、それ以上は言わない。監督の言う通りにしか動けないなんて、そんなの選手じゃない。それで何が面白いんだ?自分の責任でリスクを冒していくことが、スポーツの最高の楽しみ。だから、自分で判断できるということが、世界に出て行くのに大切だよね。
国内外でプレーする選手の間には、どのような違いがあるのでしょうか?
選手に違いがあるというか、Jリーグのレベルがまだ低いからしょうがないんだよね。人間ってやっぱり弱いから、追い込まれないとできない。やらなくて済むことはやらない。世界のレベルを想定してプレーしなければならないと頭ではわかっていても、実行に移せないよね。だから、手っ取り早く上手くなりたいなら、海外の厳しい環境に出ていった方がいい。Jリーグのレベルを上げるには時間がかかるから。海外の選手は意識が違うよ。日本だとレフェリーがすぐファールをとるから、選手も簡単に倒れるけれど、海外はファールをとらないからね。長谷部(誠選手)なんかは、ほんと倒れなくなった。海外のチームに外国人枠で獲られるってことは、現地の選手より上手くないといけない。だから、いろんなプレッシャーがある中でやっている。プレッシャーっていうのは重力と一緒で、重力がなくなると筋肉も骨もだめになる。宇宙飛行士は、宇宙に行くと骨がすかすか、筋肉がブヨブヨになって、地球に戻ってくると立てなくなる。それと一緒で、人間は重力がかかっていないとどんどんだめになっていく。選手の意識についてもそういうことだと思う。

外国人にも尊敬される「何か」を持っている人がグローバルに活躍できる

「グローバルに活躍する人」にどのようなイメージを持っていますか?
俺の友人でも、グローバルに活躍している人はたくさんいるよ。指揮者の佐渡裕さんは、ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団なんかで指揮している。「こいつすごいなぁ。グローバルだなぁ」って思うわな。その一方で、和太鼓の第一人者の林英哲さんは、和太鼓だけれど世界ですごく認められていて、日本での評価よりも海外の評価の方が高い。そうやって見ると、グローバルに活躍しているのは「外国人にも尊敬される何かを持っている人たち」だな、僕のイメージではね。この前も建築家の隈研吾さんと対談したけれど、隈さんは日本にいるより海外にいる方が長い。隈さんの事務所に行くと半分以上が外国人の学生で、みんな隈さんのところで勉強したいってやって来る。要するに、外国人の目から見ても尊敬されるところを持っている人だな。
グローバルに活躍するためには、どのようなことが必要だと思いますか?
やっぱり熱中しているものを持っていて、何か一つのことを一生懸命やっていることかなぁ。結果的にそれが秀でればすごいと思う。リーダーには語学力や決断力、洞察力が大事だってよく言われるけれど、一番大事なのは登るべき山を持って、必死になって登っている姿を見せること。要は、人は聖人君子についていくんじゃない。志の高い山、夢に向かって登っている人を見て、「この人についていこう」って思うんだよね。例えば、坂本竜馬は良いリーダーになろうなんて思っていない。「この国を何とかしなきゃ」と思っていたら、みんながついてきたわけ。だから、自分の目的を持つことが大事なんじゃないかな。

「遺伝子にスイッチを入れる」経験を自ら作って強くなれ!

若い世代が「内向きだ」と言われていますが、そのように感じることはありますか?
同じように感じるよ。でも、さっき言ったようにやらなくて済んだらやらないんだ。俺だってそうだ。だから、若いやつのせいじゃない。そういう社会を作ったのは誰だ?我々だろって。我々が便利、快適、安全が素晴らしいと思って作った豊かな社会が、実は何もしなくて済んでしまう社会だった。「よーし、ここで頑張らなきゃ」って頑張らなくても、引きこもっていても生きていけるようになった。だから、環境を与えてあげなければならない。それで、昔やっていたボーイスカウトで自然を乗り越えた達成感を思い出して、野外体験活動を始めた。(2011年)夏に、2泊3日で大学生と神奈川県の丹沢に行ったんだけれど、何もないところに寝かせてね。トイレを自分で掘らせて、飯も釜で作らせて、ヤマビルに血吸われながら過ごして、沢を登らせるんだけれど、みんなほんとによく頑張った。やればみんなできるんだ。だから、ある意味かわいそうなんだよね。僕らの世代も豊かだったけれど、それなりに自然と苦労をしてきた。でも、今の世代は高いレベルで暮らしていける。ぼけっとしていたら、そういう環境がないからチャレンジしなくても済む。だから、自分で山を作ってチャレンジしなければならない。若い世代が弱いというのは事実だと思っている。でも、問題は彼らにあるんじゃなくて、環境にあると思っているよね。
若い世代に経験してほしいことはありますか?
「遺伝子にスイッチを入れる」経験が大事だと思うね。生きていくだけで素晴らしい、その通りなんだよ。でも、何か目標や夢を持ってチャレンジするようになると強くなる。俺は、これを「遺伝子にスイッチを入れる」って言っている。人間はみんな強い遺伝子を持っているけれど、のほほんとした暮らしをしているとスイッチが入らないんだよ。今はスイッチを入れるチャンスがないなと感じる。もう一つは、限度を知ることが大切。今の社会、人間は傲慢になっている。科学技術で何でも解決できる、何とかなると思っている。人間が限度を知らなくなったのは、自然に接しなくなったからだ。山の中に一人で入ったとき、絶対に自然にはかなわない大きな力があることがわかる。だから、自然と接して達成感を味わうとともに、限度があるってことを知ってほしいね。あとは、学生だから勉強はした方がいいよ。でも、勉強するっていうのは先人が経験したことを読むことで、「二次情報」なわけよ。それを学ぶのはすごく大切だけれど、一番大事なのは「一次情報」、つまり自分が経験すること。勉強してきたことを、どこかで一次情報の体感とマッチさせる。そのために、いろんなことを体験することが大切だと思うよ。
一般社団法人Okada Institute Japan (OIJ) HP
http://www.iokada.jp/
NPO法人C・C・C富良野自然塾HP
http://furano-shizenjuku.yosanet.com/

2011年9月神奈川県丹沢プロジェクトの様子

  • 岡田さんの写真(OIJ提供)

    神奈川県の丹沢にて

  • 直前の大雨で水量の増した沢を登る

  • 参加学生と環境や経済について
    ディスカッション

※写真は全てOIJ提供
編集後記

「海外への憧れ」を抱くことは、自分の視野を広げ、モチベーションを高めるきっかけになります。その一方で、「日本はだめだ」と漠然とした劣等感を抱くのではなく、自国と自分に誇りを持つことが大切だと痛感しました。それは、国内と海外を比べる場合だけでなく、自分と他人の比較の際にも同じことが言えると思います。まず現状を把握し、それから課題を解決するための方法を冷静に考えていくべきだと学びました。自らチャレンジする機会を作り、高い「山」を目指して登っていきたいです。

西辻 明日香(商学研究科1年)

Vol. 7 「文系・理系の垣根を越えて、自分と違う考えをもつ人にたくさん触れてほしい」

CATEGORY : 大学
Sato-Sensei

東京工業大学
グローバルリーダー教育院長
佐藤 勲

1958年東京都出身。81年東京工業大学工学部卒。83年東京工業大学大学院理工学研究科修士課程修了。84年同研究科博士課程退学。同年から東京工業大学助手、助教授を経て、2000年から教授。専攻は熱工学。2011年にグローバルリーダー教育院長に就任。

【2012年1月23日公開】

科学技術で社会を方向づけ、けん引していく人材を作りたい

グローバルリーダー教育院のしくみについて教えてください。
理工系を中心とする大学だからこそ科学技術に立脚する社会をリードする人材を養成したいということで、グローバルリーダー教育院を設置しました。今は9名の学生が所属しています。ドクターコースなので専門知識は絶対に身につけないといけません。それに加えて専門領域以外のところも繋げて見られるような俯瞰力を身につけ、国や文化を超えた基礎知識があり、さらにリーダーとして合意形成ができ、それを形にできる行動力をもって社会をけん引できる人材の育成を目指しています。グローバルリーダー教育院には、主専門の教育体系と並行して“道場”というものが設置されています。科学技術系と人文社会系の二つの道場があり、道場主と呼ばれる先生のもとで学生が自分自身でいろいろな活動をします。課外活動としてインターンシップに似た活動も行っています。実際に会社が求めているプロジェクトを3カ月から半年ほどかけて実施するという経験を修了までに必ず行います。
佐藤さんがお考えになるグローバルリーダーとは何ですか。
まず定義をしないといけませんが、グローバルリーダー人材とは「国際社会をこれからどうやって方向づけていこうか」ということを考える人だと思います。ここではそういう人を養成したいです。どうやって方向づけるかは、企業の中にいても、政治家であっても、学問の世界からでも何でもいいと思うんですね。その領域の中で自分の国の文化だけではなく、他の国にも影響を及ぼせるようなリーダーシップが発揮できる人を育みたいですね。幅は広いですが、共通していることは、いろいろな文化を理解した上で、自分の文化の強みをアピールし、両方を組み合わせて強みを作り上げて、さらにそれを説明でき、形にできる人材だと思います。
社会をけん引していくような人材というのはどのような能力が求められると思いますか。
まずはやっぱり気概ですよね。社会をリードしていきたいと自分が考えているということです。それがあると、社会をリードしようとして他の人とコミュニケーションを取らないといけないので、その能力が自然と身についてきます。いろいろな国籍や文化を持つ人たちとコミュニケーションをしていく上で共通の言語をツールとして使う必要があるので、英語に限らず、語学も勉強しないといけません。実はこのグローバル教育院コースの中には語学科目がありません。それは自分が必要だと思ったら自分自身で学んでくださいということです。当然、そのための機会は豊富に用意しますが、自分が必要とするものを習得できるように計画する、そういう意識を持たないと当然リーダーにはなれないですよね。

理工系だからこそ横に繋げる力をもってほしい

理工系の学生のグローバル人材育成において、特に注力されていることは何ですか。
道場の特徴は、国籍問わずいろいろな学生を混ぜましょうというのが一つ、もう一つはいろいろな専門をもった学生を混ぜましょうということです。社会をリードするとなると、様々な背景や考え方を持つ人を束ねないといけません。そうすると様々な分野の知識が必要になってきますので、社会や文化、経済から科学技術に至るまでの幅広い分野について、少なくとも話が通じるくらいの知識を身につけなければなりません。それから一番大切なのは人脈ですよね。全てを一人ではできないので、いろいろな分野の人たちと協力していかなければなりません。東工大の学生は自分の専門分野を深くやるのは得意ですが、他の人と協調することがあまり得意ではありません。だからこそ横に繋げるようなしくみを作りたいと思いました。理工系の学生は、自分が考えていることが本当に真理かどうかというのを追求します。それが学問の目的ということもあって、自分の判断は自分でする世界です。つまり先鋭化してしまうのですね。だから自分の専門領域に加えて横にも繋げる力を身につけてほしいです。
グローバルリーダー教育院の設置に当たっての佐藤さんの思いを教えてください。

道場の様子

別の側面として、グローバルに活躍できるリーダー人材を養成するために考えたしくみがグローバルリーダー教育院です。東工大では6人に1人が外国人留学生です。しかし、留学生との交流はどうしても研究室の中に限られてしまいます。だからこのようにミックスアップするしくみを作らないと、なかなかグローバルな視点は身に付かないと思います。専門分野についても同じです。そのミックスアップする一つのきっかけになればいいかなと思いますね。これからはもっともっと交流が増えていくと思います。グローバルリーダー教育院は5年間のコースです。道場で所定の単位を修得しても学生は道場に在籍しています。だから下級生の指導にも当たることになるので、文化なり専門なりをもっとミックスできるのではないかと思います。

理工系と人文系に分かれても両方学ぶ姿勢が重要

グローバルリーダー人材の育成において最も大事なことは何だとお考えですか。
他の地域や国の文化を理解すると同時に、自分の国の文化に誇りをもつことだと思います。学生にもそういう意識をもつように言っています。自分の文化というのはあまり意識しないし、自分の中で整理しないので、なかなかうまく言えませんよね。だからそれを意識するようにするのは結構難しいと思いますね。また、理工系の学生に関しては、やはり自分の専門領域に閉じこもらないようにすることが最も大事だと思います。カリキュラムでは社会との連携を重要視していますので、インターンシップの他に、国際機関や企業で働く人たちに来ていただいて、学生に話をしてからディスカッションを行います。社会とのつながりの意識をまずもってもらうことが大事ですね。
大学生のうちにやっておくべきことは何だと思いますか。
他の国の文化に触れることでしょうね。この国はこんな感じなのかとか、この食べ物は食べられないなとか、そういうことを経験することだと思いますね。やっぱり自分と違う考え方をもつ人との交流を経験することが大切だと思いますよ。それは国際的でなくても国内でもいいし、違う分野でもいいと思います。なぜ自分と違う考え方をするのかというのを自分の中で噛み砕いて理解する。その後にどのようにコミュニケーションをするかを考える、そういう経験をできるだけ多くすることだと思います。いろんな人とたくさん触れ合うことですね。

講義中の佐藤さん

最後にメッセージをお願いします。
今は理工系とか人文系とか、そういう垣根がない社会なのかもしれません。だからお互いに相手の分野の基礎素養を理解しているといいかもしれませんね。共同作業をするにはやはり話が通じないといけません。そういう意味で、高校のときに文系と理系に分かれるのは、本当は良くないと思っています。数学にしろ、歴史にしろ、人が生きていくための基盤ですから、やはりそれなりの基礎はお互いがもっていた
方がいいと思います。だから分野に限らず、何でも興味があれば今のうちにできるだけたくさんチャレンジしておくことを勧めます。
編集後記

グループワークの授業のことを“道場”と呼ぶなどとても斬新でユニークな教育体制をもつグローバルリーダー教育院。佐藤先生にお話を伺った中で、そこに所属する学生は幅広いカリキュラムの中で、自分で考え、自分で動くことを強く求められている印象を受けました。専門分野を追求しながらも幅広い教養知識を身につけるということは、博士課程の学生だけでなく、私たち大学生にとってもすごく大事なことだと感じました。早稲田大学にも副専攻を履修できる仕組みがありますが、学部や学年関係なく同じ授業で議論を交わしたのはとても良い経験になったのを思い出し、まだ受講したことがない人や4月に入学してくる1年生にはぜひお勧めしたいです。

陸 欣(国際教養学部4年)

Vol. 6 「グローバルに活躍できるのは”英語使い”ではない。”話すことがある人”である」

CATEGORY : 大学
Takano-Sensei

早稲田大学客員教授
高野 孝子

新潟県生まれ。エジンバラ大学Ph.D。(特活)エコプラス代表理事、早稲田大学客員教授、立教大学特任教授。90年代初めから「人と自然と異文化」をテーマに、地球規模の環境・野外教育プロジェクトの企画運営に取り組む。「地域に根ざした教育」の重要性を掲げ、「TAPPO南魚沼やまとくらしの学校」事業を実施中。龍村仁監督の環境ドキュメンタリー「地球交響曲第7番」に出演。

【2012年1月17日公開】

「こう生きねばならぬ」ということはないと気づいた学生時代

学生時代のどのような経験が今の活動につながっていますか。
大学は当然行くものだと思っていたので進学したけれど、自分の意思で選んだわけでもないのに大学まで来たことに気づかされたのが、大学3年から4年にかけて行ったアメリカ留学でした。親がちゃんと環境を整えてくれたからここまで来られたのですごく幸運だったけれど、中学を出て、自分は職人になるという道もあったはず。でも、それを問うことさえもなく、中学を出たら高校、高校を出たら大学と来てしまったことにハッとしました。たぶん留学しなかったら、そのまま普通に就職していたと思います。留学先で出会った人のうちに泊まり、他人の人生に顔をつっこみながら旅をしたことで、ものすごくいろんな生き方があって、「何をやって生きてもいい、その代わり自分で責任をとれば」ということがわかったのです。「こう生きねばならぬということはないんだ」ということを教わりましたね。既成概念にとらわれていた自分に気づき、次第に自分が自由になっていきました。帰国してから、人が決めたレール、生き方にまた自分を合わせてしまうのがこわいと思っていたころに出会ったのがオーストラリアでの「オペレーションローリー」というプロジェクトでした。青少年育成を目的に、国際遠征の日本人参加者を募集していたのです。電気もガスもトイレもない環境で、世界から集まった若者とともに3ヶ月間様々なプロジェクトに取り組んだことで、「人は最低限これで生きていけるんだ」ということを学び、今までできなかったことができるようになりました。そのスキルを持ったことで、今までにはなかった選択肢が広がりました。大学院を終えて新聞社に就職しました。でも、旅先が街じゃなくて自然の中に向かい、自然の中で暮らす人に会いに行くようになりましたね。
既成概念にとらわれた生き方をしたくないと気づいたとき、私たちはどう判断すべきでしょうか。
まずは、今想像しているものが、本当に自分で考えたものなのか、思わされているものなのかを少し仕分けなければいけないと思います。時代や社会、家庭、個人の状況によっては、それ以外の選択肢がないという場合が絶対にあります。でも、可能性があるはずなのに自分でそれを見ていないのはもったいない。自分は本当に、自分で食べる以上のお金を稼がなくてはならない環境にあるのかどうかというあたりから、自分を見つめることですね。例えば、家族に病気の人がいるとか扶養しないといけない人がいるとか、そういう理由があるとしたら、何よりも先にそっちが大事ですけど。でも、みんなが元気で、自分がここからふっといなくなっても、とりあえず迷惑かけないという状況にあって、「自分を試していいよ」ってみんながサポートしてくれるなら、どんどんやってみたらいい。「自分で自分に枠をはめない」っていうのが大事だと思っています。

本当の豊かさ、幸せを考える場をつくってきた25年

高野先生は「冒険家」と呼ばれていますが、冒険と旅行はどのように違うのでしょうか。
私には全部、旅行ですね。旅行っていうか旅。それが冒険的だったりするだけで、自分にとって新しいことは全部冒険で、行ったことないところにいくのは冒険だと思います。やったことがないことをする、食べたことがないものを食べるとか大冒険だと思いませんか?「こんなの食べて大丈夫?」とか。それは旅の面白さですし、知らない人に出会うのもそういうところに身を持っていくのは冒険です。アマゾン河をカヌーで下るとか、北極点にパラシュートで降りるとか、そういうことは冒険活動に見えるんだけれど、私がアマゾンにいったのはそこの人に会いたいからだし、カヌーで旅するのも面白そうですよね?そうしないと会えない人たちがいるから。だから、「冒険活動」をしたくて行ったことは今まで一度もないです。ただ、北極海の横断というのは旅っていうにはちょっと大事すぎたけれどね。「あんな旅しないでしょ」っていう感じですよね。でも、だいたい人のいるところに行くことは私にとっては旅だし、たとえ長期でも旅ですね。人が見せようと思うものに乗っかってそれしか見られないのは、若い人には残念かなって思います。若いときは何もないけれど、時間だけはある、お金はないけど時間はあると思うのね。だから、そういうときじゃないとできない、他人が見せたいと思うものじゃない隅っこをつついてみたり、絶対会わないような人に会ってみたりする方が面白いんだと思います。何かものを見に行くわけじゃなくて、やっぱり体験にいくっていうか、時間と場所そのものを体験するのが大事なんじゃないかな。
どのような思いがあって、環境教育の場を作ってきましたか。
小さい頃からおしゃべりだったし書くのも好きで、自分がやったことや気づいたこと、考えたことを人と共有することが好きでした。大学院修了後に新聞社に入ったのも、大切な情報を人に知らせる仕事をしたかったからでしょうね。自分の経験から大事なんじゃないかなと思うことがあったとき、「これって大事じゃない?」って人に聞いてみたい、伝えてみたいのです。それと同時に、伝えることはとても大事なことだと思っています。こっちが勝手に情報を伝えても、「いらない」という人も、受け取ったとしても「ん~まぁ別に…」という人もいると思います。それはそれでいいと思っているんです。でも、差し出してみないことには何も伝わらない。その人がまったく見たことがないものなのか、一回手にとってみて考えることがあったのかで変わってくると思っています。だから、そういう経験ができる舞台を作っています。その経験を分かち合いたいと思った人は、今度は自分の言葉で分かち合ったり、気づいたことをもとに職業を選び直したりするでしょう。どんな職業につくにしても、人と助け合うことは大事なんだとか、人は最低限これがあれば生きていけるんだとかわかっている人が、たとえば商社や銀行、役所で勤めることで、社会が変わってくると思うんですよね。現場の人への見方とか世界観とか。その後何をやるかは個々人の問題になりますが、こういったところに踏み込むことが大事だと思っています。たとえば、最終的には「豊かさって何だろう」ってことや自分の可能性に気づいてほしくて、プログラムを組み立てていますね。最近は都会に住んでいると、若い子でもあまり身体を動かさないでしょ。ジムではなく、自然の中で空気を思いっきり吸い込む感じとか、そこで身体が活性化するときに脳とか心も活性化する、みたいな経験があまりないんじゃないかなって思います。だから、そういうことの気持ちよさとか、同時に人間ってなんてちっぽけなんだということとか。それは感覚的に知らなきゃいけないことだと思うので、自然を体験できる活動はいい場所だなと思っています。
「本当の豊かさ、幸せとは何か」という問いが、活動の根幹にあるのですか。
20代前半の旅を通して、なんとなく自分の豊かさと幸せについては見えていました。お金は幸せを生まない、友達の大切さ、人としてどうあるべきか、人はモノじゃない、自分の価値をどう高めていくかが豊かさであり、人とつながれること、つながれるだけの力をもてるということ、健全な自然が周りにあるということ。そういうことが豊かさにつながるということですかね。何がなくても「人と自然」だと思うけれど、他の人はどうなんだろうって思っていました。私は経験を通してそういうことに気づいていましたが、そうじゃなかったら、モノをいっぱい持って、お化粧して、ブランドがどうとかそういう話ばかりして、それで面白いから「それって本当に大事なのかな」って問い直すことさえもしなかったです。それでも、問い直すようになったのは、旅をしたからです。本当の幸せとか豊かさを自分が知りたいというよりは、他の人たちもいろんな経験をしたら、本当に大事なものとか本当の幸せって何だろうって考えるようになるんじゃないかって思いました。その方が日本も豊かになるし、みんながそういうことを考えるようになれば世界の悩んでいる問題も少しはよくなるんじゃないかなという思いがありました。今まさにこういうことを考えることが大事じゃないかなと思います。
なぜ、今「豊かさ」や「幸せ」について考えることが大切なのでしょうか。
先進国といわれている産業国がぼろぼろになりつつあるでしょ。結局、お金っていうものの幻想の上に成り立っていた社会とその人たちが今ぼろぼろと崩れようとしています。だから、今まさに本当の豊かさって何かを問わなければならない。10年くらい前までは、先進国の人々が、それを問うことで格差を縮めていけると思っていました。先進国の豊かさは開発途上国と言われる人たちの搾取で成り立っていったわけだからね。消費者一人ひとりが「こんなにお金がなくても豊かって言えるんじゃない?」とか、豊かさに対してそういう見方ができるようになれば、世界中のギャップが少しは解消するんじゃないかと思っていました。でも、今は先進国の人々がぼろぼろと崩れようとしている中で、彼らが価値観を問い直さない限り、大きな不幸に陥ってしまうと思います。お金ではなくて「生きる」ってどういうことかとか、それに必要なものをみんなが認識しないといけない。まさにそれがこれからを決めるかなって思っています。東日本大震災のときもそうでしたが、あの中でちゃんと生きられるというのは本当にお金じゃないんですよね。そういうときに、一番底にある大事なものが見えてくるんだと思います。それは、やはり絆だと思いますし、そういうときに自分がどう行動できるかっていう強さとか知恵とか技術とか…最終的には人と人との信頼関係がないと奪い合いになってしまうんだと思います。そういう、いろんなことを考えさせられましたね。だからこそ、今がまさにそういうことを考え直すチャンスだと思いますし、私はずっと問い直すきっかけを作ってきたので、これからも続けていけたらいいなと思っています。

何も話すことがない人はグローバルに活躍できない

グローバルに活躍したい学生は、どのような経験をすべきだと思いますか。
たくさんあると思うけれど、学生のうちに地を這いずるような貧乏旅行をしておいた方がいいと思いますね。とにかく体一つで世界中を歩くこと。別に世界全部に行けという意味じゃないけれど、いろんなところにいって、暮らす人の目線で旅をするということかな。大きなホテルに泊まるのではなく、できれば民泊がいいですね。「すみません、お願いします!手伝いますから」って頑張って現地の人に頼みこんで、できるだけ暮らしの目線でものを見ながら旅をする。そこのものを食べて、生活の場所を歩いて、そこの暮らしをするってどういう意味かわかるくらいの時間をかけつつ、旅をすることですね。都市ばかりに行かなくていいので、先住民族とか農村とか、都市に行くならスラムもあわせて行くとか、いろんなところを見るっていうのが大事だと思います。たとえ全部見ることができなくても、いろんな場所の暮らしを体験できれば想像できるので、気になっている場所にいって、そこで様々な体験をして、できるだけ広い視野を持つことがすごく大事かな。
広い視野を持つために、他にはどのようなことをするといいでしょうか。
あとは、やっぱりいろんな本を読んで、「自分で判断する視点」を養うようにすることですね。これって難しい。報道の乗ってくることは、実は偏っているんですよね。だから、一言で言うと、視野を広げるという意味で、多様な情報に接するっていうことかな。ひとつの問題に関しても、複数の立場の意見を読んだり聞いたりするようにするとか。それってグローバルに活動するために大事ですよね。あとは、いろんな人の話を聞くことかな。とくにグローバルに活躍したい人は、まずは日本を知らなければいけないと思うのね。だから、沖縄から北海道まで農山村とかをあちこち行ってみて、そこの人たちといろんな話をしてみる。そして、世界の話も聞いてみる。話を聞きながら旅をすることが役に立つと思います。
なぜ「日本を知る」ことが大切なのですか。
日本のことを知らないから外に出られないという意味ではありません。私も順番が逆でした。普通の人は、たぶん自分の周りのことは当たり前だから興味がなくて、見えないところに行きたくなると思うんです。私もそうだったんだけれど、とにかく外に興味がありました。でも、外に行くとまず自分の説明をしなくちゃいけない。「あんたは何者なの?」って聞かれるけれど、説明できない。日本のこともあれこれ聞かれるけれど、わからない。このような経験をすることで、自分がいかに自分のことを知らなかったのかということに気づきました。そうやって、日本にも興味を持つことは普通だし、私もそのパターンなのね。だから、最初から興味がなくてもいいから、そのうち日本についてとか、特に自分が生まれ育った場所とか地域とかそこを中心にしたことを調べて知る。それって、実は自分のアイデンティティにもつながるし、自分が生きていくうえで、どこで活動するにしても基盤となるものなので、大事にした方がいいと思うんです。「グローバルに活躍する人」というのは、「英語使い」という意味ではなく、「何か話すことがある人」ということだから。その人が誰で、何ができる人なのか、何をした人なのかだから。私がもし日本から代表する若者をシンポジウムに呼んでくれって言われたら、英語が全然できなくても、太鼓が叩ける人を出したい、もしくはごはんをちゃんとお釜で炊ける人を出したいって思うのね。その人の方が話すことがあるから。なので、自分をどこかの時点できちんと押さえるのは、グローバルに活躍するうえで大事だと思っています。
NPO法人エコプラス
http://www.ecoclub.org/top.php?lang=ja
  • オペレーションローリーの仲間たち

    オペレーションローリーの仲間たち

  • 1991年北極海横断途中、北極点にて

    1991年北極海横断途中、北極点にて

  • ミクロネシアヤップ島での実習授業

    ミクロネシアヤップ島での実習授業

編集後記

私は、今年の夏、高野先生の指導のもと、環境教育活動に参加しました。山の中で「電気なし、ガスなし、トイレなし」の環境で自分の身一つで生活したとき、本当に大切なものが見えてきました。安全快適で、どれだけ恵まれた環境で育ってきたのかという事実に気づいたと同時に、自然に感謝する心を忘れていたことにハッとしました。普段頼っていた指一本でつけられる電気やガス、そして携帯電話やインターネットは、実はそれほど大切ではないかもしれない。そして、水道をひねると水が流れてくるまでのプロセスは、普段気にかけていなかったけれど、実は大切だったということ。自然の前では人間は本当にちっぽけなのだということを忘れ、傲慢になっている自分がいました。自然と向き合うことは、まさに自分と向き合い、価値観を問い直すことでした。今回のインタビューを通じて、高野先生が自然教育活動を通じて、私たちに伝えたかったことがあらためてわかりました。そして、今度は世界や日本と向き合うことで、自分と向き合おうと決意を新たにしました。世界で活躍することができる「自分」を確立しようと思います。

西辻 明日香(商学研究科1年)

Vol. 5 「知らない領域に飛び込んで世界を広げてみよう。それから好きなものを選択すればよいのだから」

CATEGORY : 国際機関
Nakazawa-Kenji

欧州復興開発銀行(EBRD)
中沢 賢治

1956年新潟県出身。79年東京大学法学部公法コース卒業。79~90年東
京電力株式会社勤務。88年ペンシルベニア大学院行政学修士号取得。90年外務省アソシエート・エキスパート試験合格。91~92年国連工業開発機関ウイーン本部勤務。93年より欧州復興開発銀行勤務。ロンドン本部電力チームウズベキスタン、マケドニア、キルギス事務所長歴任。2011年8月EBRDビジネス開発担当。12月EBRDロンドン本部中小企業技術支援チームに赴任。

【2011年12月27日公開】

今の仕事との出会いは運命のようなもの

今のお仕事に就かれた経緯について教えてください。
日本の電力会社で燃料関係の仕事をしていましたが、海外の燃料事情を調査し、国際的に活躍する人々と関わる過程で、自分も外の世界を経験してみたいという気持ちが強くなりました。ちょうどその頃、たまたま新聞で外務省アソシエイト・エキスパートの募集を見つけました。1989年の夏の話です。これは日本政府が国際機関に2年間日本人を派遣するプログラムです。このプログラムがなければ、私が国際機関で働き始めることはなかったでしょう。このプログラムの資格試験に合格したあと、受け入れ先の国際機関は自分で探す必要がありました。それまで燃料事情調査、調達計画の仕事をしていましたので、経験を活かせる仕事を探しました。ちょうどウィーンに本部のある国際連合工業開発機関(UNIDO)の省エネルギー・省資源に関するプログラムで空席があると聞いて、応募を決めました。以前の仕事から発展途上国の経済開発に興味を持っていましたし、やはり自分の経験を踏まえて一貫性のある仕事がしたかったですね。自分の専門分野を見つけることは、学生の皆さんが将来の選択肢の一つとして国際機関で働くことを考える際に一番大切なポイントだと思います。自分の専門から全く異なる分野に移るのはとてももったいないし、なかなか難しいと思います。欧州復興開発銀行(EBRD)との出会いについては、運命かな
としか言えませんね。EBRDが発足したばかりで、たまたま私が欧州で仕事をしていて、その新設の国際機関が電力分野の経験
者を募集していたという3つの偶然が重なったのは幸運でした。
今までで一番印象に残っているお仕事は何ですか。
1993年にEBRDに入ってからいろいろな国を回ってきましたので、どれか一つを選ぶのは難しいですね。でも一番心に残っているという意味では、EBRDに入って初めてプロジェクト・リーダーとして、アゼルバイジャンの水力発電所の改修工事を担当したことです。1994年のことで、プロジェクトの発掘から理事会承認を得るための最終報告まで、仕事のサイクルのすべてを責任者として担当しました。EBRDでリーダーとして責任を与えられた初めての経験でした。アゼルバイジャンの電力公社総裁とは、情報開示の必要性、電力事業の構造改革の方向性、将来の投資家誘致策などを話し合いました。発足したばかりのEBRDに対してマスコミでその活動を批判するキャンペーンが行われるなど、EBRDが難しい状況を迎えていた頃でした。そうした中で自分にまかされた大きなインフラ・プロジェクトでした。これが調印に至り、英経済誌エコノミストの記事でEBRDの最近の活躍の例として言及されたときは、とても嬉しかったのを覚えていますね。EBRDはとてもスリムな組織なので、それだけの権限を与えられ易いという面白さがあります。

12年間に及んだ途上国勤務経験を活かして新たな分野に挑戦したい

今のお仕事のやりがいを教えてください。
EBRDは1991年に発足しましたが、世界銀行やIMFと比べて後発の機関である点から、設立の際に既存のものとは異なる機関にするという条件がありました。その例として、EBRDはマクロ経済分析を担当する部局は少数精鋭でオペレーション・サポートを優先課題とし、経済分析については可能な限り、先行機関のデータと調査結果を活用していることが挙げられます。EBRDが民間セクターに傾斜し、非常に専門性が強く、機動性が高いというのは、このような国際協調があって初めて可能になる話です。それから私にとってEBRDの一番の魅力は、柔軟性があって風通しが良いというところです。私が日本の会社を辞めた理由の一つが、日本だけでなく他の世界も見たいと思ったことでした。私はEBRDで18年間勤めてきましたが、最初は電力チームのバンカーになり、ウズベキスタン、マケドニア、キルギス共和国の事務所長として現地でEBRDを代表する仕事に就いてからは地場の銀行や中小企業の支援を仕事の中心としてきました。このようにいろいろなタイプの業務と金融商品を経験し、銀行内で職種を変えることができたので、EBRDの業務に飽きるということはまったくありませんでした。「自分は専門家として一つの分野を長くやりたい」という方もいますが、そういう方はEBRDを経験してから元々の産業セクターに戻ることが多いようですね。EBRDには長く勤続しなければならない文化はなく、風通しがとても良いですし、現実の経済と近いところで仕事ができることがやりがいです。この12月からはロンドンの本部に赴任し、中小企業向けの技術協力を担当することになっています。
辛かった経験や壁にぶつかった経験があれば教えてください。
国際機関で働き始めて、最も大変だったことは言葉です。英語圏での留学経験はあったので、会議やレポート作成もなんとかなると思っていましたが、最初は大きなプレッシャーがありました。国際機関で働く際に、英語でのレポート作成能力とプレゼンテーション能力は必須です。幸か不幸か、世銀出身で人使いの荒いことで有名だった当時の上司は、私の作成したレポートにいちいちコメントを入れる人でした。自分のドラフト力が不足しているのかと最初は悩みました。ところがその後、ネイティブの同僚たちも同じ目にあっていることを知って気が楽になりました。この上司の指導の下で6年間を過ごした頃には、一人で仕事ができるようになっていました。EBRDの場合はロシア語圏の国が多いので、次のチャレンジはロシア語でした。途上国の勤務で現地の言葉がわからないで、通訳を待っていると交渉が不利になることもあります。私はロシア語の歌のCDを毎日聞き、ロシア語と日本語の両方の字幕付きの映画を繰り返し見ることで、会話の内容がだいたい理解できるようになりました。相手の言っていることが理解できると、国際会議でも非常にプラスなのは間違いないです。話すほうはまだ発展途上段階ですね。
中沢さんは中央アジアの国々についてはどのような印象をお持ちですか。
「発見」の一言につきますね。学生時代の世界史の授業でイスラム圏の様々な学者や医者の名前を学びましたが、それらが実際にどこの国の人なのか知りませんでした。たとえば、日本でもヨーロッパでもウズベキスタンのことを知らなくても、サマルカンドの青タイルのモスクやブハラのミナレット(尖塔)のことは本で読んだことがあるという人はたくさんいるわけです。私はシルクロードと言ったらなんとなく中国の西域あるいはトルコの周縁あたりかなと思っていました。しかし、ウズベキスタンに行って驚いたのが、イスラム文明にとって非常に重要な遺跡がそこにあることでした。キルギスの場合は、三蔵法師が書いた大唐西域記に出てくるイシク・クルという湖があります。中国でもなく、トルコでもなく、ペルシャでもなく「中央アジアという世界があるんだ」ということが私にとっての発見でした。中央アジアは日本人にとっては、とても不思議な場所です。自分のおじいちゃんやおばぁちゃんに似た顔立ちの人がたくさんいますので、自然とノスタルジックな気分になってしまいます。ところがいろいろな人々がいますから、その中で遊牧民族系だったりすると、考え方はまったく違います。何が似ていて、何が違うかを考えることは、自分がどういう人間なのかを考える一つのきっかけになりました。

自分の知らない面白そうな世界を見てみたかった

中沢さんには今の大学生はどのように映っていますか。
私が海外勤務に憧れていた頃と比べると、やはり「内向き」ということをよく聞きます。私にとって、知らないところに行って、新しいことを経験するということは喜びですが、どうも最近はそれを喜びとして感じない人が増えているように感じます。やはり経験してみないと分からないということはありますよね。そういう喜びを知らないまま生きていくとしたら、それはそれで残念な話かなと思います。私がそもそも国際機関に憧れたのは、明石康さんや緒方貞子さんの回顧録などを読んで、自分の知らない面白そうな世界があることを知り、そういう世界を見てみたいという気持ちが強かったわけです。今の大学生があまり外に興味を持っていないとなると、果たしてそれは若い大学生たちの責任なのか、それともその上の世代が「君たちの知らないこんなに面白い世界が外にあるんだ」と紹介し、刺激をあたえる努力を怠っているのか微妙なところでしょう。私が思うのは、国内での仕事が好きな人もいれば、海外での仕事が好きな人もいて、どちらもいても良いということです。私の場合は、長い間、海外にいたからこそ日本の古典が懐かしくなり、外から日本を眺めて、あらためて日本を好きになったことを強く感じます。日本にいることと日本の外にいることの両方を経験し、比較して始めて実感できることもあると思います。どちらも経験した上で好きなほうを選べば良いのです。お互いの違いを認識でき、落ち着いて比較検討したうえで自分の意見を形成することがグローバルなアプローチだと思います。
最後に、大学生にメッセージをお願いします。
途上国勤務を12年間やってきた中で、いろいろな形でJICAの協力隊員の若い人たちに出会いました。大学を卒業してまだ間もない人たちもいました。おそらく自分探しの旅をしている途中ではないかと思います。試行錯誤をしながら現地の人たちと触れ合うことでまた啓発されて、自分の方向を定めていこうとしているとても元気で魅力的な日本の若い人たちを大勢見たわけです。このような途上国での協力ボランティアは一つに選択肢にすぎないにしても、日本にいて行き詰ったと思う方や、2,3年違ったものの見方や感じ方をしてみたいと思う方がいたら、「今とは違うオプションもあるんだ」ということを私は強調したいと思います。
欧州復興開発銀行
http://www.ebrd.com/pages/homepage.shtml

キルギス駐在時代

  • タラス峡谷の天幕に住む人々

    タラス峡谷の天幕に住む人々

  • ゴルフ・トーナメント表彰式

    ゴルフ・トーナメント表彰式

  • 投資評議会の様子

    投資評議会の様子

編集後記

シルクロードと言ったら私も中国やトルコのイメージが強かったのですが、中沢さんが語ってくださった中央アジアのお話がとても新鮮で興味深かったです。実は文化的・歴史的な意味で中央アジアもシルクロードの中で非常に重要な地域であるというお話があったように、実際に現地に行った人にしか感じ取ることができないものはたくさんあるということを改めて感じました。そして、中沢さんがおっしゃるように、自分自身のことも周りのことも「こうだ」と決めつけるのではなく、いろいろなことを経験して、そこから生まれてくる自分にとっての発見を一つひとつ大事にしていきたいと思いました。

陸 欣(国際教養学部4年)

Vol. 4 「日本人としての誇りを忘れないでほしい。まずは何より自分に自信を持つこと」

CATEGORY : 国際機関
Hata-sensei

国連広報センター(UNIC東京)所長
山下 真理

1990年、政務官補佐として国連に加わる。政治局において選挙支援やアフリカ南部、東南アジア地域などを担当。クロアチアPKOで国連次席選挙事務官、国連ネパール・ミッションで政務室長を歴任。2010年7月から現職。

【2011年12月19日公開】

国連という仕事場がオプションとしてあるということ

国連で働きたいと思ったきっかけは何ですか。
一番大きな理由は、私の生い立ちだと思います。家庭が国際的な環境にあったので、日本で生まれましたが、3歳から小学校2年生まではドイツで教育を受けました。自分の人間形成の過程で自然に外に目が向いたのだと思います。中学生高学年の頃再びドイツに住み、インドのドイツ人学校に通いました。しかし、日本の大学に入りたいと思っていたので、そのためにも日本の高校に入学する必要があると考えて帰国しました。その時期に国連という舞台があることを知って、もしかして自分に合うのは国連かなと考えていました。自分に合う職場は何だろうと、そして自分のバックグランドに合うところはどこだろうと考えたときに、自然と国連が自分にマッチしました。
どのような学生時代を送っていましたか。
私は上智大学法学部国際関係法学科を卒業しました。国連についてもっと知りたかったので、当時は国際機構論や組織論など限られた授業しかない中、国連に関係する授業は一通りとりました。大学のゼミがとても厳しかったのですが、英語の文献をたくさん読み、英語力はとても鍛えられましたね。また、国際関係の学生団体にも所属していました。そこで国際会議を開いたり、留学生と国際交流をしたりしていました。そして大学3年生のとき、当時上智大学で教鞭を執られていた緒方貞子先生のもとで、日本でも模擬国連を組織化しようという動きがありました。私は「自分が探していたものはこれだ!」と思って、大学時代最後の一年は模擬国連にかなり没頭しました。今は模擬国連というと全国的に広まっていますけど、当時はいくつかの大学にしかありませんでした。そういえば早稲田の学生も多かったのですよ。今でも一番仲のよい友達はそのときに知り合いましたね。

その後国連で働き始めた経緯を教えてください。
私は、これをよく言うんですけど、おうし座なんですよ。おうし座は突進型で、本当にあの当時は突っ走っていましたね。大学院はやはり語学と専門性のために絶対に行こうと思っていました。大学院を卒業するときに、たまたま国連競争試験があったので、受験するしかないと思いました。それで合格をいただいて、かなり珍しいケースではありますが、大学院卒業後にすぐに国連で働き始めました。今は状況もかなり違うし、私のようなケースで国連に入れることはまずないと思うので、非常にラッキーだったと思います。大学院1、2年生のころにインターンをやっていましたが、そのオフィスにちょうど空席が出たのと、専門の政治で試験を受けられたというのも偶然でした。そういうことが重なって国連に入ることになりました。

強い信念とグローバルな意識を持つということ

国連で実際に働くようになって、働く前と比べて国連に対するイメージが変わったところはありましたか。
学生として勉強していた国連はどうしても論理的な内容が多かったし、仕事をする場としては想像もつきませんでした。実際に入ってみると国連というのはすごく大きな組織で、とにかく世界規模でものを動かしているシステムだということがわかりました。その国連に携わることができるというのは、私にとってとてもエキサイティングなことでした。ビルに入っただけで、当時はすごくわくわくしていましたね。国連は国際ニュースのヘッドラインになるようなことに必ず関わってくるし、そういう実感は湧いてきましたね。自分に合っているなあとも思いました。あと職場ですが、職場はやはり人が作る雰囲気ですよね。色々な国の人が集まっているので、人種も宗教ももちろん違いますが、それが普通という感じです。あとはやはりチームベースで働いているので、お互いのことをよく知っています。日本の会社ではあまりないかもしれませんが、家族ぐるみで付き合ったりすることが多いですよ。すごく人間的な職場だと思います。
国連で長いキャリアを積んでいらっしゃいますが、国連での仕事を続けてこられた理由は何ですか。国連ならではの仕
事の難しさはありますか。
やはり国連の理念に強く賛同しているところでしょうか。それだけではなく、その理念に直接関わることができるということ、それが自分の原動力になっています。いつも意識していることは、国連を通して世界に携わるということは貴重な機会であること、そして国連の仕事に携われることがとても光栄であることです。あとはやはり「自分に合った職場」であるということが大きいですね。それから、国連の仕事というのは、私が携わっていた選挙支援はまだしも、その多くはすぐに結果が出るものではありません。「国連は結局、何をしているんだ」ということをよく言われますが、結果が出ていない中で対外的に説明をしないといけないというのは大変なことなんです。時間がかかるということは、信じて動かないと継続できないということでもあるのです。
女性だからこそ国際社会に貢献できることは何だと思いますか。
国連は女性にとって働きやすい職場だと思います。私がニューヨークにいたときは、在宅勤務制度も導入され、様々なフレキシブルなオプションがあります。でも、女性の地位がまだまだ平等ではないところはたくさんあります。特に若い女性が国連を代表して政府代表や現地のリーダーと交渉をしたりする場合、それに抵抗を感じる人も沢山います。そういう時は自分の専門性に自信を持つことが大事です。それから自分に託されたものは何か、その時々の自分が置かれている状況は何か、ということをきちんと理解することが必要です。「人生いつまでも勉強」というのは本当にそのとおりです。世の中はどんどん変わっていますから、常に情報をアップデートするための勉強が必要です。あとは中身で勝負ですよね。そこは女性も男性も変わらないと思います。どうやって話をするかとか、相手がどういう文化的背景から来ているのかを理解するとか、そこはセンシティブに対応しないといけないですね。女性やアジア人には、そういう気配りがあるような気がします。

外に目を向けるということ

国連で働くために、求められる能力は何だとお考えですか。
語学力というよりは、まずコミュニケーション力が抜群でないとだめですね。これは間違いないです。そのうえで、コミュニケーションを何語でするかが問題なんです。まず英語で抜群のコミュニケーション力をつけないといけない。英語圏で生まれた人以外はみんな訓練ですよ。ひたすら訓練です。ここで言うコミュニケーション力はいろいろあると思います。もちろん話す能力、自分の意思を伝える能力、分析したものをプレゼンテーションする能力は必要です。とにかく伝えたいことをいかに簡潔に分かりやすく伝えるか、論理性がどれだけ通っているのかというのも大事です。それ以上に大事なのは聴く能力ですね。特に国連の様に多文化な環境では、まさに相手の立場を理解するために聴く能力も抜群でないといけない。聴くだけじゃなくて理解もしなきゃいけないのが難しいんです。どんなにオープンマインドでいようと思っていても、やはり無意識に自分の中に入っているものがあるんですよね。自分にとって常識であるものが世界で必ずしも常識じゃない、そしてすべての人が共有しているわけではない、ということを認識する。そういう姿勢が大事です。
現在はどういったお仕事をされていますか。
国連の広報センターというのは実は歴史が古くて、PKOよりも古いんですよ。世界中に今67カ所ありますが、東京の国連広報センターは1958年に設置されたのですよ。それでその国において国連の広報活動をすると。日本では日本語で国連の活動を紹介するというのが大きな役割です。色々な形で広報するのですが、一つは公式文書翻訳。決議とか国連の報告書など、重要性の高いものから優先順位を決めて翻訳します。なるべく多くのものを日本語で読めるようにするのが一つですね。これは日本の政府も重要視していることです。もう一つはアウトリーチと言うんですけれども、啓蒙活動を含め、イベントや講演、執筆等を通して広報活動をします。それに加え最近私たちが挑戦しているのがソーシャルメディアで、facebookやツイッターをなるべく取り入れています。これからは、ソーシャルメディアに一層力を入れていきたいと思っています。
今の大学生は内向きだと言われていますが、その点に関してはどのようにお考えですか。
私は去年の夏に、日本に22年ぶりに帰ってきました。そのとき、何で日本と日本人はこんなに自信喪失しているんだろうとショックを受けました。戦後からの急成長、素晴らしい技術力、安全で平和な国、それが世界から見た日本のイメージです。もっと身近なもので言えば、モノカルチャーや食文化、日本を世界に自慢できることは数え上げたらきりがありません。アフリカに行ったときなどは、日本から来たと言うと、尊敬と期待の目で見られましたよ。日本というブランドはすごくポジティブなんです。そういうことを私は20年間当然なこととして海外で生活してきました。それが帰ってきたら日本がしょぼんとしていて本当に驚きました。最近は講演する度に、そうじゃないですよということをできるだけ伝えています。日本の学生についても大いに期待しています。数は少ないかもしれませんが、国連や国際社会などに興味を持っている学生は必ずいます。そういう人たちを大事にしないといけないなぁと。興味があってポテンシャルがある人たちに道が開かれるような、そういうシステムを維持しないといけないと思います。
最後に、国連など国際社会で活躍したいと考えている学生に、メッセージをお願いします。

国連広報センターオフィスにて

夢を大きく持つことはとても大事です。まず、夢を持つことが学生の特権なので、ぜひ大きな夢を持っていただきたいと思いますね。そして、みなさんにぜひ国連に目を向けていただきたいです。職場のオプションとして国連があるということを、常に考えてほしいです。日本人職員は、私が入った20年前も今も同じくらい少なく、日本人はいつでも歓迎されています。日本人が国連に関わることを世界は求めています。自分の専門分野でグローバルに関わっていきたいと思う人にとって、国連はとても良い職場だと思います。ぜひ志を強く持ってほしいですね。学生だと先が見えないし、不安があると思いますが、私も同じ悩みを持っていました。本当に国連で働けるのか、と。でも、悩みを持ちな
がらも追求する情熱と力さえあれば、これは必ず実現できる夢なので、諦めないで頑張ってもらいたいと思います。

国連広報センター
http://unic.or.jp/index.php
編集後記

インタビュー中も笑顔の絶えない山下所長でしたが、話の節々に国連に対する強い思いが感じ取れました。「自信を持つこと」という力強いお言葉に背中を押された気がしました。国連に対する憧れはあるもののやはりどこか遠い存在でしたが、今回のインタビューを通して、国連で働くことはいろんな関わり方があるということを知りました。様々な分野から異なったバックグラウンドを持った人たちの集まりである国連はまさに世界の縮図のような気がしました。この記事を読んでくださった皆さんも国連を身近に感じていただければ嬉しいです。

陸 欣(国際教養学部4年)

Vol. 3 「自分に嘘をつかず、ワクワクできることに果敢に挑戦する」

CATEGORY : 大学
Hata-sensei

早稲田大学大学院アジア太平洋研究科教授
留学センター所長
黒田 一雄

広島大学教育開発国際協力研究センター講師、助教授を経て現職。他に日本ユネスコ国内委員会委員、アジア経済研究所開発スクール客員教授、JICA研究所研究員等。外務省、JICA、文部科学省等の教育開発分野調査研究・評価に携わる。スタンフォード大学にてM.A.(国際教育開発)、コーネル大学にてPh.D.(教育・開発社会学)を取得。

【2011年11月22日公開】

国際社会に結び付きたかった学生時代

黒田先生はどのような学生時代を過ごされたのでしょうか。
大学2年次から3年間、アジア文化会館という海外からの留学生用の学生寮で生活していました。1国につき3人まで入寮可能で、日本人も3人だけ住むことができました。そこでアジアやラテンアメリカなど様々な国の出身者とともに、たった3人の日本人の1人として共同生活をしていたわけです。寮生活は疑似国際社会であり、異文化に対する適応力が身につきました。また東南アジア青年の船という国の青年国際交流事業にも参加しました。当時はアジアに対して貧困や植民地支配の歴史など暗いイメージが強かった時代でしたが、実際に人々と2カ月間生活をともにすることで、アジアは元気で面白くてダイナミックな地域であると肌で感じることができました。社会を変えるのは自分たちだという熱い想いを持つアジアの若者と兄弟のような友人関係を築く中で自分自身が変わっていったことを覚えています。
様々なご経験をされていますが、そのきっかけとなったのはどんなことでしょうか。
何とかして自分を国際社会というものに結び付けていきたい、という想いがあったことですね。私は留学生寮に住んだり、青年の船に乗ったりするほかにも、国連大学で学生協会を作ったり、日本国際学生協会という団体で学生の国際会議を開催する活動に取り組んだり、学部生時代に本当に様々なことをしました。すべての活動にワクワクしながら取り組めたのは、やはりそのような強い想いがあったからだと思います。大学内にも大学の外にも探してみると、実は機会はたくさんありますよね。でも受動的ではいけません。自分から探していく姿勢を持ち果敢に挑戦することが大事です。そのためには、「自分は将来こうなりたいんだ!」という強い想いを抱くことが重要だと思いますね。

自分がワクワクできる分野を真剣に考える

「グローバル人材」に必要な能力や資質はどのようなものだと思われますか。
大きく分けて、専門性、コミュニケーション能力、想いの3つの要素が挙げられますが、中でも最も重要なのが専門性だと思います。いくら英語でコミュニケーションがとれたり、多様性に対して寛容であったり、また国際社会で活躍したいという意欲があったとしても専門性がなければグローバルなプロフェッショナルとしては不十分ではないでしょうか。だから学生のみなさんには、自分は何をもって国際社会に貢献できるのか、ということを真剣に考えてほしいです。私の場合は、教育開発が専門ということになりますが、私は自分の研究分野を愛していますし、とても面白いと思っています。学生の皆さんも、自分の一生を賭して自分を磨いていけると思えるような、自分がワクワクできる分野に巡り合うことが非常に重要です。
大学院に進学しない学生はどのように専門性を身につければよいですか。
大学院は選択肢の1つですが、仕事をしながら専門性を身につけることは当然可能です。ただし就職活動は慎重に行ってほしいです。厳しい状況なのは百も承知ですが、自分がどんな分野で生きていこうとしているか、仕事を通じてどんな専門性を自分の中で構築できるのか、ということをきちんと考えてください。仕事に就いてからも専門性を身につけるべく向上心を持ち続けることです。もちろん企業やNPO、政府は教育機関ではありません。まずは組織への貢献を考えなければなりません。しかし長期的な観点を持ち、特に20代から30代前半は自分自身の向上を強く意識してください。どうせ30代前半くらいまでは、途上国のために本当に役立つような専門性を身につけることは困難です。私個人の経験からも、途上国の人々に育ててもらったという感覚がすごくあります。でもそれでいい。一生を通じて、育ててもらったお返しとして国際社会に貢献できる専門性のある自分を目指して欲しいですね。
どうすればワクワクできる分野が見つかりますか。
学生のみなさんと接していて、ワクワクできる分野を見つけることが難しく、それを仕事にするのはさらに難しいということがよくわかりました。何に関心があってワクワクするかが分からないんですね。でも、やはり肝心なのは様々なことに果敢に挑戦することだと思います。そして自分の好きなことがあったら必死でかじりつく。私も一度は浮気して銀行に入りました。しかし自分をごまかしきれなかった。途上国で教育開発に携わりたいという想いは、どうにも変えられなかった。だから今があります。自分に嘘をつかないで夢を追うと最終的にすごく不幸せにはならないと思います。好きなことをしていると、難しい状況があっても乗り切りやすくなると思います。

ブランドにしがみつく悪い癖

最近の若者は「内向き志向」と言われますが、早大生の実態についてどうお考えですか。
実は早大生が内向き志向であるという印象はまったくありません。例えば、国際協力の副専攻科目は毎学期大人気となっています。そもそも内向きが悪いわけではありません。日本を見ることもすごく大事です。海外ばかりを見ていて日本を考える視点を持たない人は根無し草になってしまいます。つまりは、バランスの取れた視点を構築することが非常に重要です。しかし早大生が均質化してきていることは感じます。もともと早稲田大学の文化は多様な学生がいることです。昔は人と違うことを志向する学生文化があったと私は思っています。最近の学生は、進学校出身、東京近辺出身、社会的な階層的にも恵まれた人たちが増えています。ある意味、慶応と何の違いもない。早稲田大学の目的は多様な分野でリーダーを育てていくことであり、学生が単質的にまとまってしまうのは危機だと思います。
学生はどうすれば多様化できますか。
たくさん落ちればいいんです。挑戦して失敗すればいい。早大生はいわゆる受験エリートなので、落ちるのが嫌だし怖いのだと思います。早稲田大学はブランド力がありますし、早大生はブランド大学の学生であることに慣れてしまっている。最近の学生を見ていると、ブランドにしがみつく悪い癖があるように感じます。ブランドにしがみついて落ちたくないから挑戦しない。これではいけません。様々なプログラムに当たって砕けろという精神で応募していく、ぶつかっていく、そういうことが国際社会でキャリア形成をするうえではとても大事です。みんながそうやって自分のワクワクできることを探していけば、早稲田大学は多様性を取り戻せるのではないでしょうか。
編集後記

ワクワクできる分野を見つけることはすごく難しいと思います。何もしなければ何が自分にとって楽しいかさえもわからない。そんなときは黒田先生のように様々なことに果敢に挑戦していくことが本当に大事なのだと思います。私自身も、早稲田祭運営スタッフ、アメリカ留学、そして現在はICCの学生スタッフリーダーと、その時々で自分が楽しそうだと思えるものに挑戦してきたつもりです。そうした中で、自分が専門としていきたい分野がおぼろげながら見えてきたのかなあ、という感じです。黒田先生のように、国際社会に結び付きたいという強い想いを持って様々な機会を探せれば、それに越したことはないと思います。しかし、それほど強い想いがなければとりあえず目の前にある気になることにとりあえず挑戦してみることがワクワクできる分野を見つける近道なのではないでしょうか。

二瓶 篤(政治経済学部5年)

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